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翡翠抄−ひすいしょう−

第三章第四節第六項(069)

 6.

 ――主はいずれこの国の王様になるお方、次の精霊の長となるべき方ですわ。この場を収めることができればきっと今上の長も認めてくださいます……

 そんな言葉がシキの頭の中に木霊していた。もしかしたら。ただの慰めでしかなかった言葉が淡い期待となる。もしかしたら本当に認めてくれるかもしれない。いつものように優しく微笑んで、よくやったねと褒めてくれるかもしれない。
 サイハと呼ばれた水の精霊はそんなシキの様子を見て、赤い唇に微笑みを浮かべた。

   *

 謁見の間で、ホウは玉座にあり二人を見下ろしていた。隣にはレンカを従えている。義理の息子たちは互いに顔を見合わせると「どうしてこの男がここにいるのか」と不機嫌さを露わにした。
「時間がないので共に報告を聞く。まず、ヨタカ?」
「はい」
 さすがに王の目の前で口論をするのははばかられたらしい。ちらりとシキに不満げな視線を送った後、ヨタカが一歩前に出た。
 風の神殿では祈りの甲斐なく竜の助勢が得られないこと、人間が先に約定を違えたとの返事があったことなど、よどみない口調で報告が述べられる。
 この炎が妖魔側の干渉を受けたものと予測した時点で、結界が無効化されたのだろうということまでは予想ができた。だが、どうやって無効にしたのかと、その方法までは思い至らなかったのだが。遙か遠い昔から霧の谷に敷き詰められた結界は竜との約定によるものだ。おそらくは風だけではなくどこの神殿でも同じようなことが起こっているのだろう。神殿の威信にかけてか、いまだどこからもヨタカがもたらしたような報告は入ってきていないが。
 彼から最後に願い出られた言葉だけ、ホウは一瞬思案した。
「城下はいぜん火の海。一人でも多くの風の術者を得たいと思います。申し訳ありませんが義妹姫にも動くよう命じていただけませんか」
 ヒスイはもういない。
 しかしまさか娘を脱出させた理由を告げるわけにもいかなかった。二年前に落ちたとされる「予言の星」のことは時間が経った分かなり広い範囲に浸透している。かの星の正体がまだ誰にも知られていないからこそ娘は無事でいられたのだ。
 ホウが思案をめぐらせ返答が一拍遅れたわずかな間に、口を挟んだのはシキだった。
「恐れながら!」
 わずかに頬を紅潮させて、シキが一歩前に出てくる。それをヨタカが鋭い目で睨み付けた。
「彼女を出してくる必要はないと思われます! 消えない炎は鎮静化しつつあります。霧は水の結界、私が、水蒸気を利用して炎を包みました。緩やかではありますが徐々に鎮火しております」
 わずかだが「私が」の部分に力を込められているように思う。シキが告げたことに引っかかる物を感じて片眉をつり上げた。
「シキ。……お前の報告とはそれだけか?」
「え? あ、はい……」
 せっかく炎が消えたのにそれ以上のことなどなぜ聞くのだろうといった様子だ。頭の良い子であるのに考えが足りないらしい。ホウはそっとこめかみに指をやり、考え込む。星見の少女は妖魔の長が笑っているところを見たといった。炎を撒き散らしているのは、だとしたらきっと妖魔の長。シキはなぜそれを消すことが出来たのだろう。
「シキ。誰が、お前にそれを教えた?」
 消火したのは確かに彼だろう。では、それを教えたのは?
 疑いを差し挟むことなく問われたことにシキは答える。
「サイハです。私の精霊です」
 むしろその声は誇らしげでさえあった。
「誰よりも美しい水の精霊の娘です。彼女は私と契約を結んでいます。彼女の助言によって手がかりを得、消火を成し遂げました。それだけではありません。私は彼女のおかげで新しい力を得ました」
 この場にいたホウ、レンカ、ヨタカの目が一斉に彼に吸い寄せられた。
 新しい力というのをシキはホウに見せたくてたまらなかったらしい。手を開いて握っていた石を見せた。その石は一見、小振りの柘榴(ざくろ)のように見えた。岩でできた外皮に弾けた中身。紅玉よりももっと暗い色した、柘榴の実のように深く透明な赤の粒がびっしりと中に詰まっている。赤い石は岩の内側に生成した天然石の結晶で、これがまるで柘榴のように見えるのだ。
 レンカははっきりと顔色を変える。怒気のせいで心なしか黒ずんできたような血色が肌から透かし見えた。ホウの顔色は紙のように白くなる。二人ともその石が何か知っていた。何故これがここにあるのか信じ難い。いや、信じたくない。
 何も分からないシキは上座に座る二人の様子がおかしくなっていくのを見て、やっとこの石を手にしてはいけなかったのかと思う。ヨタカは怒りを隠しもしなかった。はっきりと指を突きつけて
「お前が、結界の要石を持ち出したのか!」
 と弾劾した。

 結界というものは普通、術者の周囲に張る。結界を存続させているのは中央に位置する術者の力。ところが、霧の谷全土を覆うような大きな結界、それも永続的にとなると同じ術者を置き続けるわけにはいかない。そこで一度張った力を継続させるために別の力が必要になってくる。
 霧の谷にはいくつか結界の要となる石が置かれていた。子供が遊ぶあやとりのようなものだと思えばいい。結界を糸、石を指と例えて、要石によって結界は支えられている。そして石は目立たぬ小さなほこらに祭られているので迷信深い霧の谷の住人はこれを暴こうなど普通、思わない。要石の存在はごく一部にしか知らされていない事実である。ただ各地方で大事な守り神として納められていた。

 新しい力。それはそうだろう。結界の要となるべく石には大きな力が蓄えられている。遠い昔、竜と人が共に編んだ結界を恒久的に継続させるべく谷に残されたのが要の石。
「……風竜様がいっていた、人間が先に約定を違えたというのはこのことか……」
 絞り出すような声を吐き出したのはホウ。
 指をひとつをはずせば、あやとりの糸はゆるむ。これがあやとりならば両手を広げて再び糸をぴんと張ればいいだけのことだが、位置を変えることのできない要石、糸にあたる結界はゆるむだけ。そして結界はこの状態では本来の効果をなさない。要石がすべてそろわないと結界は維持できないのだから。
 人間がその要石を持ちだした。それは、人間側が結界を維持する役目を放棄したと竜に取られても仕方のないことだった。
 こと知識に関することはヨタカの専門である。その事実をヨタカに並べられ、激しく糾弾されて、シキは呆然とする。
「けれど……サイハが……私は次の長になれると。もっと強くなれば認めてもらえると……この石は、私を強くしたのは確かで……」
 ホウは眉間の皺を深くした。なんといって彼を誑かしたのかが見えるようだ。甘い言葉、控えめな態度、優しい微笑みでシキの立身を願うふりして、シキに要石を取り出させた。そうすればいつでも共にいるとでも囁いたのかもしれない。
 もうすでに全員が気付いていた。シキのいう水の精霊をここにいる誰も見たことがない。結界の内側に入ることの出来なかった「精霊」が一体誰なのかを。
 シキの手から石が滑り落ちた。
 悲愴な声で自分の精霊を呼ぶ。
「細波!」
 嘘だといって欲しいと、祈りと願いと嘆きの入り交じった声が謁見の間に木霊した。

 シキの首から赤い雨が吹き出したのはその瞬間だった。

 隣にいたヨタカは咄嗟にマントでさえぎったが完全には間に合わなかった。頭から赤い水を浴びる。さびた匂いが鼻を突いた。ホウの前には素早くレンカが立ちふさがる。玉座は高い位置にあったために飛んできた飛沫はさほどでもなかったが、そのかわりに呆然とした表情の首が上から振ってきた。ホウが手を伸ばす前にレンカがそれを叩き落とす。こんな男に同情は無用とばかりに。
 三つ編みに垂らされていたはずの長い髪は首の位置で途切れていた。首を失い、赤い溶岩噴き出す活火山のような胴体は自ら均衡を失って倒れる前にヨタカによって蹴り飛ばされる。体は物と化して倒れた。長かった髪はその倒れた体の足元にばらばらと落ちている。
 胴体が横倒しになってようやく赤い水から解放されたヨタカは、血に濡れたマントを降ろして入り口の方を見やった。
「誰だ!」
 ホウも自分の正面、つまり入り口の扉付近に視線を送る。さきほどシキの首が赤い雨を噴いたとき、なにか鋭いものが横に薙いでいったように思ったが。髪ごと首を薙いだのはもしかして。
 扉は開いていた。
 その前には一目で水の精霊と分かる少女がいる。
「……初めまして、というべきかしら?」
 愛らしい唇が声を紡いだ。鈴を転がしたような可憐な声音が心地よく耳朶を打つ。小さく整った顔立ち、濡れたような愛くるしい瞳、赤い唇がなんとも艶やかだ。細い首、華奢な肩かと思うと双丘は瑞々しく熟れた果物のように張りがある。なのに柳のように細い腰をも持っていた。細く長い髪が流水のように流れ落ちて背中からふくらはぎまでを覆い隠す。溜め息のでそうな美女というのはこういうのをいうのだろうか。淡青色の髪、同じ色の瞳は水の精霊の特徴である。
「精霊……?」
「違う」
 ヨタカの言葉に、ホウは訂正をかける。義理の息子はそれでもまだ戸惑いを隠せないでいた。
「しかし義父上。あの姿、それにあの気配は紛れもなく精霊の物ですが……」
「妖魔の長の力は幻術だと聞く。『幻惑の魔女』と呼ばれていると。……姿形のみならず、気配さえも作り出すか……」
「妖魔の……長ですって!?」
 ホウはやおら立ちあがると、その足で階下へとくだった。レンカがその後に続く。
「妖魔の長に高みから見下ろすような真似は失礼にあたるからね」
 森の色した深い緑の瞳を、水の精霊の形した少女に向ける。少女はにっこりと微笑んだ。
「どうして分かったのかしら。ちゃんと髪の分け目も変えたのに」
 くすくすと小さく笑った。
 これが妖魔の長。噂通りの愛らしく美しい女性。少女の顔(かんばせ)、大人の肢体、その滑らかな白い肌に己の証を刻もうと、どれほどの男が狂い犠牲になったことか。完璧に水の精霊を模していた彼女はやがて妖魔の気配を立ち上らせ始める。
「どうせなら最初からきちんとご挨拶しましょうか。私はサイハ。真名は砕破。『幻惑の魔女』『傾国の美女』『冥の女王』、様々な異名があるけれど、強いていうなら『滅王』の異名が一番気に入っているかしら? 最近では『妖魔の女王』という名前が一般的になってしまったから、それでもいいわ」
 片手を水平に持ち上げ、からまる長い裾を持ち上げる貴婦人の簡略した礼をとった。水の精霊の纏う衣服は裾に幾重もの切れ込みが入っているため太腿からすらりと伸びた形の良い足が露わになる。
 砕破。おそらくは一生、口に出来ないだろう真名。砕き、破る。それはまさしく滅びを意味する名前。
「『滅王』というと『雷帝』と並び称されていたときの名前かな?」
「ええ、そう。知っていてくれたのね? 嬉しいわ」
 彼女はとろけそうに甘く微笑んだ。本当に、外見だけでは妖魔の頂点に立っている当人とはとても思えない。だがこうやって対峙しているときに受ける圧力、そして威厳は間違いなく女王の名にふさわしい女性だった。
 妖魔の長と精霊の長は完全に向き合って、互いしか目に入っていなかった。霧の谷の歴史上、妖魔の長と直々に会った精霊の長はホウが初めてではないだろうか。完全に二人だけの世界であったから、側でヨタカが短慮を起こしていることにホウは気付くのが遅れた。
「妖魔の長が、よくもこの霧の谷に!」
 ヨタカは黒いマントを翻すと腰に吊してあった剣を抜いた。そのままサイハに向かう。
 それに気付いたサイハは小さく、あら、といってヨタカの突進を避けようともしなかった。
「よせ!」
 叫んだのは、それまでずっとホウの後ろに付き従っていたレンカ。制止の声はヨタカに向けて。しかしその声にも彼の足は止まらない。距離はあと一歩。レンカの叫びとほぼ同時にホウの目には揺らめく水が映る。嫌な予感が稲妻のようにホウの中を駆けめぐった。
「やめろ!」
 ホウの叫びはサイハに向けて。だがサイハは微笑んで……つまり、やめるつもりなどなくて。叫び終わったレンカの声と新たに叫んだホウの声がわずかに重なる。
 それくらい、本当に刹那の出来事。
 圧を加えられ槍と化した水は何本もの雨のようにヨタカの体を貫く。突進してくる力をそのまま利用されたのである。

 花が咲いた。
 黒髪、黒いマントに、赤い花はたいそう彩りよく映えた。

「せっかちさんは嫌われてよ? 私、前説に時間をかけるくらいが好きなの」
 愛らしく小首を傾げて床に崩れ落ちる花の苗床にサイハは目をやる。その眼差しは恐ろしいことに、あたたかくさえあった。
 彼女は首の後ろに手をやって長い髪を払いのける。先ほど分け目を変えたといっていたが、左で分けられていた髪は少し触るとすぐに中央で分かれた。髪の色が水の色から光の色へと変化する。虹という染料を使えばこんなに明るく濁りのない色に染まるだろうか。青、緑、黄緑とくるくる表情を変え、ときどき赤い色が混じる虹色の髪。雨上がりの空に輝く虹の色というよりも、昔、書物で読んだ極寒の地の夜空に浮かぶ極光(オーロラ)のようだと思った。いつの間にやら髪と同じ色した大粒の首飾りを下げている。
 瞳の色もまた変化していく。その色はまるで黒真珠。純粋な黒ではなく、ほのかに緑と紫のかかった深い色が真珠独特の照りときらめきを放つ。衣服も水色から黒い紗のものへと変わっていた。十分に美しいと思われた容姿は髪と瞳に宝石の色を置いて更に磨きがかかった。これが本来の美貌だとしたら、なるほど、水の精霊の幻影を纏うのは充分美しさを損ねる行為だ。

 じっと変化を見つめていた目と顔を上げたサイハの目がぶつかる。
「……人間は老いる生き物なのに、あなたは相変わらず時を止めたように美しいままなのね」
 嫌味ともとれる笑顔が向けられた。美人に美人だといわれても額面通りには受け取れない。一歩下がったところにいるレンカに視線を向けると、こちらはさすがに女性同士というか敵意丸出しで、しかもなぜかサイハの言葉に当然だといわんばかりの視線を投げかけていた。ホウには分からない。
 くすくすとサイハは微笑んだ。愛らしい声音は娘と同じ年頃のような錯覚さえ起こさせる。しかし黒真珠の瞳の奥は重ねた齢の長さを雄弁に物語っていた。
「あなたの相手だけは私ではないの。そう約束しているのよ」
 彼女の台詞は、赤で染められたこの謁見の間の空気を再び呼び戻した。シキなどはすでに酸化して茶色く変色しはじめている。今、床に咲いている赤い花もやがてはどす黒いしみと化すだろう。さびた鉄の匂いが充満していたがそれを忘れさせるほどに艶やかな美女が、再び赤い唇に意味ありげな微笑をたたえる。

 扉が、再び開いた。
 その扉の向こう側から光が射してきたように思うのは気のせいだっただろうか。白い影が音もなく入ってくる。妖魔の長を守る氷の精霊は薄い笑みを浮かべていた。
「久しぶりだな、坊や?」


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