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翡翠抄−ひすいしょう−

第四章第五節第一項(087)

 朝まだき

 もしも、夜明けとともにすべてが明るくなるのなら。
 ヒスイが帰ってきて、セイが微笑んで、滅びた国も全部元通りになるというのなら。
 朝がくるのはどんなに素晴らしいことだろう。
 けれど夜明け前の空はどうしてこんなにも暗いのか。
 ……朝はまだ来ない。

 1.

 妖魔の長が配下に向かって三つの選択肢をつぶやいていたその頃。
 夢見の妖魔セイの力を借りて、トーラはちょうどその様子を星見で「見て」いた。
 そしてその恐ろしい選択の答えを聞き終わらないうちにトーラの意識は現実世界へと浮上した。

   *

 トーラが目を開けるとそこにはアイシャがいた。イスカも。
 自分がいま、何をしていたのかをゆっくりと思い出す。星見からさめたあとはいつも、どこまでが現実でどこまでが星見で得たことなのかとっさの判断がつかない。
 そう、確か。霧の谷が消えて、続いてヒスイが消えて。
 ヒスイがどこにいるのかを知恵を振り絞って全員で考えていたら、ヒスイの持つ力がおぼろげながら見えてきた。時空を飛び越えるヒスイの力。そして、その裏に月の女神がなんらかの意図をもって関わっていること……。
「……そうよ。だから月の女神を星見で探しに行ったんだわ」
 トーラは一息ついた。
 そのついでに見えたとんでもないこと。
 月の女神と妖魔の長は既知で。ヒスイの父ホウは、実は前世で精霊で。そしてあの恐ろしい三つの選択。
 ちら、と薄紫の瞳をセイのいる方向に向ける。
 妖魔の長サイハの結界に抜け道を探るため、彼に手助けを頼んだ。先ほどトーラが見たものとまったく同じものが彼にも見えたはずだ。
 そしてセイの姿を見てトーラは凍り付くことになった。
 彼は、いつもの赤毛ではなく本性である青い髪に戻していたからである。
「な……! アイシャ、ど、どうしてセイが……!」
 青い髪に戻しているのか。続きの台詞は出てこない。口をぱくぱくとさせてみるが、尋ねた彼女にはそれだけで伝わったようだ。いつもははつらつとした笑顔の彼女は今は困ったように――そして彼女もセイの方を見ないようにして――ぎくしゃくと微笑んでいる。
「ええと、あのね。トーラが星見に入ったあと……ほら、セイの力がいるっていってたでしょ? 赤毛だと妖魔の力が使えないんだったわよね。だから……」
 夢見の力を使うために青い髪に戻した。
 そういえばトーラが自分で「セイの力を貸してほしい」といったのだった。しかし当たり前ながら青い髪のセイは赤毛のときよりも冷酷無比である。早まっただろうか、とトーラは自分の軽率さを心から反省した。
「あ、あのね……。トーラは平気なの?」
「え?」
 トーラはきょとんとしてアイシャを見上げる。なにが平気だというのだろう。
 ほどなくして気づいた。アイシャのそばに淡い結界が張られていること。そして言葉の意味がやっと理解できた。妖魔の純粋な妖気は人間にとって害になる。そういえばヒスイを抱いて現れた青い髪のセイに、アイシャは近づけなかった。
「イスカがアイシャを助けてくれたの?」
 少年はアイシャの後ろに隠れるような位置に座っていた。トーラと目が合うと穏やかに微笑む。精霊である彼がアイシャのために結界を張ってくれたのだと分かった。身を守る力を持たないアイシャのために。
「そう、よかった。私は大丈夫よ、アイシャ。私だって妖魔だもの。力のある妖魔のそばに近づくと人間が気持ち悪くなるのは普通なのよ」
 台詞の後半をアイシャに向ける。心配そうにしていた彼女はやっと少し安心した表情になった。けれどすぐに表情を引き締める。
「あら? でも、トーラのそばにいても今まで平気だったけど……」
「私は『星見』だもの。星見はね、妖魔であって妖魔でないようなものなのよ。強い妖気なんて持ってないし自分の身さえ守れない。そのくせ妖魔封じなんかには引っかかるのよ。不便よね」
 その説明でアイシャはやっと納得してくれた。トーラは自分のことながら情けなくて仕方ない。自分にできることは星の見せる景色を拾って告げるだけ。自分の身も、ヒスイのことも守れない。表に現れる妖気もほとんど持たない。人間には感じ取れない微弱な妖気があるだけだ。
「そのくせ、妖力だけはオレに匹敵するほど持っているんだからな。まさに宝の持ち腐れってわけだ」
 セイがそう繋いだ。トーラの心の中を読んだような――もしかしたら本当に読んだのかもしれないが――台詞を、あさっての方向をにらみながら。
 セイが口を開くだけで室内の温度が一気に下がる気がした。
「あの、きょ、協力ありがとう……。もういいから……赤毛に戻して……お、お願い」
 しかし「トーラのお願い」は却下された。セイはやはり青い髪のままである。
 室温は実際にずいぶんと冷え込んでいた。
 黎明(れいめい)が一番暗いといったのは誰だろう。かなり長い時間を話し続けて、時刻はすっかり夜明け前だ。暖房のないこの部屋が冷え込むのも道理ということか。
 イスカは無言でランプの獣脂をつぎ足した。一晩中ともし続けて油がもう残り少なくなっていた。ランプの明かりは油を注がれたその一瞬だけ大きく揺らめく。
「あ。ごめんなさい、気づかなくて」
「いいえ。かまいませんよ、アイシャさん。それより雨もあがったようですし、僕、水を汲んできます。お茶にしませんか」
 琥珀の瞳が穏やかに微笑んだ。
 ここらで一休みする必要があった。一晩中緊張感が続いて、セイやイスカならともかく慣れていないアイシャはそろそろ神経がもたなくなっているはずだ。一番集中力がもたないのはトーラ自身である。
「賛成! ミントのお茶は辛いから苦手。レモンバームのお茶がいいわ。蜂蜜入れてね!」
 明るいトーラの声に、イスカが苦笑しながら外に出る。アイシャがその後を追いかけた。
「ちょっと待って。お茶なら私が淹れるわよ。えっと、トーラはレモンバームでいいのよね。蜂蜜は駄目よ。あれは咽のお薬だっていったでしょ?」
「ええぇぇぇっ」
 飛び出そうとするアイシャの背中にセイの声が飛んだ。
「持ち合わせがあるなら紅茶。ブランデー垂らしてくれ」
 アイシャの表情が険しくなる。紅茶も蒸留酒も高級品だ。そんなものは貧乏な一般家庭にあるはずがない。知っていていっているのだ。
「ないならペパーミント」
「あなたね……」
 最初からそういえばよいのに。苦い顔してアイシャは部屋から出ていった。

「そして誰もいなくなった、と」
 セイは腕を組んだ格好でつぶやいた。人が一気に半分になったことで室温はさらに下がる。寒さがさらに身をさいなんだ。
「聞きたいことがあるんだけど」
 トーラは寝台の上に腰掛けたまま居住まいを正す。セイと目をあわさないよう、うつむく。自分のつま先を眺めやりつつ、先ほどの恐ろしい質問を尋ねた。
「あれ、どういうことなの? 部下か、仔猫か、息子か……ってやつ」
 部下ならどうということはない。
 しかしそれなら特別扱いされる原因がわからない。
「……あの方もふざけたことをぬかしてくれるよな」
 つぶやいたセイの声は凶悪だった。部屋の中にいるのに雪山で遭難している気分になるのは気のせいか。
「答えもなにも、お前は知っているだろう。ただの部下だ。それ以外のなんでもない」
 青い髪したセイは嫌いだ、とトーラは思う。
 優しさもないし、人好きする柔らかな空気もない。ヒスイに向けられる温かさすら今はかけらも見あたらなかった。
 ヒスイ本人が目の前にいればまた別なのかもしれない。赤いときも青いときも、いつだってヒスイだけは特別扱いなのだから。
 けれど、ヒスイはいない。
「そう、ね。私は知っているわ……」
 サイハがどういうつもりであんな選択肢を出したのか、その真意は分からない。ただキドラを驚かせようとしただけだろうか。
 扉が軽くたたかれた。
 入ってきたのはイスカ。雨は小雨になっただけだったのだろう、肩口が少し濡れていた。
「アイシャさんは台所です。どうかなさいましたか?」
「え……」
「空気がなにやら重いですし、先ほど険しい顔をしていましたよ」
 イスカはそういって先ほどまでの自分の席、トーラの目の前に座った。そしてセイを見る。
「またいじめていたんですか?」
「人聞きの悪いことをぬかすな」
 イスカの声もセイの声も淡々としていた。イスカはともかくセイのその態度がかんにさわって、トーラは棘のある口調でいった。
「セイはおそれ多くも妖魔の長のご子息なんですってよ!」
「ええっ?」
「デマだ、デマ!」
 それだけはいやだとばかりに力一杯否定した。そのセイの顔を、うさんくさいものを見るような目でイスカが眉をひそめて凝視する。
「なんだ、その目は」
「……。あり得ないことではないと思って。確か妖魔の長は幻を操りましたよね」
 それくらいトーラも知っていた。そしてセイは夢を操る。
「幻と夢……って、使い道がよく似てますよね。人を惑わすのが一番の役割なんですから。何よりあなたはかの女王のお気に入りでしたし……」
「その通りだが、あの女とは赤の他人だ」
「確かあなた、妖魔の出自には珍しいことにご両親がいらっしゃるんですよね? 妖魔は人間ほど血縁にこだわらないはず。たしか、子供なんて自分の思い通りになる道具がほしくて作るようなものだと聞いてますが」
「それもその通りだよ。だからなんだっていうんだ? オレが、あの女と血縁だとでも?」
「いいえ」
 イスカはふるふると首を振ってみせた。
 逆にトーラの方が困惑してしまう。
「は? あんた、私のいったこと聞いてたの?」
「聞いてました。なかばヤケになりながら叫んだことも」
 涼しい顔をしてイスカは答える。トーラがヤケになってわめいたからそれは嘘だというのだろうか。だとしたら相当失礼な台詞ではないか。
「その前にいったい、どうやったらそういう話になったんですか?」
 イスカの問いかけにトーラは洗いざらい話して聞かせた。
 ………。

「そういうことですか」
 少年はセイを上目遣いで見やる。
「あなたのことです。心当たりがおありでしょう。妖魔の長がどういう意図でもってそんな答え方をしたのか。そういえば僕たちも、なぜ妖魔の長があなたを可愛がるのか知りませんね」
「イスカには答えが分かったの?」
 トーラが身を乗り出す。しかしイスカはやんわりとかわすだけだった。
「いいえ? でも、あなたはご存じなんでしょう」
 セイは黙ったままだった。不機嫌さには拍車がかかっているけれど。
 トーラもうつむく。答えなんか知らない。トーラの手元にあるのは答えを導き出すための情報。だが、その情報に照らし合わせてもサイハの意図が分からなければどれが答えなのかが分からない。
「……こねこ、ってどういう意味だと思う?」
 普通は猫の子のこと。だがセイはもちろん猫ではないし、幼子でもない。
「さあ。思い通りにならない、可愛い子という意味でしょうか。金持ちの年寄りが愛人にしている若い娘を『子猫ちゃん』ということもありますけれど」
 決して本気でいったのではない。こんな例えもありますよ、という程度の冗談のような例題としてあげたにすぎない。トーラは冷や汗をかきつつセイの方に視線を走らせた。「仔」というのは獣の子供に使う文字。思い通りにならない、可愛い獣。
 押し黙ったトーラに、イスカの表情がやや冷や汗混じりのものへと変わった。
「まさか、本当に仔猫ちゃんなんですか?」
「……こ、答えたら殺されるからいえない」
 それは答えているとはいわないか。セイのこめかみが小刻みに動いたのをトーラは見た。あわてて言葉を重ねる。
「違……ど、どれを選んでも半分は正解なの……! セイはサイハ様の部下で、でも特別に可愛がっている部下で……それは、セイが雷帝からのあずかりものだから……」
 トーラは失念していた。イスカは雷帝の存在を知らないこと。
「サイハ様は雷帝がお好きで、でも叶わぬ恋だったから。だから雷帝が預けていったセイが可愛くてしかたがなかったのよ。形見みたいなものだもの。だから、セイの育ての親みたいな存在だったことも確かなの!」

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