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翡翠抄−ひすいしょう−

第三章第五節第一項(070)

 再会

 もしも再び巡り会えると信じていた相手ならこれほど衝撃を受けただろうか。
 二度と会えないと分かっている人でも、相手が彼でなければこれほど驚愕しただろうか。
 時が止まる。会いたかったとは決していえない人。本当に時間が止まってしまったらホウにとってはどれほどよかっただろう。
 愛してた。永遠に蘇るはずのない過去が、今、目の前に立っていた。

 1.

「会いたかったよ、坊や」
 薄氷を張ったような水色の瞳が柳の葉のように細められる。記憶にあるものと同じ声、同じ呼び方。そう、彼は昔、二人だけの時はホウのことを坊やと呼んだ。先輩風を吹かせて、からかうように愛おしむように呼ばれるその呼称が苦手だった。同時にとても好きで、なぜなら誰もそんな風に親しみを込めて呼んでくれたことはなかったから。
 言葉はなかった。一瞬にして血の気が引いていくのが分かる。ただただ驚愕で大きく瞳を見開くのが精一杯。薄い唇は歪み、歯の噛み合わせは小刻みに震え音を立て始める。
 目の前の男はそんなホウを見てどす黒い微笑みを浮かべるのだ。
「どうした? この顔をもう見忘れたか?」
 白い長衣の裾を蹴って彼が一歩前に出る。空気に押されるようにホウは一歩後ろに下がった。子供が嫌がるように、ほとんど無意識で頭を左右に振る。なのに目は彼から離せないでいるのだ。忘れるはずがない、忘れられるはずがない。子供の頃から側にいた幼なじみ。かつては親友と呼んだ相手。自分を支えるはずだった側近。なにより、初めて愛したはずのひと。
「……あ……」
 神への祈りの言葉がホウの喉を振るわせることはなかった。指先が血の気を失って冷たくなっていく。それどころか温かな血を生むはずの心臓さえ凍り付いてしまいそうだった。
 昔と何一つ変わっていないその姿にホウの目は釘付けになる。雪のように白い、柔らかな髪。氷を透かし見たような薄い水色の瞳。額にしめられた金色の環を彼が初めて授けられた日を覚えている。竜の正神官の証だと誇らしげに微笑んで、中庭の四阿(あずまや)で語らいあったその昔。唇に浮かぶ皮肉げな微笑みを、甘ったるい響きでからかってくるこの声を、どれほど信じられなくてもホウが間違えるはずがないのだ。
「嬉しいよ。お前は相変わらず美人だ。あまり老け込んでいないようじゃないか」
 白い男は楽しげに喉を鳴らす。凍れる眼差しを愉悦のため更に細めて。ホウの反応を面白がっているのだ。何度も耳元で囁かれた言葉が氷の針となってホウの身をさいなんだ。
 紡ぎ出すはずの言葉がでてこない。癒されたはずの心の傷が再び裂けて鮮血を吹き出した。
 喉を鳴らしてまた一歩、彼が近づく。深い森の色した両目に恐怖が貼り付いているのを感じ取ったに違いない。ホウはもう下がらなかった。もう足は動かない。凍り付いたように動かなかった。足が逃げられない分、ホウは腹から体を半分曲げて、恐怖を振り払うように声を絞り出した。
「どうして……お前は、お前は私が殺したはずだ、セツロ!!」
 血を吐くような叫び声だった。

 レンカは赤い瞳を見開いて白と黒の両人を見比べる。ホウのすぐ側にいながら妖魔の長を警戒して動けないでいた。直接は知らないものの、イスカ伝いから昔のいきさつは聞いている。思わず舌打ちしたい気分に駆られた。そんなことをしても何にもならないと充分承知しているのだが、それでも。
 サイハはなにもかも知っていたのか特に驚いたそぶりもみせず、赤い唇に笑みを作るだけにとどまっている。

 片方の眉を優美に持ち上げて、セツロとその昔呼ばれていた男は不愉快な顔を作った。
「分かってはいたがその名前で呼ばれるのは不愉快だな。それはもう私の名ではない」
 憮然として言い捨てる。
 ホウは疑問を露わにして目だけで問いかけた。
「今の私の名はキドラ。それがあの方からいただいた名前。お前が私を殺した後、私はお前への憎しみの一念だけで精霊として新たに生を受けたのだよ。氷の竜はよほど私を手放したくはないらしい」
 氷の精霊に生まれ変わった彼は、そういってまた凍れる笑みを浮かべてホウを責めさいなんだ。
 もうお前を愛していた人間ではないのだと、自分を殺したお前を憎んでいる精霊なのだと、その笑みには言葉にしなかった思念がまとわりついている。ホウの表情はまさにそのまま凍り付いたといってよかった。
「……お前に、名前を与えた、主がいる……?」
「そう。そちらに」
 にっこりと棘のある笑顔を向けた後、セツロ……いや、キドラは肩越しにゆるく振り向いた。先ほどまでの棘はどこへやら。優しく甘い微笑みだった。その視線の先には二人の女性がいる。レンカと妖魔の女王。そしてサイハと名乗った妖魔の女王はキドラをちらりと見た後、ホウの方を向いてにっこりと微笑んだ。
 まさか。
 蒼白になったままキドラに視点を移した。
「お前が……お前が妖魔の長の守護精霊だというのか!?」
 ホウの悲愴な叫びに彼ら二人は微笑んでいるだけだ。だがそれがなによりの肯定の証。ひとつの話を思い出した。霧の谷に着いたばかりの時、ヒスイは水の精霊の治癒を必要としていたこと。彼女を傷つけたのは妖魔の長を守る氷の精霊だという。
 昔、名前だけの王妃を利用して殺し、裏切ったと思いこんだホウの心をずたずたに傷つけて、精霊に生まれ変わった後はヒスイまで傷つけたというのか。
 キドラは鼻で笑った。
「イスカから聞かなかったのか?」
 なぜその名前がでてくるのか、ホウは一瞬不思議に思う。
 大地の精霊イスカは小さな頃からホウの側にいた。そしてセツロという名前であった頃の彼を知っている。ヒスイは氷の精霊に傷つけられた報告したのはそのイスカ。ということは、彼はキドラと会ったということだ。……なのに、なにもいわなかった……?
「お前、自分の守護精霊にも裏切られたのか?」
 決定的な一言だった。
 片頬を歪めてキドラと名を変えた彼が声を上げて笑う。耳障りな笑い声が響いた。ホウの心にまた小さなひびが入る。昔から彼はホウをなぶることにかけては天才的だった。
 猛然と反発したのはレンカだ。
「馬鹿を申すな! あれが長を裏切るような真似をするはずがない!」
 キドラは視線だけでレンカを制するつもりだったが火の鳥がそんなことでひるむはずがなかった。そのレンカを黙らせたのはサイハ。
「もしかしたら黙っているほうが忠誠にかなうことだと思ったのではないかしら? 忠臣が裏切りを働くのはいつだってそういう理由だわ」

 ホウは知らない。イスカが、その記憶の一部に妖魔の干渉を受けていたことを。
 そしてその事実をキドラは知らなかったが、サイハは知っていた。知っていて、そういった。

 自分が今どんな顔をしているのかホウには考える余裕さえなかった。ホウの中にあるのはただ恐怖と慚愧(ざんき)の念ばかり。王妃を死なせたのも、ヒスイが傷つけられたのも、霧の谷が今燃えているのもみんな自分のせいに思えた。全ての原因があの過去に回帰する。なのに自分だけがこうやってのうのうと生きているのだ。己の罪を全て忘れて。忘れてはいけなかった。自分はまぎれもなく罪人であったというのに。
 無意識に助けを求める。もしも応えてくれる万能の存在などというものが実在するのなら、今このときに存在して欲しかったと願う。この場をどうしていいのか自分にはもう分からない。助けて、と。頭の中が真っ白になった。
 そのときだ。
 思考が真っ白になったその奥、記憶の向こうから力づけるような黄金の輝きがあふれ出た。金。あふれる光。全てを照らす暖かい太陽の色。
「……!!」
 涙がこぼれた。
 白い男はそれが恐怖のきわまった故と感じたらしい。実に満足げに微笑んだが、実際はそうではなかった。ホウを真実支えてくれる輝きが今またホウを救ってくれたのだ。
 金色。彼女の髪の色。
 愛してくれた人。愛した、たった一人の女性。ヒスイを生んでくれた妻。お前の罪はみんな許されたのだと彼女はいった。
 ホウはゆるゆると涙に濡れた顔を上げる。
 キドラの顔があった。彼以外、見えない。けれどその向こうに、負けるな、と怒っている金色の彼女が立っている気がした。
 心の中に灯火がともる。もう、セツロ一人に依存していたあの頃ではない。自分には愛してくれる人がいて、そして守らなくてはならない存在もいる。胸の上で拳を作り右手でそれを包む。左手にはめた指輪の感触があった。熱を持たないはずのそれは、なぜかとてもあたたかい。
「……お前は何が目的だ?」
「ほう? 気が狂うかと思ったが、お前は存外しぶといな」
 薄い水色の瞳は氷のように冷たい。それをまだ直視できずに目を細めながら、ホウは必死に胸を張った。
「私の命か、この国か? それとも……予言の星?」
「全て」
 あっさりとキドラは認めた。
「我が君は予言の星を欲しておいでだ。まさかここに逃げ込んだとは思わなかったがな」
 ホウがキドラを、レンカがサイハを睨んだが睨まれた方はどこ吹く風といった風情である。次に口を開いたのはサイハの方だった。
「ごめんなさいね。私は予言のお星様を必要としているの。そして、キドラはあなたを殺したかった。私達の利害は一致したのよ。お分かりかしら?」
「……我が君……」
「あら。これくらい話してもいいでしょう?」
 虹色を纏った妖魔の長は、自分に従う白い精霊に微笑んでみせる。キドラがそれに逆らえるはずもない。艶のある瞳をホウに向けてサイハは微笑む。
「予言の星はどこ?」
「さあ?」
 涙をぬぐうとホウはサイハに向き合った。相手がキドラでなければホウはまともに渡り合うことができる。
「困ったわ。素直に話していただけないとなると、また私達は最初から探さなければならないわね」
 本当に困ったわ、と、その実まったく困った様子を見せない妖魔の女王は頬に指を添えながら小さく溜め息をついた。
「あの『星』は渡せない」
 ホウの言葉は、サイハには予想済みだったようで微笑むままだった。キドラは、
「何故だ?」
 と問うた。
「お前が持っていて何に使うというのだ。この『世界』に混乱をもたらすか? それともあれを使って精霊の領域を広げようとするか? いいや、お前はそんなことを望むまいよ。ならば宝の持ち腐れというものだ」
 予言の星を渡せない理由などはっきりしすぎている。だがそれをキドラに伝える気にはなれなかった。あれは妻の忘れ形見、最愛の娘。
 そんなことを知らないキドラはなおも言い募る。
「後継ぎに娶せて子供を生ませるか? そうして『星』を自分の物にしようとでも? そういえばお前、子供を作れない言い訳に三人も養子を取ったそうじゃないか」
 キドラはちらりと床を見た。茶褐色に変色した二つの体、厳密には体だったものがころがっている。それに気付いたサイハが補足した。
「ああ、邪魔だったものだから始末したのだけれど。お前がやりたかったのかしら?」
「いいえ。我が君がなさることでしたらなにもいいますまい。ただ……」
 キドラはまた、どす黒い笑みを浮かべる。
「これで、ホウが最後の精霊の長となるわけですな」
 跡を継ぐ人間がいなければ、ここ霧の谷がこのまま無くなれば。そうすればホウが最後の霧の谷の王にして最後の精霊の長となる。霧の谷はまだ無くなってはいない。後継ぎは三人のうち二人死んだ。
「まさか……」
「お察しの通り。大地の一族から選ばれたお前の養子は私が殺したよ」
 にっこりとキドラは微笑んだ。
 最後の一人はホウの知らないところでキドラに殺されていた。再びホウから血の気が引く。
「お前も残酷なことをする。三人ともお前の寵を得るのに必死だったそうじゃないか。私は直接知らないがね」
 みんなお前のせいだとばかりに。
 頭痛が始まった。痛む頭でホウは必死に、違う、と叫ぶ。これは論点のすり替えだと理性を奮い立たせる。キドラは知っているのだ。なにもかも背負い込もうとするホウの性格を。だからわざとこんなやり方をする。お前のせいだと責め立てる。ホウがそうされると一番こたえるのを彼は知りすぎるほどによく知っているのだ。ここで負けてはならない。
 深呼吸をした。
 息を整え、ホウは今度こそまっすぐにキドラの薄い水色の瞳を睨み付ける。ここにいるのはもう人間のセツロではない。セツロは死んだ。目の前にいるのは氷の精霊キドラ。
「精霊の長たる私を傷つけようとした罪により、私はお前を罰する。忘れるな。お前は生まれ変わっても私の支配下にあるものだ」
 長として彼は尊大に言い放つ。支配下にあるもの、のくだりでキドラはそれまでの余裕をかなぐり捨て不満を露わにした。


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