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翡翠抄−ひすいしょう−

第五章第二節第二項(097)

 2.

 ヒスイの内側に秘めた痛みなど気づかないサラはいった。
「まるでタイムカプセルだな」
「?」
 何が、と問う前にサラはヒスイから視線をはずして笑う。
「十八のお前が知っているあいつの話を、今、赤ん坊を抱えた私が聞いているということがさ。時を越えた不思議というのはどうも……歯がみするようで苦手だな。いっそあいつが目の前にいればいいのに」
 彼女のいうそれはサラと同じ時間軸にいるはずのホウ。ヒスイの知っている時間軸ではもういないはずの。この時間にはまだ父はいる。ねじれる時間のからくり。
 目の前にいてくれればいい、と、その一点だけサラと同じ気持ちでヒスイは言葉を紡いだ。言葉にすると考えていることとまったく違うものが口から滑り落ちる。
「なんだ、それ。異世界を越えるのは苦手じゃないのか」
「ん? あいつは目の前にいたからな。……いや、あれも夢の中ということになるのか?」
 と、サラは真面目くさった顔で腕を組み、首を傾げる。
 ヒスイは小さく笑った。やっとこぼれた、心からの笑み。ヒスイにしても、目の前に母がいるのは不思議だった。もう二度と会えないだろうと思っていたのに。
 ……そういえば。
 老人はいった。ヒスイは時空間移動能力者だと。異世界を飛んだときと同じように時間も超えられる。今は時間も異空間も飛んだ状態だが、このまま時間だけを飛んで十八の自分がいるはずのこの世界に戻れることも可能というわけだ。
 考え込んでいたヒスイに、サラが声をかけた。
「どうした、ヒスイ?」
「……あ。ああ、悪い」
 目の前にいるのは二十代のサラ。やっぱり背だけはまだ敵わないなとその身長差を見やりながら。
「昔のことを思い出していた。あなたの隣に、あなたのいう父親がいればよいのに、と思ったこともあったと」
 それは本当に昔のこと。なにしろ十六になるまでヒスイにとって父親などいないも同然だったのだから。ただ、父親という人が側にいれば母親は今よりずっと笑っているのかもしれないと思っただけのことだった。
「なんだ、娘。お父さんがいなくて寂しかったか?」
 唇を上げてサラが笑う。ヒスイはいつもの無表情のまま首を振った。
「いいや。あなたは子供に寂しいと思わせないような親だったからな」
「どんな親だ」
 くすくすと笑う。ヒスイもつられて笑む。にぎやかで振り回されっぱなしだった。彼女が泣いた姿をみたのは後にも先にもヒスイが誘拐されたときだけで。そうすると目の前の彼女はまさか五年後、娘がそんな目に遭うとは露ほども思っていないわけだ。またヒスイの胸がちくりと痛む。未来を事前に知っているということがこんなにもつらいことだとは思わなかった。未来を見通す双子の義妹を心から尊敬する。彼女は無邪気な微笑みの裏にどれほどの痛みを抱えていたのだろうか……。
 久しぶりのサラの声は心地よかった。
 このままずっと聞いていたい気分になった。こちらの世界の風はどこまでも穏やか。ただ、かすかに混じる排ガスの匂いが不愉快だった。

 そのとき、明るい声が外からサラを呼んだ。

 ヒスイの翠の瞳とサラの紫の瞳が視線を交わす。
 子守をしてくれていた、母の友人の声だ。その声はまだ続いた。
「サラ? いないのー?」
 ヒスイたちがいるこの子供部屋は二階にある。サラが普段仕事場に使っているのは一階の書斎。顔を出さないサラをいぶかしんでか、声はまだ続いた。
 ヒスイはとっさに壁際に寄った。サラは、もしヒスイが壁に寄らなければ押しのけていたかのような勢いで窓に寄る。
「ここだ」
 さらりと金の髪が滑り落ちた。風になびいて日の光をはじく。
「あら、サラ? 上にいたの?」
「ああ。パキラの鉢を見に来ていたんだ。これもそろそろ飽きたから、今度はゴールドクレストあたりにしてみないか?」
「駄目よ、そんな大きくなるやつ」
 非難するような声に合わせて、みゃあと子猫が鳴くような声がした。ヒスイからは見えなかったがおそらく小さなヒスイの声なのだろう。サラは手を振ってみせている。
「じゃあ観葉植物の見積書を取り寄せてみるわね。今そっちへ行くわ」
 と、非常にまずいことを窓の下の彼女はいった。
 サラと大きなヒスイがそろって固まったのはいうまでもない。

 窓辺からサラが離れる。それにあわせて大きなヒスイは詰め寄った。
「今、家の中に入ったんだな! そうだろう!」
「落ち着け。とにかく隠れるところ……あいつ、妙なところで鋭いから言い訳にだまされてくれないしな」
「隠れる場所なんかあるか! この部屋を一歩でたら、階段から丸見えの廊下じゃないか!」
「まぁ、そうだ。よく知っているなあ?」
「当たり前だッ。ここは私が育った家だ!」
 赤ん坊のいる部屋だから作りつけのクローゼットもない。落ちると危ないから、とベランダさえなかった。配慮がとんだところで仇になったわけだ。
 そうこうする間にも、階段を上る音が聞こえる。
 サラは苦い顔をしながら扉を見つめ、ヒスイの顔はいつもより青くなっていた。窓に目をやる。幸い、ここは二階だ。
「迷惑かけたな、サラ」
 ヒスイは窓枠に足をかけた。このまま飛び降りる。サラもそれを止めなかった。サラの感覚では二階から落ちたくらいでは死なないだろうという程度の認識なのだろうが、ヒスイは完全に無傷でいられる自信がある。
 話したいことは色々あったけれど――ヒスイが六歳のころの事件、父のこと、銀の天使に仕組まれた二人の出会いは自分を作るためだったこと――今は時間がない。いや、知るべきことではないのだから、話さなくていい状況に陥ったというのはいいことなのだろう。
 サラが聞いた。
「迷子の大きなヒスイ。行く当てはあるのか」
「……戻る。私が戻るべき『世界』はあっちなんだから」
 ヒスイは飛び降りた。
 帰るのだ、あちらの世界へ。蛍光灯も時計も、排ガスの匂いもしないあの場所へ。例えこのまま時間だけをたぐりよせ、本来の時間のこの世界に戻れるとしても。ヒスイの求めるものはあちらの「世界」にしかないのだから。
 たとえば森をわたるひやりとした風。ハーブの香るアイシャの手。澄み切ったトーラの魂の色。イスカの優しい声。そしてセイの笑顔。今度こそ……またいつものように、あのチェシャ猫のごとき腹の立つ笑顔に拳を見舞わせてやる、と決意してヒスイは飛んだ。

   *

 突風が吹いた。サラの長い髪を跳ね上げる。
 軽やかに身を躍らせたヒスイの姿は、もうそこにはなかった。
 地面に降り立つはずの大きなヒスイの姿は、風に包まれ、地面に吸い込まれるようにして消えたのだ。
 窓から眼下を見下ろし、ぽつりとサラはつぶやいた。
「……見てなきゃ信じられなかったな」
 黒髪にきつい翠の瞳。迷子になって未来から来たという自称サラの娘。喧嘩腰のサラの視線と比べるとずいぶんと理知的な瞳の輝き。けれど、似ていても銀の天使を目の前にしたときのように全くのうり二つということでもない。あれは自分が産んだ娘だと不思議なことに信じられた。
 戻るといった。母親である自分がいるこの世界ではなく、父親のいるあちらの世界へ。それを少し寂しく思いながら、今はもう何の変化もみられない眼下の芝生をじっと見つめる。
「私も、行きたかった、な」
 それが無理であることもサラはよく知っていた。仮にサラが向こうに行ってもすることはない。後宮に収められ、たまに夫が訪ねてくるのを今か今かと待ち続け、そしてたまに子供と会うことを許される。サラがあちらに飛べばそういう運命が待っていることくらい分かるし、それに耐えられるはずもないこともよく分かっていた。
 逆にホウがこちらに来ても同じこと。無理にこちらに連れてきてもこの家に閉じこめて、子供の世話をさせて、サラの帰りを待たせるだけだ。彼はしがらみを捨てたがっていたけれど、それらを捨てて混乱が起こることが予想されるうちはどうしても捨てられないことは分かっている。優しいあの人は捨ててきた世界を思い、胸を痛め、涙する日々だろう。サラはそれをしたくない。ともに歩めないことくらい分かり切った恋だった。
「けれど娘がいてくれるしな……それもいいさ」
 一緒にいられなくても二人を繋ぐ絆が側にいてくれるなら。あの男の側にも行ってくれるのなら。ならば、ホウの人生にもそれなりの彩りが添えられるということだろうとサラは納得した。
 階段からは、いつまで待っても誰もあがってくる気配を見せない。
 サラは子供部屋の扉を開けて廊下へと出た。
 階段を見下ろす。段差の途中で友人と目があった。その足下では、もこもこと、動くぬいぐるみが段差を這っていた。
「なんだ、娘。自分で階段をのぼるといってきかなかったのか?」
 ちょうど階段の真上に立ってサラはそれを見下ろした。上下つなぎの着ぐるみを着た娘がその顔をあげる。そうやってちょこんと座っていると本当にぬいぐるみのようだ。ぷくぷくのほっぺが林檎のように真っ赤だった。そのほっぺの上に輝く翠の瞳はどんなに上等のエメラルドよりきらきらと輝いてサラを見つめている。
「ああ、サラ。この子ったらねぇ。自分で階段のぼりたかったらしくて……」
 だから大きなヒスイがこの場を離れるだけの時間があったのだ。大きい方と小さい方、両方の我が子に対してサラは内心ガッツポーズを取る。
「いい傾向だ。ほら、来い」
 サラはしゃがみこんで両腕を広げた。小さいヒスイはしばらくそれをじいっと見たあと、また手足を動かし始めた。尺取り虫のように、もこもこと動くぬいぐるみは大人の予想をはるかに上回る早さで階段をのぼりきる。
「にゃあ」
 子猫のような声をあげて無事母親の腕の中に到達した。
「よーし、いい子だ。何回落ちた?」
「サラったら。恐ろしいこといわないでちょうだい」
「どうして? 子供は柔らかいから階段から落ちたくらいで死ぬこともないと聞いているぞ? 事実、私はよく転がり落ちたが」
 友人は頭を抱えてしまった。サラはそれを不思議そうに見たが、腕に抱いたヒスイもまた不思議そうに見ていた。よく似た親子である。
「いい子だな、可愛いヒスイ。そういえば歩き始めるのも他の子供に比べて随分早いんだそうだ。運動神経に恵まれたのかな」
「……。その代わり、表情がとぼしくて、言葉も他のお子さんよりも遅いそうよ」
 仕事で飛び回っているサラより、ずっと子守を担当してくれている友人の方が子供のことをよく知っている。しかしサラは気にしなかった。表情がとぼしい子供だってその心の中では色んなことを考えているに違いない。言葉が遅いといってもそれはひとつの個性ではないのか。
 サラは我が子を抱き上げ、キスをした。このふにゃふにゃした生き物がいずれあの美しい娘になるとは実感のわかない話だ。
「お前、いつかお父さんに会うことがあったら伝えておくれ。私は幸せだと」
 小さなヒスイはきょとんとしてサラを見つめた。
 友人は「サラがおかしくなった」とこれ見よがしに十字を切ったがサラはただ笑うだけだった。
 いつかお父さんに会ったら伝えて。
 私は幸せだから。
 だから大丈夫。
 私たちの娘は必ずそっちに行くから。

 十六年ヒスイが聞き続けた母の口癖は、実はこのときから始まった。

   ***

 ヒスイが次に見たのは白い地面だった。
 相変わらず、高いところから飛び降りると高いところへ転送された。重力を吹き上げる風で相殺して地面に降り立つ。それでも衝撃は下から上へと伝導していった。
「ここは……」
 足下は草だった。草が見えているのはヒスイが立っているその一画だけ。あとは一面、雪に閉ざされている。
 平原というわけではない。周囲は針葉樹の森だった。ヒスイは今かなりの薄着であるというのにまだ寒さは感じない。周囲と未だ馴染んでいないのだ。空を見上げると、そこには青い色の代わりに鉛色が広がっていた。雪雲が上に来ているとこんな色の空になっているとヒスイは思い出す。天を指す針葉樹の木々は黒い針山のようだ。それらは雪でうっすらと化粧していた。
 ぐらりと世界がゆがむ。
 ヒスイは自分がめまいを起こして倒れていることに気づかなかった。ただ、魅せられるように空と木々に目を奪われていた。そのうち鉛色の空からはちらほらと、ほこりのようなものが舞い降りてくる。それが雪だと気づく前にヒスイのまぶたは落ちた。

 雪を踏みしめる足音が聞こえる。
 足音はヒスイを見つけて、うろたえた。そして。

 通りかかった男がヒスイを森から連れ去ったのはそれからしばらくのこと。

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