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翡翠抄−ひすいしょう−

第四章第四節第三項(086)

 3.

 それは誰よりも美しい精霊だった、とサイハはいう。
 白皙の肌、漆黒の髪、瞳に浮かぶのは深い緑。森の色、静かな命の色。
 穏やかに、たおやかに、闇夜に溶け込んでしまいそうなくらい繊弱な印象の美貌。
 それは人間に転生したあとも変わりなくて。

「ホウが精霊だったのは意外ではない?」
「……意外といえば意外でしたし……そうでないといえばそうでもありませんね。そもそもが浮世離れした男でしたから」
 キドラはそう答えた。
 驚かなかったといえば嘘になる。だが、聞かされて「ありえない」とは思わなかった。なんとなくそんなこともあるかと納得できる話ではあったのだ。
「妖魔であるあなたと精霊であったあの男が、どういう経緯で知り合いだったのかということは気になりますが」
 サイハは相変わらず背中を向けたまま微笑んだ。
 そしてくるりと振り向く。赤い唇が妙に扇情的であるのに、瞳に浮かぶ光はまるで無垢な少女のよう。微妙な均衡を保つ雰囲気は今、まさに発揮されていた。
「精霊の長と妖魔の長が既知であるのがそれほどおかしい?」
 キドラはその言葉の意味をつかみかねた。
 妖魔の長は分かる。これはサイハのこと。そして精霊の長、というのはすべての精霊の頂点に立つ者のこと。最近まではホウが……人間であったあの男がつとめていた。
 精霊の長は人間がつとめることと遠い昔に決まっているからだ。
 ややあって、キドラはサイハが何をいいたいのかに思い至り、はっと顔を上げた。
「もしかしてその『精霊の長』というのは……精霊だった頃のあの男のことなのですか? 精霊の長は人間がつとめることに決まっていたはず。まさか、精霊自身が『長』である時代があった、とあなたはおっしゃる?」
 サイハが「精霊の長」と呼んだのは精霊だった頃のホウだというのか。
 彼女は微笑んでいた。
 その微笑みはキドラの言葉が正しいことであると肯定しているように見える。
「人間は世代交代の早い種族ですもの。まして精霊に関することにほとんど文献は残っていなかったわね」
 だから知らないのも無理はない。
 そう前置きして、サイハはまた正面に向き直った。キドラにまた背中を向けて。なだらかで小さな肩の線がよりいっそうサイハを華奢に見せていた。虹色の髪に覆われた背中を見つつ、キドラはその後に続く。
「人間がどうして精霊の長に就任するようになったのか、お前、知らないでしょう」
「存じ上げません」
「そうね。あまり気持ちのいい話ではないから」
 キドラは眉をひそめる。サイハの鈴を転がすような美しい声で、そんな話はしてもらいたくないと心の中で思った。
「それまで精霊は、同じく精霊であった一人の長を崇めていた。そう、例えるならもう一頭の竜でも崇めるかのような熱心さでね」
 崇められる竜の種類は大きく分けて四つ。火竜、地竜、風竜、水竜。彼らがこの「世界」を作ったとも伝えられている。そこにもう一人。竜と同じくらい尊敬され、愛され、称えられていたのが当時の精霊の長。
「当時の長は闇の精霊。それがホウ」
「闇?」
 キドラは、その薄い水色の瞳を大きく開いた。
 あの漆黒の髪に、確かにその属性は似合いかもしれない。
 しかし「闇の精霊」という響きから想像される性質と、あの男の持つ雰囲気は随分、差があるような気がする。
「闇は悪いものではないのよ? それどころか、夜があるおかげで昼間輝くことのできない星々は美しく感じられる。眠りという名の休息を与え、すべてを包み込み、優しく抱きしめて癒す。元々闇というのはそういうものなの」
 しかし現在、闇の精霊は存在しない。
 人間が……殺したから。

「あ……」
 キドラは遠い昔話を思い出した。

 昔々、闇の精霊は人間によって封じられた。それが怖くて悪いものだから。それを封じたのは……たしか、霧の谷で王家にあたる四つの祭司の家。
 キドラは想像してみた。美しく穏やかな性質の闇の精霊。それが、身に覚えのない罪を着せられ、抵抗らしき抵抗もせずに泣き崩れて封印されていくさまを。まるで目の前で起こった出来事のようにはっきりと脳裏に思い描くことができる。
「もしかして、彼らがホウを殺したから……!」
 だから彼らが人間であるにもかかわらず「精霊の長」になることができたのか。
 サイハは視線を落とす。
「気持ちのいい話ではない、といったでしょう? 現実はそれよりもう少し辛辣ね。彼らは闇の精霊を四つに引き裂いて、食べた」
 食べるという行為は、原始的な世界では相手の力を取り込むという意味になる。
 人の血をすする妖魔を見た誰かが言い出したことなのか、それとも本能的に知っているのか。相手と交わることや相手を食べることは原始的な分、古い物語にはよくある話だ。ただし物語などでは、食べられた側は大抵生きていて後に善良な他人によって助けられる筋になっている。現実はそうはいかない。
 そして四つの家は精霊の長――闇の精霊――の力を受け継いだ。その中から一番強い力を持つ者が代々「長」になる。
「だから……人間が、精霊の長になることが決められたと……」
「そう。伝承は途中でゆがめられたのね。時代がくだるごとに『食べる』習慣は忌み嫌われるようになってしまったから。だから、彼らの血筋の中にホウが転生しても何の不思議もないの。シキを覚えている? ホウによく似ていたでしょう。どの家からでもあの顔は出てくるのかしらね」
 サイハは遠い目をして、虚空を見つめていた。
 その目に浮かんでいるのはホウの姿か、それとも利用しただけのシキか。
 キドラは黙って彼女をみていた。キドラは知っている。炎の家に生まれたホウと、水の家に生まれたシキが似ていたのは親戚同士だからだ。
 ホウの顔立ちは早くに死んだ実母に似通っていたからだと聞いたことがある。その実母とやらは水の家の遠縁だった。色としてもそれほど珍しいことはない。霧の谷は位置的に東に属するので人種として黒髪の人間は多い。暗い色の瞳も。ホウの義理の息子のうち、二人までは暗い色の目をしていた。風の家に生まれたヨタカが碧の瞳をしていたのは先祖に西の人間が入っていたからだろう。そういえば実の娘である予言の星も鮮やかな色の翠をしていたが。
 夢想にふけり始めた考えを、キドラは無理矢理現実に引き戻す。
 今は考えても仕方のないことだ。四人のうち三人は死に、予言の星は消失した。
 しかしそこでもう一つキドラの脳裏に浮かぶものがあった。
「まさかとは思いますが、ホウの三人の息子を消したのは他に意味があったのですか?」
 三人を亡き者にしろというのがサイハの命令だった。次の精霊の長を継ぐ存在を消すのが目的だと。
 サイハは気のない返事をする。
「そうね」
 今のサイハがどんな顔をしているのか、キドラには想像もできない。
 さらさらと背を流れる虹色の髪に向かって言葉を投げかけてみる。
「……あなたは……ホウを憎んでいると聞きました」
 レンカといったか。ホウを守っていた鳳凰の片割れ。死出の旅に向かうあの女戦士に、サイハは確かそういっていた。
 そうね、とまた同じ返事。
 麗しき妖魔の女王。彼女が何を考えているのか、それを知るのはキドラの役目ではない。だがなぜか今、気になって仕方がない。
「何が原因で憎んだのか、それさえも教えてはくださらないのですか、我が君」
「教えるといったのだから、それを語らないのは反則ね」
 小さな自嘲気味の笑い声。
「今、いったわよね。精霊の長と妖魔の長が既知であるのがおかしいか、と。その場合の妖魔の長は誰?」
「あなたでは?」
 少なくともキドラはそう思った。しかし、サイハは首を振ったのだ。
「お前、勉強不足ではないの? ホウは人間であってもちゃんと知っていたわよ」
 くすくすと微笑む。ホウと比べられ、キドラは少し口角を下げた。何を知らないというのだろう、あの男は何を知っていたというのだろう。
「雷帝と滅王。聞いたことはないかしら? それが妖魔の長のこと。ホウはちゃんと知っていたし、私にもそういったわ」
 最後にホウと会ったときのことを思い返した。
 キドラが扉の奥に踏み込む前、サイハとホウが会話していた内容。
 妖魔の長として自己紹介をするサイハと何も名乗らないホウ。サイハはすべて知っていたからホウのことをわざわざ尋ねることはしなかっただけなのだろうが。
 確かこういっていた。
(『滅王』というと『雷帝』と並び称されていたときの名前かな?)
(ええ、そう。知っていてくれたのね? 嬉しいわ)
 ホウは精霊としての記憶を引き継いでない、とサイハはいった。ということは人間であった頃に歴史を紐解いたか。
「誰ですか、雷帝とは」
「妖魔の長だった者よ。私のひとつ前に君臨していた、輝かんばかりの力強い長」
 そんな存在は知らない。サイハが最初から長だと思っていた。
「正確には雷帝が表の存在。私はもっぱら裏にまわっていたかしら。雷帝と滅王は二人ともが妖魔の長だった。妖魔は長い間、二人の長を戴いていたのよ。まるで王と王妃のように、ひとつがいで」
 ひとつがい、の一言にキドラが敏感に反応する。
 雷帝の存在を語るサイハは心なしか嬉しそうだったから。
「キドラ。私はね、それまでは決して、ホウが嫌いではなかったわ。むしろ好ましくさえ思っていたのよ。あの美貌も、繊細すぎる神経も、はかなく涙する姿もとても好みだった」
 だけど、と続きを紡ぐ。
「あの男があのひとを永遠に奪いさえしなければ、恨んだりすることもなかったかもしれないわ」

 キドラは、分かってしまった。
 精霊であった頃のホウは、当時妖魔の長だった雷帝を殺したのだ、きっと。
 人間であった頃でさえあの男はとても強かったのだから。
 だからサイハは妖魔の長を代替わりせざるを得なくなって。
 彼女が雷帝という存在にどんな想いを寄せていたのかも分かってしまって……そして彼女はホウを恨んだ。

「ホウだけじゃない。あの神殿に閉じこめているあの女も、私からあのひとを取り上げた。ホウはあの女ほど厚顔無恥ではなかったから泣いて泣いて……そう、同じことをいったわ。『自分を殺せ』と」
「ですがあなたは殺さなかった」
 キドラはそう繋いだ。その理由などしらない。もしかすると単なる気まぐれなのかもしれないし、あるいは死ぬよりもひどい目にあわせるつもりだったのかもしれない。だが、なんとなくサイハは手を下していないような気がしたのだ。
「ええ、そう。そしてついには人間に封じられてしまった哀れな精霊」
 彼女の声はまったくホウを哀れんではいなかった。口先だけの哀れみ。声音は固く冷たく、まるで足下の黒硝子のよう。
「ねぇ、キドラ? 霧の谷では、闇の精霊を封じていた四つの家はすべて絶えたわけよね?」
「はい」
 違う。サイハによって「絶えさせられた」のだ。ホウの元に集っていた彼らはそれぞれの家で最高の力の持ち主だった。いくら直系の血筋とはいえ、全ての精霊を束ねるだけの力量がある人材はもう残されていない。
 果たして残された一族の中から、再び精霊の長を生むことができるのか。それは限りなく可能性の低いことのように思われた。
「その顔は分かっている顔ね。それが、トールとヨタカとシキを死なせた理由」
 くすくすとサイハは微笑む。死なせた理由、と。キドラが聞いたことが今頃になって返答があったことになる。
「霧の谷はもう『精霊達の最後の聖域』としての役目を終えたわ。もう精霊は妖魔の敵にはなりえない。彼らを束ねるべき長はもう人間の中には生まれない。そしてホウ自身も死んだ。それはね、あの血筋から闇の精霊を解放したということなのよ」
 小さく微笑み続ける姿は決して愛らしいものではなかった。威圧感さえある。愛らしく美しい姿をしていても、その中身は決して可愛らしいものではないのだ。目の前にある美貌と華奢な体が本質を巧みに隠しているが、彼女はれっきとした妖魔の長。実力で君臨している女性なのである。
 サイハがいった言葉は、それはいつでも闇の精霊が復活する準備ができたということ。それがこの「世界」にどういう影響をもたらすのか。
 本人の性質はどうあれ、この「世界」が闇に傾くといわれているような気がした。
「怖い方ですね、あなたは」
 ほめ言葉としてキドラは心からそう思った。
 ありがとう、とこれまたちゃんとほめ言葉として受け取ったサイハの声が重なる。その彼女の歩みが止まった。キドラもそれに合わせて止まる。

 そして麗しき女主人は振り向き、今度はまっすぐにキドラの正面へと立つ。
「キドラ。お前に、私を名前で呼ぶことを許しましょう。私を名で呼ぶものは他にもういなくなってしまったものね」
 黒真珠の瞳がキドラを見上げた。
 彼女の台詞にキドラは驚きを禁じ得ない。
 妖魔は言霊に縛られる。高位の妖魔ほど相手に自分の名前を呼ばせない。
「よろしいのですか?」
 青い髪の妖魔がキドラの目の前で妖魔の長の名を呼んだことがある。あれも常識で考えると異常な話だった。言霊に縛られる彼ら妖魔にとって、名前は本人自身に影響を及ぼすこともあるというくらいなのだ。
「私は精霊なので妖魔の方々のように言霊の影響力はよく分かりませんが……本当によろしいのですか?」
 思わず重ねて問い返してしまった。
 しかしサイハは笑って、人差し指をキドラの頬に滑らせる。
「ええ。だって、今、私の一番近くにいるのはお前ですもの」
 幸せな言葉。その一言だけで舞い上がる気分になるのは馬鹿だろうか。しかしそんな浮ついた気持ちは次の言葉によって一気にさめた。
「私の名を呼ぶのはあの子だけだったのですもの。あの子が飛び出してしまって、私の名を呼ぶのは誰もいなくなってしまった」
 あの子。そう呼ぶのはいつも、あの青い髪の妖魔。よりによって予言の星に与し、妖魔の長に反旗を翻した生意気な男。なのにいつだってサイハは彼だけを特別扱いなのだ。
「あら、怖い顔。そんなに私があの子を可愛がるのが不満?」
 サイハはおそらくすべて承知しているだろうにそういった。白い繊手がキドラに絡みつく。
「あの男はあなたの……サイハ様の何なのですか」
「あらあら、質問が多いこと」
 にっこりと微笑んでサイハは三つの選択肢を出した。
「ただの部下、私の仔猫、私の息子、さてどれでしょう?」


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