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翡翠抄−ひすいしょう−

第五章第二節第一項(096)

 ねじれた時計

 1.

 ヒスイは闇の中を――時間と空間の狭間を――風の促すままに突き進んでいった。ヒスイに色々な知識をくれた老人は「逆流」という言葉を使ったが、それは正確な表現ではないと思った。ヒスイは来た道をまた元に戻っていっているだけで風の流れに逆流していっている感触はなかったのである。ヒスイは自分の直感に従った。
 精霊を使う者はみな言葉を持たない代わりにイメージで彼らを使うのだという。それは精霊だけのことではなく、たとえば馬でもいい。その馬の持っている能力を生かし切るには、使う者が馬自身よりさらに深くそれの能力を知らねばならない。よく知り、理解し、そして分かり合うこと。そうすれば精霊は自分自身で思っているよりも強い力をふるえると。主を愛する精霊が普段よりも強力なのは……敵に回すと非常に手強く、味方にするとこれ以上ないほど頼もしい存在になれるのは、そのためなのだそうだ。
 ヒスイが風を使うときと同じように時空風を操れるというのなら、あくまで自分の直感に従うのが正しい。精霊使いは理論で精霊を使うのではない。もっといえば「使う」という表現もおかしい。彼らは彼らなりの方法でヒスイを愛してくれているだけなのだから。
 ヒスイは平らな地面を歩いていった。正確には地面と呼べるものではないだろうけれど。そこがまっすぐな道であるということを疑いもしなかった。
 だから、足をとられたとき一瞬反応が遅れた。

 地面があればそこに手をついて転んでいた。が、そこに地面はなかった。本来あるべき場所に足がつかず、空中に放り出されたような。
(しまった……!)
 この感触には覚えがあった。
 急に空に放り出されたときと同じ。一番最初にこの「世界」に落ちてきたときと、同じ。それは自分自身がこの闇から飛び出すことを意味していた。

 皮膚の外側と内臓がずれる感触。重力の虜。
 落ちる。

 目の前の景色に色が戻ってきたとき、ヒスイはとっさに受け身を取った。目の前に平らな壁が見えており、それがぐんぐんと近づいているのが分かったからだ。
 大きな音を立てて、ヒスイは落ちた。
 受け身のおかげで衝撃は最小限で済んだ。なにより、ヒスイがころがった地面は柔らかく、それが毛足の長い絨毯であることが分かったのは瞬きをひとつした後だった。
「ここは……!」
 体勢を立て直す。真っ先に天井を見上げた。天井に見える模様は高かったが庶民の家のそれだった。ヒスイが暮らしていた離宮は寂しいところだったがやはり王族関連が使う前提で作られていたので通常の家よりもずっと天井が高かった。ここは、それに比べるとずっと低い。あそこから落ちたのだとしたらそれほどの高さではない。ほっと一息ついた。が。
 ヒスイは、天井に別のものを見つけて眉をひそめる。
 久しく見なかったものがそこにはあった。
 蛍光灯だ。
「!?」
 改めて周囲を見回した。四方を囲む壁はクリーム色のクロスが張られている。窓は開け放たれ、白いレースのカーテンが風を受けて揺れていた。木の窓枠はいかにも素人仕事のような仕上がりの白いペンキが塗られている。窓枠だけではない。周囲にある家具もみんな白で統一されていた。壁にはいくつかのポートレート、部屋の隅にはパキラの鉢植え。窓の上には白い壁掛け時計。
 ここは知っているところだ。
「……嘘、だろう」
 ぼうぜんと。
 ヒスイは手元に視線を落とした。自分が座り込んでいるこの絨毯は黄色。パイン材のフローリングの上に敷かれたそれはふかふかで、子供の頃大好きだった。部屋を吹き渡る風は緑の匂いと幼い子供の声を運んでくる。
 窓に視線をやった。自然と、カーテンと壁掛け時計が目に入る。カーテン越しに青空と木々の葉っぱが見えた。萌葱色の葉っぱをつけたそれは、季節が初夏であることを告げている。壁掛け時計は部屋の内装に合わせたシンプルなもので、白い文字盤の上には黒一色で子供向けのキャラクターが描かれている。銀色の長針短針の上を赤い秒針が滑るように回っていた。
「ここは……」
 間違いない。
 ここは、子供の頃のヒスイの部屋だ。この部屋で育った。
 女の子が生まれるからといってピンクは嫌いだと、母サラは子供部屋をクリーム色に塗ったと聞いた。白い家具をそろえて、白木のベッドを置いて、観葉植物も置いた。パキラ、ポトス、ゴムノキ、スパティフィラムにオリヅルランなどが時々入れ替わっていたような覚えがある。
 あちらの世界から、どうやらまたこっちの世界に戻ってきてしまったらしい。
 いや、それよりも問題なのが。ヒスイはちらりと日当たりのいい場所に置かれたそれを見た。寝台のあったはずの場所には今、ベビーベッドが置かれている。
 ヒスイの記憶にはないものだ。しかし今、ベビーベッドは新品同様。シーツ代わりのバスタオルが敷かれて、赤ん坊用の布団まである。枕元の周りにはベビーピンクやベビーブルーのおもちゃが転がっていた。何より室内が、乳飲み子特有のミルクの匂いがしているのだ。そのベビーベッドは現役で使われている。ここで横になる赤ん坊がいる。
 考えたくない。が、そう考えるしかない。
「……冗談じゃない」
 我知らずヒスイはそうつぶやいていた。
 どうやら異世界を越えただけでなく、時間をさかのぼってしまったらしい。
 ここはヒスイの部屋だ。正確には子供時代を過ごした部屋だった。母がもう一人生んでいなければ、つまり、ここで寝ていた赤ん坊はヒスイということになる。
 若かりし頃の母と鉢合わせでもしたら言い訳など立たない。
 あの母に口で勝てる自信がない。いや、それより。他人で通せる自信がない。なにしろ今のヒスイときたら、髪と瞳の色を除いてサラにうり二つなのだ。
 窓の外でまた子供の声がした。
 ヒスイはのろのろと立ち上がると、そっと窓辺に寄った。カーテンに自分の影が映らないよう注意しながら。
 壁際に貼り付いて覗いた眼下には緑の芝生が広がっていた。変わらない、懐かしい庭の様子。違うのは、やっと歩き始めたばかりとおぼしき子供が、母の友人に促されてよちよちと歩いている光景だった。
 めまいがした。あれは、他でもない自分自身だ。
 今更ながらに老人の言葉を思い出す。さっさと自分の力を自覚しろ、と。
 こんな「時間」の中に長居などできようはずがない。ヒスイは窓から風を呼ぼうとした。とにかく早くここから離れたかった。誰とも会わないうちに。窓辺からやっと目を離したとき。
「ここで何をしている?」
 聞き覚えのある声が、真正面から聞こえた。

 胃が締め付けられるように痛くなった。
 体中から血の気が失せた。
 足が、金縛りにあったかのように固められて動かなくなってしまった。
 目の前にいる相手はそれだけのことをヒスイに感じさせるだけの力を持っていた。きつい眼光の紫の瞳、高く結い上げた黄金の髪は肩や背中に滑り落ち、そこに立っているだけで相手を威圧する金色の女神。
 自分の馬鹿、と、今更どうしようもない罵り文句を心の中でつぶやいたがもう遅い。
 子供部屋の扉を開けてサラがそこに立っていた。

「お前、ここで何をしている?」
 ひやりとした声はもう一度同じ尋問を繰り返した。ヒスイは思わず――こちらの世界の習慣に従って――両手を挙げて降伏の意を示した。
 こうなってはもう、腹をくくるしかない。
「……迷ったんだ」
 ヒスイはいった。
 サラの表情が少し硬くなる。不審がっているといった方が適切か。無理もない。どこにいきなり室内に迷い込む馬鹿がいるというのだろう。
「お前はどこから来た?」
 サラの尋問は続く。武器を突きつけられていないだけましだなとヒスイは思った。この人に敵とみなされたらそっちの方が怖い。ヒスイの心の中はすでに諦めが支配していた。過去何度も思った言葉が脳裏に浮かぶ。生まれたときからこの母に敵わないことが決まっていたに違いない、と。
 ため息混じりに、ヒスイは正直に答える。
「あなたの夫のいた世界から」
 サラの表情が変わった。
 さすがに経験者は違うか、とヒスイは妙に納得した。これが他の人間なら今のヒスイは不審者だ。おそらくは先ほどヒスイが天井から落ちたときの大きな物音を聞きつけてやってきたのだろう。外では幼いヒスイとその子守役が何も知らずに遊んでいるところを見ると、外に音は漏れなかったのか。サラは室内で仕事中だったのか。それというのもヒスイの記憶では、母一人が室内で仕事をし、自分たちは外で遊ぶという光景は普通にあったからだ。
 サラはまじまじとヒスイを見つめている。自分にうり二つの若い女、そして、髪と瞳は自分と違う色。導き出せる答えはひとつだが、それを思い浮かべるには時間が邪魔をした。
「お前……ヒスイか?」
 サラは躊躇しながら正しい答えを導き出した。母親の正しい判断にヒスイは安堵する。
「その通りだ。が……、今の私は十八なんだがな」
 ますますサラは驚いた顔をした。無理もない。
「ほう? 私のヒスイはまだ誕生日を迎えていないのだがな?」
 ヒスイはそれでやっと、おおまかな時代を理解した。思ったより時間をさかのぼりすぎたらしい。
 目の前の若いサラは少し思案しながら、その間もヒスイから視線は離さなかった。やがて後ろ手で扉を閉める。
「ふむ。やっぱりお前、私に似たんだな」
 あれに似ておけば絶世の美人になったのにもったいない、とつぶやいた。論点が違うような気がするがヒスイにそれを言い出す気はない。両手を挙げた状態のまま、肩をすくめた。
「……信用してもらえるとは思わなかった」
「銀の天使の例があるからな。ヒスイを……というか、お前を生んでから不思議なことに対しては耐性ができたんだ」
 サラは紫の目をまだヒスイに注ぎながらそういった。完全に信用してもらえているようだ。ヒスイはそれでやっと挙げたままだった両手をおろす。サラもそれをとがめようとはしなかった。
「今のお前は十八だって? どうせまた銀の天使がなんかやったんだろう。どうしてここにいる?」
 サラの疑問はもっともなことだ。原因となるのは銀の天使ではなくヒスイ自身なのだがそれについては伏せておく。どうしてここに、という問いには首をひねりながら答えるしかなかった。
「……だから、迷ったんだ」
 ヒスイはためらいながらそれまでのことを話すことにした。こちらの世界で話が分かるのはサラだけだ。そういう意味で、見つかったのが彼女でよかったかもしれない。
 十六になったら父の世界に飛んだこと、そして二年ほどともに暮らしたことなどをざっと説明する。が、肝心の父親の死については伏せておいた。いつかは知らせなければならないことなのかもしれないが、少なくとも目の前の、二十代の母に告げる気はなかった。今の彼女からすれば別れて一年も経っていない夫なのだ。
 父親に出会った話をすると母は目を輝かせた。
「会ったのか。どうだった? 綺麗だったろう?」
 初めてみる母の表情だった。そういう母こそ綺麗な顔で、事情を知っているヒスイは胸が詰まる。
「……うん。綺麗だった」
「だろう。そうか、お前は十六になったらあっちにいくのか。お前だけお父さんのところに行くのはずるいぞ。どうせなら私も連れていってくれればいいのに」
「無茶をいう……」
 微笑もうと頑張った。自分があまり表情をあらわにするほうでなくてよかったと思った。もし共に飛んでいれば母は、霧の谷の惨劇を目の当たりにするのだ。サラはきっと父に何をいわれても引き下がらなかったに違いない。
 ヒスイの表情の機微は、幸いなことに今のサラには伝わらなかったらしい。これが少なくとも十六年共に暮らしたころのサラであればきっとばれていた。
 と、そこでひとつ思い出した。
「……そういえば、サラ」
「うん?」
「私は……自分がその日、自宅に帰れないとは思っていなかったから……あなたからもらった誕生日プレゼントを放り出してきてしまった。今いうのは筋違いかもしれないけれど、あやまらないとと思っていたんだ」
 思えば、あの日午後から帰るはずだったサラが急いで帰ってきたのは、帰ったときにはもうヒスイがいないことを知っていたからなのかもしれない。知っていたのに普段通りに接して、普通に会話を交わし普通に我が儘を通してコーヒーをねだって。そしてプレゼントを贈った。最後まで普通に、ヒスイに何も気取らせずに送り出した。
「翡翠の指輪だった。お守りだといってくれたんだ」
「ふうん? そうか。では、私はお前が十六になったときに翡翠の指輪を贈ろう」
 微笑んでサラはいった。
「……やっぱりそういうのだな。だが、いったように私はそれを置いていくことになるんだぞ?」
「そうだな。事前に聞いていてよかった。あとの事後処理はうまくやってやるから心配するな。お前が置いていった指輪は多分、私の机のひきだしに入って、ホウのくれた腕輪の隣に並べられていることだろうよ」
「……」
「未来の私はきっとそうしているさ。お前のいた証だからな」
 にっこりと笑った。今のヒスイと目の前にいるサラはさほど年が変わらないように見える。サラは若々しくてとても一人の子供の母とは思えない。なのにこの人はやっぱり偉大だった。ヒスイにとっては永遠に追い越せない壁のように。
 サラは腕組みしながら面白そうにいった。
「考えてみれば、私は十六年も娘を独占できるわけだな? ホウはその間、向こうで一人なんだから」
 その通りだ。ずっと、父はそういっていた。胸の奥で痛みが生まれる。ヒスイは微笑みを貼り付けて彼女にいった。
「サラ。ううん、母さん。……父さんはずっと、あなたを愛していたよ」
 おそらくは今も。胸が痛い。ずきずきと痛む。
 サラを愛していると微笑んでいたあの美しい人はもういない。
「私が出会った頃の父はずっと左手の薬指にはめた指輪を大切にしていた。私を見て『サラ』と呼んだ。あなたを忘れていない。それに、私のこともちゃんと愛してくれた」
 胸の奥が痛みを訴えている。血を流しているように。その傷口が膿んで腐っているように。ずきずきと、じくじくと、痛みが広がる。それに反比例してサラの微笑みは美しかった。ヒスイがいままで見てきた母の顔のなかで一番美しい顔をしていた。
「とても、とても綺麗な人だった。あなたは意外にも面食いだったんだなと納得したよ」
 ヒスイの表情は涙を完璧に抑えていた。
 だから目の前のサラは気づかない。そうか、と嬉しそうに微笑む。年をくってもあいつは綺麗なままなんだなと少し面白がりながら。それでいて、そうであったら嬉しいととても楽しそうに。
 母の笑顔がこぼれるたび、ヒスイの胸は張り裂けそうになった。

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