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翡翠抄−ひすいしょう−

第三章第五節第三項(072)

 3.

 レンカの赤い瞳と、サイハの黒真珠の瞳が交錯した。
 先手必勝。レンカは腰から剣を抜いた。
 一足飛びにサイハの懐に入る。繰り出す刃。それは確実にサイハの喉笛を狙う。
 高らかな金属音。
 舌打ちをもらすかのように眉を跳ね上げ、唇を歪める。刃から伝わる衝撃はレンカが手を抜かなかった証拠。だが、火花はレンカの握った剣と、サイハが握っている短剣の間で飛んだ。受け止められたのだ、渾身の一撃を。
 先ほどまで確かに寸鉄ひとつ帯びてはいなかったはずなのに、妖魔の女王は固く尖った短剣を手にしてレンカの剛剣を止めていた。何で出来ているのかレンカの腕を持ってしても砕くことのできない短剣を掲げて妖魔の女王は微笑む。
「まさかあなた、私が戦えないとでも思っていた?」
 言葉に詰まる。悔しいがその通りだった。
 彼女の薄い肩、細く華奢な白い腕、筋肉質でもない体つきは間近で見るとなおさら頼りなげに見える。しかしレンカの剣を止めているのもまた事実。見た目と現実の激しい落差。レンカの全体重をかけた重い剣をサイハは実に涼やかに受け止めていた。その手はわずかも揺るがない。
「認識が甘かったようじゃな」
 素直に認めた。戦士が相手の力量を過小評価するなどもってのほかだ。その優雅な容姿から妖魔の女王は術を得意とするのだろうと勝手に判断したこちらが悪い。これは牙を持つ生き物なのだ。たとえ、虫一匹殺せなさそうな麗しい女性の姿をしていようと。過小評価などしない。しかし、同時に過大評価もしない。
 レンカの覚悟の程が見えたかサイハはまたにっこりと満足そうに笑む。手にした短剣が、レンカの目の前で形を崩した。いや、崩れたのではない、それは形を変えて同じ質量とは思えないものに変化した。
「私が幻影を操る妖魔だということ、よもや忘れたわけではないでしょう」
 短剣とはあきらかに違う形をした武器をサイハは握っていた。身長よりもはるかに長い柄は赤銅色、その先には鉤爪と斧の刃と槍の穂先が一緒になったような刃物がついている。美しく、残酷な、屈強の戦士が好んで使う長柄戦斧と呼ばれる物。間違っても貴婦人の使う武器ではない。
「それが、そなたが得意な業物であるか」
 大物を振り回すにはそれ相応の筋力と力量が必要とされる……人間ならば、であるが。
「あなたに私が止められるのかしらね、果たして?」
「……面白い」
 剣を構える。戦士としての血がたぎりはじめた。

 空気を切り裂いた音。それはサイハの方が先だった。
 長柄武器の長所はその間合いと、遠心力によって生み出される破壊力。長柄戦斧がサイハの華奢な手の中で軽やかに舞った。
 鋭い踏み込み。サイハのドレスには深く切込みが入っている。観賞用だけではなく実践的な意味合いもあったのだ。太腿まで切れ上がった裾ならば動きを妨げることはない。鋭い突きは足元を狙ってくる。足をやられてはどうぞ殺して下さいといっているようなものだ。刃を巧みにかわしながら逃げまどう形になる。
「逃げ回っていては私をしとめられなくてよ?」
「そなたこそどこを狙っている!」
 まるでわざと外しているような突きにレンカは怒りの声を上げた。こちらも相手の足を狙うのだが、そこはやはり素直に狙わせてはくれない。
 勝負はきっと一撃で決まる。
 再び大きく距離を取る。サイハの間合いより完全に外へと。サイハは逃げられたことを悟ると両手で長柄戦斧を高い位置に構えた。刃に炎が映り込み赤く輝く。それが虹色の髪と黒い紗のドレスに映えていた。こんなときでもこの女は美しかった。
「……その姿でよいのか?」
 息が上がった声で尋ねた。レンカは今、具足を鎧っている。しかし相手は武器こそ携えているものの鎧にあたるものは何も身に付けてはいなかった。普通の服地よりも薄い、黄金律の肉体美を誇示するための紗のドレスだけである。
「ご心配なく。あなたは随分と綺麗にしているけれど」
 女王の赤い唇がほころんだ。
 彼女のいう「綺麗」の意味をレンカは考えてみる。確かに今のレンカの姿は普段を知っているものなら随分とめかしこんでいるように見えるかもしれない。唇には明るい色の紅を掃き、普段は何も付けない爪は綺麗に塗られている。戦の場に不釣り合いとみなされたかとレンカは低く笑った。
「戦場こそが妾の舞台。戦に勝利するこそ我が勤め。一番の舞台に盛装して非難されるいわれはないのう」
 戦いの現場こそが一番レンカの働きを期待される場所。それが命を奪い、奪われる場所であるからこそ命屠る相手への敬意と礼を尽くして装う。血の匂いがするここが晴れ舞台であることに代わりはないのだ。
「こだわり屋さんは好きよ。今度その色で爪を染めてみようかしら」
 ふふふと笑った。どうも調子が狂う相手である。
 今度はレンカが攻撃する。一度間合いに入ってしまえば、と思ったがやはりそう簡単にはいかなかった。なんとか間合いに入り込んだもののレンカの剣は結局サイハにかすりもせずに、ただ彼女の足元を穴だらけにしただけだ。
 耳元で風切り音が鳴った。しまった、と咄嗟にしゃがみ込み床に背中をつけて一回転する。レンカの頭があった場所は長柄戦斧の回転が襲っていた。
「……もう少しだったのに」
 遊びの勝敗を残念がる少女のように、サイハの声はあくまで可憐さを失わない。その頭上で回された武器がうなりを上げていても。
 回転が止まり両手でサイハはまた武器を構える。レンカもまたその頃には体勢を立て直してサイハの隙を窺っていた。踏み込むわずかな隙が欲しい。双方の力量差があまりないのも困りものだ。自然と膠着状態が長く続く。緊張感が先に途切れた方が負けである。構えた剣の柄そのものが汗ばんでいるかのように、手の中は徐々に湿り気を帯びていた。
「戦っているあなたは綺麗ね、お世辞ではなく。ホウには負けるけれど」
 サイハがかけてきた言葉に返答しなかった。無駄口は叩かないに限る。妖魔の女王はこれくらいの軽口程度ならば隙のない状態を保てるのかも知れないが、レンカ自身は全く自信がなかったからだ。
 答えがないことが分かっても独り言のように彼女は呟き続ける。
「けれどやっぱりホウが一番綺麗。戦っている姿もそうだけれど、あの人は泣いている姿が一番綺麗だと思うわ」
 すでにそれは独り言だった。レンカの同意など求めていない。いや、その表情が読めない黒真珠の瞳が果たして本当にレンカを捕らえているかどうかも怪しかった。
「炎の化身であるあなたと、闇の化身のようなあの人。とても似合いだし、綺麗だけれど滅びの色ね。……あら、最近どこかでこの組み合わせを見た覚えが……?」
 ふぅっと夢見るような表情になった。
 今だ、とレンカは間近まで切り込んでいく。剣が唸った。しかし敵もさるもの。夢見がちな表情はそのままであるが、体は別物のようにしなやかに動き後退、そして長柄戦斧が遠心力をつけてレンカを襲った。
「ああ、そうよ、思い出した。あの子と、予言の星の髪の色なんだわ。赤と黒。あの子ったら予言の星が好きだと一言いっただけで、ずっと赤毛で通していたのよ。私は青い髪の方が好きだったのに……あの子は本当、私のことが嫌いだから」
 妖魔の女王が呟く「あの子」などどうでもいい。予言の星であるヒスイのことも後だ。たぎる戦士の血が目の前の相手を倒せと告げていた。闘争本能がうずく。それに後押しされて怜悧な目が相手の次の行動を読もうとする。
 人ではない、獣でもない。幻獣は、だからこそ人でも獣でも持ち得ない強さを持つ。
「あの子には苦労させられてしまったわ。てっきり我慢できず、すぐ結界の中に侵入してくれるものと思っていたのに二年も待たされてしまった」
 瞳がわずかに憂いを含み、溜め息が漏れた。その間も自慢の武器は生き物のように獰猛に動きレンカの攻撃をことごとく阻む。状況ははるかに向こうが優位であるのに、そのサイハは大きく後ろに飛んで距離をおいた。
 別の攻撃がくるかとこちらも警戒を顕わにするがサイハはまた動かなかった。
「ホウの隣に並ぶには、あなたでは役者不足」
 夢を見るようだったサイハの意識を取り戻すのに成功した。と、思ったが見当は外れる。レンカに言い聞かせるようにサイハは極上の微笑みを送った。
「あなたではせいぜい、お姫様を守る騎士ですもの。ホウの隣に並び立つのはやはり金色の輝きでないと駄目なのね」
 謎めいた言葉だった。
 その意味を理解する間もなく今度こそサイハの攻撃が唸る。風を切る音。槍の穂先で突き刺すような動きを俊敏に避ける。と、今度は軌道を変えて斧の刃が横殴りに襲いかかってきた。これがあるからこの武器は怖い。またも体を無理な方向へよじって斧の軌道をさけると今度はまた動きが鮮やかに変化した。サイハの手が長い柄を操作する。斧の刃と柄を挟んで反対側についた鉤が背後から襲った。無理してよじった体がすぐに動かず一瞬の遅れをとる。鉤は容赦なくレンカの具足に穴を開けた。サイハの操作に合わせて背中から足にかけての肉を抉る。焼けつくような痛みが走った。
「……!!」
 体から、長柄戦斧が抜かれる。赤い色が飛んだ。
 思わず膝を突く。炎よりも赤いその色を付けた金属の刃がレンカの目の前に突き出される。さびた匂いが鼻を突いた。
「鎧は継ぎ目を狙うとよいんですってね」
 関節部は細かい鎖で繋いであるとか、もしくは剥き出しであったりする。背中の痛みで朦朧としかけたところへ続く痛みが容赦なく襲いかかる。右腕の付け根をサイハは狙って床に縫いつけてくれた。
 激痛が走る。
 うめき声は出さなかった。
 唇を噛みきるほどに強く噛み、食いしばる。剣を握った手は決して放さなかった。しかし放さないからといって使えるわけではない。かろうじてくっついてはいるが半分ほどちぎれてしまったらしい。
 燃える石炭のような赤い瞳をサイハに向ける。
「なぁに? 臨終の言葉なら聞いてあげてよ?」
 優しく残酷な、慈悲の笑顔。地べたに伏せられて、利き腕をもがれて、それでも一対一で戦士として戦った。この上何をいうことがあろうか。
 だが最後にひとつ、レンカは問うべき質問を思い出した。先ほど軽口を叩いていた彼女に対して思ったこと。自分が口を出せなかったあの場面での話を。
「……そなた……おさ、とは、きちであるか……?」
 既知であるか、と口角から泡をこぼれさせながら問う。知り合いなのかと。一言一言をいうのに随分骨が折れた。口から吐く血のせいだけではない。唇が、舌が、もう滑らかに動かない。
 泣いている顔が一番綺麗だといった。そこまでは想像でものをいっているのだと思った。レンカのことを、ホウと並ぶには役者不足だといった。考えてみればホウは彼女に名前を告げなかった。なぜ知っていた? やっぱり誰々でないと駄目だといった。誰か知っている人を隣に並べた姿を想像していたような口振りも気に掛かる。
 彼女がホウを語るときの口調は気のせいか親しみに満ちていた。
 わずかにサイハの表情が変わる。一瞬、仮面のように表情が消え失せた。しかしそれは本当に、ほんの一瞬だけの話。
「……そう、ね。ずっと、ずっと前から知っているわ。ホウは覚えていないでしょうけど」
 黒真珠の瞳が閉じられる。何かを思い出すように。
 それは深いまばたきだったのかもしれない。同じくらいゆっくりと瞳は開かれた。そして女王然とした気高く美しい笑みが彼女を彩る。約束をしている、と前置きして、彼女は
「この手で殺してやりたいほど深く憎んでいるの」
 と答えた。
 殺伐としたものは全くない、凛とした態度。レンカは、何となく嘘だと思った。それほど深く憎んでいるにしてはホウに対する態度が淡泊すぎるから。

 とどめはすぐに刺された。

   *

 ――はばたきの音が聞こえた。
 レンカが聞き間違えることのない、よく知っている翼の音が。
 これは夢か?
 自問する。なぜならその翼の主はとうにもうこの世にはいない相手であったから。

「迎えにきてくれたのか?」
 同じときに生まれて同じときに死ぬはずだった絶対の一対。彼は手をさしのべてはくれなかった。くるりと方向を変え背中を向けて、ついてくる気ならついてこいと態度で示す。彼らしい。
「死んでも性格は直らぬの、そなた」
 レンカもやがて鳥の姿をとる。光めざして翼をはためかせた。何も怖くはない。前を行くのは他ならぬ自分の片翼。土産話ならたんとある。
 死という深い河で隔てられていた二羽は連れ添って、やっと本来あるべき姿で遠く遠く飛び去っていった。

   *

「……」
 手の中から長柄戦斧を消して、サイハは自分が最後を定めた相手を見下ろした。
 渦を巻くオレンジ色の巻き毛をした鳳凰の片割れ。
「私の最後に作った幻は気に入っていただけたかしら」
 運命の片翼をなくした鳳凰のことは聞いたことがあった。その鳥が落ち着きを取り戻したというのを聞いてさらに驚いた。対に先立たれる鳳凰は数が少ないとはいえ全くないわけではない。しかし大抵、残された方は狂ってすぐに死んでしまうのである。
 サイハはうつぶせに倒れているレンカの体の上に手をかざす。もう命の活動を終えているので水の精霊の治癒力は働かない。しかし背中に受けた傷はみるみるうちに修復されていった。穴の開いた具足もである。幻を編んで上から被せたのだった。これが生きた人間ならばきれいに皮膚が覆った下に痛みを感じているだろう。体の下に手を滑り込ませて、自分の体よりもはるかに背が高く体格のいいレンカを持ち上げる。仰向けに寝かせた。
 渦巻く巻き毛が広がる。まるで八重の薔薇か緋牡丹が咲いているような、華やかな髪だった。
「あなたはとても強かった」
 見開いた目と口を閉じさせる。口角から吐き出した赤い泡も丁寧に拭ってやる。ちぎれかけた右腕も幻で修正して、少なくとも外側はきれいに繋ぎ上げた。豊かな胸の上で二本の腕を重ねる。愛用の剣をそこに抱かせた。そうやって遺体を清めてやると、眠っているような炎の美女がそこに出来上がる。
 戦場で一番美しく咲いた花だから、一番美しく送ってやりたかった。サイハなりの敬意を表したのだ。
「主を守って、自分より強い敵と戦って、正面から負けて。そして死んだ後は一番大好きだった相手が待っていてくれるのね」
 巻き毛を一房、手に取る。炎の美女は微動だにしない。
「……少し、あなたがうらやましい」
 女性に生まれてその幸福に一番恩恵をあずかっているだろう妖魔の女王は、そういってしばらく彼女を見やる。ほどなくしてサイハの白い繊手からオレンジ色の巻き毛が滑り落ちた。
 炎の美女はやはり微動だにしなかった。


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