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翡翠抄−ひすいしょう−

第三章第四節第四項(067)

 4.

 赤毛をなびかせ、セイは喜びいっぱいの顔でヒスイに駆け寄ってきた。
「愛してるよ、ヒスイっ」
 一体なぜここにいるのか、とヒスイとイスカは走ってくる彼を見る。イスカに緊張が走った。無理もない。謎の炎は妖魔の長が絡んでいるとわかったばかり。そこにもう一人、妖魔の姿を見かけては。イスカは表情を険しくするとヒスイの前に立ちふさがった。ヒスイはほとんど無意識にそのイスカを退ける。右の握り拳に力をこめながら。

 喜色満面で駆け寄ってくる彼の頬めがけて、正拳突きが炸裂した。

「……。まだなんにもしてないんですけど?」 
「五月蠅い!」
 哀れっぽい顔して見上げてくる瞳は冗談半分。今度こそ本当に、以前と何一つ変わらないセイの姿。ぎりっ、と奥歯を噛みしめ、ヒスイは胸を張って尊大に言い放つ。
「八つ当たりだ!!」
 イスカが目を点にした。
 自分でもひどいことをしていると思う。不条理だとも。けれど、この顔を見ると収まらなかった。むかむかと腹の底から言葉にならない感情だけが吹き出して、出口を探していた。セイはただの殴られ損である。それくらい分かっている。分かっているが止まらない。
 さすがにセイはヒスイの言葉を額面通りには受け取らなかった。殴られた頬を押さえ、困ったように微笑む。
「……オレに八つ当たりしたくなるほど、色んなことがあった?」
 彼があまりにも的確に本当のことにたどり着いたので、感情の暴走はますます歯止めがかからなくなった。
「大ありだ。人が出ていこうと思ったその矢先、お前はいきなり庭先に現れるわ、人のこと押し倒すわッ」
 隣でイスカが石化した。
 ヒスイの口は止まらない。
「レンカが呼びに来たと思ったらいきなり王都が火の海になってるわ、父さんは出て行けというわ、おまけに妖魔の長が裏で糸を引いているとかいうわ……もう、何がなんだか分からなくなって……」
 ぐるぐると頭の中で今夜の出来事が渦を巻く。ヒスイはここに至るまで自分がどれほど参っているか自覚がなかった。非日常的な状況下では日常を取り戻すまで心と体は麻痺を起こす。そのことは知っていたし、そういう体験もした覚えはあるが今がその真っ最中だとは思わなかった。泣いても事は何も変わらないなら、その分急いで前に進むしかない。こうしなければならない、こうでなければいけない、とそう考えていることこそ思考回路の迷路に迷い込んでいることに気付かないでいた。
 セイは殴られた拍子に尻餅をついていたが立ち上がるとヒスイを抱きしめて擦り寄る。イスカはまだ石化したままである。ヒスイが罵声を浴びせかける前にそれを封じる形で先に言葉を紡がれた。
「大丈夫? ヒスイさん、普段なら八つ当たりなんてしないもんねぇ。でもオレなら気の済むまでいくらでも付き合うから。なんならオレの胸で泣く?」
 誰が泣くか、と口にはしなかったが睨み付けた。本当は泣くことが出来れば溢れる感情の出口を作ってやることができるのだが。視線の先には嬉しそうに目を細めているセイの顔。やっぱりこいつは自分を甘やかしすぎだと思った。そういったらまた「だから、ヒスイは自分に厳しいからこれくらいでちょうどいいんだってば」と返ってくるだろうか。
 次第に胸の奥から吹き上がってきた感情の澱は穏やかにやむ。水底で舞い上がっている泥も時間が経つと沈殿して再び水が澄むように、だんだんと心の中も落ち着きを取り戻してきた。……八つ当たりの効果はあったようだ。
 さて、切り替えが早いのは母親譲りである。
 へばりつく腕を引きはがしてセイの顔を見上げる。ヒスイはこれでも前に比べて背が伸びたはずなのだが、見上げる視線の高さは昔と同じだった。そして変わらぬ赤毛。先ほどまでの青い髪ではなくて。
「……お前、色を変える魔力はここでは奮えないはずじゃなかったのか?」
 そうでなければ青い髪で現れることはなかったはずではないか。
 ヒスイと視線を合わせたセイは少々ばつの悪そうな顔をした。
「いや、あの、うちの長がここの結界、無効化しちゃったらしくて……」
「なんだって!?」
 セイが妖魔としての力を使えるようになったのはそのせいか。結界がなくなったということは、妖魔の力を阻害する力が全部なくなったということである。と、いうことは妖魔が一斉に攻めてきても防ぐ手段がないということではないか。石化したイスカも我に返った。
「妖魔の長は手勢を連れて本格的にここを襲撃するつもりですか!?」
「あ、ないない」
 セイはひらひらと手を振る。片手はまだヒスイを抱きかかえたままだった。いい加減に放せと彼の手をどけようとしたが、セイはそれでも離れてはくれず、更にしっかりと抱きしめる。ヒスイと手の置き場所を争いつつ、セイはイスカに向かって真面目な話を続ける。
「あの方、自分のおもちゃに手出しされるのすっごく嫌うから。手勢なんか使うはずがない。それに本人はどうやらもう潜り込んでるみたいだし? あと関係させるったらキドラぐらいかな。結界にしたってあいつ呼び込むのに邪魔だから消しちゃっただけだと思うけどね」
 最後の一言にヒスイは青くなった。なお悪い。
 というか、その可能性を全く考えていなかった。妖魔の長の側にはキドラと名前を変えたあの男がいるのだ。もしもあの男と父が鉢合わせをしたらと思うとぞっとする。
 しかし、そんなヒスイの様子に対してイスカはきょとんとするばかり。
「キドラって誰ですか?」
「!?」
 ぎょっとしてヒスイは思わずイスカの顔を注視してしまった。イスカが忘れたはずがない。自分の大事な大事な主を傷つけ、そしてその主に殺された男のことを。その男が氷の精霊として新たな生を得、今、妖魔の長のすぐ側に仕えていることをイスカは知っているはずだ。ヒスイの狼狽を余所に、意外なところで実年齢が判明した「少年」はやはり訳が分からないといった様子で逆にヒスイの顔を見つめてきた。話に出てくる人物をヒスイは知っているのかと問いかけてくるような視線だ。すると、まだ自分を手放さない青年が「あ、忘れてた」と呟いた。何かがピンときた。きてしまった。不穏な空気を背中に負いつつ、油を差していない蝶番(ちょうつがい)のようなぎこちない動きで彼の方へと首を向ける。
「……お前、何をやった……?」
 忘れていたとはどういうことなのか。ヒスイはセイの胸ぐらを掴むと力一杯睨みつけた。
「どういうことだ!」
「ごめんなさい」
 返事の変わりに謝罪。何かやったのだと認めた。自然と柳眉が険しくなっていくのが分かる。それとは反対に、問いつめられているはずのセイはちっとも表情を変えなかった。
「ちょっとした記憶操作。完全に封じたわけじゃなくて、その場しのぎの一番簡単な忘却の暗示。すぐに解けるから精神に悪影響はないよ」
 表情を変えないのは悪気がないから。全く、欠片も、持ち合わせていないから。人の心を操る妖魔だとは聞いていたが、その力はこういうことに使えるのか。ふるふると怒りに打ち震えるヒスイに向かって彼は急に鉄面皮を脱ぎ去り、困ったような真剣な顔で精一杯訴えかける。
「あ、でもっ。絶対怒ると思ったから、ヒスイの記憶はいじってないからねっ?」
「今すぐ解け!」
 ヒスイ以外は全く持ってどうでもいい夢見の妖魔はぶつぶつと文句を垂れた。イスカはますますもって訳が分からない、といった様子である。そんなイスカにセイはいった。
「お前が忘れてるのはね、セツロがキドラって話」
 ぶっきらぼうな口調で告げられた言葉はイスカの眠っていた記憶を揺り動かすのに充分だった。
「!!」
 一気に記憶が戻ったらしい。いや、思い出したというべきか。気の毒に、ゆだった貝のようにぱっくり大口を開けて大地の精霊は蒼白になった。
「な、ななな、な……!」
「ちょっと黙ってろ」
 すっかり混乱をきたしたイスカに口を挟まれては進む話も進まない。慌てる張本人をあろうことか蚊帳の外に置いて、二人の会話は続く。
「一体なぜこんな真似をした」
「あの状況だとキドラのことは精霊の長に報告がいくよね。顔見知りだって? ということはキドラがどんな奴かってのは能力も性格もある程度、向こうに知れてるってことだ。あいつ、仮にもサイハ様のお気に入りだし。一応は側近の情報が敵側に漏れるような危険は封じておきたかったんだよね。人間とはいえ精霊の長ってのはオレ達妖魔にとっては桁違いに脅威なわけだから」
 時間稼ぎ程度になればいいと、イスカの記憶に簡単な暗示をかけた。暗示はやがて忘却という普通の精神状態に飲み込まれる。それが極めて自然な行為であったために妖魔封じの結界は反応しなかった。ヒスイは溜め息をつくしかない。
「だからね、ヒスイが精霊の長に『セツロがね』って話をすれば別に情報封鎖にはならなかったわけだし、ついでにその時点でイスカの記憶も戻ったんだよね。まぁ、賭けみたいなものだったけど」
「馬鹿! いえるか、そんなこと!」
 ヒスイは、その当時まだ生まれていなかったけれど知っている。ひどく傷ついたのだ、あの美しい人は。泣いて泣いて、涙がかれるほど嘆き続けて、母に殺して欲しいと願うほどに痛みを抱えていたのだ。その傷を再び抉るような真似が娘に出来るはずがない。
 その男を、妖魔の長はよりによって招き寄せるつもりだという。
「父に……報せなければ……」
 あの男が生きている、いや、精霊に生まれ変わっていること。よりによって妖魔の長を愛して側に仕えていること。ついでに、最悪な性格はちっとも矯正されていないことも。
 ヒスイは、逃げようとしていた逆方向に走りだした。イスカがその後に続く。
「僕も参ります!」
 こらこら、とセイもその後を追いかけて走り出したが、その目的は二人とは違っていた。軽くヒスイに追いつくと、後ろからその首筋に手刀を浴びせかけたのだ。イスカが顔色を変えた。
 軽い手つき。それでもヒスイは一瞬で意識を手放す。何をされたのか分からなかった。くらりと均衡を崩し、前のめりに倒れ込む体をセイが抱き留めた。

   *

「はい、おねんねしててね」
 抱き留めたついでにこめかみに軽くキスして、両腕で抱き上げるのではなく肩に担ぎ上げる。非常時に片腕を空けておくのは人命救助の場でも常識だ。危険な状態にふいに出くわしても反応が遅れなくて済む。そしてヒスイが向かおうとしていた場所とは反対側、つまり逃げようとしていた方向へと走りだした。
「待ちなさい、ヒスイ様をどこに連れていくつもりですか!」
「はぁ? 逃げるに決まってるだろうが。ヒスイの思うようにさせてあげたいけど、あの方の餌食にさせるつもりはさらさらないからな」
 精霊の長に報せるなら一人で行けとばかりに、しっしっ、と手を振った。半眼である。イスカの目に迷いが走るのが見て取れたがセイにとってはどうでもいい。さっさと出口へ走り出した。セイなら幻の炎と本物の炎の区別がつく。意識のないヒスイならこのままつっこんでいっても大丈夫とばかりに、偽りの炎の中へ身を滑り込ませた。と、そこへ、
「僕はヒスイ様をお守りすると約束したんです!」
 てっきり精霊の長のところに行くと思われたイスカは、後ろからついてきて同じように炎の中へ飛び込んできたのだ。
 そうしてヒスイを含めた三人は王宮から遠ざかっていった。だから、これから起こる出来事を彼らは知らない……。

   ***

 燃えさかる炎を相手に、三人の王子はそれぞれの一族を率いて救助活動を行っていた。
「建造物を壊せ!」
 大地の一族を指揮して先頭に立つのは長兄トール。炎を消すことではなく、炎が広がらないために隣接した建物を先に潰してしまおうというのが彼の考えだった。
「トール様、瓦礫の下にまだ人が!」
 半分崩れた梁の下にすがっている少女がいた。炎がその後ろに迫っている。
「生きているのか?」
「……それが……」
 少女は嘆き、小さな二本の手で黒い土を抉り、梁をのけようとしていた。兵が何人かそれを手伝うが梁はびくともしない。トールはそれを一瞥すると命令を続けた。
「かまうな。そのまま建物を壊すんだ」
 兵は手にそれぞれ道具を持ち、人の埋まった瓦礫の上に足をかけて建物を壊していった。少女が泣き叫ぶ。
「やめてぇぇぇ! お母さんを、お父さんを助けてよぉぉぉッ!」
 瓦礫の上に更に瓦礫が積み重なり次々と埋まっていく。少女をその近くから離そうと兵が幾人が彼女の腕を取るが、彼女はやっきになって暴れた。放して、と彼らに泣きながら腕をふりほどく。彼女の憤りは命令を下したトールに向けられた。
「人殺しっ!」
 少女の怨嗟の言葉を聞いてもトールは表情を変えなかった。側についていた新米兵の方が驚いて、そっと上官の顔を伺う。表情を変えない彼の呟きを聞き取ったのはその新米兵だけだった。
「死んだ者を取り戻すために万人を犠牲にするわけにはいかぬ」
 低く重い声だった。己自身への呪詛のような。
 新米兵はそのまま視線を落とした。もしも。もしも炎を阻まなければもっとたくさんの人が死ぬ。あの少女も死んでいた。親と共に死なせてやった方がよかったのかもしれないが、それでも新米兵は、一人でも多く生きていてほしいと上官の広い背を見ながら思った。


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