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翡翠抄−ひすいしょう−

第四章第一節第二項(076)

 2.

 さて、セイがヒスイを抱きかかえて寝室に入ってから、後をまかされたトーラは全く役に立たなかった。何をしていいのやら分からず立ちつくすのみ。結局あとはセイが進んですべてを取り仕切ることになった。雨で濡れた髪を拭いてやり、靴を脱がせ、腰の帯を手早く解き、きっちりと合わせられていた服の襟をゆるめる。ヒスイはその間きりきりと眉じりをつり上げていたが――それはもう、何か怪しい動きをしたら許さないとの監視員のごとき眼差しで――、おとなしくされるがままにまかせていた。
 頬をぷうっと膨らませているのは役立たずの烙印を押されてしまったトーラの方である。
「……なんで妙に手慣れてるのよ」
「言わずもがな」
「この助平! 変態!」
「男を知らないお子ちゃまにいわれたくありません。あ、ヒスイ、お湯があるそうだから、ついでに足をあっためようか?」
 ぎゃんぎゃんとわめくだけのトーラを無視して、セイは台詞の後半をヒスイに向ける。ヒスイはというと小さく首を振って拒否を示した。寝台の上で枕を腰にし、上半身だけを起こしている状態である。弛緩した体はもう復調しているだろうが気疲れが今になってやってきたと見える。辛そうなのは変わっていなかった。
 ヒスイの背中を起こし、セイはやはり手慣れた動作で上着を脱がせてやる。トーラが頭を抱えて固まった。
「あんた、どさくさに紛れてヒスイに何する気なのよぉぉぉっ!」
「あー、うるさい。ヒスイさん、ちょっとこれ黙らせてくれないかな」
「……無理、だ」
 すぽんと頭から上着を抜いてヒスイは一息つく。服の下には夜着があった。トーラは目を丸くする。
「横になるには、こっちの方が体が楽だろう?」
 苦笑混じりの彼女の台詞にトーラは勘違いに気が付いたらしい。顔を赤くする。
 ヒスイが夜着の上に服をひっかぶって出ていったのをセイはちゃあんと覚えていた。それはもう、いいところを邪魔されたのだから嫌でもしっかり記憶に残っている。
 上下とも楽な格好になり体を横たえるとヒスイは大きくひとつ、息を吐いた。隣ではトーラがヒスイの手を握り、もう反対側ではセイが彼女の衣服をきちんと畳む。
「我ながらオレってかいがいしいなぁ。こういう尽くす男、いらない?」
「……トーラ。代わりにこいつ殴っていいぞ?」
 トーラは肩口で切りそろえた蜂蜜色の髪を振った。波打つ髪が柔らかく、だが勢いよく揺れる。
「お願いだから怖いこというのやめて。私に寿命、縮めろっていってるのと一緒だから」
 ヒスイは、大げさな、と苦笑していたが決して大げさでないのはトーラと、なによりセイ本人がよく知っていた。ヒスイに隠れてこっそりと笑う。決してヒスイの前では見せない類の笑顔で。トーラはそれに気付いたのか必死に話の矛先を変えようと頑張っていた。
「何か食べる? アイシャがね、美味しいスープを作ってくれたの」
「いや……。今は、いい」
 いつもよりもゆっくりと、噛んで含めるような口調。セイに向かって背を向けていたけれど、どうせまた心配かけまいと微笑を浮かべているのが声から想像できた。それに刺激されたのかトーラの涙腺がまたゆるむ。
「ごめんなさい!」
「トーラ?」
「……ごめんなさい。ヒスイのお父さんが……ごめんなさい……」
 薄紫色の瞳から涙が盛り上がって、それはあっさりと洪水を起こす。ヒスイがあまり感情を外に出さない分、代わりにトーラが泣いているかのようだった。ヒスイの方が慌ててなぐさめ役に回る。これでは立場が逆だ。手を伸ばしてトーラの柔らかな髪を何度も撫でてやる。
「お前が謝ることじゃないだろう?」
「でも、ごめんなさい!」
 ずずっと鼻をすする音がする。セイはうっとうしさのあまり目をすがめた。
 ヒスイの反応はそれとは別だった。体を半分起こし、髪を撫でる手がゆるやかに止まる。これまでのかぼそい口調とは違った明瞭な声を発した。
「お前が謝っているのはキドラのことか?」
 紫の目をした子供……正確には、もう成人に手が届く少女の姿をした妖魔は、あからさまに身をすくませた。ヒスイの口調は固いまま、更に問いを重ねる。
「そうなんだな? キドラがやったんだな?」
「……」
 答えは返事を待たないでも明白だった。トーラは無言でぽろぽろと涙をこぼしつづける。この星見の妖魔は、裏切られたと分かった今でもあの人間くずれの氷の精霊を慕っているのだ。
 ヒスイの前では決して口には出来ないが、セイは、サイハならやりそうだなと考えていた。憎んで憎んであまりある相手を引き裂かせてやるとでもいってキドラを誘いかけたのだろう。そしてその通りにした。それは手の込んだ遊び。遊びの難易度は高いほど面白い。霧の谷の陥落など最高の「遊び」ではないか。
 トーラは顔をあげず、服の袖で涙をぬぐった。
「……キドラが、精霊の長の胸を突いたの。あの、ヒスイも狙われたことのある大きな氷の剣で。キドラはね、精霊の長をうらやんでいただけなの。自分が欲しくて、でも手に入らないものを自分より劣ってると思っていた相手が手に入れていたから」
 トーラの言葉で語られるとキドラの殺意も子供じみた理由ですまされる。馬鹿馬鹿しいまでに。だがトーラが語るそれも真実の一面だった。
「サイハ様は、誰かとお約束しているといって精霊の長の命を奪おうとはしなかった。でも、その約束に縛られていたから代わりにキドラが動いてくれるように取りはからったんだわ。ずっと精霊の長を憎んでいるらしいことをいっていたもの。ずっと、この手で殺したかったって」
 顔を上げる。ヒスイの瞳をまっすぐに見つめた。
「キドラと精霊の長は一騎打ちをしたけれど、精霊の長は強くて結局騙し討ちみたいになってしまったの。それでもヒスイのお父さんは何も残さずにいったわ。恨みごとも、悔しさも、後のことを深く気にかけてその想いに捕らわれることもなかった。なんにも濁った気持ちを残さずに魂は自由になったの。ヒスイのことはヒスイのお母さんがきっと守ってくれるって!」
 ヒスイの動きが止まった……気がした。
 いや、止まったのはこの場の空気かもしれない。セイは食い入るようにトーラの話を聞いているヒスイの肩に手をかけた。
「横になりなよ。無理しないで」
「あ? ああ……」
 上の空だった。起こした体を再び寝かせ、それでもヒスイはトーラに続きをせかす。毛布の上で組まれた手はきつく握り合わされていた。
「……それで?」
「部屋中、百合の花でいっぱいにしてキドラと二人、立ち去っていったわ。ううん、その前に首をとっていった」
 再びヒスイの周囲の空気だけ凍り付いた。セイもまた眉を軽く跳ね上げる。いままでサイハが敵将の首を欲しがったことなど一度もない。サイハの前の妖魔の長、雷帝ならば別なのだが……。
「く、び……?」
「そう! 最初はキドラにやれっていったのよ。でもね、キドラは剣、苦手なの。叩きつぶすことは出来ても綺麗に切るなんて出来ないっていったの。ぎざぎざでも構わないかってキドラが聞いたら、そうしたらサイハ様、『自分がやるしかないようね』ってものすごく悲しそうな顔をしたわ。それで……冥府の神様が持っているみたいな大鎌を出してきて切り落としたの」
 星見は事態を客観視することが習い性となっている。今、ヒスイが何を考えているのかトーラに推察しろという方が無理なのかもしれない。セイは眉根を潜めた。
 言葉の足りないトーラの説明にセイが補足を入れる。妖魔の長サイハは幻を操り、作った幻を実体化できることを。
 宝石、武器、その他欲しいものはなんだって自分で作ることが出来る。若さは妖魔ならいくらだって維持することができるし、不死とまではいかないが人間に比べると遙かに長い寿命も持つ。
 人間の理想を具現化したような、全ての妖魔の上に君臨する麗しの女王。
「あの方を相手にするのは厄介だよ。なにしろ無限の武器庫を持ってるようなものだし。おまけに本人も見た目に反して手練れときてる」
「……」
 覗き込んだヒスイの瞳の輝きが研ぎ澄まされていく。不透明だった緑の宝石が透明度を増していくようだ。その瞳の奥では何を見つめているのか。少なくとも今のセイの姿ではないはずだ。
 煉瓦色の前髪から雨のしずくが一粒滑って、ヒスイの頬に落ちた。
「あ、ごめん! ちゃんと拭いたんだけど……」
「……いや」
 しずくは頬の丸さをつたい、重力にまかせて下に滑り落ちる。涙がこぼれたように見えた。
「ごめん。一人にしてくれないか」
 手で、両目を覆う。吐いた息は小刻みに震えていた。

   *

 幽鬼のように深く沈み込んだイスカを、なんとかアイシャは台所まで引きずってきた。食卓の、いつも遊びに来るときにつく席に座らせる。
 全てをなくしたのだとヒスイはいった。
 あの言葉はおそらく、自分がなくしたのは親だけで済んだがイスカは他の物までなくしたのだという意味なのだろう。そういう意味ならヒスイは、アイシャの目の前に現れたあのときにきっと全てなくしていたのだ。
 温かい音を立てる鍋からスープをよそう。それをイスカの目の前に置いた。
「何かお腹にいれた方がいいわ」
 しかし彼は黙って首を振る。琥珀色の瞳は往時の見る影もなく、暗い。
 生きる喜びをなくした。その苦しみを理解できても、そういうときにどうして欲しいのかアイシャにはわからない。いや、苦しんでいる本人もどうしたら元の笑顔を取り戻すことができるのかもわかっていないのだ。
 時間だけがおだやかに流れ、そしていつしか日々の大切さを思い出す。人間に備わった忘却という優しい魔法によって。しかし人間より遙かに長い年月を生きる彼らに、その魔法が効くのか定かではなかった。
 アイシャはふと思いついて、台所の床板をはずし、その下にある収納庫から赤ワインを取り出した。イスカはどっしりした赤が好きだと以前いっていたことがある。ここにあるのは安物の酸っぱいワインばかりだけれど、それでも彼は一度も文句をいったことはない。透明度のある赤い液体を木の杯に空けて、それもやはりイスカの前に置いた。
「食べるのよ。それから飲んで。精霊は飲み食いしなくてもいいっていうんでしょうけれど、人間はこうやって自分を元気にするの」
 それでもイスカは手を付けようとはしなかった。ぼそっと、やっと呟き声のようなものが彼から漏れる。
「……いりません。もう、元気になっても仕方ないんです」
 アイシャは彼の目の前に座った。自分にもワインを注ぐ。一口、口を付けてイスカから体の向きをそらすようにして座り直した。今の彼の姿を直視していたくない。
「ねぇ? イスカはこれから長い年月を生きるのよね。これからもっと色んな人に出会うでしょうよ。その中には、とても大事な友達ができるかもしれないわ。……そのときのために元気を蓄えていてもいいんじゃない? ヒスイのことも心配だけれど、私、あなたのことも心配だわ」
「……」
「人間はとても意地汚いのよ。生きることに、ぶざまなほどすがりつきたくなってしまう。そうでない人間が聖人とかいっちゃって崇められているけれど、あんなの不自然だわ。でもね、あんたたち精霊もたまには人間を見習うべきだと思う。……生きているから、今、私はここにいるのよ」
 杯をあおった。
「辛いことだけれど、全てをなくしたことがあるのは自分だけだとは思わないで」
 人間はよく出来ている。悲しいことも辛いことも、それが自分の許容量を超えると知覚できなくなってしまう。終わった後であれが悲しかったのだと思うことだってあるのだ。
 アイシャの近くには死の匂いがありふれていた。愛の女神の神殿は孤児院を兼ねていて、孤児たちはみんな犬の子のようにくっついて固まって眠ったものだ。それでも凍死しそうな冬の朝、弱い乳飲み子が冷たくなっているのは一冬に必ず一回あった。食事は働かなくては与えてもらえない。貧しい村では働かない子供にまで与えられる余裕がなかったからだ。餓えて亡くなった子供の体を、鼠の集団が囓っているのを見たことがある。年長の子供達は皆で鼠を追い払うのだ。生きている赤ん坊を囓られないために。そのときの鼠の噛み傷がもとで亡くなった人もいた。愛の女神は子供を守る神様でもあるため、女が出産をするとき神殿の巫女が助産することがある。お産は命がけの作業だ。母親が死んだり、子供が死んだり、また子供のみならず母親まで亡くなることも珍しくはなかった。一家が食べていけず、体を無理にいじめて腹の子を堕ろす母親もいた。鬼のような形相で口減らしを行う母親もいた。憎くて行うのではない。そうでもしないと全員が生きていけないから。小さな屍を抱いて号泣する母親はひどく痩せていて、乳飲み子に与える乳が出なかった。森の奥に子供を置き去りにする父親もいた。不思議なもので子供もちゃんと知っているのだ。自分は、ここを動いてはいけないと。もう家に帰ってはいけないんだと。そして骨になっていく。森を住処としていたアイシャはそれを知っていた。
 アイシャ自身、雪の中に埋められていた子供だ。真っ先に信頼できるはずの親に殺されかけたことに衝撃はなかった。それは身近に死があふれていた環境で育ったせいなのかもしれない。それでも夢は見た。いつか、自分が親になったら子供を捨てる親にはならないと。ひとつだけ親に感謝している。堕ろさずに生んでくれた。おかげで、今、生きている。生きることができる。
 そのアイシャが一度だけ死を願ったのはやはり生き甲斐を失ったときだった。夫という名の生き甲斐を、家族という夢を。それでもやはりアイシャは生きている。生きているからヒスイにも、またセイやトーラやイスカにも会えた。……だが、どうやって立ち直ったかなど、覚えていない。
「……ホウ様は、ヒスイ様をお願いするって僕にいったんです」
 言葉がイスカの唇からこぼれ落ちた。
「僕の力はホウ様の命を守るためのものだけれど、今はその命よりも大事なものを守るために使いたいとおっしゃられました。だから、僕はヒスイ様を守らなくてはいけないんです……それがあの方の最後のご命令でしたから」
 ワインの杯を手にする。ややあって彼はそれを持ち上げ、喉に少量流し込んだ。
「あの方は、ずるい。自分が万が一亡くなったときは、僕が自暴自棄にならないようにちゃんと道を決めていてくださったんです……。僕は」
 不自然なところで台詞は切れた。すると、琥珀色の瞳が解け出すような大粒の涙が一筋こぼれる。口元に笑みを浮かんだ。奇妙な泣き笑いを作って、イスカは声を絞り出す。
「僕は、僕はあの方と一緒に消えてしまえたらそれでよかったのに……」


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