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翡翠抄−ひすいしょう−

第四章第五節第三項(089)

 3.

 なごやかな雰囲気が漂っている間にも朝は着実に近づいていた。
 辺りが一段階、明るくなる。しっかりと閉めた鎧戸の隙間からも光は滑り込んで来た。完全に周囲を見渡せるほどではないが、ほの明るい光は着実に朝が近づいていることを教えてくれる。空気すらも心なしか冷たく冴え渡ったかのようだ。
 ヒスイがいない、こんなときでさえ夜明けの気配は優しかった。
 原初の人々が太陽を神と崇めたのは現代人が抱くような気持ちをかつての彼らも同じように思っていたからなのかもしれない。どこか安心するような、温かさにほっとするような。それは妖魔にも共通する感情なのだろうか。トーラは、暗闇から生まれた妖魔のはずなのに夜明けが嫌いではなかった。
「長い一日だったわね」
 トーラは、茶碗を両手で抱えながら窓辺をみやる。中のお茶はすでに冷めかかっていた。気がつくと全員が窓辺を見ていた。アイシャも、イスカも、青い髪したセイでさえも。

 そのセイが立ち上がった。
「ごちそうさま」
 トーラの目の前を横切るような形で体を伸ばし、寝台の上にあった盆に茶碗を置く。そして自分たち三人を一人ずつ見渡すように顔を見ていって
「飽きた」
 と、そう一言告げた。
 その言葉の意味を瞬時に理解できる者は誰もいなかった。
「……何をいいだすの?」
 一番近くにいたトーラが尋ねる。セイは答えなかった。その代わりに、青い色した髪が宙を踊る。何が、と思うより先に、彼の足が地面から離れていった。セイの体が完全に宙に浮かんでいる。
「どこに行くのよ!」
 トーラも茶碗をあわてて置き、立ち上がった。セイはゆるやかな速度で上に浮いていく。
「だから、飽きたんだ。これ以上人間と妖魔と精霊が顔をつきあわせている意味がなくなった」
 色々と知ったことは多かった。だが、結局肝心なことは何一つ分かっていないのだ。消えたヒスイは今、どこにいるのか。分かったのはヒスイが持っていた力のこと。
「それから、サイハ様がヒスイを狙う理由はどうやら雷帝が絡んでいるらしいということも。雷帝絡みだとしたらあの方は絶対にヒスイを諦めない」
 蒼い目がトーラを見下ろしている。冷たい、感情のない目。怒っているときも怖いけれど、彼の感情のない目を見ていると拒絶されている気がするのはなぜだろう。いや、本当に拒絶されているのかもしれないけれど。
「雷帝、って?」
 アイシャが聞いた。トーラがアイシャとイスカの方へ顔を向けると、少年は首を振っていた。そういえばイスカも詳しくはなかったのだ。アイシャの問いに答えたのは、セイ。
「妖魔の中で一番強かったひと。一番強くて、一番偉くて、一番輝いていた怖いひと。頭は良かったけどサイハ様みたいに策をめぐらすのはあんまり好きじゃなかった」
「じゃあ、いい妖魔ね」
「どうかな? 残酷王の異名もあったけど」
 セイが酷薄な笑みを浮かべる。アイシャの表情が瞬時にぎこちなくなった。
 アイシャに理解しろというのは酷かも知れない。彼女は命を守る側の立場の人間だから。人間であろうと妖魔であろうと、戦場に立つ将は誰よりも人を引きつける何かが必要なのだ。戦場という場所は相手の命を屠る場所、そして、もしかしたら自分の命を落とす場所だ。誰だって命は惜しい。大将はそんな彼らを奮い立たせていかなくてはならない。たくさんの人を従える、というのはたくさんの命に責任を持つということだ。敵に残酷なのも強さのうち。味方の命を守ることにつながるから。
 トーラは戦に立ったことはないけれど、人間はいつもどこかで戦を起こしているからそういう場面を見ることもある。
 そういう意味ではヒスイも大将の器、人を引きつける才能があるのかもしれない。
 妖魔であるセイを魅了し、精霊であるイスカを従え、人間であるアイシャには保護欲をかきたてる存在であり。……さらにいうなら、妖魔の長と精霊の長さえ巻き込んでの、大きな時代のうねりのようなものの中心にいる。
(ヒスイの周りは敵ばかり。ヒスイに備わった才能は、もしかしたら自分の味方を増やすための自己防衛なのかもしれないわ……)
 ちりり、と嫉妬が胸を焦がした。
 ヒスイのことは誰よりも好きなのに、時折わき起こるこの感情はどうしようもない。
「……ヒスイ、今頃どこにいるのかしら」
 トーラは無意識に言葉にしていた。ヒスイに会えたら、そうしたらこのもやもやした気持ちが晴れるような気がして。
 意外なことに、このトーラのつぶやきに対してセイが返事をした。
「ヒスイの役目が霧の谷を滅ぼすことでなきゃ、『世界』はもう一度ヒスイを呼ぶだろうさ。そうでなければ異世界育ちのヒスイが今までこの『世界』にはじき飛ばされず、むしろ隠され守られていた理由がわからない」
 と、言い切った。
 青い目は心なしか細められており、その視線はまっすぐトーラをとらえている。
「お前、いったな? 自分はいつか必ずヒスイに会える、と。そんなこと、なぜ言い切れる? お前が見たのは満足して死んでいく自分だろう。オレなら、お前に幸福な夢を見せたまま殺すことだってできる」
「物騒なこといわないで!」
「分かっていないようだから更に言おうか。ヒスイが未来に現れるのは何年先だ? この中でお前が一番年若い。一番長生きするだろうさ。かろうじてお前が死ぬ前にヒスイに巡り会えたとして、そのときオレはどうなっている?」
 アイシャの空色の目が見開かれた。
 トーラは呆然とセイの顔を凝視する。
 寿命の問題。もしかしたら、ヒスイに出会えたときには全員の寿命がつきているかもしれない。トーラは思わずアイシャを見た。この中では人間が一番、寿命が短い。あと五十年もすれば生きていたとしても足腰のたたない老婆である。
「……………」
 アイシャの顔は青ざめていた。
 何も、言葉をかけることができない。もしかしたらアイシャだけが、もう二度とヒスイに会えないかもしれないのだ。
 セイの言葉はさらに続いた。
「過去に滅びた国は霧の谷だけじゃない。たくさんある。そのうちのどれかを滅ぼすのが『世界』がヒスイを必要としている理由だったら? 妖魔の勢力図だって雷帝が死んだときに一度書き変わっているんだ。詳しくないが精霊の世界でも、人間が精霊の長になると決定したとき何かあったんだろうが」
 イスカがそれに応えてうなずいた。
「……昔、おひとりだけ闇の上位精霊がおられたそうです。その方が封印されて、精霊の世界も一度大きく揺れたことがあると……。聞いただけの話ですが」
 彼の声もかすかに震えていた。セイは、今度はそのイスカに向かって更にいう。
「それらの原因にヒスイが関係していないと誰が言い切れる? 記録が残っていないからか? だが、この二年だって表の歴史からヒスイの存在は隠されていたはずだ。ヒスイは確かに存在していたのに記録は何も語らない。消えたヒスイが『これから』現れる先が『過去』だとしたら、その時点でオレ達はもうヒスイには出会えない。絶対に」
 冷たい声だった。セイは何をいいたいのだろう。どうして、もう二度とヒスイに会えないかのようなことばかりいうのだろう。
 セイはあいかわらず宙に浮かんだまま、三人を見下ろしている。
「楽観視はしない。そこまでめでたい性格でもない。だが、未来にさえヒスイが現れてくれれば――百年後でも一年後でも、明日でも――どこにいようとオレは絶対にヒスイを見つけだす。それまでは、そうだな。出来ることでもするさ」
 目元と口元が微笑みの形を作った。心から微笑んでいないことがよくわかる。冷たい笑顔は道化師の仮面を思い起こさせた。
「あのサイハ様でさえ待つしかできないんだ。なら、オレが待てない道理があるものか」
 冷たい笑顔が少しだけ柔らかくなった。
 彼なら。もしかしたらやり遂げるかも知れない。百年だか二百年だか知らないけれど、未来に移動したヒスイを捕まえてもう一度その耳元で「愛してる」とささやけるかも。それを実現できると思えるほどセイの持つ力は強いのだから。

「……出来ることを……」
 イスカが小さくつぶやいた。
 いつもよりほんの少し強い口調を持ってイスカはセイを見る。
「セイ。もしも……もしも本当にヒスイ様を見つけたら、手近な大地の神の神殿に連絡をください。連絡先は、ここ、フォラーナ正神殿の大神官宛にお願いします」
 さらりととんでもないことを言ってのけた。
「イスカ! よりによって大神官様まで使おうっていうの?」
 叫んだのはアイシャ。本人がどれだけ否定しようとも、宗教の絡んだ上下関係はしっかりアイシャの骨の髄までしみこんでいる。彼女にとって神殿の総本山、その頂点に立つ大神官は地上のどの権力よりも遠い存在と認識されているのだ。
 セイが薄く笑った。
「まさかお前自身が大神官にでもなるつもりか?」
 そんなことできるはずがないとでもいうように。実際、それはできない。
「無理ですね。そもそも、僕が神殿に所属しているのはホウ様のご命令だからです。精霊は人間と違って神々を信仰しません」
 いわれるまで気づかなかったのだろう。アイシャが目を丸くした。
 なんだか、イスカの一挙手一投足に左右されているアイシャの様子が見ていて楽しい。トーラから見て、こういうときのアイシャはものすごく可愛くみえる、といったらさすがに本人から怒られるだろうか。
 そのアイシャはというと本当に気づいていなかったらしくて。
「え、え? だって……イスカは、今まで神殿に所属していて……現役で神官なのよね? 見習いでもないわよね? ……ちょっと待って! いくら一国の王様の命令でも、そう簡単に人ひとり『お願いします』って神官になれるものじゃないのよ!」
 逆にトーラの方が驚いてしまった。
「そうなの? イスカ、思いっきりその例にのっとって、神官位を授かってたわよ」
「ええっ」
 話題の中心人物はいたってのんきだった。
「色々ありましたからねえ」
 他人事のように手にした茶を飲む。実は人畜無害なふりしてイスカが一番の食わせ物ではないだろうか。セイが空中に浮かんだまま、座っているかのように足を組んだ。その上にひじをついて手で顎を支える。片方の眉だけあげて、
「詐欺師」
 と、のたまった。
「あなただけにはいわれたくありませんねっ」
 イスカが反論する。心の中で同じことを思ったのはトーラだけでなく、多分アイシャもだろう。
 そのイスカが立ち上がった。イスカはあまり身長が高くない。立ち上がっても目線の高さはセイの方が上だった。そのセイを見上げるようにしてイスカは続ける。
「青い髪の今なら僕の心の中を読むなんて造作もないことですよね? そういう事情がありますから、僕はしばらくここにいます。ヒスイ様が見つかり次第、僕も駆けつけますから」
 アイシャが、ずるい、とわめいた。
 たしかに詳細な説明を省くには一番の方法だが、代わりにアイシャには何も説明はしてもらえない。
 セイは、少年の心の中を読んだのだろうか。顔色がほんの少し……あまり変わらないくらい、本当に少しだけ変化した。
「……今更ながらだが、お前だけは敵に回したくないな」
「恐れ入ります。僕もあなたとは戦いたくありません」
「ふん」
 セイはごろりと空中で一回転した。寝返りを打つかのような気軽さだ。面白くないと感じていることはその表情と、発する気配が伝えてくれる。青い髪でも赤毛でも、こういう部分はやはりセイはセイだった。
「アイシャさんにはあとで、ちゃんと、最初から、説明しますから」
 丁寧に言葉を区切って、イスカは琥珀色の瞳をアイシャに向けた。どこか困ったような顔で微笑んでいる。
「だから、あの、あんまり怒らないでくださいね……」
「?」
 どういう意味だろうとアイシャは首を軽く傾げた。
 意味が分かっていたので、トーラは空を仰いだ。人間ならばこういう場面で祈りの言葉をつぶやくのだろうが、あいにくとトーラはお祈りを知らなかったので。
 そして少年は上に浮かんでいる青い髪の妖魔に再び向き合う。
「僕も、僕にしか出来ないことをやろうと思います。精霊イスカはもうすぐ存在しなくなる。大神官様にはそのために、脅してでも僕の命令に従っていただきます」
 普段の彼からは考えられない台詞が飛び出した。
 アイシャが石化した。畏れ多くも大神官様を脅す、というのが効いたらしい。しかし、本当に彼女の心臓に悪い言葉はこの次だった。
「僕こそが彼らが崇める神、地竜そのものなんですから」

 ……とうとう言ったか、とトーラは天を仰ぎながらため息をついた。気の毒に、アイシャの神経はすでに石化を通り越して砂塵になっていた……。

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