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翡翠抄−ひすいしょう−

第四章第三節第一項(080)

 

 日はすっかり暮れている。
 辺りは闇が支配し、今夜は静寂(しじま)の代わりに雨の音が支配していた。
 ――ヒスイは異世界からの来訪者だもん。
 告げられた言葉の意味は、口調とは裏腹に重いものだった。

 1.

 困ったように口をつぐんだセイの顔をトーラは二つの瞳で凝視する。
「……長い話になりそうね」
 彼の胸ぐらを掴んだ手がゆるみ、滑り落ちる。手とともに頭も次第に落ちていった。視点が定まらず自分の足元あたりをふらふらと見る。頭の中でもう一度セイの言葉を繰り返していた。彼の言葉が真実であるとトーラには信じられたから。
「ありえません!」
 怒りに打ち震えた声を発したのはイスカだった。これも確信に満ちた声音である。
「ヒスイ様は、紛れもなくこの『世界』の、ホウ様の娘御でいらっしゃいます! あの方の出自は疑いようがありません!」
 だから異世界からの来訪者などではありえないというのだ。この「世界」に祝福された人間から生まれた存在だからと。それもまた真実。
 アイシャはイスカとセイの顔を交互に見た。彼女は、どちらの意見も正否を判断できるだけの材料を欠いていた。だからどちらが正しいともいえないし、またどちらを信じてよいのかも分からない。
 セイはまだ困った顔をして、溜め息混じりにアイシャに話しかけた。
「アイシャ、台所から椅子を持ってきなよ。ホント今夜は長い話になりそうだから」
 項垂れたままトーラも言葉をこぼす。
「私は寝台の上に座るからいいわ」
 考えるより体を動かすことを好むアイシャは、行動を示唆してもらったこともあってぎこちないながらも動きをみせた。上の空で頭を下げて台所へと向かう。この部屋には椅子がひとつしかなかった。ヒスイが寝ていたとき、傍らでトーラが座っていた椅子だ。
 イスカは自分の言葉がないがしろにされたともう一度同じ台詞を繰り返した。顔を真っ赤にして怒りを隠してもいない。
「聞いているんですか、あなた方!?」
「聞いてないわ」
 セイが口を開く前に、鮮やかにトーラが切って捨てた。まさに間髪入れずというのがふさわしいような絶妙の間で。
「……怒っていないで、イスカも椅子を持ってきて座れば? 話はそのときに聞く。私も知っていることを全部話すわ」
 トーラは、ややふらつく足で後ろに一歩下がると寝台の上に尻餅をついた。額の紫水晶が動きできらりと光る。その宝石の上からトーラは額を押さえた。
「どうやら一晩中かかりそうね……」
 この「世界」には言霊が生きているという。溜め息の代わりに言葉をこぼした。夜は長い。

   *

 普段ならばとうに家人は寝入っているはずの一軒家の、手狭な寝室には男女四人が集まっていた。山の夜は昼間からは想像も出来ないほどに寒い。見るとアイシャは綿入れ羽織を一枚重ねていた。トーラも寝台の上に座って膝掛けをひっかけていたが男性陣はこの凍れるような寒さをものともしていないようだ。
「まず私から話すけれど」
 吐く息が白くなるかと思われたがまだ大丈夫だった。それでも四人は温かい暖炉のある台所ではなく、ヒスイの消えたこの寝室から動く気はないのだ。
 獣脂ランプの明かりは室内をくまなく照らすには暗い。互いの顔がわかる程度の仄暗い室内でトーラは三人の顔を見回した。トーラの右手側にはセイ、正面にはイスカの顔がある。イスカから見て右、トーラから見てイスカの左隣にはアイシャが座っている。
「この二年、ヒスイと私は離れていたけれど心はいつだって会うことが出来たわ。ヒスイは今のことは嬉しそうに話してくれたけれど昔のことになると口が重くなった。少し困ったような顔をして、かろうじて会話の端に出てきたのはお母さんのことくらい」
 イスカが頷いた。
 その表情から、イスカも心当たりがあるのだろうと思う。
「ヒスイがどこで生まれて育ったのか、お母さんとどうやって暮らしていたのか、まるで分からない。私の星見では十八年前、この『世界』のどこにもヒスイが生まれた痕跡が見あたらないんですもの」
 トーラは星見だ。星の囁きを聞き、星が見せていく過去・現在・未来を見る。星の輝きは不変で、星見はこの「世界」の歴史の一部をかいま見、それを告げる。
「星が生まれる瞬間を知っている? 青白いガスにくるまれて、産声をあげて数億年まではまだ赤ん坊なの。人の誕生も鮮やかな色を示すわ。私にはそれが見える。……ヒスイがこの『世界』に生まれたのは、予言の星が落ちたあの日なの」
 馬鹿な、と、それはおそらく全員が思ったに違いない。異世界からヒスイが来たと告げたセイでさえ例外ではないだろう。ヒスイは今年十八。トーラの言い分が正しければ、この「世界」に生まれてまだ数年しか経っていないことになる。
 イスカは口を引き結んで、ひざの上に置いた握り拳を強く握った。それでもトーラの話に口を差し挟むことはしない。話はまだ続いているからだ。隣に座るアイシャが気遣って彼の顔をそっと覗き込むが、イスカがそれに気付く様子はなかった。そこまでの余裕もないと見受けられる。トーラはそのイスカに向かって確認を取った。
「聞いた話なのだけれど、霧の谷の人間は生まれたときに精霊の祝福があるんですって?」
 イスカの口はこわばっていたが、尋ねられた問いにはわずかに逡巡することもなく即、答えを述べる。
「違います。精霊ではなく竜の祝福があるのです。精霊より竜の方が、あなたにも分かりやすい言い方をすれば偉いんです。例えばホウ様はお生まれになったときに火竜の祝福をお受けになりました。キドラは人間であった頃、氷竜の祝福を受けています」
 精霊と共存する霧の谷だからこそ上位に立つ竜の祝福があるのであり、外の国の人間であっても多かれ少なかれ土地の精霊の祝福を受けているのだとイスカは説明をくれる。トーラは頷いた。
「ヒスイは十六の誕生日、風の祝福を受けたの。精霊だったのか竜だったのかは私には分からないけれど」
 イスカは軽い驚きを見せた。
 普通は誕生の際に受けるべき祝福が、なぜか十六年遅れた。
「星見が届かない程の結界の中にいたか……あるいは最初からこの『世界』にいなかったかしか考えられなかったの」
 そこでトーラは口を噤んだ。
 もしもセイがいうように、ヒスイが異世界からの来訪者なら話が繋がる。十六の誕生日以前、ヒスイは異世界にいた。この「世界」にはいなかった。だから、初めてこの「世界」にやってきたときに誕生の祝福を受けたのだ。

 異世界云々はさておき、ヒスイは十六以前の経歴が不明である。
 誰もそれを知らなかったし、またわざわざ知ろうともしなかった事実。イスカはまだ信じ難いらしく表情が険しい。セイは青い目をイスカの方に走らせ、やはり考え込んでいた。他の誰よりも先に異世界という聞き慣れない単語を出しておきながら、彼の中でもイスカのいう「この『世界』に父親がいる」という事実が引っかかっているらしい。
「あの……」
 ためらいがちに発された声に全員が顔を上げた。
 発言したのはアイシャだった。
「森の中に落ちているヒスイを見つけたとき、あの子は変わった服を着ていたわ。ヒスイと最初に出会ったのは私なのよ」
 残る三人は息を潜めてアイシャの言葉を待った。ヒスイと最初に出会ったときのことを。
「服の形も変わっていたけれどそれよりも、変わった布地だったわ。織り方は普通の平織りだったけれど表面がつるりとしていて、なのに触った感じはざらついていて。縫い目も変。最初にヒスイを着替えさせようと思ったけれど、脱がし方が分からなくて結局ヒスイが自分で着替えるまでそのままだったのよ」
 まるで、この「世界」のものではないように。
 その当時の服は捨ててしまったとアイシャは続ける。あの頃は星が落ちた影響で隊商の皆が珍しいものに過敏になっていた。ヒスイも自分から捨てて欲しいといった、と当時を思い出すようにアイシャはゆっくりと語った。
「今にして思えば、ヒスイは異世界の匂いを消し去りたかったのね。一生懸命この『世界』を覚えようとしていた。なにしろあの時点で異世界からの来訪者だなんて分かっていたら……」
 どんな目にあっていたか、考えるだに恐ろしい。
 隊商はそれ自体が小さな村社会のようなものだ。ここで使う村社会という言葉の意味は、自分達の仲間の結束は固いがよそ者は敬遠するという意味である。

「ヒスイが異世界から来たって、なぜセイは知ったの?」
 アイシャの言葉につられて今度はセイに顔を向ける。やや苦い表情の青い男は視線を固定したまま足を組みかえた。
「ヒスイの心の中に潜ったことがあるから」
 トーラはきょとんと目を瞬いた。
 イスカははっきりと相手を非難する固い表情になり、アイシャも顔色を紙のように白くする。
「……ヒスイの、心の中を覗いたって、そういうことなの?」
 アイシャの声音は棘を含んでいた。
 セイの台詞を分かりやすく噛み砕いた言葉に、トーラはやっと理解する。そういえば人間は自分の頭の中を覗かれるのが嫌いな生き物だった。
 忘れていた。妖魔同士ならば何も問題がないことなのに、人間はそれを厭うということ。だから心を読むことのできる妖魔は人間の前でうっかり口に出さないように気を付けなければならないと聞いたことがある。すべての妖魔が心を読めるわけではないけれど、それは右の目と左の目、両方の目が見えるのに左の目で見た出来事だけ知らないふりをしなければならないようなものなのに。
 トーラにとっても他人事ではない。なぜなら、人間は自分の過去や未来を知られるのも厭う生き物だから。
 セイはアイシャの視線から目を逸らさず、にんまりと青い瞳だけで微笑む。
「いつだっけ? ほら、アイシャの前でヒスイが倒れたとき。ヒスイ、うなされこそしなかったけどとっても傷ついてたんだよ?」
 トーラも知っていた。あの時、セイはいった。「ヒスイが倒れたのは、アイシャが泣いたせいだよ」。その言葉に偽りはないけれど、逆に、なぜそれを知っていたというのか。
 心の中に潜り込んだからだ。
 ヒスイの心の内に秘められた痛みを知るのに、それは夢見ならば一番手っ取り早い方法である。
 セイがヒスイの心に潜り込んだのはそのときだけではない。トーラはそれも知っている。
 初めてトーラがヒスイに出会ったとき、彼はヒスイに知られない位置に陣取って自分達を見下ろしていた。思えばあれはヒスイに出会った初めての日であると同時に、初めて青い髪したセイと出会ったときでもあったのだとトーラは懐かしく思う。
 そのセイは、青い目をやっとトーラに向けてきた。
「というか、オレとしてはむしろお前が知らなかった方が驚いたけどね?」
「……多分、異世界の星とこの『世界』の星は別なのよ。私に異世界のことは見えないわ」
 星見は、星が見せていく客観的な出来事を見る。
 夢見は、個人の心に写る主観的な出来事を見る。
 どちらが優秀かというよりも、今回のことに関してはトーラの能力よりもセイの能力の方が適していたといえた。
 批判気味のアイシャとイスカの視線を再び受け止めて、セイは変わらず反省の色などまるでない声音で続ける。わざと相手の神経を逆なでさせているとしか思えないような軽い口調だった。
「ヒスイの心に浮かぶ風景がね、幼少期の回想だったんだけど……この『世界』のどこでもないんだ。文化も言葉もなにもかもが違うんだもの。ヒスイの頭の中はそれを常識だと捕らえてるし、変だなと思った。それにヒスイってば最初は随分な世間知らずさんだったよね?」
 それは育った世界とこの「世界」の常識が違うから。
 何もできない、何も知らない頃のヒスイを知っているのはアイシャとセイだけだ。セイはことさら嬉しそうな顔をして――ただしそれは心から嬉しいのではなく、相手を怒らせるための皮肉を込めた余裕であり――アイシャに微笑んでみせる。セイの言葉は正しい。アイシャは憮然としたまま黙り込んだ。
 代わりといってはなんだが、決然と言い放ったのはイスカである。
「それでも。まず、ありえません」
 セイが半眼で少年を見る。
「しつこいねー、お前も。そんなにオレらがいってること、信じられない?」
「いいえ。ヒスイ様が異世界でお育ちになったのはほぼ間違いないでしょうね」
 思ったよりあっさりとイスカは引いた。逆にトーラの方が驚かされたくらいだ。少年はそのことについてありえないといったわけではないらしい。
「僕が、『ありえない』といったのは確率の問題です。三度も同じように異世界と繋がりを持つことは確率的に『ありえない』といってもいいほど低いのでは?」
 一度ならいい。偶然で済む。
 だが、ヒスイは三度、育った異世界とこちらの「世界」を行き来しているとイスカはいった。
「ホウ様と奥方様が出会ったのが一度目です。お二人の出会いがあってヒスイ様がお生まれになりました。二度目はヒスイ様がお生まれになった直後。赤子のヒスイ様を抱いて名付けたとホウ様より聞き及んでおります。そして三度目は予言の星が落ちた時」
 全員の目がイスカに集中した。
「こうも簡単に行き来できるものですか? 偶然ではないなら故意です。では、誰が、何の目的で、ホウ様と奥方様を出会わせたのですか?」


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