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翡翠抄−ひすいしょう−

第四章第五節第四項(090)

 4.

 空に浮かんだセイは特に何の感慨もわかなかったようだ。寝そべった格好からまた宙で一回転し、座った姿勢に戻る。
「ふん」
 頬杖をつく。
「ひとつだけ分かったことがある。お前が側にいれば、本当にあのサイハ様を相手にしてもご主人様を守りきれたんだな」
 無神経な言葉だった。それはもう取り返しのつかない過去の話。イスカの表情がゆがむ。たとえ妖魔の長を相手にしたとしても、イスカが側にさえいればホウだけは生き延びたはずだった。それほどまでに強大な守りの力をイスカは持っていたのだから。……例え、その戦いでイスカ本人が消えたとしても。
 少年の苦悶の表情を見下ろすセイは相変わらず何の表情も浮かべてはいない。
「まぁいい。ヒスイに会ったらどうせお前らの消息は聞かれるだろうからな。連絡、覚えておいてやるよ」
 青い色の髪した彼はただでさえ冷たい目をさらに冴え冴えと輝かせ、足を組み替えた。
 そして空気に溶け込むように消える。
「待って、セイ!」
 トーラが反射的に手を伸ばした。
 けれど青い服地をつかむ代わりに空をつかむ。セイの姿はもう、ここにはなかった。
 行ってしまったのだ、彼は。誰よりも愛している女を待つために。

 トーラは無意識に自分の胸ぐらあたりで握りこぶしを作っていた。ヒスイと再会できないかぎり、もう二度と彼とも会えない……あの男はそういう男だから。
 イスカが、何気なく聞いてくる。
「追いかけないんですか?」
 反射的に怒鳴り返していた。
「……どうして私が追いかけなきゃいけないの!」
 ぷうっと頬を膨らませてそっぽを向く。仮に追いかけても追いつけないのは分かっているではないか。それにトーラが追いつくのを待っていてくれるような男でもない。
「なんで、私が……そんなこと……」
 腹が立った。どうしようもなく。
 イスカはやれやれと肩を落とした。
「……なによ?」
「いいえ、なにもありませんよ。僕は僕に出来ることをするだけです」
 出来ること。トーラは目をしばたたいた。そうだ。イスカは、そういって精霊を捨てることを決めたのだ。イスカは琥珀色の瞳をトーラに向けて微笑んだ。
「あなたがいったんですよ。ホウ様もきっとそれをお望みだったと。ヒスイ様をお守りする力になれるように」
 亡き主(あるじ)を語るときだけ琥珀色の瞳が陰った。
 そういえば、性別が固定されて云々の話をしているときにそんなことをいったような気がする。だが、その一言でイスカの運命まで変えてしまったのだとしたら、ちょっと恐ろしい。
「もしかして私のせい?」
 上目遣いに見やる。だが、イスカは首を振った。
「ホウ様がみまかられたときに、すでに僕が精霊でいる理由はなくなりました。遅かれ早かれこういうことになっていたのだと思います。……もしかするとホウ様は、だから僕だけは生かしたかったのかもしれません」
 そうね、と答えかけて。
 トーラは未だ固まったままのアイシャの存在に気づいた。
「きゃー。アイシャ、しっかりしてーっ」
 この夜っぴての話し合いで、一番迷惑を被ったのはこの元・愛の女神の巫女かもしれない。

   *

 おそらくはずきずきとうずいているだろう、こめかみを押しやりながらアイシャは
「今度こそ本当に、最初から全部話してもらえるのよね?」
 と、恐ろしくドスのきいた声を発した。
 イスカはさっきから「すいません」を繰り返して米つきバッタのように頭を下げ続けている。
 トーラには、星見で見えたことをどこからどこまで話してよいものやら判断がつかない。黙っていたことで、これまたアイシャからにらまれた。
「そんなこといっても、過去はその人の個人的事情だし……」
「だったら全部黙ってなさい。トーラはね、なまじ知っているものだから思わせぶりな言動が多すぎるの!」
 その通りだったのでおとなしく頭を下げた。
「ええと、落ち着かれましたか、アイシャさん?」
 イスカは今、アイシャの真正面に座っていた。アイシャはまだ憮然としている。驚きすぎて理解がまだ及んでいないのだ。無理もない。
 落ち着いてくださいね、とイスカはもう一度繰り返す。
「かいつまんでお話しします。なにせ長くなりますから」
 彼は彼なりに気遣ってのことだ。すでに朝が近く、徹夜で疲労した頭では完全に理解できないだろうと配慮だった。けれどアイシャは首を振る。
「いやよ。ちゃんと話してよ」
「あの……でも、お日様が高くなってしまいますよ? アイシャさん、今日は仕事、お休みの日ですか?」
 はた、とトーラは手を打った。
 アイシャも「しまった」という顔つきだ。もうじき朝がくる。おさんどん係とはいえ神殿に雇われている身としては、たとえ徹夜明けだろうが仕事をおろそかにするわけにはいかない。
 イスカは苦笑混じりに首を軽く傾げる。
「まず、分かっているところから整理しましょうか。僕がホウ様に育てられた大地の精霊であることはご存じですよね」
 アイシャは無言でひとつ頷いた。
 その様子がまるで幼子のようだったので、トーラは軽い驚きを覚える。アイシャとイスカが並んでいると普段ならばアイシャの方が年上に見えるのだが、今はその立場が逆転しているかのようだ。
「少年であったホウ様に僕をお預けになったのは地竜様です。竜は一族の代表である方だけが霧の谷に姿を現しますので、様付けで呼ばれる竜はその一族の長になります」
 妖魔も精霊も、人間のように一人で生きていけない姿で生まれてくることはまずない。たとえばトーラは生まれた直後ですでに人間でいう七つ、八つくらいの姿だったし、セイは十二、三くらいの少年の姿だった。成人した姿のままで生まれる妖魔や精霊も多い。
 けれどイスカと名付けられる前の大地の精霊は、なぜか赤子の姿で生まれてきた。
「精霊は人間に見えないだけで、どこででも生まれているんですよ。僕が生まれたのは霧の谷ではありません。よりによって地竜の巣の中で生まれたそうです」
 自分の巣の中で見知らぬ精霊が泣いているのを発見した地竜は、さてさて、どんな気持ちだったのだろうか。
「一人ではなにもできない精霊の赤子を、見るに見かねて竜が世話を焼いてくれたのだそうです」
 アイシャの瞳がかすかにうるんだ。
 拾われ、他人の手で育てられたというのはアイシャの境遇にも重なる。育ての親である巫女たちを思い出しているのかもしれない。
「ご存じでしょうが、赤ん坊って本当に手がかかるそうですね」
「ええ……でも、手がかかるからこそ、その分愛しいのよ」
「そうみたいですね。地竜の皆様方もずいぶんとその精霊に肩入れしてしまったようです。なにしろ竜は長寿ですが、その反面出生率がはかばかしくなくて……」
 だから、赤ん坊の存在がよけいに愛しかった。
 その精霊の子も竜たちに懐いていた。
 いつの間にかその集落すべての地竜がその精霊を可愛がった。母竜だけではなく、まだ卵を抱いたこともない若い娘や、子供まで。なによりその精霊の子を可愛がったのは他ならぬ地竜の長。まるで本当の孫をあやすかのように。
 地竜の長は、その子を可愛がる反面、気づいてもいた。この子をこのままここに置いてはいけないということに。
「……その精霊の子供を竜の眷属に加えようという声がどこからともなくあがりました」
「けんぞく?」
「一族に名を連ねる者、という意味です」
 一族全てにとっての愛しい子供として。そして、精霊の赤子は地竜の眷属……地竜の一族の一員となった。
 トーラは知っている。そのとき、さしたるもめごともなく、あっさりと決定したこと。そのことに地竜の長はとても悩んでいたこと。もしかしたら自分たち地竜は、この精霊が本来歩むべき運命をねじ曲げてしまうのではないか、と。しかし長の一存だけで反対もできなかった。
 老いた地竜の長は悩んだ末、その子を未来の精霊の長に預けることにした。どうしてその当時の精霊の長、つまりホウの伯父であり義父である人に預けなかったのかは分からない。しかし結果としてはそれで正解だった。
 もう何もいうなと念を押されたにも関わらず、気がつくとまたトーラは口を挟んでいた。
「ホウに預けたのはね、準備期間なの。精霊は竜に従って自然の摂理の輪をまわしていくけれど、それよりも誰かのために働くことが好きなのね。精霊として生きるか竜として生きるか、それを決めさせるために地竜の長はイスカをわざと人間の側に置いたの」
 その後は知ったとおり。
 イスカは、預けられたホウに忠誠を誓った。
 精霊として永遠にホウに仕えて、そして、守るのだと。
 もしもホウが天寿をまっとうしたならばこの誓いは揺るぎないものになるはずだった。ご主人様の死後も守護精霊はたった一人の主(あるじ)を慕いぬく。
 こんなことになりさえしなければ。
「たった一人の主を決めた精霊はとても強いです。だから、ホウ様をお守りするには精霊のままの方が都合がよかった。しかしヒスイ様は僕の主ではありません。主ではないヒスイ様をお守りするためには、地竜となった方が……強いんです」
 それこそホウの最後の願い。
 今はもう想像するしかないけれど、おそらく彼は娘の宿命を知っていた。その娘を守るために一番強い守護の力を残したかった。そして、まるで弟とも息子とも思い可愛がってきた大地の精霊もまた死なせたくなかったのだ。
 狙われている愛娘を守るために最強の盾を残した。
 放っておいたら自滅しそうな養い子を守るために、一番信頼できる相手に預けた。
 ホウにとっては両方ともに一番安心できる組み合わせだったのだ。だから悔いを残さず魂は解き放たれた。

 朝の匂いはさらに強くなる。雨上がりの空気はいつもよりいっそう澄み切っていた。
 全てを知ることができるというのは、ときに苦しい。イスカがずっと後悔していた原因をトーラは知っていた。自分には守る力があったのに、よりによって守るべき主自身によってそれを否定されたということ。アイシャが叱りつけてやっと前を向くことができたけれど。
 今のイスカにとっては主人が一番大事で、自分の命などその次だ。それが精霊だから。きっとキドラも同じことをいう。あちらは色まで絡んでいるからなおさらだろう。
「ねぇ、イスカ。今の話だと、今はまだ、あなたは精霊なのよね?」
 アイシャが聞いた。きっと今のトーラと同じことを考えているのだと思う。イスカが答えた。
「そうです。ヒスイ様をお捜しするためには人間としての身分が必要でしたから、一時的に大地の神の神官位を頂戴しました。それが可能だったのは、大地の神の信仰は昔、地竜信仰と融合した歴史があるからなんです」
 アイシャが目を点にした。
 話が逸れ始めたことにトーラが反応する。トーラは神だの竜だの、宗教にはまったく興味がない。しかしアイシャの目の色はすでに変わっていた。
「そうなの? それ、どういうこと?」
「宗教の歴史は侵略の歴史ですからね。七柱の神々の信仰は、迫害された精霊信仰を飲み込んで混ざり合いながら大陸に広まっていったんです。一番色濃く精霊信仰と結びついているのが大地の神、正式名称で『豊穣と冥府の神』なんですよ」
「へぇえ」
 とうとうたまらなくなってトーラが叫んだ。
「アイシャ! そういう話をしたくて、話をふったわけじゃないでしょ?」
 その一言でアイシャが我に返る。しかし、彼女としては神様と竜の関わり合いの話にまだ後ろ髪をひかれているようだ。
 仕方ないので、その続きをトーラが引き継いでイスカに問いただした。
「あんたはまだ精霊なのよね? で、これから竜になるのよね!」
 琥珀色の瞳をした少年は、そうです、と答えてトーラを見る。
「だったら今までの気持ちはどうなるの? ご主人様をずっと大好きだった気持ちとか、その一人娘であるヒスイを守りたい気持ちなんかは全部どこにいくの? 精霊は妖魔と一緒で精神の生き物だけど、竜は人間と同じように肉体の生き物だわ。同じ気持ちをそのままそっくり継承できるものなの。ねえ!」
 早口でまくしたてた。
 イスカの顔から表情が消える。それでも、無表情でもイスカの気配はいつもと変わらず温かかった。これがもしヒスイなら無表情になると気配がとぎすまされるし、青い髪のセイなら周りをすべて拒絶する空気が生まれるものだが。
「どうなるか、僕にもわかりません」
 人を不安にさせる答えをイスカはくれた。トーラは別に不安になどなりはしないが、アイシャは別だ。彼女の体がこわばるのが見てとれた。
 しかし、穏やかな気質の大地の精霊はそれしか出来ないかのように微笑む。
 言葉よりもはっきりと、心配いらない、という気持ちが表れていた。
「ちょうどいい時間帯ですね」
 イスカは靴を脱ぎ始めた。何をするつもりかと見ていたら、彼はそのまま立ち上がると服の留め具をはずし、紐を解く。いつも羽織っているすり切れた法衣を脱いだ。
「すいません、ちょっと預かってもらえますか」
 脱いだ法衣をきちんとたたんでアイシャに預けた。
「あの……イスカ?」
 性別は男に固定されているといっていたが、簡素な木綿の服からのぞく鎖骨や筋のみえる腕など、たしかに女の子とはほど遠い。少年期特有の肉の薄い骨張った体つきだ。
「……何する気?」
 聞いたのはトーラ。
「いえ、服が破れてしまうもので、最低限、靴と上に羽織るものは残しておきたいと思いまして……」
「は?」
 イスカはその格好のまま窓辺によると、閉ざされた鎧戸を開けた。
「今からお見せできると思いますよ。地竜への変化を」
 素足、薄着のまま、イスカは窓から外へと飛び出した。山の端が濃い朱金に染まっている。朝日が顔をのぞかせるのはもうすぐだった。

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