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翡翠抄−ひすいしょう−

第四章第四節第一項(084)

 月の檻

 1.

 衣擦れの音。
 黒硝子の床石の上をドレスの裾が滑る。ここは妖魔の造り出す空間。
 キドラはサイハの後に続いた。麗しの女王はその腕に布でくるまれた塊を抱いている。時折、その包みに視線を落として唇に微笑みを浮かべた。それはほんのささやかな所作で、きっとキドラ以外には気づけないほどに。
 右も左も暗闇に満たされていた。サイハが先導する更に先では次々に黒硝子の道が示される。左右は高い闇の壁によって塞がれていた。闇なのだから、もしかして見えないだけで空間が広がっているのかもしれないが。闇の壁は高く高く上に伸び、真上を見上げればそこには星が浮かんでいた。天井はないのか、それともあの星は天井に貼り付けられた幻なのか、キドラには分からない。通ってきた道は一定間隔を保って、それより向こうは再び闇の壁に飲み込まれる。
 ふわりと、蝶が舞う。青白い光そのもので出来たような幻想的な蝶。蝶々はサイハが好んで使役する。それも決まって闇夜に映える青白い蝶を好むのだ。現実にはこんな風に発光する蝶はいない。サイハの幻影の産物である。それはまるで、ふわふわと漂って道に迷った旅人を死に導くという、鬼火に似ていると思った。その幻影の蝶がきらきらと光の粉を散らしサイハの髪を更に妖艶に煌めかせる。
 この世で最も美しい女。そしてキドラが愛するひとであり、忠誠を誓うただ一人の主(あるじ)。

「キドラはここでお待ちなさい」
 先を進むサイハが、振り向きもせずにいった。キドラは歩を止め、その場に立ちつくす。見ているとサイハはそのまま進んでいった。黒硝子の道はサイハのドレスや青白い光を反射させて更に長く伸びていく。道の先に銀色の神殿が現れた。
 キドラはひそやかに眉を寄せる。
 麗しき主の好きな色はふたつ。黒と虹色をこよなく好んだ。現れた銀色の神殿はあまりサイハの好みとは思えない。神殿に見えたがそれは随分と小さい。建築構造こそ神殿を模しているが実は神殿ではなくて、人を一人住まわせるためのもののような気もする。
 紗のドレスを黒硝子の床に滑らせて、さらさらと衣擦れの音をさせながらサイハはその神殿に歩みを進めた。
 胸に抱いた包みを片腕でしっかりと支え直し、空いた片手を神殿の入り口に向かってかざす。虹色の光が浮かんだ。あれはサイハの力の色。あらゆる色の光を集めて混ぜた、それでいて濁らぬ色。
(結界か……?)
 おそらくはサイハだけが通ることのできる結界。そして彼女は再び布の包みをしっかりと両腕に抱く。その大きさの布の塊を抱いている姿は母親像を連想させてもおかしくはないはずなのだが、なぜかそうは見えなかった。サイハはどこまでも「女」であり、あれが「母」という生き物と同じものとは決して思えなかったのである。
 サイハは視線を包みから外して正面を向く。銀の神殿の中へと身を滑らせた。
 キドラは、待てといわれたその場所に片膝を立てて跪く。
 この、銀色の神殿の中で。何が起こっているのかはキドラが知るべきことではないのだ。キドラがするべきことはここで主の帰りを待つことだけ。
 あの包みの中身が、この神殿とどういう関わりがあるのか……それを考えるのはキドラの仕事ではない。

   *

 闇を照らすように、淡い銀色の光で神殿はそこにあった。
 まるでここの主人を映す鏡のように。

 神殿は迷うような構造には作られてはいなかった。ここには、外敵から守らなくてはならない神殿の要人などいない。神殿そのものがサイハの結界の中であり、そこに侵入できるものなどサイハをおいて他にはいないのだから。
 まっすぐな廊下を滑るように進み、サイハはここに住む佳人を捜した。
 銀の神殿から、外の景色は夜の森が見える。その森が周囲に一望できる小さな場所に目的のひとはいた。
「ソウジュ」
 名前を呟く。
 久方ぶりに聞く他人の言葉だからか、そこにいた女性はひどく驚いてサイハを振り向いた。
 長い銀の髪、紫の瞳。生まれ持った色は違うけれど、どこかの誰かによく似た顔立ち。身に付けている白いドレスは随分と古い意匠だ。まるで神話から抜け出した女神のような風貌。それは無理からぬことなのだが。
「……サイハ」
「会いたかったわ。元気にしていた?」
 会いたかったというのは嘘である。彼女はサイハにとって籠の鳥。さえずる小鳥に会いたければサイハが自ら出向けばよいだけの話なのだから。
 だけど今は一刻も早く会いたかった。サイハは極上の笑みで彼女に歩み寄る。ソウジュは逆に、けげんな顔をしてじりじりと後ろに下がった。
「そんなに邪険にしないでちょうだい。あなたに、お土産をもってきたのだから」
 と、布の包みを見えるように持ち上げて見せた。
 白い布。中身がこぼれないようにしっかりとくるまれた、それ。
「……会いたかったでしょう?」
 布の一端を握ってその包みを落とす。中身の重さに従って、包みは磨き込まれた大理石の床に落ち、ごろごろと転がってソウジュの足元へと向かう。
 布がそれに伴って剥がれていき、中身を露わにする。
 最初に黒い色が広がった。
「き……」
 それが、何であるか。ソウジュの目がそれを捕らえ、頭がよく知ったものと同じものだと認識する。紫の瞳が恐怖によってこれ以上なく見開かれた。

 一拍の呼吸の後。
 銀色の彼女から体中の力を全て絞りきったような悲鳴が上がった。

 その表情を見て、その悲鳴を聞いて、サイハは満足げに微笑みを浮かべる。

 広がった黒い色は絹糸のように美しかった。星を浮かべたような艶のある黒髪。森の色した瞳は二度と開かれることはない。誰よりも美しく、だが、それは広い肩も厚い胸も失っていた。……よく知った、ある人の首。

「人殺し!」
 ソウジュは慌てて、かつて「彼」であったものを抱きしめる。流れる黒髪をつけたままの首を抱き、涙に濡れた目でサイハを見上げてきた。
「あら。会いたかったでしょう?」
「殺さないでっていったのに! あれほど、ホウだけは殺さないでって……! 約束したじゃないの!」
 サイハは微笑んだ。
 そうくると思ったのだ。
「私は殺していないわ。約束したでしょう?」
 やったのはキドラ。自分ではない。
 虹色の髪に手をやり、肩口の後ろへと滑らせる。珍しい色に塗った爪がサイハの目に入る。深紅に金粉を散らした色。ある戦いにおいて散った女戦士が付けていた。それを思い出して赤い唇にやや膨らんだ三日月を浮かべる。
 ソウジュは聞いてはいなかった。
「それでも、あなたが命じたのでしょう」
 だがサイハは微笑みをやめないまま、ゆるやかに首を振る。
「違うわ。ホウはね、私怨で殺されてしまったの。昔にある人を殺した決着をつけられただけ。それだけよ? どこに私が介入する余地があるというの?」
 ぬけぬけと言いきる。
 間違ってはいない。真実だ。キドラはサイハと関わる前からホウを憎んでいた。いつか復讐してやりたいとずっと願っていた。それが偶然、サイハの目的と一致しただけで。
「約束は約束だもの。ちゃんと私はそれを守ったでしょう。もう一度いうわ。会いたかったでしょう?」
 涙にくれるソウジュの顎を捕らえ、まるでキスでもするかのような近距離に持ち上げる。
「あなたが十九年前、余計な画策をしてくれたその報いよ。私の目を盗んで、よくもやってくれたわね?」
 ぎりっと顎を掴む力を込めた。ソウジュの表情が苦痛に歪む。
 十九年前。こっそりとこの結界に穴を開け、天使に姿を変え、自分だけに備わった力でソウジュは異世界から一人の女性を招き寄せた。
 こちらから選ばれた男とその女を巡り合わせ、そして、予言の星は生まれた。
「私は……ッ」
 紫の瞳から、さらに涙が盛り上がる。
「私は、ただ会わせただけよ! 二人に説明するだけの力は残されてはいなかったし、あの二人は何も知らないまま愛し合ったの。まして子供まで……私にとっても賭けだったのよ!」
 だが、ソウジュは賭けに勝った。
 サイハは目を細めてそれを見、弾くようにしてソウジュから手を放す。反動でソウジュは尻餅をついた。
 うっとうしい女、と、それがサイハがソウジュに感じている感想。
 何かあるとまず泣く。力を持っているくせにその使い道を知らない。知ろうともしない。そうやって油断を誘っておいて、いきなり人を出し抜くような真似をする。きっと出し抜いたなどという自覚さえない。幸せな女。泣けば許されると思っているのだろうか。それとも、サイハは絶対に彼女を傷つけられないと知っているから?
 腹の立つ。無能よりもさらに性質が悪い。
「光と影の間に混沌の子供が生まれる。神話の時代を知っている者しか知らない、もう遠くなった予言ね。まさか故意に予言の星を作らせるとはさすがの私も思わなかったけれど」
 立ち上がる。ソウジュ……月を司る女神を見くだすために。
「予言の星が消えたそうよ」
「!」
 ソウジュが顔を上げた。
「お星様はどこに消えたか、あなたには分かっているの?」
 サイハは聞いた。ソウジュの表情は固い。つぐまれた唇に、何かを知っているものとカマをかけてサイハは彼女の顎をもう一度捕まえた。
 何を、と紫の瞳が恐怖の混じった視線で問う。それに答える前に指に力を入れた。
「痛い?」
 やんわりと微笑んで尋ねる。微笑みに浮かんだ絹のような柔らかさとは対称的に、手に込めた力は肉食獣の顎(あぎと)のごとくしっかり食い込ませる。
「……!!」
「ほらほら、早く答えないと顎の骨が砕けてしまうわよ?」
 口調は優しい。真冬にくるまる羊毛の毛布のような温かささえある。声の温かさと指に加わる力の強さは比例しているとは限らなかった。どれくらいの間そうしていたのか、サイハにとってはあっさりと――ソウジュにとっては随分長い時間に感じられただろうが――ひびわれたような声があがった。
「知らない……知らない、けど……っ」
 やっと喋る気になったかと、指に込めた力をゆるめる。
 この結界の中でソウジュに出来るのは泣くことと睨むことだけ。どちらもサイハを傷つけるものにはなりえない。涼しい顔で見下ろすサイハの顔を、恨み混じりに見上げてくる視線が心地よかった。
「ヒスイが……どこにいったかは分からない。ホウが死んだことでヒスイの持っている力が急に目覚めて暴走したのだと……」
「暴走? あら。あのお星様は自分の力を制御できないの?」
「それどころか自分がそんな力を持っていることさえ知らないわ。ホウは何も娘に伝えなかった」
 まだ掴んだ顎が痛むのか、ソウジュは手を顎にやる。
「彼女は知らないのよ。生まれてすぐに力を発揮するなんて真似までしたのに。自分が過去や未来を……果ては、異世界さえも自在に行き来できる力を持っているなんて、あの子は知らないのよ」

 ヒスイがその力を発揮したのは今回を含めて三回。生まれてすぐのとき、ふたつの世界を繋いで両親を会わせるという離れ業をやってのけた。ソウジュはこの「世界」の女神だ。この「世界」の理に縛られている。ソウジュの力ではサラを完全にこの「世界」に呼び寄せることは出来ないし、ホウをあちらの世界に送り出すこともできない。サラの体の中に入り込んだヒスイだけがあちらの世界に渡ることができた。
 だが、ヒスイの力は違う。
 両親を会わせただけでなく、互いの世界の品物を交換させるということも可能だった。光と闇の間に生まれた混沌の子供。混沌とはすなわち秩序を壊すもの。この「世界」の理は彼女に作用しない。
 二度目は彼女自身がこの「世界」に来たとき。
 何度も思うのだが、ソウジュの力では異世界のものを持ち込むという真似は出来ない。せいぜい月の力が強い夜の間だけ、異世界とこの「世界」の間に仮想空間を作って行き来させるだけ。だがヒスイはこの「世界」にちゃんと来た。幼少期を安全なあちらの世界ですごし、成人したのをきっかけにこの「世界」に帰ってきた。
 混沌を司る「予言の星」としての役割を果たすために。
 サイハは溜め息をついた。
「あなたと、予言の星を会わせてみたいわ。彼女がなんといってあなたをなじるのか、とても興味がある」
「……なじる? ヒスイが私を? どうして?」
 本気でいっているのだとしたら、彼女はかなりおめでたい。あの娘を直接知らないのだからそれは無理からぬことかもしれないが。自分の運命が赤の他人によって仕組まれたものだとあの娘が知ったとき、はたして彼女はどんな表情を見せてくれるだろう。
「私はあなたが嫌いよ、ソウジュ」
 冷ややかにいった。ソウジュはただ泣きながら睨み返すだけだ。私も嫌い、と言い返すことさえできないらしい。黙ったままの月の女神にサイハは付け加えた。
「けれどせっかくあなたがお膳立てしてくれた予言の星ですもの。私もあの娘を利用させてもらうわ。どこに行ったのかは分からなくても、必ずね」
「ヒスイに手出ししないで!」
 鋭い声。自分のことだと何もいえない女も、他のことだと滑らかに口が動くとみえる。何をするな、どれをするな。他人の行動を制約することだけは得意らしい。黒真珠の瞳が半眼になる。
 これ以上口を利くのも馬鹿馬鹿しくなってサイハはきびすを返した。
「お願いよ、サイハ! あの子に手出ししないで!」
 張り裂けんばかりに上げられる声は徐々に遠くなった。いや、遠ざかっているのは自分。無意識のうちに、唇に笑みがのぼる。しばらくは誰も予言の星に手出しはできない。だがいつか予言の星はサイハの前に立ちふさがるだろう。なぜなら、キドラ同様、自分も彼女にとっては親の仇なのだから。
 そう思うと笑みがこぼれた。
 あの娘を使って、……今度こそあのひとに会える。


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