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翡翠抄−ひすいしょう−

第四章第二節第一項(078)

 不協和音

 1.

 こじんまりとした寝室には四人の男女が集まっていた。室内は重苦しい沈黙が支配する。彼らを繋ぐたったひとつの要がこの場から消えたから。
 すべてを見通す目を持った星見の妖魔は、寝台の上に座り込んで残る三人を見上げていた。特に、壁際に寄りかかって立っている、剣呑な目をした青い男を。
「ヒスイはどこにもいない。私、これでも遠くを見ることにかけてはかなり自由に見えるようになったのよ。でもいないの。どこにもいない」
 それがどういう意味なのか。
 セイは沈黙を守っていた。凍れる眼差しでトーラを見つめる。扉の側に立っているイスカはうつむいて、何かを考えているように見えた。そんな三人をただ見守るしかないのは窓際に立っているアイシャ。
「つまり、どういうことなの?」
 セイに話しかけても無駄だと思ったのか、アイシャは対角線上にいるイスカに問いかけた。
「星見がどこにも見えないと言い切ったということは、ヒスイ様が『現在』という時間の中に存在しないということです。どこにいったかの問題ではもうありません。普通、こういう状態になった場合は本人が亡くなったと考えるのが妥当です」
 それこそがトーラも、セイも危惧していること。
 そして人間であるアイシャだけが分からなかったこと。空色の瞳を大きく見開いて、アイシャは顔色を変えた。
「な……、さっきまでここにいたじゃない!」
「ええ、分かっています。それは、ここにいる全員が分かっているんです。だからおかしいと僕らは原因を考えているんです。……ご理解いただけましたか?」
「ご理解したわよ、ええ、たった今ね」
 髪をかき上げてアイシャは唇をゆがめた。彼らが何に心を痛めているのか、それに気付かなかった自分が呪わしい。受けた衝撃ゆえか体がふらつき、一歩後ろへと下がった。
「考えたって結論が出るわけじゃないけどね」
 冷淡に言い切ったのはセイ。
 その瞳は触れたものをすべて切り裂いてしまいそうなほど鋭かった。いつものことながら、ヒスイが側にいるときだけ彼は優しいのだと気付かされる。今はもう人好きする気配の欠片もない。赤毛の、人間の姿に擬態しているというのに気性は妖魔のそれに戻っているかのようだった。
 セイはやぶにらみの目をアイシャに向ける。
「ヒスイが自分からどこかに消えたとでも? 荷物も服も、靴さえも置いていったままで? 一人で内側から鍵のかかった窓から出ていったとでもいうのか? それとも、オレ達が付近にたむろしていた扉から誰にも気付かれず抜け出したとでも? この雨の中!」
 ひとつひとつにトゲのある台詞が飛び出した。
 確かに枕元には脱いだ衣服や帯がきっちりと畳まれて残されたままだった。足元には靴も揃えられているし、荷物は口をしっかり閉じたまま靴の隣に並べられていた。おそらくは金も武器も全部荷物の中に残っているのだろうと分かる。
 外は雨。気分さえも気鬱にさせる音がセイが黙った後の室内を満たした。
「でもヒスイは生きているわ」
 沈黙を破ったのはトーラだった。
 全員が、寝台の上に座る彼女に注目する。
「私とヒスイは魂の双子だもの。ヒスイに何かあれば私に分からないはずがないわ。ヒスイは今、ちょっと迷子になっているだけなのよ」
 その言葉はアイシャの心に温かい灯火を与えた。しかし、希望という名の灯火を粉々にうち砕いてくれたのはまたしてもセイである。
「なのにお前にはヒスイがどこにいるのかさえ分からない」
 星見としての能力さえ疑うような台詞だった。トーラの顔色が一瞬で真っ赤に染まる。もちろん怒りゆえに。
「ヒスイは! 予言の星だから元から気配をたどりにくいのよッ。今日まで世界中の占い師が予言の星の場所を占い続けてきてるのに、いまだに見つかったことないのよ? はっきりいって私以外の誰もヒスイを見つけることなんて出来ないの。その私が、いないっていってるんだからヒスイはどこにもいないの! でも生きているんだってば!」
 矛盾している理論を振りかざして、怖いもの知らずのトーラはセイにくってかかった。はっきりいってアイシャとイスカの目には無謀としか見えない。周囲がはらはらとトーラとセイをかわりばんこに見つめる中、トーラは青い目の彼に指を突きつけた。
「そんなに星見が信用できないならあんたが見つけてみなさいよ! 夢見が惚れた女の気配ひとつ捕らえきれないなんて、そんなことあるはずないでしょうッ?」
 トーラの目は自信に満ちていた。
 対し、いままで絶対的な優位に立っていたはずのセイは苦い顔になる。アイシャはそのときに初めて知った。セイも、ヒスイがどこにいるのか分からないということ。
 トーラは確信していたのだ。セイも、ヒスイの居場所を見つけられないことを。それは本来のセイの力から考えると「ありえない」ことであることも。だから一見、矛盾した理論を振りかざした。それはセイも感じていることであるから。
 ヒスイは生きている。けれど、どこにも存在しない。
 まるで解けない謎解きのようだ。深い溜め息をついてアイシャは寝台に腰掛けた。
「……なんなのよ、もう。訳が分からないわ」
 独り言だった。
 しかしこの場で一番ピリピリしている男の神経を逆なでするには充分だったようである。セイの声は刃と化してアイシャを襲った。
「口先だけの人間風情が。ぼやくことしか出来ないなら黙ってろ」
 それは小さな衝撃だった。普段のアイシャなら受け流せたくらいの小さな。けれど今の状態ではそれは心にひびを入れかねない楔となった。
 何も出来ない。
 アイシャは無意識に服の裾を固く握りしめていた。
 自分の無力さに憤慨し、人間を見下す妖魔の傲慢さに吐き気がした。
「アイシャにひどいこといわないで!」
 衝撃が涙となってこぼれ落ちる前にトーラが立ち上がる。それがなんとなく嬉しかった。泣いたら負けだと思った。かろうじて涙をこぼす前に堪え、セイに反論してやろうと振り返る。
 セイは……目をすがめたまま右手でトーラの喉を掴み、持ち上げた……。
「何するの!」
 アイシャの声をきれいに無視してセイは細く目をすがめたまま、目線の高さまで持ち上げたトーラの瞳を覗いている。
「あーんまり生意気ぬかすとお前でも承知しないよ?」
「……っ」
 薄紫の瞳は苦痛で歪んでいる。もはや声さえあげることが出来ないくらいに。
 セイの瞳の色がいつもより暗い色をたたえているのにアイシャは気付かない。
「やめてって……!」
「放っておいたらいいんです」
 アイシャの台詞をさえぎる形でかけられた声に、絶句した。
 寝台を挟んで向こう側、琥珀色の瞳は憐憫の欠片もなくトーラを見ていた。
「妖魔同士でやっていることです。アイシャさんが口を出すことではありません」
 少年の声は冷静だった。いや、冷淡にさえ聞こえたのはアイシャの気のせいだろうか?
 優しいと噂される神官が、違う宗教を信じているというだけの他人を率先して糾弾するところをアイシャは見たことがある。だけど。
「……イスカまでどうしたっていうのよ……?」
 アイシャの知っているこの少年神官はいつだって穏やかで、優しかった。くるくるとよく働いて、誰に対しても丁寧で、もちろんトーラにだって失礼なことをいったことはなかった。なのに心の奥では、彼は妖魔全部を嫌っていたのだろうか。それとも妖魔にご主人様をあやめられたから?
 考える前にアイシャは行動に移っていた。寝台の上を移動してイスカに向かう。
 止める者は誰もいなかったが、もしいたとしても止めようがないくらい素早く手が動いた。

 小気味よい音が鳴り響いた。

 その音を合図にセイは手を放した。
 落ちたトーラの体は寝台の上に投げ出され、怪我はなかった。喉を押さえてむせかえる。アイシャはまだイスカに向かっていた。
 何もいわなかった。いえなかった。ただ悔しくて、なぜ悔しいのか分からなくて、とにかく悲しかった。だからまなじりから涙がこぼれたことも気付かなかった。
 イスカはというと。
 なぜかアイシャを見てにっこり笑った。
「お優しいんですね」
 柔らかな、いつもの微笑みだった。叩かれたことなど気にも止めていないような優しい笑顔。あまりにいつもと変わりない微笑みをするからアイシャの目からまた涙が落ちた。
「……なんで『放っておけ』なんていうのよ……」
 言葉と同時にまたぽろぽろと涙がこぼれる。涙に「でるな」と内心でつぶやいてアイシャは乱暴に目元をぬぐった。イスカの人が変わってしまったかのような先ほどとは別の理由で涙が出る。
 からかうような声が飛んできたのは次だ。
「助けたのに殴られてちゃ、割りに合わないわなぁ?」
 セイの声はイスカに向けられたものだった。
「最初の原因はみんなあなたでしょうが」
 今度こそイスカは微笑まなかった。固い声をセイにむけたあと、困ったような笑みでアイシャに向かう。泣かないでください、と。
「あのね、アイシャさん。セイは絶対にトーラ嬢を死なせたりはしません。ヒスイ様に繋がるたったひとつの切り札だからです。でもそれ以外の、僕や、アイシャさんはセイにとって……はっきりいってしまうと、どうでもいいんです」
 アイシャはイスカの顔をまじまじと見つめた。
「僕は自分で身を守れます。アイシャさんがセイに対抗できるのはヒスイ様あってのときだけでしょう? だから、セイの機嫌が悪いときは下手につっかかっていっちゃ駄目ですよ。腹が立つこともあるでしょうがアイシャさんの命の方が大事です。腹が立ったことはあとで全部ヒスイ様に言いつけて叱っていただきましょう」
 微笑みながらとんでもないことをいってのける。
「おいコラ」
 セイの主張は残る三人によって無視された。
「言葉が足りなくて不安にさせてしまいましたね。ごめんなさい。けれど、絶対に命の保証がされているトーラ嬢と、そうでないアイシャさんなら僕はアイシャさんを守ります」
 そういって彼は琥珀色が見えなくなるまで目を細めて微笑んだ。
 肩の力が抜ける。
 優しいままでよかったという安堵と、勘違いでひっぱたいてしまったという後悔が一度にアイシャに襲いかかってきた。
「私……っ。ご、ごめんなさい、イスカ。本当に、ごめんなさ……」
「あ、それはもう気になさらないでください。大地の精霊は他の精霊に比べて丈夫なんですよ」
 それは本当だろう。けれどまた、涙腺がゆるんできた。
「え? ええ? もう泣かないでください、アイシャさん。あの、ホントに、大丈夫ですから……!」

   *

 うろたえるイスカと泣くアイシャを後にして妖魔二人はぼやいていた。
「なんかオレ、悪役みたいなんですけどぉ」
「『みたい』じゃなくて、まんま、悪役じゃないの。もう少しで首が絞まったわよ」
「だからちゃんと手加減してやっただろうが」
「あれで? ……もういい。なんでもない。私の認識が甘かったわ……」


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