2.
アイシャの涙はしばらく止まらなかった。イスカが一人「大丈夫ですよ」と繰り返してなだめ続ける。ヒスイが消える前の台所のやりとりから立場がすっかり逆転していた。セイとトーラは遠くから眺めやるだけである。セイは最初から興味はなかったし、トーラは先ほどの一件で喉に青黒い指の後がついてしまったので、わざわざアイシャに見せて心配の種を増やすことはなかろうと控えていた。
アイシャはまなじりをこすりつつ、今度は怒りの矛先をセイに向ける。
「あんたのこと嫌いよ、セイ」
子供がすねているのと変わらない態度なので、今度は誰も彼女の命の心配をしなかった。セイもまた軽く受け流す。
「どうぞご勝手に」
冷ややかに笑った。そして思い出したように付け足す。
「台所、スープを火にかけたままじゃないの?」
「え……あッ」
アイシャの意識はすぐにセイから逸れた。
いつものことながら、彼女は生活に根ざしたことに関してはとても前向きだった。慌てて台所に駆け込む。おそらくはもう頭の中から憤りは消えていることだろう。
しばらくして壁越しに絶叫が聞こえた。
「きゃーっ、お鍋が吹きこぼれてるっ!」
彼女の台詞を裏付けるかのように、かすかに焦げた匂いが台所の扉から漏れ出て寝室まで漂ってくる。それがあまりにも現実感をともなっていたのでトーラは思わず頬がゆるんだ。
「だからアイシャって大好き」
「お強い方ですよね」
イスカも扉を見つめて微笑んでいた。微笑んで、そっと扉を閉める。部屋の中を再び見回した彼の顔からはもう笑みは消えていた。セイは腕を組んで再び壁にもたれる。こちらもまた笑ってはいない。トーラも二人につられて表情を引き締めた。
セイはゆっくりと口を開く。
「……だいたい今までが異常だったんだ」
視線の先は定まらず虚空を見つめていた。トーラには台詞の意味が分からなかったので無言で先を促す。イスカは顎を引き、何かを考え込んでいた。
「妖魔、人間、精霊が一堂に会するってだけでも、まずありえない話なんだ。しかも三者が和気藹々(わきあいあい)としているなんて異常以外の何物でもない。じゃ、異常の原因は何か。これははっきりしてる。ヒスイだ。現にヒスイがいなくなった時点からここにいる三者は衝突を見せ始めた。現在こそが正常な状態だといえる」
続いた台詞に合わせて茶色の頭がはっと持ち上がる。本人は否定するだろうが、それはセイの言葉を肯定しているように見えた。互いが角を突き合わせるこんな状態が正常だというのなら異常なままの方がずっといいとトーラは思う。
「……妖魔と人間と精霊が一緒にいてはおかしいの?」
「そう。人間と妖魔、人間と精霊の組み合わせなら不思議はない。妖魔と精霊の組み合わせも全くないとはいえない……精霊が妖魔に服従している場合はな」
そこで青い目はイスカを見た。不承不承といった様子でイスカは頷く。
「基本的に精霊は人間に好意を持つよう出来ていますから。しかし、その感情よりも優先するのは主(あるじ)の存在です」
妖魔が精霊を従える主人であるならば精霊と妖魔の組み合わせでも不思議ではない。精霊は主に従うものだ。例え主が妖魔でも。現にサイハとキドラがそうだ。
精霊は先ほどイスカがいったように、基本的に人間が好きである。それが国家単位で成立していたのが霧の谷だった。
妖魔は人間を餌としているが、両者の精神構造は似通ったところがあるために想いを通わせ合うことはある。セイがヒスイを愛したのも、トーラがヒスイやアイシャを気に入っているのも特に珍しいことではなかった。
ところがこの三者が一堂に会するときというのは大抵敵同士として顔をつき合わせたときと相場が決まっている、とセイは続けていった。人間の精霊使いが妖魔と敵対するか、あるいは精霊を従えた妖魔が人間を襲うかのどちらかである、と。
ヒスイのように妖魔にも精霊にも望まれて、というのはまずありえない。さらにいうなら、そこで混乱が起きるわけでもなく、譲れないところは互いに領空侵犯しないという暗黙の了解によって平穏が保たれているというのはもっとありえないという話だった。例えそれが表面的な平穏でも、だ。トーラは説明されて初めて「そうだったのか」と思った。ずっと人間の中で育ち、他の精霊どころか同族である妖魔さえよく知らない。妖魔にとっての常識もトーラにとっては常識たりえなかった。
理解したのはヒスイがどこまでも特別だということ。
ヒスイはみんなに愛されている。
もしいなくなったのが自分だったら誰が泣いてくれるだろうかと、トーラは考えても仕方のないことを思って下を向いた。きっとセイは心配さえしてくれない。ヒスイさえ無事なら彼はそれで満足なのだから。アイシャは嘆いてくれるだろうが、それでもアイシャにとって一番大事なのは自分ではない。今はヒスイが一番大事で、いつか旦那様を迎えて子供が生まれでもすればアイシャは彼らが一番大事な存在になる。イスカが一番大事なのはきっと今でも亡くなったご主人様だ。次点でご主人様の忘れ形見であるヒスイだろう。トーラに固執する理由はどこにもない。いなくなってもすぐに忘れてしまうはず。
思い知らされる。誰もトーラを必要としていないということ。普段はつとめて考えないようにしているのだが、こうやってヒスイが特別であることを改めて説明されるとつい発想がそちらに向かってしまう。誰かに一番大事だといって欲しかった。トーラが欲しくて欲しくてたまらないものをヒスイはあっさりと手に入れている……。
もしかしたらヒスイだけはトーラが一番大事だといってくれるかもしれない。時々どうしようもなく羨ましく思うけれど、それでもトーラはヒスイが好きだった。ヒスイが自分達の中心にいることは間違いない。
……けれど今、ヒスイはどこにもいない。
「だけど、私は絶対にもう一度ヒスイに会えるわ。絶対に」
くじけそうになる気持ちを奮い立たせる意味で、トーラはあえて口に出した。
「その根拠は?」
問いかけるセイの声はとても意地悪く聞こえた。イスカは黙っていたがセイの言葉に対する答えを待っている。根拠のない慰めなど二人とも聞きたくはないのだ。
ちらりと彼らの方へ視線を走らせる。根拠ならあった。トーラは立ち上がると、まっすぐにセイの青い目を見つめる。……扉の向こうからアイシャが飛び込んでこないことを祈った。
声を低める。トーラは心持ち胸を張ってその上に掌を置いた。
「私はね。何の憂いもなく、寝台の上で死んでいくことが決まっているのよ」
声が震えることはなかった。ごく普通に言い放つことが出来たことに満足する。ただ、アイシャにだけは聞かれたくはなかった。
こちらを見つめる琥珀色の瞳がかすかに大きくなり、セイの片眉もやや上がる。
「それがいつ訪れる出来事なのかは知らない。でも私は自分がどうやって消えるのか知ってる。私は、私の大切な誰かを守って死ぬの。死ぬ前の私は自分の一生に満足しているわ。ちゃんと満足して、全てを残る人達にまかせて寝台の上で消失するのよ。ヒスイと再会しないまま私が消えるなんてありえない。もし再会しないままなんてことになったら、それこそどれだけ後悔したって足りないからよ」
それが根拠。トーラには断言できる。自分は、星見を違えたことはないのだから。
妖魔は人間より長生きする。おそらくアイシャは永遠に知ることはないだろうと思う。知るはずのないことをわざわざ告げることもない。同じ理由でヒスイにも告げてはいなかった。目の前にいる彼らは妖魔と精霊。トーラと同じだけ生きる寿命を持った種族だ。それに二人とも自分の胸のうちひとつに秘めることの出来る度量を持っているはず。アイシャを不安に陥れることはしないと思った。
イスカが、やはり扉を気にしながら小さな声で問いかけてくる。
「……ご自分がどうやって、その、亡くなるかというのを知るというのは……怖くないんですか?」
「普通は怖いんじゃない? だけど、星見は見たいものだけが見えるわけじゃないしね」
そんなものばかり見てきたのだから感覚が普通ではないのかもしれない。
意外なことにセイも同意してくれた。
「見えない方がいいこともある。隠された真実ってのは、大抵は痛いものだからな」
セイの力は夢見。人間の心の裏に隠された真実とやらを彼がどれだけ見てきたのかは知らない。だが同意してくれただけで嬉しい。トーラは微笑んだ。
イスカの表情は複雑だった。誰かを守って命を落とす、のくだりは今のイスカにとって禁句に等しい。誰よりも大切な人を守りきるのだと誓ったのにそれを全うできなかったばかりなのだから。イスカは真剣な目でトーラに向かう。
「あなたは、誰を守るという……」
彼は最後まで台詞を言いきることはできなかった。
扉が開いたのである。
「はい、ごめんなさいね、中座して。お鍋の焦げ付きがなかなか取れなくって、いらぬ手間がかかっちゃったのよ」
アイシャだった。扉を開いた手は水仕事のためか赤くなっている。
急な登場で部屋の空気が一瞬、止まった。
「……。みんなで何の話?」
止まった空気にアイシャが気付かないはずがない。
その問いに真っ先に答えたのはセイだった。いかにもけだるげにトーラを指差す。
「別に。くそガキの星見が役に立たないって話」
「何ですってぇッ。自分こそ何の役にも立ってないくせにぃぃッ!」
いがみ合う二人にイスカが白い目を向けて肩をすくめた。
「……あなた方、同じ会話を繰り返してよく飽きませんね?」
イスカは嘘が苦手である。すぐに顔に出るからだ。そのイスカの態度から悟られないよううまく本題から話を逸らしたセイの手腕は大したものだった。怒ったふりをしながらトーラは内心で舌を巻く。案の定、アイシャはまだいがみ合っていたのかと勘違いしてセイに不信感いっぱいの目を向けた。憎まれ役を買って出てくれたセイに、トーラはほんの少し感謝する。
「ところでね。さっき、お鍋を洗いながら考えていたのだけれど、ヒスイってばお母様の所に行っているという可能性はない?」
イスカとトーラに向かってアイシャはいきなり、そう切り出した。セイのことはわざと視界に入れないようにしている。
「お父様が亡くなったわけでしょう? お母様はまだご存じないのかしら。でもお知らせしたらきっと悲しまれると思う。今のヒスイと一番共感できるのはお母様をおいて他にいらっしゃらない気がするの」
そうかもしれない、とイスカは琥珀色の瞳を輝かせ始めた。
トーラは、思うところあって「それはないな」と思った。
「しまった、その可能性があったか!」
そう叫んだのはセイだった。ただしこちらはイスカのように喜びによって驚いたのとは少し様子が違っている。
「ああ! でもそうなると、こっちからは全然連絡が取れないじゃないか! それどころかヒスイが本当に帰ってくるのかも分からないし……なんで考えなかったんだろ、オレ!」
くしゃくしゃと前髪をかきまわす。青い目に浮かんでいるのは焦燥。先ほどまでの殺気を放ちつづける焦燥とは違っているが、ここまで混乱しているセイを見るのは全員が初めてだった。アイシャも空色の瞳を丸くしている。あまりの慌てように目をそらせることも出来ないらしい。
「……イスカ。ヒスイのお母様のこと、何か聞いてる?」
「いえ。ただ、ホウ様は二度と会えない方だと……」
イスカの目もセイに釘付けになっていた。訳が分からないのは彼もだ。セイはまだ何か自分の考えに取り付かれているようだった。早口でトーラにまくしたてる。
「おい、トーラ。ヒスイがいつ帰ってくるのかは分からないんだな? 百年後か二百年後か三百年後かも。妖魔だったらそれくらい長生きするよな!」
「う、うん……」
「あなた、馬鹿ですか? トーラ嬢が長生きしてもヒスイ様は……人間は三百年も生きないでしょうに」
イスカがあきれたようにいったが、それに対しての説明はなかった。精霊に馬鹿呼ばわりされても気付かないほどセイは慌てている。けれどイスカの台詞はトーラにひとつの考えを思い浮かばせるには充分だった。脳裏に稲妻のような輝きが閃く。思わずセイに飛びかかって、後先も考えずに彼の胸ぐらを掴んだ。
「あんた、何か知ってるの!?」
見下ろしてくる青い瞳の感情をトーラは考えている余裕はなかった。周りのことなど何一つ見えず自分の問いの答えだけに意識が集中する。必死に食い下がった。セイの言葉を欠片ももらさないようにと。
「ヒスイが、十六の誕生日以前にこの『世界』にいなかったことと、何か関係があるの!?」
アイシャやイスカが今、どんな顔をしているのかさえトーラには見えなかった。
セイは唇を引き結ぶ。この男にしてはめずらしく瞳の奥に迷いが見て取れた。話すべきか話さぬべきか、青い瞳が不安定に揺らめく。覚悟を決めた唇からはひどく頼りない声音がこぼれた。
「だってヒスイは……異世界からの来訪者だもん」――セイ以外の全員、頭の中が真っ白になった。