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翡翠抄−ひすいしょう−

第五章第二節第三項(098)

 3.

 綿布団にくるまれている感触がした。ヒスイは今、布団の中に寝かされている。
 布団そのものからは知らない人の匂い。けれど室内に漂う匂いは覚えがあった。つるされ、乾燥しきった薬草の独特の香り。料理に使うもの、化粧用、完全に薬用のもの、様々な草の香りが相まってあまりいい匂いとはいえない。だがヒスイにとっては懐かしい匂いだった。アイシャの荷馬車の中はいつもこんな感じの匂いがした。
 嗅覚は最も動物的な感覚器官だ。動物的であるということはそれだけ行動の根底を左右する。知っている匂いに包まれ、ヒスイは現在の状態を安全だと無意識に判断した。ここは温かい場所だ。警戒を緩めてそのまま眠り続けた。

 夢を見た。

 知らない男がいる。周囲は広く美しい部屋。ヒスイのいた霧の谷とは装飾が違うけれど、十分に金のかかった造りだった。この装飾は西の地方だと思われる。
「私は君を愛せない」
 男はそういった。室内にはどうやらもう一人いるらしい。男はその人に話しかけているようだった。愛せない、といっているのだから相手は女性なのだろう。ヒスイはちょうど第三者的な立場からその男を見つめる形で夢見ていた。女の姿は見えない。
 女からの返答はしばらく待ってもなかった。
 息をのむ音さえ聞こえない。男の次の言葉をじっと待っているようにヒスイには感じられた。
 よくみると男はそこそこ端正な顔立ちをしていた。年は二十代半ばくらいだろうか。茶色の髪をきれいになでつけ後ろにやっている。くすんだ色の瞳はなにを見ているのだろう。少なくとも女からは視線をそらしているようだった。軍服のような形に仕上げられた服地は白く、金色の装飾が施されている。おそらく男は貴族階級に属するのだろう。けれど美しい部屋の装飾がどこか洗練されていないところからあまり高い身分ではないのだろうとも思った。
 女の返事がいつまでたってもないことに、男もかすかにとまどったのかもしれない。もう一度言葉を続けた。
「私を許して欲しい。いや、許しを請う資格さえないのかもしれない。だが私は君を愛せない。すでに愛している女性がいる」
 よくある話である。ヒスイがそう思っていると、どこにいるのか分からない女が頷く気配がした。男の声は続く。
「その彼女は下女の身分だ。とても未来の男爵夫人にはしてやれない。けれど私は彼女だけを愛している。君はまだ小さいのだから、自分を愛していない男に嫁いで一生を棒に振ることはない。私の飾りだけの花嫁になるには……君は優しすぎるから」
 かりにも花嫁になろうという年頃の女に向かって小さいとは何事だと思った。
 が、そこでようやくヒスイの目にも女の姿が映ってくる。後ろ姿だったがずいぶんと華奢だった。そこでようやく理解した。男がこれから結婚しようとしている「愛せない女性」はまだ少女なのだ。
(……犯罪じゃないのか?)
 ヒスイは思ったが、しかしアイシャの初婚は十五だと聞いたことがあるから貴族の間ではこれくらいで嫁ぐ少女もいるのだろうと思い直す。
 男はそこでやっと、ひたと少女……未来の妻を見つめた。彼の瞳は若草色……いや、随分とくすんだ色だから苔色というべきかもしれない。少女はその瞳を正面から見据えて、まだ幼さの残る声で明るくいった。
「私もあなたを愛していません」
 明るい声を聞いて、ヒスイは耳を疑った。なぜならその声は――随分と若く、その分高い声ではあったが――よく知っている女性の声だったからだ。すぐに分かった。これはアイシャの声だ。
 少女の後ろ姿をあらためて見つめた。亜麻色の髪を編んで婦人らしく束ね、結い髪にしている。いつものピンクのリボンがないからよけいアイシャだとは思わなかった。おそらく少女の瞳をのぞき込めばそこには空色が広がっているに違いない。いつもと違うところはその服にもあった。ヒスイが知っているアイシャは洗いざらしの丈夫な木綿の服を着ていたはずだ。なのに、結い髪にしたその少女は今、絹のドレスを身にまとっている。
 男はその瞳を驚愕に染める。少女の言葉がよほど意外だったのだろう。
 しかし少女は、首をやや傾げてむしろ嬉しそうにいった。
「あら。ご自分は初対面の私を愛していないとおっしゃいますのに、私はあなた様をお慕いしていると思っておられました?」
 おそらく満面の笑みをたたえているであろう声だった。
 目の前の男はたしかに顔は悪くないし、未来の男爵だといっていたから地位もあるのだろう。群がる女の扱いに苦労はしても、なびかない女をわざわざ視野に入れなければならないほど不自由しているとは思えなかった。少女であるアイシャもそのあたりをいったのかもしれない。しかし男は不思議なものでもみるようにアイシャを見つめた。目の前の少女がこのような物言いをするとは露とも思っていなかった、と、そういう顔だ。
 それにアイシャは追い打ちをかけた。
「はっきり申し上げまして、私はあなたを愛していませんが、あなたの正妻の地位は欲しいと思っております。もっといえば男爵家の財産が目当てなんです」
 だから結婚してくれないと困る、という。恐ろしくまっすぐな本音だった。いくら財産目当ての女でもここまでいうことはないだろう、と思えるくらいはっきりという。しかもアイシャの声音にはちっとも悪びれたところはなかった。
 ここまでくるとさすがに男は顔をしかめた。無理もない。
「君は財産が欲しくて私の妻になる、と、そういうことか? 神殿は俗とは無縁なところだと思っていたが、案外内情はそうとも言い切れないようだな」
 ゆがんだ口から漏れたのは侮蔑の混じった声だった。あからさまに軽蔑した視線を受けながら、それをアイシャは何でもないことのように涼やかにかわす。
「俗で結構です。聖人君子でおなかはふくれませんもの」
 さらりと――おそらくは笑顔で――いったあと、アイシャの声の調子は落ちた。
「神殿に寄付される浄財で弟や妹たちが冬を越せます」
 男の口が閉ざされた。
「私が子爵さまに嫁げば、男爵家から毎年たくさんのお金が寄付されます。孤児にだって一枚でも多く毛布が支給されるかもしれない。ひとさじでも多く食べ物が口に入るかもしれない。そうすれば、毎年必ず出る死者が一人でも少ないかもしれない。この冬、一人でも多くの弟、妹が生き延びることが出来ます。……去年は雪がひどくて、裏巫女のお姐さんたちが稼いでくださったお金でもまだ足りなかったんです」
 淡々とした声だ。何を考えているのか滲み出るものはなかった。
 なかったからこそよけいに悲痛な事実が聞く者に厳しくのしかかる。アイシャが生きてきた現実を理解できない、それが男とヒスイがどれほど豊かな幼少期を送ったのかを裏付けているようで切なくなった。
 男はまたアイシャから視線を外した。
「……君はその年で随分と重いものを背負っているというわけか」
 小さく微笑む。苦痛がにじむ声だった。年齢だけでいうなら男はアイシャよりはるかに大人であるはずなのに、今はむしろアイシャの方が年上に見える。
 そのアイシャは明るくいった。
「面白いご冗談。あなた様はもっとたくさんのものを背負っておられますでしょう?」
「成り上がり貴族の私がか?」
 自嘲した男にアイシャは大きく頷いた。
「そう。いずれ男爵様の跡を継ぎ、この地方一帯のご領主となられるお方です。私よりももっとたくさんの命を背負って立つ方でしょう? 成り上がりだろうと私たち平民には関係ありません。よきよう治めてくださればそれだけで十分です」
 少なくともそれはアイシャの偽らざる本音のように聞こえた。同じ財産目当てでも浪費目当ての中流貴族の娘とは全く違う。
 やがて男はため息混じりに微笑む。
「貧窮する神殿が男爵家の財産を得たいのと同様、成り上がりの男爵家も神殿の名声を欲している。私もまた、一生君を愛することはないと分かっているのに家のためこの婚礼を蹴るわけにはいかない。だが……君は本当にこれでよいのか?」
 前半は自嘲気味だったが後半は真摯な声だった。少女は頷く。いや、頷くしかできなかったのかもしれない。
「ごめんなさい。愛の女神の神殿が、愛のない結婚を強いることになってしまって」
 敬語をやめ、アイシャはくだけた口調でわびた。アイシャは平民の出身であり、そういった身分ではこういうくだけた物言いで謝罪する方が真摯な態度に聞こえるからだった。敬語遣いに慣れていないのだ。つくろった言葉ではなく心からわびたかったに違いない。
「その代わりひとつだけお約束できます。私は、絶対にあなた様とその恋人さんのお邪魔はしません。愛しあっているお二人が一緒になれないのは私と神殿のせいですもの。いずれお二人の間に生まれる男の子を正式に養子にして、跡継ぎとして私がお育ていたします」
「愛人の子を正妻が育てるというのか?」
「私だって平民ですから、恋人さんが生んでも私が生んでも血筋としては対して変わりないでしょう。それにさきほどあなた様は私を愛せないとおっしゃいました。だったらそもそも、私に子供は生まれないはずでしょう?」
 子供とは次世代を繋いでいく貴重な存在だ。貴族ともなればそれが絶えることは許されない。アイシャが生めなければ誰かから養子をもらうことになる。それが正妻腹ではないとはいえ血のつながった子供であれば最適だ。
 それはアイシャにとって女としての幸福を一生望めないということにもなる。
 男はそれを示唆したのだがアイシャはそれでもいいと答えた。
 二人は視線をあわせ、そして、どちらからともなく微笑みあった。それは互いに相手を伴侶とする覚悟を決めた笑みだったのかもしれない。結びつきは情愛でも肉体の契りでもないけれど信頼という名で二人は互いを認めあった。
 こうして、すべて納得ずくで偽りの若夫婦ができあがった。

 どちらが不幸だったのだろう。
 家に縛られて愛する女を愛人にしかできず、代わりに十五の小娘を正妻に据えなければならなかった男か。
 それとも、神殿に縛られ義理の弟妹を養うお金のために身売りせざるを得なかった少女か。

 愛したひとを諦めたのは男だけではない。アイシャもだ。夢の中でそれは口にされることはなかったけれど、華奢な後ろ姿からは空気をふるわせることなく思いがヒスイに伝わる。片思いだったけれどアイシャにだってとても好きな人がいた。その人を諦めて神殿の言いなりに結婚するしかなかった。……それが伝わってきて。夢の中でヒスイは胸が痛くなった。

   ***

 目を覚ますと見慣れない家の天井があった。
 しゅんしゅんとお湯が沸く音。アイシャの家に負けず劣らずそこにはたくさんの薬草・香草が干してあった。卓の上には丁字(クローブ)を刺した林檎が置いてある。ヒスイが体を起こすとまだめまいがした。炎によって暖められた空気は上の方にたまっており、それによって頭が一瞬のぼせたようになる。あまりに暖かい室内で気づいた。今は冬なのだ。
 どっしりとした煉瓦の家だった。室内の作りからここが随分と北の地だということが分かる。壁ひとつ向こうで人影が動く気配がする。扉がひらいて、反射的にヒスイは警戒した。
「目覚められましただか」
 おっとりとしたしゃべり口調と同時に大きな男が現れた。
 少しなまりのある言葉遣い。大きな男はもじゃもじゃの黒髪とひげをたくわえ、人の良さそうな目の光をしていた。男はあわてて扉の奥に引っ込むと、大きな手にシチューの皿を持って戻ってきた。加えられたチーズと煮込まれた野菜の匂いがヒスイの鼻を刺激する。体は正直なもので、男への警戒心より先に胃袋が主張しそうになったのを腹筋で締めた。
「お、おらとこは、こんなのしかありませんで……」
 なぜか照れたような雰囲気で男は卓の上に皿を置いた。白く煮込まれたシチューは暖かい室内にもかかわらず湯気を立てている。ヒスイが薄着で体を起こしているのに気づくと、あわてたように毛糸で編んだ肩掛けをヒスイに差し出した。渡された柔らかいそれは赤を基調としたものでほかにも黄色や緑などの原色が細かく入ったものだった。編まれた模様がなんとなくアイシャが作るものを連想させた。
 それで気づいた。この家の雰囲気はどことなくアイシャを思わせる。だからあんな夢をみたのかもしれない。
「あの……ここはどこだろうか……」
 ヒスイは慎重に男に尋ねる。将来は好々爺になることが確定していそうな大男はにこにこと、
「コールワですだ」
 と地名をいった。ヒスイは覚えたばかりの地図を頭に思い描き、地名を思い出そうとした。手がかりになったのはめまいを起こす前に見た白い大地と針葉樹の森だ。たしか北の地である。
 今はいつかと聞いても目の前の男がそれに対してヒスイの欲しい答えをくれるとは思わなかった。にこやかな男は失礼ながら、いわゆる普通の平民なのだ。自分が住んでいる場所をほとんど動かず、日々の糧を労働で得て、それでも死なない程度の蓄えしか得られずにその日一日を必死で暮らす。時間の観念は人間が年寄りになっていく、それだけで十分な生活なのだ。第一、参照する暦はこの地方特有のものだろう。ヒスイが聞いてもわかるとは思えない。困ってしまった。時間の座標軸がまったく分からないのだ。
 大男は気さくで、理由は分からないが精一杯ヒスイを歓迎しようとしてくれているようだった。おそらくは元々だろう赤ら顔をさらに照れて赤くしながら「さめないうちに」とシチューを差し出してきた。考えてみればヒスイはしばらく食事を摂っていない。空腹という生理現象にもう逆らうことをせず、木を削って作られたさじを手にしてヒスイはそれを口にした。
「……アイシャの味に似ている……?」
 彼女もよく野菜の煮込みを作った。とてもおいしかったけれど、その味とこれはよく似ているのだ。すると大男は不思議そうに聞き返した。
「アイシャをご存じですだか?」
 このときヒスイが口にしたシチューを吹き出さなかったのは空っぽの胃袋が「食物はなにがなんでも摂取」としたせいだったのかもしれない。
 手のひらに汗をかきながらヒスイはおそるおそる聞いてみた。
「……あの……もしかしたら同じ名前の別人かもしれないのだが……あなたのいうアイシャとは、愛紗という名前の、亜麻色の髪、空色の瞳の女性のことだろうか」
 このときヒスイはアイシャの年齢については聞かなかった。このことが後々つじつまを合わせるには役だったのだが。
 大男はにこやかにいった。
「そうですだ。雪の日に見つけられた神殿の捨て子ですだ。ええと、今年の冬で十八になるはずですだな。今はご領主様のところに嫁いで幸せに暮らしておりますだ」

 ――思わぬところで時間軸が判明した……。

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