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翡翠抄−ひすいしょう−

第四章第四節第二項(085)

 2.

 キドラは神殿の外で大人しく主を待っていた。
 サイハが銀色の神殿の中に消えてからさほど経ってはいない。

 あの美しい女主人は霧の谷陥落の際、ホウの首が欲しいといった。憎い男の首を、愛した女が、望む。キドラにとって少なからず不快なことではあったが「主」の願いを叶えるのが精霊の定めだ。それでも軽い抵抗は示した。
(私は剣を操りはじめてまだ間がありません。きれいに切断するなどという芸当はできませんが、それでも構いませんか?)
 綺麗なものを好む主は、それもそうね、と悲しそうな顔をして呟いた。キドラのいうことをもっともだと理解し、その上で残念がっていた。愛した女性の表情を曇らせてしまったことにキドラは若干の罪悪感を覚える。
 が、それもすぐに霧散した。
 サイハは、自らの手に鎌を生み出した。虹色の光の中から生まれた武器。か弱き外見とは裏腹にサイハの手は戦いを知っていた。……だからといって、まさか彼女自身がホウの首に手を掛けるとは思いも寄らなかったのだ。
(おやめください! 御自らがお手を下す価値など、この男にはありません!)
(……キドラ。お前が、出来ないというから私がやるのよ。お前が技術的にも出来ないと、知っているから私がやるの)
 そういった彼女の赤い唇には笑みが浮かんでいた。瞳には炎が。暗い色の炎。真珠は海を象徴する宝石なのに、黒真珠の色した彼女の瞳にどうして炎を見たのか不思議だった。不思議すぎて、逆にあまりにもよく似合っていて、思わず見ほれたほどに。
(ホウの長い髪は残しておいた方がいいわね。シキみたいに切り取ってしまうには惜しいから)
 切れ味は鮮やかだった。
 そうして麗しき女主人は長い黒髪に指を絡めながら彼の首を抱きあげる。奇妙な光景だった。サイハが掲げたホウは、まるで首から下だけ透明になったかのように穏やかな顔をして目を閉じている。もう体は存在しないのに長い髪が覆い隠しているだけのようにも見えた。
 そして彼女は。
 死んだ男の唇に自らのそれを這わせた。
 キドラの目の前で。
 もしもその光景を目にしたのがキドラ以外の者ならば、男女のこの世のものとは思えぬ美しさに目が離せなかっただろう。声さえも、心を小刻みに震わせる何かによって……封じられてしまったかもしれない。美しいということはそれだけで誰かを動かす力になる。サイハの力によって百合の花が降った。白い花は艶のある漆黒の髪を一層際立たせる。サイハの黒い紗のドレスにも百合はよく映えた。溜め息がこぼれるのももったいないくらいの、夢のような光景。
 夢ならばどれほどよかったか。
 全身の血が沸騰するという比喩は、あの瞬間の自分のためにあった言葉なのかもしれない。例えサイハの瞳に欠片すら愛が見られなくても、ただその行為だけで死んだ男が許せなかった。

 回想するだけで、怒りが再び体中にたぎる。
 あの男は死んでもなお、自分の身を嘖むことをやめないとみえる。どこまで人のことを苦しめれば気が済むのか。
 例えホウにそんなつもりはなかったとしても、どこまでも白と黒の二人は平行線を歩む運命であるようだった。

 キドラがすでにどうもしようのない過去に怒りを覚えている間に。
 銀の神殿からは心なしか早足で歩みくる主の姿が現れた。
「ただいま、キドラ。待った?」
 日頃はかけてくれないような言葉がサイハの口から飛び出す。畏れ多くてキドラは深く頭(こうべ)を垂れた。
「滅相もございません」
 片膝を立てたままの姿勢から立ち上がる。サイハも当然というように、すぐに歩き出した。
「早かったのですね」
「ええ。どうも私は、あそこの住人とは相性が合わなくて。顔を突き合わせれば腹の立つことばかり。けれど今回は溜飲を下げたこともあったから、それでよしとするわ」
 答えるサイハの顔は無表情を装ってはいるがよほど腹に据えかねる何かがあったらしい。
 と、いうことは、サイハがあの神殿を訪れるときはいつも滞在時間が短いとみえる。妖魔の女王の機嫌を損ねてなお、再び会いに来させることのできる神殿の住人とやらに初めて興味が湧いた。
「ホウの首が効いたわね」
 そのとき麗しき主はやっと笑顔を取り戻した。くすくすと楽しそうに思い出し笑いに興じる。
 キドラは、無言のままだった。
「どうしたの、キドラ? あの首と、神殿の住人に興味がある?」
 サイハは楽しそうな目をして後ろを付いて歩くキドラを振り向く。あどけない少女のような顔。ここ最近は彼女の無邪気な笑顔などついぞ見たことがなかったので、それはそれでキドラは満足した。
 そして問いに対する返答をする。
「いいえ。興味ありませんね」
 どうでもいい、そんなことは。サイハが知っていればいいだけの話だ。駒である自分はサイハの命令通りに動けばよいだけの話なのだから。
 その答えはサイハをなぜか満足させたらしい。とびきりの笑顔を見せてくれた。
「ふふ。じゃあ、お前は何に興味があるの?」
 彼女の足運びさえも心なしか軽やかになる。先ほどまでの早足とは随分な違いだ。
「口にせずともご存じでしょう?」
「いいえ、お前の口から聞きたいわ」
 裾をわずかにつまみ、サイハは再び前を向いた。足取りはやはり軽やかなままで。虹色の髪が流れる主の背中を見ながら、キドラは自分の目がこの上なく穏やかになっていることに気付いた。
「あなたのことだけを」
 サイハは小さく笑い声だけをあげる。少女のような、大人のような、サイハの見せる表情はその中間を行ったり来たり。男はそんな彼女にいつしか魅せられていくのだと、本人は知ってのことなのだろうか。
 キドラは、そんな主の愛らしい表情がまた変わることをほとんど確信して次の言葉を紡いだ。
「私が気になっているのは次にあげる三つ。あなたとあの神殿の住人のこと、あなたとホウのこと、そしてあなたと予言の星のこと」
 サイハの歩みが止まった。それにあわせてキドラの足も止まる。
 やっぱり不機嫌にさせてしまったかとキドラは後悔したがもう遅いような気がした。
「食えないわね、お前」
 くるりと振り向いた主は思ったより怒ってはいなかった。
「……今、ご機嫌を損ねたと思いました」
「楽しくはなかったわね」
 にっこり、と微笑む。これはものすごく怒っているか、もしくは面白がっているかの表情だとキドラの経験が告げる。そしてキドラはその笑みの意味を正しく理解することができた。
「面白がっていらっしゃいますか?」
 形は一応、疑問としておく。もちろんよ、と間髪入れず答えが返ってきた。やはり。
「疑問はもっともね。今日は機嫌がいいから教えてあげる」
 意外な台詞がサイハの唇から漏れた。
 こんなことは滅多にない。
「さぁ、その三つのうち、どれが一番聞きたい? ひとつだけ答えてあげるわ」
 再びサイハは背を向けた。そして何事もなかったかのように歩き始める。キドラもその後をついていった。黒硝子の道はサイハが歩む分だけ更に先へと延びていく。
 キドラは少し考えた。
 あの神殿の住人は、多分サイハにとってあまり好ましくない人物だ。それなのにいつまでも殺さないであんなところに閉じこめている理由が分からない。ご丁寧に妖魔の長が直々に結界を張っているのである。何か理由があるはずだ。あれは、閉じこめているのだろうか。それとも、そう見せかけておいて実は何かから守っているのか? だとしたら嫌いな人物を守らなければならない理由とは何だ?
 予言の星は、出会ったときの印象からいくとただの小娘だった。あんな小娘にどんな力が秘められているというのか。そしてサイハはあの娘の何を欲しているのか。また、生意気な妖魔の男のみならず、あのイスカまでもが星をかばおうとしていたことが引っかかる。単にホウの娘だから? すべてにおいて情は二の次だったあの男が、自らの守護精霊を「自分の子供だから」という単純な理由だけで護衛につけるだろうか?
 ホウは何を考えていた?
 そして、なぜサイハは彼を知っている?
 少なくとも彼はサイハを知らなかった。ただ妖魔の長なのだと、その程度の認識しかなかった。
 ………。
「決めました」
 キドラは軽く唇を噛んだ。サイハは変わらず背中を向けている。
「あなたと、ホウの関係を。お教え願えますか?」
 死んだ後まで自分の怒りを買った、あの口づけの意味が知りたい。

 いいわ、とサイハがいった。瞳は何か思い出すように遠くなる。歩みが、遅くなった。

「ホウが覚えていないのも無理はないのよ」
 それくらい遠い昔だから、と彼女はいう。
 自分とホウが出会う前の話だろうか。だとすればもっと幼い頃だろう。その頃のサイハはすでに今と同じ姿だったはずだ。しかし逆に言えば、そんな幼いホウが霧の谷を出るはずがない。どんな妖魔でも、足がかりもなしでは、霧の谷には入れないはずなのだが。
「キドラ、お前。人間だった頃の記憶は持っているわね?」
「忘れてしまえたら今の私はありませんよ」
 思わず不機嫌な声が出てしまった。思い返すのも腹立たしい。
 人間と精霊はまったく違う命だ。
 それは精霊使いを多く産出する霧の谷で育ったものなら誰でも知っている。キドラもまた人間だった頃、精霊はなんと不思議な生き物なのだろうかと思った。いや、生き物というのもはばかられる。彼らは自然が生み出した純粋な力の集まりであり、それが人……いや、神と同じ形をとっただけにすぎないのだ。
「自分が精霊になったのだという自覚さえ最初はありませんでしたね」
 なぜ自分が生きているのか不思議だった。確かに命は終えたはずなのに。
 それでも、この「世界」は自分を受け止めてくれている。
 この「世界」の一部となった、そんな不思議な気持ち。羊水の海に漂う胎児はもしかするとこれと同じ感覚を抱いて大きくなっていくのかもしれない。
 だがキドラはその一方で人間だった頃の感覚もしっかり持ち合わせていた。
「あなたを愛しているのがその良い例ですよ。精霊には博愛はあっても、男女の愛はありません。なぜなら彼らは最初から性別を持たない精神体だからです。同じような力を持っていても幻獣は獣ですから性差がありますがね」
「お前は、男、よね?」
「そうですよ。純粋な精霊は主の望むままに姿を変えることが出来ますが、私は女性形を取ることはできません」
 体も心も、人間であった頃の感覚を引きずる。
 だから恋もした。妖魔の女王とは精霊に転生してから出会った。叶わぬ願いと知りながら、側にいたいと望んだ。憎しみも覚えていたから、あの男を殺してやりたいと本気で思っていた。愛も憎しみも精霊とは無縁の単語だ。本来なら。
 サイハはまた遠い目をしていた。キドラの熱い視線は歯牙にもかけず。
「ホウはちょうどお前と逆ね。精霊から人間に転生したの。私が知っているのは、お前が憎む人間と同じ魂を持ったホウという精霊」
 サイハが虹色の髪を指で梳いた。
 きらきらと、光の粉がこぼれるかと思った。
 頭上には青い蝶々がゆるやかな弧を描いて舞う。キドラはその光景を薄い色の瞳でじっと見つめた。
 人間が精霊に転生することが可能だったのだから、その逆もありえるだろう。だが考えたこともなかった。
 精霊ならば子供の姿で生まれる必要がない。人間だった頃の記憶を継承することもできる。だがその逆はそうもいかない。生まれたばかりの頃は精霊だった記憶を持っていても、それは成長という人間の記憶の積み重ねによってあっという間に流されてしまう。人間は、精神体にすぎない妖魔や精霊よりも種族的にずっとずっと強いのだ。
「お前が人間であった頃の感覚を引きずっているようにね。ホウにもそういう傾向はあったようよ。相手が望む姿に自分を変えようとする。変わるはずがないのに。ホウに男女の観念が薄かったのもある程度はそのせいね」
 ほとんどの精霊には性別がない。
 思慕は理解できても性欲は理解できない。必要がないから。愛してくれる人が男性なら女性形に、女性なら男性形に変化する。「両方の性別を持っている」ではなく「どちらの性別も持っていない」のだ。
 生前の彼を思い描く。流れる黒髪に森の色した深い緑の瞳がいつも穏やかに微笑んでいた。微笑みよりも、苦痛に歪む顔と真珠のような涙が何より綺麗だった。キドラが知る限り最も美しい者。
「……あれが女なら、さぞ美姫になったでしょうに」
 思わずこぼした一言に、くすくすとサイハは笑った。


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