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翡翠抄−ひすいしょう−

第三章第四節第五項(068)

 5.

 次兄ヨタカもまた風の一族を率いて人々を誘導していた。
 火災に関して「風」ができることは少ない。せいぜい人々が逃げまどう方向に炎を寄せないように微調節する程度だ。次々建物を崩していく大地の一族や救護・消火活動に奔走する水の一族を後目に、風の術者は己の無力さに歯がみしていた。
 と、そこへ厳しい一喝が降った。
「馬鹿野郎が!」
 ヨタカが厳しい顔をして一族郎党を睨んでいた。背後の赤い光に縁取られて黒髪はますます黒く冴え渡り、両眼は炯々と光っている。普段はどちらかといえば策士の印象のある彼が、今は誰より煤だらけになり自ら一族の先頭に立っていた。
「お前達にはお前達にしかできない仕事があるだろうが。風は情報戦が得意だ。分断された民衆同士の連絡を円滑にする方法をまず探せ。こういうときはデマが広がりやすいから正確性を欠いた情報には気を付けろ。民の不安をあおるな」
 離ればなれになった親しい人がどうなったか気にならない人間はいない。騒ぎが収まれば救援物資の需要と供給の調査も必要になる。避難している民の正確な居場所と数を今から把握していても遅くはない。先の先まで読んでいる自分達の王子の言葉に兵や術者は顔を明るくした。自分達は無力ではない、自分達にしか出来ない仕事がある、それで民を救える。彼らの働きは目に見えて活気づいた。
 伝えることは流れること。水も風と同じく流れるものだが、水は上から下へと流れる性質から命令の伝達を得意とする。風は四方に拡散する性質があるので情報は噂という形で広まる。民草の話を上に立つ者へと吹き上げるのも風の力だ。
 兵の末端まで志気が上がったのを見てとると、ヨタカは側近を振り返った。
「兄貴どもはどうしている」
「は。皆さま神殿にて風竜様に祈りを捧げておられます」
 盛大な舌打ちを漏らす。
「将が兵の先頭に立たずしてどうするってんだ。で? この状況からして祈りは届いていないらしいな」
 側近たる老兵は更にかしこまった。
「それが……『人間が先に約定を違えたのだ』とのお言葉だけが届いたと……」
 ヨタカは押し黙った。風竜は現在の王をとても好ましく思っていたはずだ。どの竜よりもひどく好意的で、それが合力してもらえないとなるとあちらがいうように「人間」に属する誰かが竜との約束を破ったということになる。
 考えていても埒(らち)があかない。ヨタカは髪と同じ色の黒いマントを翻すと王都の中心地とは逆方向へ足を向けた。
「若! どちらに参られます!」
「その呼称で呼ぶな。その旨、義父上のお耳に入れねばならん。それに優秀な風の術者は一人でも多く必要だ。義妹にも出動を命じてもらう」
 この場をしきる将として神殿にいる実兄に指示を仰ぐようにと言い捨てる。初めからあてにはしていないし、兵にもその意図は伝わったようだ。彼らの間に先ほどとは別の緊張が走った。
 現在、風の家の家長は一番上の兄である。血筋だけで家を継いだ凡人との評判だ。ヨタカに兄弟は多く、実父には六人の妻がいた。ヨタカは五番目の妻に生まれた第二子である。同腹の兄は幼いヨタカの目から見てもよく出来た人で、小さい頃から実父の覚えもよかった。それゆえに妬まれたのだろう。第一夫人と長兄にこっそり殺された。
 何も信じられなくなった。父の妻達も兄どもも、それを諫められない父も、無力な母も。死んだ兄の二の舞とならぬように愚者を装った。そうするしかない自分が何より腹立たしかった。力が欲しかった。

「国がこのような様でありますのに、王はどうしてこの場におられませぬか」
 焦りから老兵が自国の王を非難する言葉を乗せたので、ヨタカは肩越しに振り向く。
「司令官は動かぬものさ。情報の行き着く果てが必要だからな。それにこの炎は消えない。炎の術者たる義父では用を成さないが、人間を束ねる王としてのあの人には別の仕事がある。この混乱に乗じて何か事を起こそうとする愚か者がいないとは限らないからな」
 老兵はその言葉を聞くと、なぜかしみじみとした調子で彼に唐突なことを語りかけた。
「若、あなた様が次の王とおなりなさいませ」
「……この忙しいときに何をいっている?」
「僭越ながらトール様は物事を合理的にすすめすぎ、シキ様は情に厚くいらっしゃいますが激情のままに走る方でもあられます。お優しく、かつ冷静に物事を見ることのできる、若が最も王にふさわしい」
 もちろん王には立つつもりだが、こうも裏のないまっすぐな称賛を聞くと逆に天の邪鬼な答えを返したくなる。
「オレがお優しいなんて話、愚兄どもが聞いたら腹を抱えて笑うぞ」
「いいえ! 若は見せようとはなさいませんが、お優しい方だというのは皆よく存じております。若はいつでも弱い者の味方でございました。何より、どなたにも顧みられぬ庶子を妹御としてお認めになっているのは若だけではございませぬか!」
「……」
 弱い者を守るのは、見ていると腹が立つからだ。あれを「義妹」と呼ぶのは、彼女を可愛がっている義父に恩義があるからだ。
 と、そう自分を納得させる。天の邪鬼はどこまでも健在だった。
 ある時、義父に尋ねたことがある。なぜ自分を養子に選んだのかと。風の家には男の子が多い。誰でもよかったはずだという自分に、かの人は穏やかな声音で次のような答えをくれた。
『お前が一番、あの場所から出たがっていたからね』
 それにお前は一番賢い子だからとも付け加えて、微笑んだ。
 ヨタカは長男ではない。トールのように腕力も強くない。本音を言えば、風を使う力さえも一族の中では一番というわけでもなかった。特別な「力」を持たない分、小賢しい真似をするしかなかったがそれは智者というのだと義父はいった。
『お前には知恵を奮える機会をあげよう。そこからどれだけのし上がれるかはお前次第だ』
 義父には、息の詰まりそうなあの場所からすくい上げてくれた恩がある。風が吹き上がるための道をくれた。そして同じく風を司る義妹は自分とは違う方向を見つめていた。籠の鳥が外を羨むように自由の空を。
 野を愛する翡翠色の鳥。ならば青い空に抱かれてどこまでも飛んでいくがいい。それはヨタカが選べるはずだったもうひとつの道、王位を望んだときに捨てた道でもあった。

   *

 ヨタカが王宮に向かっている同じ頃。末弟シキもまた水の一族を率いて炎と格闘していた。水が得意とするのは癒し。相手が炎なら消火活動も加わる。しかしこの炎は消えなかった。
「駄目なのか!」
 整った顔立ちを苦悶に歪めて兵と術者を指揮する。長い黒髪は動きやすいようにひとつに束ね三つ編みにして垂らしていた。
「半数は大地の一族に付いて治癒を。残り半分は私と共に来い」
 シキが率いる兵はほとんどが術者だった。人の姿をした水の精霊も多くその指揮下に入っている。シキの側には特に美しい乙女の姿をした、一人の水の精霊が側にいた。
「主、主。どうぞ嘆かないで……」
 美しい水の精霊は少女のような顔を悲しみに染めて慰めた。彼女は個人としてここにいるのではなく契約によってシキの為に力を貸す精霊である。人の形を取れるだけの精霊は上位精霊と呼ばれ、それを従えていることは術者としてのシキの高い能力を示していた。
 シキは中性的というよりもむしろ女性的な顔立ちをしていたし、かの精霊と並ぶと、怒られるだろうがまるで美女が二人並んでいるような印象を受ける。この美しい人を守らなくてはと兵たちを無意識に奮起させる将だった。
「シキ様、怪我人の治癒は我らにおまかせください」
「炎より逃げまどう民に水のご加護を」
 信頼厚き兵の言葉にシキはすまない、と苦い微笑を浮かべて彼らを送り出した。その微笑みこそが彼らの心をなにより温かく灯す。人心を掌握する術ならおそらく一番シキが長けていた。ヨタカなどは計算のうちだがシキは無意識に行う。
 消えない炎に悩まされながらシキは精霊に命じて水を使う。全くの無駄というわけではなく、なかには消える炎もあったからだ。直接炎に包まれた民に出くわすことが出来れば助けることも可能だが、たいがいは黒こげになった死体か煙に巻かれてすでに死んでいる者がほとんどである。彼らの理不尽な死に胸を痛め、己の無力さにシキは歯がみしていた。
「大丈夫ですわ、主」
 水の精霊はにっこりと微笑んで彼を勇気づける。
「主はいずれこの国の王様になるお方、次の精霊の長となるべき方ですわ。この場を収めることができればきっと今上の長も認めてくださいます」
 彼女がささやくのはただの慰めだ。シキは力無く笑って応える。水の精霊はさらに続けた。
「この国は霧の谷。霧は水の結界といいます。この炎も水蒸気ならば消すことが出来るかもしれません」
 その一言に、シキははっとして顔を上げた。
 試すだけの価値はある。蒼い色のマントを翻し両腕を構えた。いや、正確には右手には何かを握り込んでいる。シキは、うなりを上げる猛々しい炎を呼び出した霧で包み込んだ。炎と霧が巡り会った場所がじゅっと音を立てる。効果はあった。じわりじわりとだが勢いが弱くなっていったのだ。
「この方法は使えるぞ。霧で炎を包め!」
 兵は一斉に霧で炎を包み込んでいった。普通の炎とは違って消すには随分と時間がかかったが、それでも目に見える効果に兵は疲れを忘れて消しに回った。常に霧を纏っている
ところから名の付いた「霧の谷」。燃えている都に霧が集まり、その結果、谷の入り口を覆っていた霧はかえって薄くなっていく。
「各地に散らばっている水の術者にもこの方法を教えろ。国をむしばむ炎を消すんだ」
 水の伝達は王都から地方都市に向かって流れるように作られている。すぐに命令は行き渡るはずだ。
「シキ様、長に報告に行って下さい」
「そうですよ。シキ様が直接お会いになった方がよろしいでしょう」
 その言葉にシキは素直に従うことにした。
「ありがとう。では、ここはまかせた!」
 その様子は誰の目にも嬉しそうだということが見て取れた。遠ざかる彼の後ろに水の精霊たる少女が続く。
 シキが手に握り込んでいた、何か。
 それに気付く者は誰もいなかったが、もしも目にする者がいたならばそれは研磨される前の原石のようだったと答えただろう。
「お前に礼を言うのを忘れていた」
 シキは自分の精霊に振り返って微笑む。精霊もまた微笑んだ。
 その水の精霊は誰が見ても美しかった。少女のような愛らしい顔立ち、大人の女性が持つ魅惑的な肢体。まるで魔性の美しさと呼ぶような。鈴を転がしたような高く澄んだ声で言葉を紡ぐ。
「出過ぎた真似をしました、我が主」
「いいや、お前がいってくれなければ気付かなかった。ありがとう、サイハ」

   *

 再び場面は戻って王宮。ホウとレンカは消え始めた炎を見下ろしていた。
「ほ。消えよるわ」
 側にいた近衛兵と侍女はその声にほっと安堵の息を漏らす。しかし声の調子とはうらはらにレンカの表情は固い。それはホウも同じだった。優雅な曲線を描く眉宇が形を変え、かすかに中央に寄せられる。
「……何を」
 考えている?
 後半の台詞は飲み込んだが、レンカには伝わったらしい。そうじゃな、と合いの手が返ってきた。妖魔の長にしてみれば、しばらくこの炎を維持したいはずだ。純粋にこちらの力が上手だったと思えるなら楽なのだがそうではないだろう。あえて向こうから引いたとすると何が目的なのか分からない。もしかするとすでに目的は達したのかも……。そう考えると血の気が引いた。逃がした娘はどうなったのだろうか。
「遠見の能力者がおればよいのじゃがな」
 考えはお見通しとばかりにレンカが言葉を返してくる。水の術者ならば水鏡を使って遠くの物を映すという術を使う者もいる。しかし下手に水鏡を使ってそれを誰かに傍受されてはこちらの気遣いも無駄になるというものだ。
「あの子は無事だろうか」
「さてな。そうであることを願おうぞ」
 レンカのそれはまるで気休めにはならなかったが、事実なのでかえって下手な慰めよりも真摯に響いた。
 と、そこへ、二人ほど侍従が走って来た。
「申し上げます、ヨタカ様が謁見を求められています」
「ほぼ同じくしてシキ様も参られました」
 ホウはこの報告に軽い驚きを抱いた。二人ほぼ同時、それも使いを出すのではなく直々に来るとはなにか特別なことでもあったのだろうか。あまり兄弟仲のよくない三人であるから、報告のときもわざわざ別の侍従に命じたらしい。一緒に伝えに来させればよいものを、と思うのは今に始まったことではない。溜め息を綺麗に押し殺して侍従に伝言した。
「謁見の間に二人同時に通すように」
 侍従二人は揃って頭を下げて出ていった。
「口論が始まったとしても謁見の間ならばここより部屋が広い分、間近で聞かなくてもよいからのう」
「レンカ……お前はどうしてそう物事を曲解して捕らえる?」
「妾は炎の性ゆえ、水とは反りが合わぬ。まだ次兄殿の方がましであるな」
 精霊にしても幻獣にしても、持って生まれた性質というのは対人関係に大きく影響するらしい。大地の精霊たるイスカなどは長兄が一番ましで、ふらふらしている次兄が一番信用ならないといっているのだから面白いものだ。
 そしてホウはレンカ一人を供に謁見の間に向かった。レンカに、自分の愛刀を忘れないでくれと念を押して。

 ほどなくして謁見の間に三人が揃った。


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