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翡翠抄−ひすいしょう−

第四章第一節第三項(077)

 3.

 台所で、椅子の倒れる音が大きく響いた。

 イスカが目の前で起こった大きな音に目を丸くする。アイシャは、思わず両手をついて立ち上がっていた。両足を踏ん張って唇を真一文字に引き結ぶ。
「あんたが消えたら、私、泣くわよ」
 目の前にある丸い目が更に大きく見開かれた。最初はぽっかりと口を開けてアイシャの顔を凝視し、次に青くなってどっと汗をかいたかと思うと、傍目にも明らかなほど狼狽しはじめる。
「え……。え? あ? あの、あ、アイシャさん……っ?」
「二度と! 私の目の前で! 消えたかった云々なんていったら承知しない!」
 もしも隣近所なんてものがあったら全てに響き渡りそうな声量でアイシャは怒鳴りつけた。
 死にたくなかった人を知っている。
 死んで欲しくなかった人も、いた。
 目の前でまだ生きている者がそれを口にするのだけは我慢できない。
「泣くわよ。絶対泣くって自信があるわ」
「そんな無茶な!」
 半泣きでイスカも立ち上がった。心配されるより泣かれる方が堪えるらしい。けれどアイシャはそれで納めるつもりなどなかった。卓の上についた掌を握り込む。その手が小刻みに震え始めるのをアイシャは止めようとしたが成功しているとは言い難かった。
「関係ないでしょう? イスカのことじゃない。私のことなんだから。残される側だってたまには我が儘をいったっていいじゃないの」
 残される側、という一言でイスカは表情を引き締めた。イスカは今まさに残された側にいるのだから。イスカが旅立てばアイシャ達が残される側に回るだけのことだ。
 ……もう捨てられるのも置いていかれるのも真っ平だった。小刻みに震えていた拳がさらに大きく、わなわなと震えが走る。
 イスカの目から涙はもう止まっていた。

 膠着状態になった二人の耳に、いきなり拍手の音が聞こえた。
 緊張が一気に解けるようなのんきな音だった。手を叩く音の聞こえる方向に、二人は同時に顔を向ける。台所の扉にもたれかかるようにしてセイが手を叩いていた。
「やぁ、お見事お見事。アイシャさん、大演説」
 演説に対して賛美の拍手。隣にはトーラもいたが、さすがにこっちは手を打ち鳴らしてはいなかった。
「やだ! セイったらずっとそこで見ていたの?」
 赤面しながらアイシャは卓の上から手を放し直立の姿勢に戻る。イスカも再び腰を下ろした。
「えー? 別に盗み聞きするつもりはなかったんだけどぉ。アイシャさんの啖呵があまりにも威勢がよくて、耳をそばだてなくてもよーく聞こえてたから、つい、ね」
 暗に大声だったことをいわれて、さすがに恥ずかしさが立つ。アイシャは無言で後ろに倒した椅子を直した。
「……ヒスイは?」
 もうひとつの気がかりについて尋ねるとセイはけろりとして答えた。
「一人にしてくれって。まだちょっとお疲れみたいだから、一眠りしたあと何か食べるもの持っていってあげて?」
 セイの表情は普段と代わりがない。が、傍らのトーラは口をしっかりと閉ざし、うつむいた。
 アイシャは思わず眉をひそめる。
「何かあったの……?」
 もしもセイの言葉だけなら変化には気づけなかったかもしれない。隠し事の苦手なトーラが側にいるからこそ気付いた。問いかけこそ疑問形にしたが、アイシャ達には知られたくないようなヒスイの変調があったのだと確信する。
 セイは眉を上げておどけてみせた。
「別にぃぃ? あ、おい、チビ。お前のご主人様は首をちょんぎられて、頭はサイハ様が持っていったってさ」
 口振りはあまりに軽やかだった。イスカがまた固まる。
 気色ばんだのはアイシャの方だった。
「ちょっと! 折角、浮上しかけたところをまた撃沈させないでよ!」
 アイシャの台詞はきれいに無視し、セイはアイシャとイスカを交互に指差してトーラに向かう。
「見たか、あれが普通の反応だ。ヒスイがちょっと顔に出さないからって、さっきの発言は思いやりがなさすぎたぞ?」
「だって……。……ううん、ごめんなさい。ヒスイのこと、もっと考えるべきだったわ」
 しょんぼりとトーラは項垂れる。
 人をダシにして教育するな、とアイシャは心の底から思ったが口には出さなかった。いや、どうせ顔に出ているだろうから言う必要もないといった方が正解かもしれない。可哀想なイスカは顔面蒼白になって固まったままだった。無理もない。
 そこまで思って、同じ事をヒスイにも当てはめた。アイシャの顔色が変わる。
「もしかして、ヒスイはそれで落ち込んでいるの?」
 トーラが顔を上げた。自分のせいだろうかと薄紫の瞳は自問している。隣に立つセイは憎たらしいまでの笑顔で首を振った。
「それだけじゃないけどね。ヒスイは事態が起こってから悲しむまで時間がかかる人だから」
 人を馬鹿にしたような笑みが、ヒスイを語るときだけ河原の石のように角が取れた丸さを帯びる。
「ここまで逃げてきたことで頭も冷えて、お荷物のこともアイシャさんにまかせることができて、安心したんじゃないかな? 事後処理すませて落ち着いてきてからやっと『辛い、悲しい』って波がくる性格してるからね、ヒスイさんは」
 それは随分、損な性格のように思えた。
 しかし言っている意味はよく分かる。人間、許容量を超えた感情に遭遇すると多かれ少なかれ、そういうことになるのではないだろうか。
 アイシャは先刻直した椅子をひき、改めて腰掛ける。勢いがついたのか椅子はぎしっと音を立てた。
「ちょうど悲嘆にくれる時期に入るってわけね、今からが……」
 本当にどこまで不器用なのだろうか、ヒスイという娘は。ヒスイ本人への憐憫と彼女を取り巻く環境への同情、怒りなどなど、色んな思いが混ざり合い溜め息と化してこぼれた。

   *

 台所の音や声は充分大きかったので、部屋にいながらヒスイはアイシャの怒鳴り声もセイの拍手も全部聞こえていた。
 ヒスイとイスカのことを皆、心配をしているのだと分かる。
 早く立ち直らなければならない。心配をかけてはいけない。でないとアイシャが、泣く。
 女の人に泣かれるのは苦手だった。
「……元気に、ならないと」
 口に出してみたが、それはなんだかとても遠くから聞こえるようだった。
 室内の明かりは落としてあった。薄暗い部屋の中でヒスイは目元を覆い、外の音に耳を澄ませた。外からは雨だれの音。水が山肌を流れていく音まで聞こえるようだった。心配そうなアイシャの声はあたたかかった。セイの声はいつも通りふざけた高い声で、もっと高いトーラの声が一番よく響いた。イスカの声はほとんど聞こえない。椅子を引く音。誰かが座った。それから誰かが苦い溜め息をついた。聞こえるはずのない音がまるで見えるようによく分かる。この溜め息は泣きそうになっているから、アイシャかもしれない。
 風の渡る音がよく聞こえた。
 雨の勢いは強くなった気がしないのに、風の吹き抜ける音だけは先ほどよりもよく聞こえた。ヒスイを慰めるように吹いている。
 その風が、もういない父の声までも運んできたような気がした。
(ヒスイ)
 誰よりも繊細で穏やかで、美しかった人。
(ヒスイ。私の娘。誰よりも愛しい私の……)
 手をさしのべて柔らかく笑った。笑ってヒスイを抱きしめた。その度に、ずっと小さな頃から知っている気がしたものだ。幼い自分が父親の側で笑っている気が。
(愛しているよ、私の娘)
 幼い自分を高々と抱き上げる父。側には母がいた。そして微笑んで父娘の様子を見守っていた。
 これは、夢だ。こんなことはなかった。
 記憶と夢が曖昧になる。
(おとうさん、大好き)
 小さなヒスイがそういって父親に抱きついた。側で母が笑う。
(お母さんは?)
(おかあさんも大好き!)
 それは決して現実にはならなかった過去。父が、母が、そしてヒスイ自身も望んだはずの……けれど叶わなかった夢。
 あの人はいなくなった。それが現実だ。

 風が吹き続ける。体が軽くなった。
 先ほどまでたしかに寝台に横たわっていたはずなのに、今、ヒスイは大地を踏みしめて立っていた。目の前にあるのは寝室ではなく足元も見えないような闇。そこには何もなくただ風が吹き続けるのみ。
 これは夢の続きなのだろうか?
 既視感。……なぜかヒスイはこの場所に覚えがあるような気がした。明かりひとつない一面の闇に不安を覚えないのは、今のヒスイの心象風景を表したようだからかもしれない。ぼんやりと詮無いことを思った。
 この闇を抜けたところに何があるのだろう……。
 吹きすさぶ風に誘われるようにしてヒスイは闇の中を歩き始めた。

 ヒスイは知らない。
 両親はこの闇の中で出会ったことを。
 母は、父親と出会った場所をただ夢の中としか説明しなかった。それでもヒスイはこの闇を知っていた。

   *

 台所で。四人の上に漂う空気は再び重く苦しいものへと変わっていた。が、突如、電流のように走った緊張がその重い雰囲気を切り裂く。
 真っ先に気付いたのはセイ。それに瞬き一回分ほどの遅れを見せてトーラとイスカも気付く。三人はそろって、ヒスイの寝ている寝室の方向へと顔を向けた。
 一番最後に、何も分からなかったアイシャが三人の変化に驚いて目を瞬く。
「なに? どうかしたの?」
 その言葉が合図だったかのように、三人はまとめて寝室に駆け寄った。狭い家である。それは一足飛びといってよい早さだった。
「ヒスイ!」
 最初に、セイが勢いよく扉を開けた。その勢いで出口を探していた風が外に出る。窓を開けっ放しだったのだろうかとアイシャも近づいた。
「なんなの? ヒスイがどうかしたの、ねぇ?」
 セイを始め、彼らは入り口に固まったまま動く気配はない。仕方ないのでアイシャはトーラの肩をひいた。
「どうかしたの?」
「……ヒスイが……」
 やっぱり何かあったのかと、アイシャはセイとイスカをかきわけて部屋に入り、暗かった部屋に明かりを灯した。

 部屋はもぬけのからだった。

 寝台の上には人が寝ていたままの形で丸い盛り上がりが残っていた。窓はぴったりと閉ざされている。そう、雨が降ったから閉めたはずだ。アイシャは窓辺に近寄る。鍵は内側からかけられたままだった。
 ここからヒスイが出ていったなどというのは考えられない。
「……。ヒスイはどこへ行ったの?」
 扉からご不浄へ出ていったのだろうか? それにしては布団の形がきれいなままであるのが気がかりだった。それに先ほどの風はなんだろう。すきま風が入ってくるような部屋ではないはずなのだが。
 アイシャは釈然としないまま三人を振り返る。セイは苦々しい顔をしており、トーラは狼狽していた。イスカは先ほどと同じく蒼白のまま、それでも悲しみ以外の感情を浮かべて閉ざされた唇を開く。
「ヒスイ様の気配が、消えました」
「は?」
 意味がわからない。
「……僕らにも分かりません。けれど、先ほどまでここにいらっしゃったはずのヒスイ様の気配が、たった今、突然消えました。まるで空気に溶け込むように。ヒスイ様の気配は元々たどりにくいのですが、それでも僕らがあの方の気配を感知できないなどあろうはずがありません」
 イスカにとっては命より大事なご主人様の最愛の娘、セイにとっては最愛の女、トーラにとっては魂の繋がった双子の姉なのだから。
「でも、消えたって……人間が簡単に消えたりするはずが……」
 事の異常さには気付いたものの、最初から気配を判別することなどできないアイシャには今ひとつ彼らが焦っている意味がピンとこない。
 そうこうしていると冷たいセイの声が聞こえた。
「ヒスイは一度、空間を飛んでるよ。大地の神の神殿で、地下の妖魔に襲われたときに」
「知らないわよ。それだって後から聞かされただけなんだから……」
 確かそのときは、アイシャは気を失っていた。
 アイシャにはそれ以上向き合わず、セイはトーラに問いただす。いや、その口調は命令といってもよかった。
「どこだ。お前ならたどれるだろう。ヒスイはどこに消えた?」
「……えっと……」
 薄紫の瞳が右へ左へと彷徨う。淡い蜂蜜色の頭を抱え、トーラの瞳の焦点が定まらなくなった。
「トーラ……」
「お静かに。星見の最中です」
 すっかり調子を取り戻したイスカがアイシャを止める。彼ももう落ち込んでいる場合ではないのだ。イスカが元気になってくれたのは嬉しいが今は本当に、それどころではない。
 トーラの視線はまだ定まらない。
 次第にセイが非常に不機嫌な気配を放ち始める。
 少女の口からぽつりと言葉が漏れたのはその直後だった。
「いない……」
「何だと?」
 物騒極まりない、鋭利な刃物の声。切って捨てるようなその声にもひるまずにトーラは顔をあげて、泣きそうな表情でセイに向かった。
「どこにもいない! この『世界』の、今現在どこにも、ヒスイが存在しないの!」
 空気が音を立ててひび割れた。


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