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翡翠抄−ひすいしょう−

第五章第一節第三項(095)

 3.

 いずれ、といった。いずれ本人に聞けと。老人の言葉は再びトーラに会えることを示唆していた。今はそれで十分と思うことにする。
 静まり返った空気はいっそ心地よく、ふたりは口を閉ざしたまま炎を見つめていた。
 そして、老人がぽつりとこぼしたのは随分時間が経ってからだった。
「話すことは話した。お前さんは元の時間に戻るがいい」
「……どうやって?」
 力を持っているらしいことは分かった。だが、ヒスイはそれを意図的に使うことはできない。疑問を瞳に表した。
「心配はない。お前さんが風を使うのと同じだ。時間と空間の間を流れる風を捕まえろ」
「風?」
 そういえばヒスイの移動にはいつも風が付き物だ。自分が風使いということで特に疑問も覚えなかったが、あれはそういうことだったのかもしれない。昔、父が自分の名を付けたときの母の話でもそうだった。両親は突風によって引き裂かれたのだ。
「物理的な風とはまた違うんだがな。『時間が流れる』というだろが。その奔流の外側に時間の流れを促すためのエネルギー風が流れていってるとイメージしろ。あとはあんたの領域だ。それを操ればいい」
 流れに身を任せるも逆流するのも自由だと老人はヒスイにいった。
「逆流するよりそのまま流れていった方が遙かに楽だというのは分かるな? お前さんがこんなに遠い未来に流れついたのもおそらくそのせいだろう。今度はちと難しいぞ。逆流せにゃならんからな。鮭が産卵のために川を逆流していくのと一緒だ」
 老人にとっては他人事だ。それは分かる。しかし人を鮭に例えるのはどうだろうか。ヒスイにとっては――今までは自覚さえしていなかったが――命にかかわる出来事をあんまりあっさりいわないで欲しかった。が。
「ああ、それと、時間軸はぴったりでも出現する空間を間違えるなよ? 間違って大気圏近くなんぞに現れたら墜落死する前に凍え死ぬぞ」
 懸念していたことを老人はあっさりと告げる。ヒスイは彼の顔を見た。もじゃもじゃの髪とひげに隠されてやはり表情の機微は分からない。ヒスイもまた表情に乏しいので何を考えているのか老人には分からないことだろう。
 ヒスイは立ち上がった。
 老人が見上げてくる。
「行くのか」
 ヒスイは頷いた。老人は話を終えたという。もうここに長居する理由もない。微笑んだ。
「頭が冷えたらやりたいことが見えてきた。父の仇をとる」
「……キドラをか」
「それも逃すつもりはない。だが本命はサイハの方だ」
 宣言する。
 キドラが直接手を下したことは知っている。けれど、けしかけたのはサイハだ。自分の手を汚さず父を下したそのやり方が気に入らない。あの女がホウの命を欲しがっていたのは確かなのだから。
「言い逃れなんかさせない。サイハが仇だ。それに部下の不始末は上司が尻拭いするものだろう?」
 ヒスイの物騒な微笑みに、老人も「確かにな」と頷いて答える。それにこの老人のおかげで今はもうひとつ目的が増えた。銀の天使こと、月の女神ソウジュを締め上げる。一体なんのために自分を作り出したのか。彼女はヒスイを欲しているといっていた。嫌でも会えるはずだ。
 ヒスイの決意にみなぎる視線とは逆に。老人はヒスイから目をそらしてうつむいた。
「わしはお前さんがこれからどういう運命をたどるか歴史という形で知っている。わしは……これから起こることをお前さんに教えておくべきかもしれん……」
 しかしヒスイは反射的にかぶりを振っていた。
「必要ない。ご老人、どうせあなたは知っているのだろう。私は私だ。教えられていたとしてもそれを回避するとは思えない。いつだって自分が決めた道をいく。おそらくはあなたの知る歴史通りに」
「……」
 最初は未来を告げようとはしなかった老人が「語るべきかもしれない」という。自分がどんな未来を歩むのか、少なくとも艱難辛苦のかけらは伺えた。というか、今現在でもその苦難はおぼろげながら予想できてしまっている。具体的なことなど聞きたくもないほどに。それが老人の親切心からの言葉だと分かっているけれど、ヒスイはどうしても聞くべきではないと思っていた。
「それに、私はあなたの言葉の端々から少々未来を知りすぎた」
 これには老人の方が首を傾げた。はて、自分は何かよけいなことをいっただろうかという雰囲気である。ヒスイの方が苦笑した。
「……私がこの時代、もう死んでいるといっただろう? ということは、私は育った世界に戻って死ぬことはないということだな」
 はっきりと老人の顔が硬直した。しゃべりすぎた、と、その顔は物語っている。
 ヒスイは苦い笑みを貼り付けたまま老人を見つめ続けた。
「私はあなたに借りができた。いつか同じ時間軸で若い頃のあなたに出会えたら……それがあなただと分かったら、恩を返させてもらいたいと思うよ」
「いんや。それにはおよばん」
 謙遜からきた言葉だとヒスイは受け取った。が、老人はなぜか妙に真面目な雰囲気でいた。焚き火のはぜる音。黒に塗りつぶされた闇と炎の赤だけが周囲を染める中、音だけが自己主張をしていた。
「あんたは知らんだろうが、わしはあんたに恩がある」
 意外な言葉。老人はさらに続けた。遺言のこともあったが、なによりその恩を返すためにここでヒスイを待ったのだと。
「恩?」
 まるっきり覚えがなくて老人の言葉を繰り返すしかできないヒスイに、彼はよく見えるようしっかりと頷いた。そこで初めて老人は立ち上がる。思ったより小さな老人だった。痩せたしわだらけの手で拳を作って胸の上にかざす。簡略した騎士の誓いのような仕草だと思った。
「あんたには恩がある。一生かけても返せない恩だ。……あんたはトーラの命を救ってくれた。だから今のわしがあり、そしてわしの血を継ぐものがある」
「……!」
 息をのんだ。ヒスイは翠の瞳を老人に向け、その白い髪だか眉だかに隠された老人の目を見つめた。白髪の中に隠れた目がどんな色をしているのか、また今、どんな輝きを放っているのかは分からない。しかし老人の声はピンと張りのある声音だった。
 ヒスイは昔、死にかけた幼いトーラを助けた。生き長らえたひとつの命。その命が彼に連なる血脈、そのすべての命を紡いだ。
 だから老人は命に代えてもヒスイに恩を返す義理がある。
「やっぱりあなたはトーラの……子孫?」
 老人は答えなかった。紫水晶と同時に託されたトーラの願い。おそらくは何代か経て伝えられた言葉。それだけに重みのある事実。
 ゆっくりと嚥下した。
「……あのトーラが子供を産むというのもそれはまた信じがたい話だが……」
 子孫ということはそういうことだ。
 ヒスイが絶句したのが分かったのだろう。老人は威厳のある態度から急に肩をすくめた。
「あー……できればそれは、本人には内緒にしていてもらえんかな? 妖魔は普通、出産とは無縁だしな。妙に意識されでもしたら、わしらの存在はあっけなく消えちまう」
 トーラの「子孫」の存在がなくなるということは、この時代を生きる一部の人々は始めからなかったことになってしまう。ヒスイは老人の言葉に首を縦に振った。一生懸命頷いた。老人の存在を消してはならないと、消す気はないと、それはもう懸命に。
「……じゃ、行く」
「達者で」
 短いやりとり。
 ヒスイは来た道を逆にたどり始めた。炎を背に、闇の中へと。光の届かなくなったころ風がヒスイを取り巻く。背中から吹くその風には緑の匂いが混じっていた。これは森の香り。霧の谷にあったような針葉樹と広葉樹が入り交じった森の、夜露に濡れた葉の香り。草木の蒸れる匂いと木の幹独特の青臭い匂い。ヒスイが何より慣れ親しんでいた場所の。
 唐突に理解した。国の名前はきっと違っているけれど、この場所はかつての霧の谷だったところ。
 風に押される背中が、まるで亡くなった父が背を押してくれているような錯覚を起こした。
 深呼吸する。ようは風を使うときと同じ。イメージだ。ヒスイは一生懸命頭の中に行き先を思い浮かべた。帰る。懐かしい顔ぶれのそろった、あの時間の中へ―――。

   *

「行っちまったな」
 老人が闇の中に吹き荒れる風を感じながら一息ついた。
 それを確認したとたん、闇の中から急にもうひとつの気配が浮かび上がってくる。気配の主は急いで火の側に駆け寄り、その手をかざした。
「あー、寒ッ!!」
「……あ」
 そういやこいつがいたな、と老人はのんきなことを考えた。自分が連れてきた青年である。焚き火ごしに彼と目が合う。低く押し殺した声が老人を脅した。
「こっちのこと忘れてただろ。え、コラ」
 その通り。老人は沈黙をもって答えに代えた。
 青年は、気の毒に鳥肌を立てながらふるえていた。老人はこのときまで突っ立ったままであったのだが、焚き火を挟んで青年の向かい側にしゃがみこむ。ヒスイに貸した上着を自分の方に引き寄せ、そして当たり前のように尻に敷いた。
「なぁ、じいさん。どうしてヒスイに嘘を教えたんだ?」
 と、唐突に青年はいう。老人は、はて、と首を傾げた。嘘を教えた覚えはない。
「とぼけるなよ。わざと数百年くらい経ってるような言い方しやがって。まだ百年も経ってないだろーが。親父死んだの去年だぞ?」
「……わしゃ嘘はついとらんぞ?」
 青年はうんざりした目で老人を見た。
「だ、れ、が、トーラの子孫だって? それ! あんたの嫁さんの形見だろーが!」
 それ、と。青年が指さしたのは老人の右手。握り込まれているのは額飾りの宝石部分。特徴的な紫水晶の飾り。老人は袖の中から手を出した。
 老人は無言だった。紫水晶を眺めやる。
 嘘はついていない。ヒスイが推察を述べたとき、老人は一言も肯定の言葉は発さなかった。ヒスイが勝手に勘違いをしただけだ。トーラがいなければ今の老人はいなかったし、また子供たちも存在しなかった。
「……嘘はついてない。が、本当のこと全ては告げられん。女房もお前の親父も、ヒスイの人生にあまりに深く関わりすぎている。それこそこれからのヒスイの采配ひとつであやつらの運命はあっさり変わるくらいにな。そして、わしらもまた、あやつらに振り回された人生だからのぉ」
 もし出会わなければ、それはそれで別の人生を歩んでいたかもしれない。
 けれど老人は今までの人生をそれなりに気に入っていた。これからヒスイが向かう未来でも同じことが起こって欲しいと思う程度には。
 青年も黙り込む。もっともなことだった。彼にいたっては下手すると存在そのものが危うくなってしまう。
「で? どうだったよ、お前から見たヒスイは」
 老人は先ほどの口調とはうって変わった、からかうような含みのある声で青年に話しかけた。
「会いたかったんだろ? どうだ、ん? 惚れたか?」
「冗談!」
 青年は本気でいっているようだった。反射的に出た言葉だったのかもしれない。「そうか?」と老人はさらに突っ込んだ。
「いかにいい女だろーが、親父の恋敵に立候補するのだけはごめんだ!」
「……死んでんじゃねーか」
「あんたな! あのクソ親父の妄執を知ってるだろうが! 絶対、化けて出てくるに決まってる!」
 あながち冗談でもなく、いや、むしろ本気でおびえているようにさえ見えた。先ほど闇の中に気配を沈ませていたときの非ではない。ぶるぶると体をふるわせて、鳥肌の様子までもが派手になっている。老人は彼の父親を思い返した。死んでいても化けて出るくらいならやりかねない。いいや、息子に取り憑いて子々孫々までたたるくらいはやりそうだ。おおいにありえる。
 老人は冷静に思う。死してなお傍迷惑な奴、と。
 父親の影に本気でおびえる青年は、体を抱えるようにしていた腕をほどく。ヒスイが消えた闇の奥を見た。
「あれは親父の愛した女だ。焦がれて焦がれて、なお手に入らなかった永遠の女だ。俺にとっては義母だ。……それ以外の何者でもねーよ」
 かすかに頬を染めながら、むっつりと青年はつぶやく。その声は老人の耳に甘く響いた。
 彼の父親が繰り返し語った冒険譚。その中にいつも出てきた愛しい女。青年の心の中にいつしか見たこともないヒスイが住み着いていく様子を、老人もまた間近に見ていて知っていた。
 青年の横顔はあまりにも彼の父親にそっくりで、老人はつい、その隣にヒスイを並べてやりたくなる。そんなことは叶うはずもないのに。

 老人は黙って、青年を同じ方向を見つめた。
 自分の役目はこれで終わりだ。が、老人にとっては遠くなった懐かしい日々と苦難は、ヒスイにとってはこれから起こる出来事である。幸あれ、と、全てを知っているゆえに老人はつぶやかずにはいられなかった……。

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