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翡翠抄−ひすいしょう−

第四章第三節第四項(083)

 4.

 沈黙が舞い降りる。
 誰もその沈黙を破ろうとはしなかった。ここまでで自分達が知っていることは全て出し切ったのだ。これ以上、何を相談することがあろうか。結局、自分達だけでヒスイのことを検証するには無理があったのか。諦めが場を支配する。
 いや。往生際の悪い男が一人、この沈黙を破ってくれた。
「だいたい、だな」
 セイが眉間の皺を伸ばしながら、それはもう、不満いっぱいの顔をして口を開く。俯いていた視線はイスカへと向けられた。
「さっきから聞いてりゃ、お前は最初から全部知っていた立場だったというわけだな? 月の女神のことといい、指輪のことといい、いちいち反論材料ばっかり持ってきやがって」
 言葉尻に棘が混じる。棘というよりも鋭い針のようだ。
「仕方ないじゃないですか。そういうことに関連づけて覚えていませんし、聖典にしたってこんなの一度読んだきりの、しかもお伽話だと思われていた話なんですから」
 だから覚えていなかったのだといったイスカに、セイは馬鹿にしきった顔を返す。セイの常識でいえば一度記憶したものはなくなることがないので、覚えていなかったという台詞はただの言い訳にしか聞こえない。
 脳は普段、大半の知識や記憶を眠らせている。そして夢見はそれを自由に引き出すことが出来る。夢というのは脳が普段は眠らせている、処理しきれない様々な情報の集大成だからだ。それを操るセイに、アイシャのいう「忘却という優しい魔法」の恩恵はない。
 だからといって夢見の常識を他の者に適用しようというのがそもそもの間違いである。
「もういいじゃない。他の神殿の話なんて覚えていないのが普通だってば」
 剣呑な態度をやめないセイに向かって、なんとか場を丸く収めようとアイシャが助け船を出す。イスカはその一言に救いを見いだしたが、セイはきつい口調のまま
「アイシャは覚えてたじゃないか」
 と反論した。
 アイシャは愛の女神に仕えていた見習い巫女だ。月の女神の神話を覚えているというのも確かに筋違いのように思える。
 反論されて、アイシャはなぜかちょっと顔を赤らめた。
「……だって……私は女だもの。女性も月の支配を受ける者だわ」
 毎月一回。
 その言葉を理解したのは残念ながらセイだけだった。
「どういうこと?」
 トーラが聞く。
「さあ?」
 イスカも首を振った。
 月の支配を受けるなら月の女神に関して覚えていることがあっても納得できるのだが、どうして女性が月に関係しているのか理解できない。アイシャが視線をそらし、セイが追い打ちをかけた。
「アイシャさん。このガキどもに教えてやって」
「え……、こういうことはやっぱりセイの担当でしょ……?」
 セイだって女の人のことには詳しいじゃない、とアイシャは視線をそらしたまま答える。セイはセイで「愛の女神の巫女が教えるべきだ」といい、アイシャはアイシャで「ここはやっぱり同性、あるいは同種族から教えるべきよ」と譲らなかった。
 トーラには何を二人が押しつけ合っているのか分からない。セイとアイシャはなかなか教えてくれないし、イスカは自分と同じく分かっていないらしい。一人、首を捻る。
 ややあって、やっと納得のいく答えを自分の中から見つけだした。ぽん、と手を打つ。
「ああ、そうね! 人間の女性は月齢周期にあわせて、月経が来るのよね!」
 やっと答えらしきものが見つかってトーラは目を輝かせた。
 イスカもそこで初めて納得した顔になる。
 セイは目を点にし、アイシャは椅子から転げ落ちた。
「……間違ってる?」
 一応セイに伺いを立てる。間違ってない、とセイは答えてくれたのだが、なぜか苦笑していた。正しいことをいったのになぜ苦笑されるのか分からなかったが、ともかくアイシャがいいたいことがはっきりしたのだからと自分を納得させる。自分の一言でイスカも納得できたようだし。満足げなトーラを見つつ、セイはなぜか諦めたような笑みでアイシャに話を振った。
「アイシャ、無事?」
「……なんとかね」
 椅子から落ちたアイシャはというと、まだよろめきながらもなんとか体勢を立て直す。こちらも随分と脱力した顔だった。
「あのね。そういうことは、特に殿方の前で、あまり大きな声でいうもんじゃないのよ?」
 と、アイシャはこめかみに手をやりながら、やんわりトーラをたしなめる。
 しかしそれで止まるトーラではなかった。なにしろたしなめられた原因が分かっていない。ましてアイシャが固まった原因がトーラ自身による、あまりに直接的な表現にあることなど思い至りもしないのだから。
「どうして? だって私、月経ってどういうものだか分からないんですもの」
 アイシャのたしなめも空しくトーラは堂々といってのける。またアイシャの姿勢がぐらついた。
 トーラの外見年齢は十五か十六。普通なら……否、人間の女性なら、とっくに初潮を迎えていておかしくない年齢だ。だからこそ女性の成人する年齢はほとんどの国で十六と定められているのである。しかしトーラにその兆候は全くない。
 さらにセイが苦笑しながら補足した。
「妖魔の女には月経なんかないんだよ。子供を生む必要がないから」
 セイもまた回りくどい言い方をしなかった。アイシャが固まる。常識のある人物であれば、間違ってもうら若い乙女の前で展開する会話ではない。が、時すでに遅し。もはや照れや恥じらいなど遠くの彼方に捨ててきたような会話がセイとトーラの間で始まる。
「でも妖魔の男に射精はあるのよね、なぜか」
「あれも人間でいうところの無精子らしいぞ?」
「……それで子供ができるんだから、人間にいわせれば妖魔って変な生き物よね」
 まったくだ、としみじみとセイは頷いた。アイシャは固まる状態を通り越して、すでに凍り付いている。
「アイシャさん、しっかりしてください。アイシャさーんっ」
 ひとり会話に加わらなかったイスカが孤軍奮闘してアイシャを引き戻しにかかる。……彼女が立ち直るにはしばらくかかった。

「だからね」
 にっこりと笑顔で、セイが妖魔の生態について説明を始めた。アイシャはまだ頭痛がするのかこめかみに手を当ててはいたが、かろうじて立ち直って聞いている。やっぱりアイシャは強い、とトーラは感心して見ていた。
「妖魔ってのは精神体の生き物なんだよ。だから、人間でいう三大欲求なんて持ち合わせてないの。性欲がないってことはつまり、元々人間みたいに子作りするような体には出来てないんだね。だから妖魔の女性には子供を作る準備段階がない。人間の女性みたいに、毎月一回、月の支配を受けないってこと」
 にこにこと、セイは軽口を叩くのと同じ口で語った。
 聞き手であるアイシャは元・愛の女神の巫女だ。裏巫女といえば神殿経営の娼婦を指す。一般女性よりも性教育には耐性があったのがせめてもの救いだったかもしれない。
「……質問。それでどうやって子供が作れるの?」
 と、アイシャらしい質問が飛ぶ。彼女は人間なので、人間の常識に照らし合わせてでしか物事を判断できない。これにはトーラが答えた。
「精神体だっていったでしょ? 強い思念が妖魔の核になるの。両親にあたる二人が、お互いに相手の子供が欲しいと望めば、妖気が混じり合って妖魔同士で子供を作ることが可能なのよ。……確かセイもそうやって生まれてきたのよね?」
 ちらりと、トーラはセイを見た。
 薄ら笑いを浮かべて青い目が頷く。イスカとアイシャが揃ってセイを見た。驚きの目である。
「セイ、ご両親がいらっしゃるの?」
 アイシャが声を上げる。トーラは自然発生の妖魔であるため、妖魔といえばそういう生まれ方しかしないと思っているのだ。妖魔の中にも親持ちはいる。ただ、その数が少ないだけで。そしてセイはその数少ない、親から生まれた純粋な妖魔だった。
「一応あんなのでも親ってことになるのかな?」
 セイの返答は冷たい。けれどアイシャはなおも食い下がる。
「でも、ご両親が愛し合っていなければ妖魔の間にあなたが生まれることがないのでしょう? とても素敵な物語がありそうじゃない」
「悪いけど妖魔に家族愛なんか求めても無駄だからね。特にアイシャさんにとってはあーんまり面白い話じゃないけど、そうだね、ヒスイが戻ったらおいおい話してあげるよ」
 青い瞳を三日月に細めてセイは笑った。
 その約束はおそらく守られることがないだろう、とトーラは思う。本当に、いい話ではないから。むしろ聞かない方が身のためかもしれない。ぶるっと身を震わせて上目遣いにセイを見る。青い目は笑っていた。ひどく、嫌な色をさせて。
 話の矛先が自分の方に向かってきたのを嫌ったのだろう、セイはすぐに会話の方向を変えてきた。
「妖魔には、数は少ないけど親持ちがいるけどね。精霊は完全に自然発生でしか生まれないんだ。どうしてか分かる、アイシャ?」
 イスカが目を瞬いた。まさかこういう方向で話がこっちに向かうとは思わなかったという顔だ。アイシャは素直に首を振った。
 セイは満足そうに微笑む。
「精霊には性別がないんだよ。男とか女に見えるのはそれこそ外見だけ。ある特定の植物の精霊には雌雄があるらしいけどね、水や大地に雌雄なんかないでしょ?」
 精霊には性別がないから子供は作れない。
 妖魔には性別がある。これが妖魔は人間と交われる理由であり、精霊が人間と交われない理由である。
 三人の目が一斉にイスカを向いた。
「それじゃイスカってば女の子にもなれるの!?」
 アイシャの台詞に、今度はイスカが椅子から転げ落ちた。
 普通、精霊は男女どちらでもない。それは両性というよりもむしろ無性というべきだ。イスカは大地の精霊である。確かに、大地に雌雄はないのだが。
「なれません!」
 立ち上がって力一杯否定する。その様子が傍目から見るとなんともおかしかった。
「でも、男に見えるのは外見だけなんでしょ?」
「そうそう」
 セイが茶化した。完全に面白がっている。トーラはそれをただ傍観していた。イスカは必要以上に大きな声を張り上げて否定する。
「僕の性別は男に固定されてます! 普通の精霊のように自在に姿を変化させることも出来ません!」
 それはつまり、イスカは精霊として普通ではないということ。
 トーラはそれを知っている。だから黙って見ていた。
 セイの表情から面白がる様子が消えた。アイシャはまだよく理解できていないらしく目を瞬く。トーラは静かにいった。
「イスカは精霊の長に養育されていたのよ。普通の精霊がどうしてそこまで特別扱いされなきゃならないの? 何故か、って考えもしなかった?」
 もちろんこれはセイに向かっていった台詞だ。セイの目が剃刀の刃くらい薄くなり、片眉がやや持ち上がる。空気が鋭くなった。
 返事はそのセイからではなく、イスカから発された。
「知っているんじゃないかと思っていましたが、やっぱり知っていましたね」
「……ごめんなさい」
「構いませんよ。隠していたわけではないですし」
 それでも彼は今まで一言もそんなことをいわなかった。それは隠していたとはいわないのだろうか。ぽつりとイスカが付け足した。
「それに……ホウ様がお亡くなりにならなければ、一生縁のない話でしたし」
 琥珀の瞳がまた暗くかげる。トーラは、追い打ちをかけるのが分かっていて言葉を投げつけた。
「ホウはきっと、それを望んでいたのよ。ヒスイを守る力になってもらうために」
 返事はなかった。

   *

「あの……話が見えないんだけど」
 アイシャは思わず、そう呟いた。
 イスカは何か特別な問題を抱えているのであり、星見であるトーラがそれを知っていて何か助言したところまでは分かったのだが。肝心のイスカが抱えた問題が何かということが説明されないので、アイシャにはさっぱり会話の内容が見えてこない。
 張本人はというと、やんわりとその会話の矛先を逸らす。
「夜明けまでにはお話しますよ。今は、ヒスイ様のご両親を会わせた月の女神の話だったでしょう?」
 と、完全に本道から逸れた会話の数々を見事に修正した。そういえばそうだった。
「だけどねぇ。いるかいないかも分からない本人の話をこれ以上続けても」
 そういったのはセイ。ぎすぎすした雰囲気もかなり丸くなり、時折トーラに向けて妖魔そのものの冷たい態度をとるものの、アイシャに対しては昔のような口調に戻ってきている。それを喜ぶべきか、嘘をつかれていると悲しむべきか。世のため何より自分のため前者だと思うことにした。
「いるか、いないか……。そうだわ。ヒスイの両親を会わせたってことは、どこかに存在してるんだわ」
 トーラが独り言ののち顔を上げた。そして寝台脇にある棚から引き出しを引いて、中から布に包まれた四角い何かを取り出した。何をするつもりかと見ていると、トーラはそれを持ったまま寝台の上に上がり、寝床を卓代わりにして包みを広げた。
 包みにくるまれていたのは変わった絵札。
「トーラ?」
「流民の人達が占いに使う道具よ。私、伊達に彼らのところに入り浸っていたわけじゃないのよ? これを使うと星見より的中率が低くなる代わりに、随分広い範囲のことを見渡せるの」
 そういえば。家の手伝いもせず、また花嫁修業も放り出してトーラはよく町まで流民の踊りを見に遊びに行っていた。まさかそんなことを覚えてこようとは。星見は抜群の的中率を誇る代わりに見える範囲が極端に狭い。未来視はなおさらだ。それを補うためにトーラはいつの間にか自分の出来ることを見つけていたのである。
 札をかき混ぜる。それらをひとつにまとめて手に持つと、なにか特別な意味のある配置で札を並べていく。慎重にトーラはめくっていった。
「月は今、閉じこめられているわ。過去に求めたのは願い。……ヒスイが絡んでる。やっぱり無関係じゃなかったのよ……」
 めくり終えた札をじっと凝視していた。
「セイ、手伝って!」
「あ?」
「星見で直接、月の女神の『現在』を探してみるから、セイはそれを夢見で補助して!」
 トーラがこんなことをいうのは初めてだ。アイシャは思わず、セイとトーラをかわるがわる見る。案の定というべきかセイは不満を露わにしていた。
 それでもトーラはめげない。
「セイの力がいるのよ。月は結界の中にいるの。あの方の……サイハ様の結界に抜け穴を探せるのなんて、セイくらいでしょう?」
 意外なところで出た名前にアイシャは驚きを隠せなかった。


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