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翡翠抄−ひすいしょう−

第四章第三節第二項(081)

 2.

 偶然でないなら故意。
 弾かれたようにセイが顔を上げた。トーラに向かって大声を上げる。
「星見! 十九年前の霧の谷だ!」
「まだ僕の話は終わってませんよ!」
「憶測をいくら飛ばすよりも直接『見た』方が早かろうよ」
 過去に何があったのかを知るにはそれが一番確実だ。普通は出来ないこと、だがトーラにはそれが出来る。これはトーラにしか出来ないこと。
「分かった。やってみる」
 自分の力が初めて役に立つようで嬉しかった。頷くやいなや、トーラは耳を塞いで目を閉じる。額の一点に力を集中した。
 過去へと意識を飛ばす。座標軸がずれないように、慎重に時と場所を一致させて。

 まぶたの奥で薄紫の瞳が過去の映像を捕らえ始める。
 ……ヒスイが生まれる前、十九年前のある男女の出逢いからすべては始まった。

   *

 耳を塞いで、寝台の上に座る星見の少女はじっと黙り込んだ。その額では紫水晶の額飾りが揺れて光を反射する。アイシャはその額飾りをじっと見つめた。
 イスカとセイはというと、相変わらず互いに棘のある言葉の応酬だ。
「僕の話はまだ終わっていないといったはずです」
「だから、こっちの方が早いといったろうが」
「誰の指図かという話をしようと思ったんじゃないんです……!」
 彼らの話が聞こえていなかったわけではないが、アイシャの目は紫水晶に釘付けになっていた。ふと思いついて呟く。
「そういえばトーラ、ずっとその額飾りをつけているわよね?」
 返事が返ってくることを期待したわけではないが、その一言で男二人の言葉の応酬は止まった。
「そりゃ、おいそれとは外せないでしょ」
 分かり切ったようにセイが答える。大仰に足を組んでひじをついた。イスカは分からなかったらしく、アイシャに倣うようにしてトーラの額に目をやる。セイも横目でトーラの紫水晶を見た。両端の尖った楕円に磨かれた水晶は全員の視線を集めて静かに揺れている。
「トーラの額の紫水晶は単なる飾りじゃなくて、星見の媒体だから。目玉をもう一個多く持っているみたいなもの」
「そうなの?」
 アイシャの知らないことがまたひとつ。そういわれてみれば紫水晶はまるで、白目のない瞳を縦に置いたような形に見えた。
 おちゃらけた口調でセイは笑う。
「うん。よくあるんだよ、妖魔には。無機物のふりして実は本人の一部だったりとかね。また妖魔の力の源はそういう場所に隠すことが多い」 
「弱点みたいなものじゃないですか。そんな大切なこと、僕らに教えていいんですか?」
「えー? オレの弱点、教えるわけじゃないし」
 にっこりと笑って足を組み替えた。
「分かってましたけれどやはりあなた、性格悪いですね」
 イスカはイスカで思ったことを素直に言葉にしただけなのだろうが、セイの青い瞳は一層薄くなる。それでもセイの口元にまだ笑みが――冷笑であるが――貼られているだけ事態はまだ深刻化していないといえた。
「ね、セイにも弱点なんかあるの?」
 興味本位でアイシャは聞いてみた。彼が恐ろしいほど強いのは十分に想像の範疇だったので「セイにも」の一語に思わず力が入ってしまった。その問いはセイの機嫌をよくしたようで、彼は先ほどの不機嫌さをひっこめ、ご満悦の眠り猫のように目を細めて笑う。
「アイシャも知ってるよ。オレの弱点はヒスイ。オレ、ヒスイには弱いもん」
 確かにそれは真実。
 最大の弱点。けれど同時に、それは何よりもセイを強くしてくれる最高の強み。
 のろけられたと分かってアイシャは苦笑した。
 だが同時に気付く。その弱点と強みは誰よりも強くセイに働くけれど、しかしそれは彼に限ったことではないのだ。アイシャにしてもトーラにしても、イスカにしても多少はその傾向がある。
「改めて考えたことなんてなかったけれど、ヒスイの存在って本当に不安定なのね。それってやっぱり異世界からの来訪者だからかしら」
 独り言に近いその問いを受けて、イスカがほろ苦く微笑んだ。
「……ただの『異世界の来訪者』ならば、とうにこの『世界』からはじき出されています」
 沈黙がおりた。
 どういう意味だろう。アイシャのけげんな視線の先で琥珀色の瞳は厳しい光を宿していた。少年には似つかわしくない、時を経た大樹のような重々しい雰囲気を放っている。
「僕の話はまだ終わってはいないといったはずです」
 その雰囲気に息を呑んだ。
 アイシャは失念していた。確かに種族としては若いかもしれないが、イスカは決して見た目通りの年齢ではないことに。
 水を打ったように静かになった室内で、イスカの声だけがとうとうと響く。
「この『世界』は異物を嫌います。異物と認識されたものは『世界』からはじき出されます。それが、この『世界』の法則のひとつです」
 アイシャは空色の瞳を見開いた。
 セイは驚かなかった。それが当然だというように。
「予言の星が異端の星とも呼ばれたのは、おそらくヒスイ様の異世界の匂いを敏感に感じ取った占い師あってのことでしょう。異端のものは『世界』から強制的に排除されます。だから異世界からの来訪者などというものが、この『世界』で存在できるはずがないんです」
 ところが、とイスカは続けた。
「ヒスイ様の場合は違います。半分は間違いなくこの『世界』の、ホウ様のお血筋を引いておられます。だからこそ『世界』は自分が内包する命のひとつとしてヒスイ様が生きることを許してくださったのでしょう。異世界とこちらの『世界』、異端でありながらそうではない微妙な位置は、結果としてヒスイ様の気配をたどりにくくするという副産物を生み出しました」
 だから誰も、どんな占い師もヒスイの……予言の星の場所をたどることは出来なかった。
 この『世界』の法則に当てはまらない存在だから。
 けれど間違いなくこの『世界』が内包するべき命のひとつだったから、はじき出されもせずに不安定なまま存在していた。
 アイシャには初めて聞くことばかりだ。うろたえるばかりしかできない。
「じゃ、じゃあ! ヒスイじゃなくて、別の……まったくの異世界から迷ってきた人がこの『世界』に来たらどうなるの?」
「迷い込む前に『世界』から嫌がられて、元いた世界へ送り返されるでしょうね。そんな例はもしかしたらたくさんあったかもしれません。僕らが知らないだけで」
 この「世界」は生きている。沈黙しているようでいて自分の意志がある。異物を跳ね返すことくらいできるだろう。
 セイが淡々と答えた台詞はもっと怖かった。
「もしヒスイみたいに跳ね返されないで落ちてきたら、そりゃもう、予言の星なんかよりもはっきりと『世界』中の生き物が分かるだろうよ。すぐに見つけだされて排除、かな」
 排除。それは決して元いた世界に戻すという意味ではないと分かった。誰も来訪者の元いた世界など知らないし、戻し方だって分からないのだから。
「真珠がどうやって作られるか知っていますか。あれに似ています。母体となる貝は異物を飲み込んだら普通、吐き出します。が、どうしても吐き出せないものには分泌液を出し、それで異物をくるんで自分を傷つけないようにしてしまうんです。それが真珠です。真珠ほしさに無理に異物を埋め込めば、今度は貝が死にます」
「ヒスイさんは真珠かぁ。すっごい綺麗な例え」
 芝居がかって陶酔するセイの言葉はわざと聞かなかったふりをした。真珠なんたらの例えも海を知らないアイシャにはあまりピンとこない。医療を学んだアイシャの脳裏に浮かんだのは人体の免疫力の仕組みだった。普通はなんともない病気でも、体が弱っているときは死に直結する病となる。ヒスイはこの「世界」にとって弱らせた病の種のようなものか。だとすると、人間の体に相当する「世界」が弱ってきたときにこそ種は芽吹いて重い病を引き起こす……。
「大変なことじゃない!」
「だからそういってるんだってば」
 やっと理解したかとセイは嫌味たっぷりに笑ってくれた。本当に、ヒスイがいないときの彼はただの迷惑にしかならない。
 そのセイの瞳がすうっと細くなった。心の中を読まれたかと一瞬警戒したが、幸いなことに彼の頭の中は別のことで占められていたようである。
「何のためにそんな面倒なことをした……?」
 まるでセイには見えているかのようだった。ヒスイをこの『世界』に呼び出した誰かの姿が。イスカも頷く。誰が、ではなく、何のために、が一番大事なのだと。
 どういう意味だろう。
「今さら……そう、今さらなんだ」
「セイ?」
「今さらながら、オレ達は誰も、『予言の星』が具体的にどんな力を持っているのか知らないってことさ。ずっとヒスイを探してたサイハ様と、多分死んだ精霊の長を除いては」
 自嘲気味のセイの言葉に誰も返事は出来なかった。

   ***

 トーラは過去に潜っていた。
 星がいっぱいに散らばった空を「星の海」という例えに使うが、トーラの過去視はその星の海に潜る作業に似ていた。

 嘆きが聞こえる。
 暗い部屋。日の射さぬ地下だ。明かりはひとつもない。荘厳にして繊細、どこか静謐(せいひつ)な印象のある美しい部屋で、一人の男性がたたずんでいた。
 どこからか間接的に差す西日が段々と追いやられていき、明かりのない部屋は夕闇からいつしか完全な闇に浸されてしまった。
 男は、あたりの暗さよりも更に黒い、夜空を広げたような長い黒髪をしていた。
 顔には罪人の証である白い仮面。
(見つけた……)
 顔など見えなくてもトーラには分かった。ヒスイの父親と同じ気配。彼が、本人に間違いない。
 その男はというと寝台の上に座り込み、額づき、溜め息をついた。聞くだけで分かる、嘆きの声。若く美しいこの男は未来を憂い、己を責めていた。側で聞くだけで切なくなるほどに。

 空気が揺れた。
 トーラの「目」にはそれは空間が濁ったように見えた。そこだけ空間が歪んだように。星の光すら届かない、自然物ではない闇色の靄。その靄の中に銀色の光がぼんやりと見えた。
 ひたひたと足音が聞こえる。
 靄の中から、銀の天使を従えた黄金の女神が現れた。
 寝台の上に座った男もそれに気付いたらしい。ゆるゆると顔を持ち上げる。肩口を長い黒髪が滑り落ちた。
「誰だ?」
 男の目には金色の髪をした彼女しか見えていないらしい。けれどトーラの「目」は、金の女神の後ろに浮かんでいる銀の天使の姿を捕らえている。
 ……ふたりは同じ顔をしていた。
 靄が、室内中に蔓延していく。トーラの「目」でははっきり見えなくなって来た。異世界とこの「世界」の中間地点に移行しているのだと分かる。
 やがて声を発したのは男の方だった。
「お前は私を殺しに来たのか?」
 言葉の内容に女は驚いた気配を発する。が、すぐに狼狽は消えた。代わりに闇色の靄の中から感じられるのは怒りに似た強い感情の発露。今度は女が傲慢な程の口調で言い切った。
「誰がお前なんかを殺したがるか。赤の他人のために殺人者の汚名を着るのはごめんだ」

(……似てる)
 ヒスイに似ていた。敵に向かって切り捨てるような物言いをするときのヒスイもこんな雰囲気を作る。髪と瞳の色のせいで随分と印象が違って見えたが、よく思い出せば黄金の髪した彼女はヒスイによく似た顔立ちをしていた。ということは彼女がのちのヒスイの母親か。

 闇色の靄はすっかり室内を覆い隠し、トーラの「目」ではもう何も見えなくなった。

   ***

「見つけた……」
 トーラが目を開く。と、そこは寝室だった。意識が現実に戻ってきたのだ。
 まだ少し星見の余韻が残っているので瞬きを繰り返す。
「いたか? 誰だった?」
 声の聞こえる方に顔を向けると、最初に目に入ってきたのはセイの顔だった。ほっとして肩の力を抜く。
「いたわ。天使が」
「あぁ?」
「銀色の長い髪した天使が、闇色の靄の中からヒスイのお母様を連れてきたわ」
 トーラはトーラの見たままを伝えたのだが、なぜかセイは眉をひそめ、イスカは苦笑いを浮かべている。真面目に聞いてくれているのはアイシャだけだ。
「……お前ね。お伽話と現実をごちゃごちゃにするな。誰が、連れてきたんだって?」
「ごちゃごちゃになんかしてないわよ! 背中に白い鳥の翼を持った、きれいな女の人だったんだってば!」
 天使としか形容しようのない容姿をもう一度説明する。だがますますセイは首を振った。
「あのな、そんなもん現実にはいないの。あれは人間が作り出した架空の生き物なの。妖魔の亜種でも見たか?」
「違うってば!」
 いくらほとんど同族と接したことがないとはいえ、妖魔ならばトーラには分かる。あれは精霊でも妖魔でも、まして人間でもない。それなのにセイもイスカも信じてはくれなかった。
 するとそれまで黙っていたアイシャが軽く手を挙げる。
 けろりとして放たれた言葉は。
「あら。銀の天使の正体なら分かるわよ」


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