3.
全員の目がアイシャに注がれた。トーラは心強い期待の視線を、あとの二人は半信半疑の驚きの目を、だ。
アイシャは逆に男性陣の視線の意味に驚いたようだった。
「知らないの?」
それまで黙って聞き役で、三人の話を聞いて頷くしかなかったアイシャは急に元気になった。生き生きと目が輝き始める。
「本当に知らないの? 嘘みたい、セイとイスカが? じゃ、これでもう『ぼやくことしかできない人間風情』なんていわせないわよ」
ぴっ、とセイに向かって指を指す。確かに傍目で見ていると小気味よかったが、それどころではなかった。全員の思いを代表するかのような台詞をセイが怒鳴る。
「勿体つけてないでさっさと言え!」
それを聞くなり、ますます不思議そうにアイシャは首をひねるのだ。
「あのね、セイ。聞くけど、天使ってどういうものだと認識してる?」
「そりゃ……」
答えかけて、ふと青い目が止まった。
トーラも考える。昔、お伽話で聞いた天使はあまりいいものではなかったはずだ。
確か天使は月にいて、人を導き、あるいは惑わし、癒しもするが狂わせもする。「月を長く見ていると天使が狂気を運んでくる」というのは、子供を寝かしつけるときの脅し文句に使われる代表的なものだ。
天使は美しい女の姿をしているという。背には白い鳥の翼を持っているという。そして天使たちは皆、月の女神に仕えているのだと。
「聞くけど、トーラ」
急にこちらに話を振られて、トーラは夢想から引き戻された。反射的に背筋を伸ばす。
「あなた、神話はどれくらい分かる? 確か神々を崇めるのは人間の専売特許よね」
「せんばいとっきょ、って何?」
「あら。これは商人用語だったかしら」
とりあえず、トーラは宗教に疎かったのでほとんど知らないと答えておいた。アイシャは元・愛の女神の巫女だったはずだが事情により信仰を放棄している。そのアイシャの元で養育されているトーラはほとんど神々のことを知らない。間近に大地の神の神殿まであるというのに、だ。
アイシャはやおら腰を上げた。一度目をつむったかと思うと、再び目を開け視点をやや上に固定する。まるで手元に聖典があるかのような淀みない口調で一節を暗唱し始めた。「この『世界』には七柱の神々がおわしまする。
ひとつ、太陽神。地上にあまねく光与えし黄金の神。
ひとつ、月の女神。太陽神の妹にして闇夜を照らす銀の女神。
ひとつ、戦の神。与うるは誇り高き戦士の魂(みたま)。
ひとつ、知恵の神。叡智なるもの知識のみにあらず、知恵あってこその叡智。
ひとつ、法と契約の神。定めし道を外れぬことこそ正しき道と知れ。
ひとつ、愛と美の女神。この世を潤す姿なき水を恵む。
ひとつ、豊穣と冥府の神。大地に祈り、大地と帰れと教えしや。
これすなわち七柱の神々。この『世界』を見守りし大いなる意志」それは初めて見るアイシャの姿だった。見習い巫女だったと聞いていたが実はかなり優秀な巫女だったのではないかと思う。
朗々と流れる声が止まる。暗唱を終えるとアイシャは、いささか乱暴な調子で再び腰掛けた。
「……本当は愛の女神の一節には続きがあるのよ。『だがその水に溺るるべからず』ってね。愛と美はこの世に潤いをもたらすけれど、やりすぎると身の破滅ですよって意味。まったく、そういうことはきっちり書いておけっていうのよ」
先ほどまでの威風堂々とした巫女の姿はもう、そこにはない。
拍手が起きるかと思われたほどの素晴らしい朗読、いや、暗唱だった。だが拍手はない。そんなものを超越した何かが先ほどまでの彼女にはあった。……今ではただの、見慣れた普通の女性に見える。
「で、これが七柱の神々全部なんだけど……聞いてるの、トーラ?」
「え? ……あ。も、もちろん聞いてるわ!」
慌てて手を振る。見ほれていた、とはさすがに言いづらい。もっともそれはトーラのみに限ったことではないらしく、神官であるはずのイスカも熱に浮かされたような目をしてアイシャを見ていた。
「この中でも太陽と月の神様ってのは別でね。早い話、主要なのは残り五柱の神々の方。気付いた? 五柱の神々はそれぞれ人間の心に何かしらの影響を与える文句が付くのに、太陽と月はただ『光を与える』ってだけ。つまり、本当の太陽と月を単に擬人化しただけってのが定説なのよ」
知らなかった。
慌ててセイの方を見る。青い目が頷いた。セイは妖魔でありながら人間に紛れて生きてきた期間が長いので、人間の一般常識にも詳しい。その彼も知っているということは人間の中ではかなり知られている話とみえる。
だから、月の女神だとか彼女に仕える天使などはお伽話だと信じられているのだ。
さて。トーラがやっと神々の仕組みを理解したところで、セイがイライラとしびれを切らした様子でせっついた。
「で、神様についての講釈はいいからさ。さっさとトーラが見た天使の正体ってやつを教えてくれない?」
「ヒスイがいないと短気ねぇ」
肩を落としてアイシャはのんきに呟く。その姿を見ているとセイが短気に見えたが、トーラにはアイシャがいつもよりもゆっくりと話を進めようとしているように思えた。
「……で、月の女神についてだけど」
「アイシャ。その話、まだ続くの?」
いらだちを抑えきれないセイの声。しかしアイシャは平気で、続くわよ、といった。
「月の女神の神殿ではね、月の裏側には別世界の扉があるっていうんですって。別世界というけれど、それって異世界という言葉に置き換えられない?」
異世界、の一言でやっと四人に緊張の空気が戻ってきた。
ヒスイは異世界からの来訪者なのだから。
やっと、アイシャのいいたいことが全員に見えてきた。そして彼女の言葉はまだ続く。
「月の裏側には異世界への扉がある。そして、月には天使がいる。ここまではお伽話よ。なんの根拠もないわ。でも異世界からの来訪者なんて存在も私達はお伽話だと思っていた。なのに、ヒスイは確かに私達の目の前にいたでしょう?」
銀の天使がヒスイの母親を連れてきたのは間違いない。それはトーラの星見で証明された。
そのヒスイの母親は異世界の住人である。
そして、その異世界に向かえる扉は天使が住むという月にある……。
「アイシャ……」
思わずトーラは声を掛けた。何か、物凄く大事なことをこれから聞くような気がする。そしてピンクのリボンを締めた元・巫女はその続きを黙って各々の判断に任せるようなことはしなかった。
「ヒスイをこの『世界』に呼び出した張本人は月の女神じゃないかしら。もっとも、そんなのが本当に存在していれば、の話だけれど」神は存在している、と熱心な信者はいう。
だが誰も神々を見た者はいない。
だから精霊などはいう。なぜ人間は存在しない神などというものを崇めていられるのかと。存在しないものを崇めることをしない精霊は、現実に存在する竜を崇めた。「月の女神が実在している……?」
その言葉はイスカ。琥珀色の瞳を見開いて、アイシャを見つめる。
「ありえない話じゃないってことか」
目を細めながらセイが呟いた。馬鹿馬鹿しい限りの話だ。だが、だれもそれを笑い飛ばせない。ヒスイがいたから。そして今、そのヒスイが消えたから。
セイはいった。
「銀は月の女神を象徴する色だ。おいそれと配下が身にまとえるとは思えない。女神本人が天使に姿を変えた可能性もあるな」
「……ですが、神々はすでに『世界』から消え失せたと……」
気の毒に、イスカは茫然自失寸前だった。
ありえるかありえないかという話なのにセイもイスカもそれを信じているようだった。提唱したアイシャの方が逆に驚いている。
「よくすぐに信じる気になれたわねぇ? なんというか、セイが一番、神様とか信じないと思ってたわ」
「おや。アイシャさんこそ勉強不足なんじゃないの? 聖典に書いてあるよ。妖魔を作ったのは神様。神様の影から妖魔は生まれたの。現在、いるかどうだか知らないけれど昔は確かにいたんだ」
「ああ、そういえば……第三章第一節あたりにそんなことが書いてあったわね」
セイのいったことは紛れもない事実だ。あいにくとこの家に聖典は置いていないので確かめようもないが。妖魔は神々の影から作り出され、そして今も暗闇の中からぽつんと生まれる。トーラもそうやって生まれてきたはずだ。
その時イスカの呆然とした瞳に、かすかな理性の光が宿った。
「……聖典……」
トーラが瞳を巡らすと同時にセイも彼を視線の端に捕らえた。少年は顔を上げるとセイに向かって叫ぶ。
「聖典を取り寄せることはできますか?」
何を考えているのか分からない。だが、強い意志の色がその目からは感じられた。
「お前、オレを利用する気か?」
「どの神殿のものでもかまいません。月の女神についての記述を参照したいんです」
「……」
無言でセイは立ち上がる。いかにも面倒くさそうな表情で、何を思ったかトーラの額に手を乗せてきた。
「な、何?」
うろたえている間にトーラの額、セイの掌の内側が薄紫に光る。この色はトーラの力の発動だ。
それと同時にセイの反対側の手、右手が青く光った。
一瞬の出来事が終わると彼の右手にはいつのまにか聖典らしき本が握られていた。
「ほらよ」
イスカの腕の中にぼろぼろの聖典が投げ渡される。
「ありがとうございます」
まるで何事もなかったかのように少年神官は頁を繰り始めた。
この近くには大地の神の神殿がある。その神殿から一冊、拝借してきたのだ。トーラは間近で見た妖魔の力に、ただでさえ大きな目を更に大きく見開いた。
セイは今、赤い髪で妖魔の力を封印している。封印を解かずにトーラの力を借りて――額に置かれた手から薄紫の光が現れたのはそのせいだ――力の方向性だけを示してここに本を呼び込んだ。
「あんたってすごかったのね!」
「なんだと思ってたんだ、このくそガキ」
顔色ひとつ変えず罵声だけを浴びせかけてくれた。
その間に一心不乱に頁をめくっていたイスカの手が、ぴたりと止まる。
「あった。……ここを見て下さい。序章、第四節第四項」
全員がイスカの手元を見た。
示された頁。古ぼけた羊皮紙にびっしりと細かい文字が並んでいる。あいにくと大地の神殿特有の文字で書かれていたのでトーラとアイシャには判読できなかったが、セイがわずかに顔色を変化させた。
「何々……『異世界を渡ることがかなうのは月の女神だけである。逆にいえば、月の女神以外はかなわぬと言えよう』……?」
「そうです。ほとんど実際の出来事とは思われていない神話ですが。月の女神自身は自在に行き来できるのですが、逆に月の女神以外のものは元の『世界』を動けない。こちらのものは何一つ異世界に持っていけないし、また異世界のものも何一つこちらには持ち込めないんです」
それはこの「世界」の法則にも繋がる。
異物を嫌うこの「世界」。その法則は女神といえども例外ではないということ。
だが、それでは。
ヒスイはこちらの「世界」にやって来られない。
聖典を凝視したままアイシャが呟く。
「どういう、こと……?」
答えたのはセイ。
「銀の天使は月の女神に間違いないだろうけど、ヒスイをこの『世界』に連れてくるのはさすがのお月様でも無理だって話」
その言葉にアイシャの顔色は紙のように白くなった。また、ふりだしに戻った。
「そんな馬鹿な!」
トーラは思わず大きな声で怒鳴ってしまった。
残る三人がトーラを見る。
全員の注目を集めて、それでもトーラは知っていることを告げねばならない。
「あるわ、異世界から来た異物。ホウが持っていたもの!」
「うちの長を呼び捨てにしないでください!」
即座にイスカの声が返ってきた。
「いいじゃない。ヒスイのお父さんとか精霊の長とか、肩書きによって誰のことをいってるのか分からなくなるんですもの。名前があるなら名前で呼ぶわ」
「そうそう。それが一番」
セイが頷いた。彼は自分達の長であるサイハですら名前で呼んだ男だ。だが言霊には充分縛られているらしく、トーラやイスカの名前はなかなか口にしない。赤毛のときは特に。
トーラはもう一度繰り返した。
「異世界から持ち込んだもの、あるわ。ホウが左手の薬指にはめていた白金の指輪。あれはヒスイのお母さんと交換したものよ。ヒスイがそういってたから間違いない」
イスカがはっと顔を上げた。
推測だが、イスカはもしかしたら聞いていたのかもしれない。ヒスイが生まれたときに彼ら二人は結婚の約束の代わりとして互いの品を交換しあったこと。ということは、こちらの「世界」の品物も異世界に渡っている。そして。二人はそのとき、銀の天使を見なかった。
こんなことは月の女神の力ではありえない。決して、ありえないのだ。