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翡翠抄−ひすいしょう−

第四章第五節第二項(088)

 2.

 足を組み、そこにひじをついてセイは視線を過去へとさかのぼらせていた。
 視界の端から姿は消えていたけれど、イスカとトーラがおびえながらこちらを見ているのには気づいている。口を滑らせた内容がセイを怒らせはしなかったかと思っているのだろう。
 気に入らないときなら指の一本でもはじきとばしたかもしれないが。
 懐かしい人を思いだして、セイはチビどもに意識を向けることすら億劫に感じていた。

 懐かしい過去。
 雷帝。この人こそはと決めて、セイが頭を下げた唯一の存在。
 誰よりも力強く、雄々しく、光り輝く妖魔の長。

  *

 セイが持っている一番最初の記憶。
 横たわる女妖魔の屍の傍らに、自分は立っていた。人間とは違って生まれたときから少年の姿。この女妖魔から生まれたのだと瞬時に理解した。もちろん目も見えていた、耳も聞こえていた。赤い血だまりの上にしっかり両足で立っていた。自分が持って生まれた青い色を好きだと思ったのは、その赤にとても綺麗に映えて見えたからかもしれない。
 すぐに別の声が聞こえて。
「お前、そこで何をしている!」
 と、武装した女妖魔たちに囲まれた。
 あらためて自分がこの世に這い出した場所を眺めてみる。暗くて、けれど心地いい場所。妖魔の空間の中。なにもない場所から作り上げるためどこか不安定な感覚がつきまとうものなのに、ここはなんとなく安定した感じがするのはこの空間を作った主(ぬし)の力ゆえか。
 手に手に武器を携え自分に向ける女達にセイは蒼い目を向けた。
「おねえさん、美人だね」
 自分を囲む数人の女に向かって唇に笑みを乗せる。女たちは眉一つ動かさなかった。訓練された兵士だと、一見して分かる。
 上でどういうやりとりがあったのかは知らない。だが、セイはすぐに彼女たちにひったてられて、この城の城主の前につれていかれることになった。ここが城だと知ったのはそれが最初。
「お城を血で汚したのはあやまるけどさぁ、こっちだって生まれたばっかだし、別に汚そうと思ってやったわけじゃないわけだし? ねぇ、勘弁してくんない?」
 自分を取り巻く集団の中で一番偉そうな女を見上げる。だが
「理由など聞いていない。お前の処分はあの方直々にお決めになる」
「『あの方』ってのはお城のご主人でしょ? そんなに偉いの?」
「妖魔なら生まれ落ちたその瞬間から理解しているだろう。ここは畏れ多くも妖魔の長、雷帝の城ぞ」
「げげっ」
 妖魔は、この世の闇から生まれる。暗がりの中に追いやられてしまった感情だったり祈りだったり力だったりが集まっていつの間にか「妖魔」として成る。セイはその過程を経なかった。両親からもらった情報だけだ。
 父親は滅王側の重臣、母親は雷帝側の下っ端。
 雷帝と滅王。表向き妖魔の長は雷帝だけども、実質二人いることくらいはちゃんと知っている。
 その母方から出てきたということは、あとはおのずともわかろうというものだ。

 通されたのはだだっぴろい部屋。どこか薄ら寒かった。自分を連れてきた女達……女兵士たちは跪いて退場していく。絶対、膝などつくものかとそれを見て決意した。妖魔の長だろうが自分はそれより劣っているとは思えなかったから。
 セイは夢見。妖魔の長でももちえない貴重な力。夢見は人の夢を操り、心を操る。妖魔が人間を餌にしている以上、自分の力は決して無視できないはずだ。
 妙な決意をしてセイがそこにいると奥から――部屋は十分に広かったのだが、その更に奥には隠された場所があったらしい――金色を身にまとって雷帝が現れた。
「我が城にて生を受けたというのは貴様か」
 居丈高な態度。
 セイは目を見張った。
 一目見て分かった。とても強い妖魔だということ。光り輝くのは純粋な力の結晶。まさしく雷(いかずち)のように強烈な存在感。波動、とでもいうのだろうか。
 そばにいるだけで震えが走る。これは恐怖ゆえか。それとも畏怖と呼ぶべきものなのだろうか。圧倒的な存在のそばで自分がとてつもなく矮小な存在であると思い知らされる。それを、こんな間近で感じるとは思いもしなかった。セイは我知らず腹に力を込めた。この存在に吹き飛ばされないために。
 我知らずセイはひれ伏し、頭を下げていた。決して下げるまいと思っていた頭を、深く。
 相手は頭を下げられることなど日常茶飯事なのだろう。何の感慨もなくふんぞり返っているだけだった。
 目の前の存在はまさしく雷(いかずち)に似ていた。とどろく雷鳴の恐ろしさ。夜空を切り裂いて輝く稲光の美しさ。白とも紫とも、あるいは黄金ともつかぬ色を闇夜に閃かせる。どうしてこの方を雷帝と呼び慣わすのか瞬時に理解した。命を奪うと分かっているものを美しいと思う。それは、そこに力があるから。頂点まで高められ、ぎりぎりまで純化されると力はここまで美しい形に集約するのか。
 セイは顔を上げ、立ち上がるとにっこり笑う。
「あなたはとても強いから、オレが味方して差し上げます」
 今度は雷帝が目を丸くする番だった。
 セイは自分の価値を軽くみていない。合力してやる、と、妖魔の長にむかって言い切った。わざわざ自分がお前のために力を貸してやるのだと。
 首が飛んでもおかしくない状況だった、とのちにセイは思う。
 だがこのとき、雷帝は笑った。
 大声をあげて笑ったのだ。
「たいした気概だな、坊主?」
 そして、立ち上がると、もったいぶった動作は一切なしにセイに近寄った。上に立つものがわざわざ上座を立って下座の、それも部下ならぬ一介の子供に歩み寄るのは考えられない話である。
 セイはてっきり気に入られたと思い、ふくふくと笑って雷帝を待っていたのだが。間近に来た雷帝は不思議な微笑を顔に張り付けていた。そして。
「生意気な口をきいていいと誰がいった、このクソガキが!」
 ごん。
 後頭部を鉄槌がおそった。

 しかし雷帝がセイを気に入ったのは確かなようで、さしたるおとがめはなかった。それどころか一応、一兵卒ではあるが戦士として城に置いてもらえることになった。
 大きな声で怒鳴りもされたし、殴られることもよくあった。それでもセイは雷帝を気に入っていた。自分の力を過小評価されないところも満足していたし、なにより、この人がいつまでも一番でいられるために力を尽くすのだ、とそれがセイの自慢でもあった。
 雷帝の周りには驚くほど人が少ない。その少ない側近にセイはいつの間にか位置していた。
「……様、私は、ずっとあなたが妖魔の長でいてくれるのがいいです」
 力のある妖魔ほど自分の名前を呼ばせない。セイは、人前では決して名を呼ばない条件で雷帝さえも名で呼んだ。
「さて、お前の思うとおりにはいかぬかもな」
「やだな、怖いこといわないでくださいよ、……様らしくない」
 ときおり表情を濃く縁取る陰が気になった。
「お前は私がいなくなってもたくましく生きていけるだろうよ」
 それが普段どおりの豪放磊落な笑い声だったので、セイはいつもそれで安心を得ていた。

 ある日。
「セイ、お前をサイハに預けようと思う」
 時々しか見せない憂いた表情で雷帝はそういった。
「私を滅王のところへ? なぜです? 私はそんっなに、大きなヘマでもしました?」
 ヘマをしたなら仕事で取り返す、だからよそへやらないでくれ、とセイは嘆願した。だが雷帝は首を振る。
 首を振る顔にはどこか悲しさがあった。
 きっと何か、セイのためになると考えてのことなのだ。それを納得できないほど幼くもなく、だが完全に割り切るほどには成熟してもいなかった。
「セイ。私の力はお前も知っていよう。どちらかといえば正面から敵をなぎ倒すための力ばかりだ。お前は夢見。力の使い道でいえば幻術を使うサイハの方が性に合うだろう。お前に教えられることもきっと多い」
「……ですが、私はあなたがいいんですけどね」
 聞き分けのない子供のように反論だけはしてみる。だが雷帝の決定が覆ることはなかった。
 別れ際に頭を撫でられたことを鮮明に覚えている。子供扱いされたという妙な反感と、もしかすると二度と会えないのではという焦燥が胸の中でちりちりと音を立てた。
 実際に、それが雷帝との最後の別れになったのだが。

 初めて会った滅王サイハの印象は、毒花。
 サイハは、「雷帝がわざわざ預けに来た」というその一点のみでセイを可愛がってくれた。幻を使うサイハと夢を操るセイは力が似通っていたせいもあり、よく餌にされた。サイハは身を重ねて相手の精気を奪うことができたから。
 雷帝がいったように、根本的にセイとサイハは似ているのかもしれなかった。いざとなれば正面から戦っても勝利できるだけの力を持つくせに、姑息で回りくどい、真綿で相手の首を絞めるような方法がなぜか好きなのだ。正面から戦って自分に傷が付くよりは、騙しあいで敵同士が同士討ちでもしてくれればいいと思う。個人で行えば卑怯だろうが、兵を率いて行えば知将と呼ばれる行為。妖魔は元々個人で動くのが好きだ。その妖魔を束ねていられるだけでもサイハは大した存在なのかもしれない。
 力の強さは認めていた。
 だが、この方のために力を使おうという気はなかった。いろんな男がサイハに毒され、彼女を愛し、そして彼女のために屍を築いていったけれど。あいにくとセイに彼らと同じまねをする気はまったく起きなかった。
 認めたくはないが同類嫌悪なのかもしれない。

 そのサイハが、ある時いった。
 雷帝が死んだと。
「……嘘でしょう」
「嘘だと、よかったのだけれど」
 ぽつりとサイハはもらした。無表情を装っていたけれど、サイハは間違いなく悲しんでいた。彼女が心を許せる相手はもはや雷帝だけだったのだから。
「セイ。お前だけになってしまったわね、あの人の話ができるのは」
 うなずいていた。
 もう二度と会えない。それが、サイハとセイが共通して思ったこと。豪放磊落な物言いも、圧倒的な強さも好きだった。人によっては他者に容赦ない残酷なところが受け付けなかったかもしれないけれど。竹を割ったような性格が好ましかった。
 その雷帝がこの場所に預けていってくれたのだから。
 その一点だけで、セイはサイハのそばにとどまり続けた。
 他にいきたい場所もなかったし、すでに亡き者に対しては恩義を返すこともできないのだから。

 やがて、裏にいた「滅王」サイハは、表に出て「妖魔の女王」サイハと呼ばれるようになった。それもセイの力など欠片も使っていない。サイハはなんでも自分一人でやってしまう。その輝きに惹かれて他の妖魔は、灯火に飛び込む羽虫のように集まってくるのだが。
 飼い殺しにされていた日々。
 いつか飛び出したいとも思っていた。

 もしもあのまま雷帝が生きてさえいてくれたら。もしも雷帝がサイハに自分を預けさえしなければ。
 そうしたらもしかして、ヒスイに出会いもしなかったかもしれない。運命の輪に感謝するべきか。

   *

「お茶ですよー」
 扉を開けて、アイシャが重い盆を抱えて部屋に入ってきた。トーラがすがるような目で彼女を見る。迂闊なことをいったのは悪かったがセイがだまり続けているというのもそれはそれで怖かったのだ。アイシャが現れたことで部屋の重苦しい雰囲気が一気に軽やかになる。
「どうしたの? ほらほら、トーラ。ご希望のレモンバーム。セイはミントよね。セイ?」
 何か考え事の最中だったのだろうか、セイは無言で杯を手に取った。
「まだ機嫌悪いのかしらねぇ?」
 アイシャは首を傾げて、残る三客の茶碗が乗った盆をひとまず寝台の上に置いた。香草の香りが部屋にほんのりと広がる。
 トーラはレモンバーム。アイシャとイスカはセイと同じミントだった。
「カモミールは眠くなるといけないから、よしたの」
 カモミールは安眠作用があるといわれる。眠る前のお茶だ。しかし今は眠りを誘っている場合ではない。
「いい香りですね」
 香りとともに、ほっとした空気が室内に戻る。
「ミントにもいろんな種類があるのよ。清涼感があるのはどれも共通だけど、香りとか辛さがそれぞれ違うの」
「そうですね。面白いですよね、あれは。それに薬草はどれも強いから栽培が比較的簡単で……」
 こういう話になるとトーラは加われない。小さく座って、セイと同じく考え事にふけった。イスカが精霊の長に育てられたのをセイが不思議に思わなかったのは、彼もまた妖魔の長のすぐ近くで幼少期――妖魔にそんなものがあれば、の話だが――を過ごしたせいかもしれない。精霊の長といい、妖魔の長といい。そしてそれぞれに付き従っていたセイやイスカといい。ヒスイの周りにはどうしてこんな大物ばかり絡んでくるのだろう、と思う。人間代表なのがアイシャだが、これでアイシャがどこぞの王族の落とし子などというオチがあれば完璧だ。残念ながらその可能性がないこともトーラは知っているのだが。
 アイシャは元・愛の女神の巫女だった。
 現役で大地の神の神官をやっているイスカは、厳密にいえば神官位を持つ資格はない。神々を崇めるのは人間だけに許された権利。だがイスカは人間ではないのだから。むしろ……。
 暴露話は次のイスカの話で終わりだろうか、と長すぎる一夜の終わりをトーラは考えていた。

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