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翡翠抄−ひすいしょう−

第三章第五節第二項(071)

 2.

 ホウの両眼がすうっと細くなった。その瞳は目の前の敵……白い氷の精霊を見つめる。怖くないといったら嘘だった。後悔はいつだって王妃と「彼」を殺したあの月の夜に戻る。あの日の亡骸の冷たさを忘れたことなどない。それでも。
 あの痛みがなければサラと出会うことはなく、彼女を愛することもなかった。そう思うのもまた事実。
「レンカ、太刀を」
 短い命令。レンカは一気に表情を明るくする。
 レンカの両手の中から炎が生まれた。その炎を鞘とするかのように片刃の刀が生まれる。刃の背が大きく反り返った美しいそれは、ちょっとした子供の身長くらいの長さのある大きなものだった。大きすぎて通常は腰に佩(は)くことはしない。戦場ならば馬にくくりつけて持ち運ぶものだ。燃えさかる炎から生まれたその太刀をホウは手にし、構える。長さのある武器はその分扱いが難しいのだがそれを感じさせないほどに手慣れた所作だった。
「なんだ、ふんぞり返って王様をやっているかと思えば、剣も続けていたか」
 キドラはやはり口元に薄い笑みを貼り付けている。彼は絶対に自分が優位であることを譲らなかった。かつての側近であった彼ならばホウの腕前は熟知しているだろうに、笑みを消さない彼には自分の方が上なのだという優越感が……決してホウの下ではないのだという歪んだ自尊心が透かし見える。
 その感情の色を察してホウは悲しくなった。
 ほかに何か思う前に、ただ彼が哀れで、悲しかった。
 一瞬の憐憫。ホウは唇を軽く噛む。それはまるで過去と決別するための合図。一拍置いた後、足は地を蹴る。刃は確実にキドラの喉笛を狙っていた。が、それは突如吹き出した冷気の煙幕によって阻まれた。
「もう一度私を殺すか!」
 勝ち誇った笑い声。精霊たるキドラの体は中空に浮かび上がった。彼の体を中心にして白い陽炎が噴出し、部屋をたちまち白く凍り付かせる。
「させぬわ!」
 ホウの後ろで獣の咆哮を上げるのはレンカ。こちらも体を宙に浮かせた。存分に練られた炎熱がレンカの髪のように華やかに渦を巻いて広がる。キドラの冷気とレンカの炎がこの部屋を席巻した。炎は天井まで舞い上がり床にも広がり、そして命の活動を終えた二つの遺体も瞬く間に炭化させる。炎は古来より浄化の力があると信じられていた。それは全てをたちまち無に返す殺傷力ゆえに。
 空気中の水分を凍らせた白い霧が熱で生まれた空気の流動で激しく渦巻いていた。白い渦の中心にいるのはキドラ。にらみ合う氷と炎の間にいるのはホウ。彼はレンカの炎からもキドラの冷気からも身を守れるだけの防壁を咄嗟に張っていた。この異常な暑さと寒さが同居した場所で平然と立ち、油断なくキドラに刃を向けている。
 妖魔の女王は涼しい顔をしてその三者を傍観する位置に腰掛けていた。そこに椅子があるわけではない。座った格好をしてこちらも中空に浮かんでいた。組んだ足の爪先はぎりぎりのところで床にはついていない。まるで見えない空気の椅子かなにかがそこに存在しているようだった。そよ風が虹色の髪を軽やかになびかせていく。サイハの周囲以外は風の牙が荒れ狂っていた。まるで冷気も炎も風さえも彼女の回りではなりをひそめてしまったような静かで優雅な所作でサイハは髪を押さえる。全ての影響から完璧に身を守れるなどという芸当は、そこらの妖魔や精霊にほいほいと真似できるような生易しいものではない。
 しかしどれほど強くてもサイハは当事者ではない。部外者を完全に視界の外に置いて、ホウは白い霧の中に溶け込みそうなキドラの姿をはっきり捕らえていた。
「私を殺したいのではなかったのか?」
 太刀を構えたまま、宙に浮かんだ……空に逃げたキドラを挑発する。
 薄い水色の瞳が氷そのものの冷たさを持ってホウを冷ややかに見下ろした。
「死ね」
 キドラは手を広げた。即座にホウの視界全部を覆ったのは白。
「!?」
 乳白色の視界は空気中の水を凍らせたものだと知識の一部が叫ぶ。
 氷。水を凍らせたもの。そういう意味なら氷はまだいい。耐えられない冷たさではないのだから。
 氷の精霊とその名を受けながら、彼らは厳密には冷気を操る精霊である。例えば炎の精霊は熱を操る。身を焦がすほどに熱く、触れられないほどの高温を。触れれば無条件で傷を与えるのは四大精霊の中で炎だけである。触れると皮膚は火傷を負い、痛みをともない、脆弱な命を奪う。氷の精霊とて同じ。彼らも炎とは正反対の性質で熱を操る。極限まで冷やされた空気は皮膚に火傷に似た凍傷を負わせ、それはやはり痛みをともない、命も奪うのだ。
「……!!」
 ホウは冷気の霧をはらうべく左手を振る。右手には太刀を握りしめたまま。
 レンカの炎の力はそれに合わせて冷気を振り払った。赤い炎がまるで生きた蛇のようにうねり素早く跳ねる。炎の蛇は厚い冷気の壁を引き裂いて氷の精霊に牙をむく。キドラはその炎をぎりぎりでよけた。
 赤と白、正負の性質を持つ熱の間に挟まれて水分が悲鳴を上げる。水蒸気が音を立てて蒸発する。大量の水蒸気が晴れた向こうではキドラが舌打ちを漏らしていた。
「邪魔するか……」
 睨み付ける相手は勇ましい男装の火の鳥。
「当然であろう?」
 赤い瞳を左右非対称に歪めて彼女はキドラを見た。見るのも嫌なものを見なければならないといったように。
「こういう相手をなんと言うたかな。……そう。胸くそ悪い、じゃ」
「……レンカ。お前、段々言葉遣いが悪くなっていないか?」
「気になさるな。長こそ、無事であるか」
 無傷とはいかなかった。だがホウはそれを告げない。代わりに次の行動を示す。
「行く」
 レンカの言葉は刹那もおかずに返ってきた。
「承知」
 痛みを忘れるようにホウは地面を再び蹴った。太刀は放さない。だが使うのは炎。キドラの目の前に炎の壁を作った。壁は下からキドラごと突き上げるように燃え上がる。それを避けられることは承知の上。すかさず下がったキドラを、今度は別の火の玉が雨のように襲う。レンカとの二段構えの炎の勢いに氷の精霊の防御は間に合わなかった。火の玉のひとつがキドラの左肩を直撃して焼いたのである。肉が焦げる音がした。
「がッ……」
 絶叫は聞こえなかった。小さくうめいただけ。肉を持たないはずの精霊なのに、なぜか髪の毛を焦がしたような嫌な匂いが鼻を突く。
 同情はしない、とホウは自分に言い聞かせていた。太刀を握りしめる手に力を込める。そうでもしないと傷ついた彼を許してしまいそうな自分がいたから。往生際が悪いといわれようが身に染みついた彼への後悔と恐怖はそう簡単に消せはしない。セツロという名前だった人間に死を与え、今また、キドラという名前の精霊……同じ人物の命を奪おうとしている。深い後悔をしそうだった。それをしてはいけない、と。
 レンカは炎による攻撃の手をゆるめない。キドラは、傷ついた身で器用に避けてはいるが着実に傷は蓄積していく。
 刃を構える。今度こそ、終わらせる。
 踏み出した。
「覚悟!」
「お前の養子どもが死んだのはお前のせいだ!」
 キドラの罵声に、ホウの手が一瞬ひるんだ。心臓がきゅっと小さく縮まる。その隙を逃がす相手ではない。また冷気の煙幕がキドラの姿を包み隠した。
「長!」
「……わかってる」
 冷や汗をぬぐうようにホウは太刀を構え直した。レンカの叱咤はもっともだ。今のは完全にホウの失態である。
 相手はホウの弱点を知り抜いていた。昔からホウの精神的な弱さばかりついてくる。軽く凍傷を負った肉体よりも凍り付いた心が痛い。……目の前で王子は二人死んだ。サイハに利用されたシキ、この場に居合わせたばかりに死んだヨタカ。トールまであの男に命を奪われた。何のために?

 冷気の霧が徐々に晴れてきた。部屋の半分を覆う鳳凰の炎によって室温が上がっているのだ。謁見の間はすでに地獄絵図である。美しく彩色が施された壁の絵は焼けて顔料が剥がれている。柱は冷気で白く凍り付いていた。強烈に熱を加えられた天井の飾りの金属部分は溶けて、更に冷却されたのだから無惨にもひびが入って割れてしまった。木で出来た床はとっくに焼け落ちてよいはずなのにびくともしないところをみると特別に何か魔法がかかっているのかもしれない。その床は半分が凍り付き、半分はまだ炎が踊っている。とても普通の人間が足をおろせる状態ではなくなっていた。
 サイハは三者の戦いの最中に室内の見事な細工がひとつひとつ壊れていくのを見て小さく溜め息をついた。
 キドラはやはり宙に浮かんで、ホウの姿を視認すると水平に腕を持ち上げた。その右手の中では更に温度が下がったのだろう、みるみるうちにそこだけ空気が白濁していく。手の中に生まれたのは氷で出来た大剣。ホウが構えた太刀と長さはよく似ている。太刀は片刃、大剣は両刃。ともに似たような武器を手にして深緑の瞳と薄い水色の瞳が交差した。
 一言も発さず、その剣を構えてキドラは急降下した。
 剣同士がぶつかる。
 金属で作られているはずはないのに、金属音に似た固く澄んだ剣戟の音がひとつ大きく響く。
「彼らが死んだのはお前のせいだよ」
 吐息が絡みそうな間近で剣を交わして、キドラは突き放すようにいった。
「トールはどうやって死なせた?」
 力で太刀を押す。二人の顔はさらに近づいた。鍔鳴りの部分が折れそうだった。両刃の剣は叩き斬るためのもの、刃先は鈍く、重量をかけて力ずくで叩きつぶすために刀身は厚く作られている。対して片刃の刀は切り裂くための武器。薙ぎ払い、突くのに向くよう刃は薄く作られていた。つまりこういう力押しには向かない。
 両者はまるで示し合わせたように離れる。揃った動作で両者とも再び構え直した。ホウは内心キドラの剣術の腕に驚いていた。昔を知るかぎり彼は荒事にはまるで縁がなかったはずである。それに気付いたのかキドラは自慢げな笑みを作る。
 ホウの推測は二年前の段階では当たっていた。キドラが二年前、殺そうとしたヒスイに剣の腕をへたくそ呼ばわりされたことなど予想も出来ないに違いない。
「お前の長男は随分と恨まれていたようだな?」
「……まさか?」
 再び剣を交わす。先ほどのような殺気だったものではなく、まるで間近で会話するために交わされているような剣戟だった。
「トールは真面目な男だった。恨まれることなど……」
「真面目すぎるから恨まれるのさ。火事場で、親が生き埋めになった少女がいたことを知っているか? お前の長男はその少女の両親を見殺しにした」
 生きていたのだ、とキドラはいった。ろくに調べもせずに死んでいると思いこんでいた少女の両親は、トールの手によってとどめを刺されたも同然だった、と。
「可哀想に。少女は親を殺した男を恨んだよ。当然だろう。少女の手にはなぜか一本の刃があった。そして、なぜか目の前に憎い男がいた。さらに、なぜか、そのとき長男は一人だった。復讐に燃える少女がその男に刃を突き立てても不思議ではないだろう?」
 なぜか。
 違う。「なぜか」ではない。偶然という名を装ったキドラがそこにいたのだ。
「あの男がそう簡単に素人の刃に倒れるものか!」
 太刀が鋭く切り込む。さすがに早さはホウが上だった。もしも人間であれば鮮血したたる程度の傷をキドラに刻み込む。歯ぎしりの音まで聞こえるまで二人の顔は間近に近づいた。
「もっともな話だ。哀れな少女の刃は男を傷つけたものの、深手を負わせることは出来ずに捕まった。そこに癒しを使う娘が現れた」
 今度はキドラの番。大剣の一振り。それは破壊力のあるものだったが紙一重でホウは交わした。代わりにそこにあった床が大きく砕ける。炭化した木の床が弾けて飛んだ。その横からホウの太刀が入る。再び膠着状態になった。
 吐息が絡みつく距離。嫌な声。嫌な予感。癒しの力を使うとなると水の精霊使い。水の精霊はシキの生家が統括している。ホウの見開かれた目を覗き込むようにして氷の精霊は氷点下の微笑みを浮かべた。
「傷つけられた人間が癒し手を信頼し側に近づけてもおかしくはないだろう?」
「……その水の精霊使いが殺したというのか、トールを……」
「簡単だったさ」
 そっと囁くだけでよかったとキドラはいった。
『あの男は妖魔と通じ、シキ様を利用して結界の要石を盗ませたのです。全ての罪をシキ様になすりつけてご自分が王になるつもりなのです。お気の毒に、シキ様は無実の罪により、今頃王宮で処刑されているでしょう……』
 キドラは昔、水の神殿に仕えていた。神殿内部の構造など勝手知ったるものだ。また、王宮で即刻処刑というのも通常は考えられない話だったがホウの場合は前例があった。王妃とセツロの即日処刑という前例が。
 わなわなと太刀を握りしめた手が震える。深い嘆きを眉間に刻んで、森の色した瞳はキドラを凝視する。目の前にいるのは本当にかつての親友であった彼なのか。
「……お前は、お前はどこまで……!!」
 あとの言葉が続かなかった。

「長!」
 レンカはホウの味方をするべく炎の力を解放しようとした。が。
 そこに殺気の固まりが飛んできた。
「誰じゃ!?」
 純粋な殺気。首筋の産毛が一本残らずちりちりと逆立つ。誰か、などと。聞くのも馬鹿らしいほど、さきほどから傍観していた最強の「第三者」がいた。
 衣擦れの音をさせてサイハは立ち上がる。肩口から虹色の髪が滑り落ちた。同性から見てもそれはほれぼれとするような優雅な物腰。そして美貌。艶を含んだ黒真珠の瞳がひたとレンカを見据えた。
「久しぶりの恋人達の語らいに邪魔はいけないわ。あなたときたら先ほどから邪魔ばかり」
 とんでもない台詞だったが、どこまで本気でどこまで冗談なのか表情の読めない目だった。白い足が足音を立てずにそっと歩みを始める。
「約束しているの。だからホウの相手は出来ないけれど、あなたを傷つける分にはなんの障害もないのよねぇ?」
 サイハの瞳がきらりと輝く。いたぶる鼠を見つけた猫の目。赤い唇がひどくゆっくりと微笑みの形を作っていく。レンカも彼女の瞳を正面から見据えた。
「これはこれは。妖魔の長が手ずから妾の相手をしてくださると?」
 こちらは獰猛な猛禽類の目を向ける。言葉こそ謙遜しているがそれは慇懃無礼とも呼べるものだった。強者にこびへつらう弱者の卑しさは欠片もない。その挑戦的な視線を受けて、サイハは先ほどとは全く違った柔らかな笑みをこぼす。余裕を含んだ優しい声。レンカの癪に障るには十分な。
「二対一より一対一の方があなたもお好みでしょう? 第二幕の始まりね」


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翡翠抄 −ひすいしょう−
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