[←back][home][next→]

翡翠抄−ひすいしょう−

第五章第二節第四項(099)

 4.

 ヒスイは目の前の人の良さそうな大男を見た。
 アイシャは自分の夫についてはほとんど話さなかった。目の前のこの人が、いずれ……それも今年中に彼女と結婚するのだろう。居心地のよさそうなこの家はアイシャのイメージそのもの。領主の妻としてのアイシャよりも、この家の主婦として働いているアイシャのほうが安易に想像できて、逆に切なくなる。
 さきほど見た夢はおそらく真実。アイシャは小さな弟妹たちのために金持ちの家に嫁いだ。そうでなければもっと早くにこの家におさまっていたに違いない。

 その彼はというと、大柄な体格に似合わずくるくるとよく動き回った。
 ヒスイの手元のシチューが残り少なくなったのを見て取ると扉の向こうに消えて、戻ってきたときには山盛りの芋とゆでたソーセージの盛り合わせを持ってきた。芋は型くずれもなくほくほくと、ソーセージは脂がはちきれんばかり肥え太っている。男はヒスイの目の前で芋に塩を振り、なにか緑の葉っぱをもみほぐすようにして散らした。ぷん、といい香りが鼻腔をくすぐる。
「ど、どうぞ、召し上がってくだせえ」
 ゆでたての芋よりもほくほくとした笑顔で男は食事を差し出した。
 ソーセージはどうやら手作り。ローズマリーとセージの香りがふんわりと漂っている。噛むと脂をふくんだ肉汁が口の中に広がった。芋といえばいつだったか大地の神の神殿でなにも味がついていないものを食べたことがある。それを思い出しながら口にしたのだが、そもそも比べるのがこちらに失礼だった。大地に根ざした素材そのものの味もさることながら、振られた塩加減となによりハーブの香りがいい。アイシャが「自分ならもっとおいしいものが作れる」と憤っていた理由がわかる気がした。もしかしてアイシャが料理を教わったのは目の前の彼からかもしれない。
 けっこうな量があったにも関わらず、空腹の胃袋はシチューを残さず食べた後、それらも余さずに平らげた。
「あの子に薬草を教えたのはおらですだ」
 赤と白、二色のチーズを出してきて男は卓の向こうに座る。熟成のきいた赤いチーズを酒で洗いながら男は幸せそうに語った。
「お、おらも神殿の子供ですだで。よく覚えておりますだ。どか雪の日に赤子が見つかって、神殿の巫女さまたちやみんなが一生懸命お湯であっためましただよ。凍傷を負うことなく小さな指が全部ついているのに感動しましただ」
 懐かしいことを思い出しながら白いチーズに包丁を入れる。男の大きな手に似合わない小さな包丁がなにやら愛らしい。少しかび臭い薫香が広がった。
 二種類のチーズと一緒に林檎のブランデーがふるまわれた。お椀のような木の器に、赤みを帯びた琥珀の液体が注ぎ込まれる。強い酒の匂いは空腹だと間違いなく胃を焼いただろう。つけられたチーズをつまみながら、ヒスイはありがたく林檎のブランデーをもらうことにした。少し口をつけただけでなんともいえぬ芳香が口から鼻に抜ける。強いがおいしい酒だった。
「けども、さすがですだな」
「なにがだろうか?」
「ちゃあんとアイシャをご存じでしただ。さすがは女神様だで」
 男が何をいっているのかとっさにヒスイは理解ができなかった。
「……何?」
 訝しむ。しかし彼はにこにこと、頬を赤らめていうのだ。
「おら、いつものように森に入りましただよ。したらば、あったけえ風が吹いてきましただで。お、おかしい思って、そちらに行ってみましたら、雪の上に女神様が倒れていらっしゃいましただ」
 だからヒスイを助けてここまで連れてきて介抱してくれたのだという。
 ヒスイはどう反応していいのか分からず、固まってしまった。つまり彼は、ヒスイを女神だと――それもこの周辺の信仰だと愛の女神だと――思っていたから親切にもてなしてくれたらしい。
 冗談ではなかった。
「それは、違う。その……勘違いだ」
 とまどいもあって、小さな声でヒスイはつぶやいた。男は知った顔をして頷く。
「分かっておりますだ。女神様は、ご降臨を知られてはなんねえですだな。おら、誰にもいいませんだ」
 かなり違う。
 しかし何をいっても男は引き下がらなかった。
「そういうことにしておきますだ」
 と、どう見ても善意としか思えない微笑みで、納得したような頷きを返すのだった。
「おらはちゃんと分かっておりますだ。いくらまだ雪の積もり具合が薄いとはいえ、あたりは真っ白ですだ。なのに女神様のいらっしゃったところだけ草が見えておりましたで。しかも女神様は天上のお着物を召していらっしゃる。生身のもんはこの寒さの中、そったら格好でおられませんだ」
 ヒスイが着ているのはたしかに薄着である。
 だが草木がそこだけ露出していたのは偶然だ。なま暖かい風というのはおそらく、移動する前の空気も一緒に運んできたからだろう。
 どれほど違うといっても男は盲目的にヒスイを女神だと信じているようだった。
 会話が通じない。
 これはやはり自分が折れるべきだろうかとヒスイが力無く肩を落とすと、男はまた何かを思いだしたように扉の外に消えていった。なにやら音を立てていたと思うと今度は熱々の菓子を持ってくる。
「今年収穫された林檎のパイですだ。だいぶお召し上がりいただきましたですが、これも召し上がりますだか?」
「……いただこう」
 がっくりと肩を落としたままヒスイは弱々しくいった。
 嬉しそうな顔で男はパイを切り始めた。この辺りは寒冷地で、寒さに強い林檎や洋梨や木の実が収穫なのだそうだ。ワインを作る葡萄はよいものがほとんど取れないともいう。
「アイシャは食べるのも好きですだが、お酒も好きですだ。一度、巫女さま秘蔵のあんずのお酒をこっそり盗み飲みして、見つかってこっぴどく叱られたこともありますだよ」
「アイシャらしい……」
「あの子の逸話ならまだありますだよ。近くに川があって、夏の間はそこで泳ぐのが子供達で流行っている遊びですだ。けどアイシャは泳ぎが苦手で上の子供によく冷やかされましただよ。あの子はなにをしたと思います? そいつらをいじめ返したあと練習を繰り返して、いつのまにか誰より達者に泳ぐようになりましただ」
 男が渡してくれたパイは煮詰められた林檎と蜂蜜の甘みがほどよく溶け合っておいしかった。さくさくのパイ皮は香ばしく、果物から出る汁気をしっかりとくわえ込んでうまみを逃がしていない。なんだか男がこの秋に蓄えていた食糧の備蓄を遠慮なしに平らげているようで良心が痛んだが、それでも香ばしい香りを放つパイをいらないとは言いづらかった。シナモンのおいしそうな香りが「自分を食べて」と呼んでいたのである。
「他にもまだまだ。この森で迷子になって、丸一日泣いていたこともありますだ。おらが見つけたとき、猪みたいに一直線に駆け寄って抱きついてきましただ」
 まるで昨日のことのように覚えている、と男は身振り手振りを交えて語る。小さなアイシャは泣きながら「大きくなったらおじさんのお嫁さんになる」といったことなどを。
 男の語る昔話はヒスイが知らない小さな頃の話ばかり。つい顔がほころぶ。しかし男は、今度は逆に沈んだ声になった。
「あの子が子供の顔をしていたのはほんのわずかな頃だけですだ。せんでもええに、いつのまにか下の捨て子たちを背負い込んでしもうたです。間の悪いことに、あの子より上の子供らは次々引き取られてアイシャは誰にも頼れなくなりましただ。自分がしっかりせねば、と。あの子が子供の顔に戻るのはここに遊びに来ていたときだけでしたに、いつの間にかおらの前でも子供の顔が消えましただ」
 急ぎすぎて大人になったといった。
 そして一昨年、神殿から命じられて嫁いでいったと。
「……お金のために、領主のところにか」
「ですだ。あちらさんは商売で成り上がったお家ですだで、計算に強い娘が欲しかったそうで。アイシャは薬を合わせますだ。重さの計算にはかりを使いますでなぁ」
 ヒスイは知っている。
 アイシャは、経験がないにも関わらず薬草の行商人……商売をして一人で生きていた。おそらくは婚家で培った知識なのだろう。トーラに教えていた刺繍も、行儀作法も、貴族の家に嫁いで姑から教わったことをそっくりトーラに教えていたに違いない。
 アイシャが嫌っている神殿も間違いなくヒスイが知っている頃のアイシャを作っている。そして最初の結婚もまたアイシャの一部になっていたのだ。
 そうすると二度目の結婚はどうなのだろう。ヒスイは目の前の朴訥な大男を見た。
「……アイシャは今、幸せに暮らしているといっていたが」
「そうですだ」
 男はやたら嬉しそうにいう。彼は知らないのだ。アイシャが自分を好きだったことに。唯一、アイシャがなにも気負わずにいられた大切な人なのに。
「本当に? 本当に今、アイシャは幸せだといえるのか……?」
 男の顔がうろんになる。
 どうしてそんな当たり前のことを聞くのかと、そう思っている顔だ。その顔をみてヒスイは思った。これは本当に敵わぬ片思いだ。なまじアイシャを子供の頃から知っている相手であるだけに、そういう対象にしてもらえない。
 しかし男は自信ありげにいった。
「アイシャは幸せですだ。あの子は今、欲しかった『家族』ができましたで」
 夫ではなく家族と男はいった。
「あの子はやっと子供に戻れる場所にいますだ。ちまたじゃ愛人がいるたらどーたら言うてますだが、アイシャにしてみれば旦那さんの愛人は自分に姉さんが出来たようなもんですだで。なんだかんだというて、あの子はまだ子供ですでな。アイシャは今、幸せのはずですだ」
 微笑む瞳は緑だった。北国での短い夏を象徴する色だ。
 ヒスイは知った。この人はちゃんとアイシャを理解している。一見、ただ素朴で何も疑問を差し挟まない人のように思えたが、違った。ヒスイは今のアイシャを知らない。この人は誰よりもよく今のアイシャに必要なことをちゃんと知っている。
 おそらく、人のいいこの人はアイシャが思いを告げれば「自分よりずっといい人がいるはずだ」といって逃げ腰になるだろう。
 馬鹿がつくくらい優しい人だと、奇しくもアイシャがいったのと同じことをヒスイも思った。
 理由は聞いていないが最初の結婚は三年で終わるはずである。その後、本当に愛した人に嫁いで幸せな一年を終える。それを考えると目の前の人はあと一年で愛妻を残してこの世を去るのだ。今から少し未来を、ヒスイにとっては過去を思いながら、また胸が締め付けられる思いがした。
 だったら、少しくらいアイシャの恋の後押ししてやってもいいはずだ。残された時間は短いのだから。
「アイシャは近いうち、この森に帰ってくる」
 ヒスイはわざと偉そうにいってみた。男がヒスイを女神だと思いこんでいるのはこの場合、ありがたかったかもしれない。
「お前。アイシャが帰ってきたら、どうかお前が幸せにしてやってくれ」
 男の態度は見物だった。それこそ飛び上がらん限りに驚いて見せた。
「め、め、めめめ、女神様!?」
 この反応の仕方、誰かに似ている。そう、イスカだ。そういえばヒスイが何かいうたびに青くなってこんな顔をした。
「女神様! そったらこと、おらに出来るはずありませんだ! あの子はご領主様のところでこれからも幸せに暮らしますだよ!」
「いいや。事情があってアイシャは戻ってくる」
 その「事情」がなにかヒスイは知らない。わざとぼかしたわけではないが、その曖昧な託宣が男にいっそう、ヒスイを神格化してみせることになった。
「大丈夫だ。アイシャは必ず幸せになれる。……それともお前は、わざと拒むというのか?」
 女神をわざと装わなくても、ただでさえヒスイの口調は偉そうなのである。男はすっかり萎縮してしまった。現世の生き女神を前にして人間はそれほど不遜な真似はできないのである。まして善良そのものの男はなおさらだ。
「め、めっそうも、ございませんだ。だども……おらは……おらは、自分が、その、とてもそんな畏れ多いことは……」
 頭を下げてひれ伏す男の前で、ヒスイは立ち上がった。
 自然と男を見下ろす形になる。
 とどめとばかりに、相手の話を聞かず一方的に言い切った。
「アイシャを頼む」
 どうしてもアイシャに幸せになってほしかった。そして、自然とそういう内側の思いは声ににじむ。男は顔をあげることもできずに感極まっていた。
 自分の役目はこれで終わりだ。ヒスイがそう思ったとき、別に高いところから飛び降りたわけでもないのに風がヒスイを取り巻いた。
(……次への移動?)
 次の時間への移動だろうと思う。所詮、この「時間」もヒスイが永住できる時間軸ではないのだから。

 ヒスイはその風に身を任せることにした。
 これ以上、ここにはいられない。雪がとけて春になったらアイシャはここに戻ってくる。そのときヒスイと鉢合わせしてはいけないのだから。
「おいしい食事だった。……ありがとう」

 たとえつかの間でも、どうか幸せに。
 祈るような気持ちでヒスイは時間移動の風に身を任せた。

   ***

 だから、これから先はヒスイのあずかり知らぬことである。

 春。まだ寒さの残る日々。ストーブに入れる薪を割りながら男は一息ついていた。秋の終わりであり同時に冬の始めであるころ、女神に出会ったことを男は約束通りだれにもいわなかった。ときどき思い出しては幸せにひたる。たとえばこんな静かな時間に。
「おじさーん」
 遠いところで声がした。ぼんやりしていた男は一瞬、その声が誰のものか判断できなかった。
「ただいまぁ」
 明るい声。今度こそ男は耳を疑った。ここにいるはずのない女性の声だったからだ。斧を切り株に打ち付け、慌てて声のする方向を見る。見慣れた色の髪をもった、見慣れない大人の女性がゆっくり歩いてくるところだった。背中に大荷物を背負って、そして笑いながら手を振っている。
「あ、あ、アイシャ!?」
「ただいま。帰ってきちゃった」
 すっかり大人になった彼女はにっこり笑った。
「私、離婚してきちゃった」
 さらりと告げる。男は、顎がはずれんばかりに驚いた。

「だからね。あの方……オーリン様は、最近いいところのお姫様に一目惚れされてね? お義父様やお義母様にとっては、そちらの縁談は降るような良縁だったわけよ。で、三年経っても跡継ぎを生まないような女――私のことだけど――をいつまでも妻にしておくより、新しいご縁をとろうかってことになってね」
 だから離婚されたという。勝手な言い分だと男は思ったが、アイシャは思ったより堪えていないようだった。
「だって、お義母様が泣くのよ。ごめんなさいって。私は気にしていないのにね。お義父様も、お前はいい娘だったって嘆いてくださったの。それだけで十分。本当に可哀想なのはサリ姉さんよ。あ、オーリン様の愛人なんだけど。……あの方は本当にオーリン様を愛してたのにやっぱり無理矢理引き裂かれて、お気の毒」
 ふう、とアイシャはため息をつく。本気で引き裂かれる恋人達を哀れんでいるように見えた。片方は間違いなく自分の夫のはずなのだが、男が思っていたようにアイシャにとって夫とは、兄が名を変えただけの存在のようである。
「……だども……お前……」
「オーリン様は別れ際、いってくださったの」
 男に口を挟ませない勢いでアイシャはいった。
「今度は本当に愛している人のお嫁さんになりなさい、って。私も約束したわ。オーリン様が好きな方と結ばれなかった分まで私は幸せになりますってね。だから約束は守られなければいけないの。このまま神殿に出戻りしたら、また別のお金持ちのところにお嫁に行かされちゃう。それじゃあ約束は守れないし、私だって幸せじゃないわ」
 一人で納得して頷いた。男には、アイシャが何をいっているのか分からない。そんな男を見上げて、アイシャはにっこりと笑って見せた。
「だから、おじさん。私、今度こそおじさんのお嫁さんになりにきたわ」

 男はその場でひっくり返った。比喩ではなく、本当に尻餅をつくほどに驚いたのである。

「アイシャ!?」
「だめよ。逃がさないから。おじさんがお嫁にしてくれなきゃ、私は幸せになんかなれないんだから」
 状況が悪かったのは確かだ。男にとってアイシャはいつまでも子供だった。その上、男は熱心な愛の女神の信徒である。今のアイシャを受け入れることは神殿の意志に背く。アイシャ本人もそれを分かっているからこそ必死なのだ。男が決して「うん」といえる状態ではないから。
 長い沈黙が降りた。
 男が考えていたのはもちろん、自分が出会った女神の台詞だ。神殿の意志には背くかもしれないが、その神殿が祭る女神本人はアイシャの幸せを望んでいるのだ。だから女神は直々に自分に宣をくだされたのだと。
 男の顔が徐々に赤くなる。答えはそれで十分だった。

+感想フォームを利用してくれる?+(作者が喜びます)
[<<前]
[次>>>]
[目次]
翡翠抄 −ひすいしょう−
Copyright (C) Chigaya Towada