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翡翠抄−ひすいしょう−

第三章第四節第三項(066)

 3.

 王宮にて精霊の長とその守護精霊が言い争いをしている頃。
 森の奥深くにある主不在の離宮では、絹の帳の奥で青い髪の妖魔が一人ごろごろと寝返りを打っていた。

 先ほどまで月の光が青く照らしていた中庭は、今は夕暮れ時のように赤く照らされた空の色を映して赤橙色に光っていた。それでも男は気にしない。適当に火事があったのだろうとくらいしか考えていない。
 この部屋の主が帰ってきたとき「まだいたのか!」と怒らせたいがためだけに、この妖魔はここで時間を潰して彼女を待っているのである。

 自らの体の異変に気付いたのはその時。
「……あれ?」
 セイは体を起こすと、首筋で一束に結んだ青い髪の一筋をつまみ上げた。髪の毛は相変わらず空気に触れた藍染めの生糸のように光沢のある鮮やかな色を保っている。
「……」
 その毛先をセイはじっと凝視した。枝毛もない健康そのものの髪である。その先がやがて日焼けして色が抜け落ちたかのように、うっすらと色を変え始めた。金色に近い色に変化し始める。セイが見つめる前で、髪は青から銅貨のような赤い色に変化した。毛先だけではなく髪全体を赤が覆う。ヒスイが嫌いではないといった赤毛に。
「あっれぇ? どーなってんの、これ」
 自然と口調が軽いものへと変化する。この赤毛は妖魔の力を「わざと」完全に押さえ込んだときのセイの姿だ。しかし霧の谷では最初から妖魔の匂いがするものは入れない。青い髪の姿であっても妖魔の力は「無理矢理」完全に押さえ込まれていた。こうやって髪の色を変える力さえ先刻までは振るえなかったというのに。
「ヒスイが急いで出ていったことといい……何かあったのかな?」
 燃えるような空を離宮の外へ出て見上げる。炎にあぶられて月が火傷しそうな勢いだ。セイは頭を軽く振って髪の色を赤から再び本来の青い色に戻した。
 踵を上げて、軽く爪先で地面を蹴る。それに合わせて体が宙に浮いた。軽く力の方向を定めて上昇していく。ある程度の高さまで浮かび上がると、ふんわりと手近な離宮の屋根の上に足を降ろした。
「やはり妖魔の力が使えるな。どういうことだ? 結界が反応しない?」
 霧の谷が妖魔封じの結界に守られているというのは妖魔の間では有名な話である。それも失われた太古の呪文と精霊の力を縒り合わせ、編み込まれた結界だ。おいそれと手出し出来る物ではない。
 セイが疑問に思っていると、また町の中で炎が大きく弾けた。
 勢い、そちらに目を移す。眼下で起こっているのは炎で描かれた一幅の絵だった。炎と煙が霧の谷全体を覆い尽くしている。夜の闇に浮かんで踊る赤とそれを包む黒煙がセイには自分とヒスイの髪の色に思えた。まるで二人、楽しそうに踊っているような光景。あまりに綺麗だったので思わずこの「見せ物」に拍手を送った。
「へぇ。お見事、お見事。あの方、こういう面白いことは絶対配下を交ぜてはくれないからなぁ」
 どうして妖魔の力が突然戻ってきたのかセイには分かった。霧の谷の結界を無効化するなどという真似が他の誰にできるというのか。妖魔の長、サイハの仕業だ。彼女の側に長く仕えていたセイには分かる。どこか結界に穴を開け……もしかしたら内部の人間を上手く騙して内側から穴を開けさせたのかもしれない、それを足がかりに一気に無効にして見せたと見た。
 と、そこまで考えてセイは叩く手を止めた。
「……。内部の人間とどうやって接触した? 最低でも内側に自分の思念を伝える媒体が必要なのに」
 もしかして、利用されたか?
 思わず人差し指を己の方に向けて自問自答する。
 セイが霧の谷のこんな奥までやってこれたのはヒスイの思念を利用したからだ。谷の内部に直接潜り込むことは難しいが、これから中に入っていく人間に目に見えない印を付けておくことは簡単である。更に言えばいくらここの結界が強固だといえども星の光まで歪めるわけでもない。星見のトーラならば霧の谷の様子も手に取るように分かる。そのトーラを通じていつでもヒスイの思念と接触できる状態にしていた。いつかヒスイが霧の谷を出ていくと決めたとき、すぐ側に駆けつけることが出来るように。
 今夜、その思念を頼りに結界の内側に滑り込んだ。あとは幻獣や精霊に見つかりさえしなければいい。まさか人間のふりをしているときに覚えた気配を消す業がこんなところで役に立つとは思わなかったが。
 セイがヒスイに見えない印を付けていたように、サイハもセイに見えない印をつけていたのかも知れない。いつかセイが霧の谷の中に忍び込んだとき、己の気配を結界の内部に呼び込めるように。
「……背いた物まで利用するか。まあ、あの方のことだからオレ以外にも他に方法を考えているのだろうがな」
 者ではなくて、物。それにしても面白くない。サイハがセイと同じ方法を採れるのは、二人が似通った力を持つからだ。精霊の属性のようにはっきりとしたものではないが妖魔の力にもいくつか固有の物が存在する。青い髪の彼は眼下に燃えさかる炎をほんのひとすくい、自分の手元に転送させた。セイの右手に消えない炎が現れる。だがその炎がセイの手を焼くことはなかった。……赤い炎は次第に色を変える。青白い炎へと。
「ふん。相変わらず見事な幻だ」
 くしゃりと握り潰す。炎は消え、そしてやはり火傷ひとつ負うことはなかった。なぜならセイは知っているから。これはサイハが作った幻覚の炎だと、一点の曇りもなくそう知っているから。セイが脳裏で思い描くままに青白く変化して消えたのがその証拠。もし少しでも疑いを差し挟めば幻術で作られたこの炎はセイを焼いただろう。
 セイが使うのは夢、サイハが使うのは幻。
 両者の力はよく似ていた。だが応用範囲が広いのはサイハの方だ。幻術など単なる目くらましだと魔術師や賢者はいう。だが、人の精神に極めて間近に接してきたセイは巧みに作られた幻がどれほど恐ろしいものか知っていた。
 特に妖魔の長たるサイハが作る幻術はいつだって本物以上だった。今のように人が「燃える」と思えば幻は単なる目くらましでは終わらずに「燃える」。おまけに「消えない」という本物にはない付加価値まで付けて、そして「焼き尽くす」。人が想像する思念そのままに。そして更にどさくさに紛れて発生した本物の炎を巻き込んで被害は飛躍的に広がっていく。

 阿鼻叫喚の眼下の光景を見下ろし、片頬を歪めて小さく喉を鳴らした。彼らは自分達の想像力で自滅しているようなものだ。青い瞳が無意識のうちに深く濃い色に変化し三日月の形に細められる。
「ここまで大がかりに遊んで、けれどヒスイを手に入れることができなければあなたの目論見なんざ無駄足と同じですよね、サイハ様?」
 嘲笑。一束にまとめられた青い長髪が空気を孕んで翻った。全身から青い陽炎を立ちのぼらせて、セイは遠慮なく妖魔の力を発動させる。自分が持って生まれた夢見としての能力を。
 膨大なまでの他者の思念が奔流のようにセイの頭の中に流れ込んできた。
 それは人間のものであったり精霊のものであったり幻獣のものであったり……特に本能に近い叫びはうかうかしていると術者本人が引っ張られる。思念が一気に流れ込むといっても、異なる色の水が混ざり合い濁流となって思念の元が分からなくなるようなことはない。例えるならそれは複雑に絡み合った色糸。星見のトーラが生き物の魂を色の付いた星に見立てるのと似ていた。絡まった糸の玉をほどくように、時には余分な糸を裁ち切って、夢見の妖魔は思念の糸をたぐりよせる。
「愛してるよ」
 誰も聞く者はいないけれど、自らを奮い立たせるように想いを呟く。
「強靱な意志を映す翠の瞳も、強さと弱さが同居した不安定な心も、ついでにオレのことなんて一瞬で忘れて立ち去っていくような薄情さもまとめて愛してる」
 思い描くのは短い黒髪を風になびかせ、こちらを睨み付けている少女。否、もう女性と呼ぶべき。あんなに綺麗になっているなんて思わなかった。
 愛してる。虐げられ、傷つけられ、それでも輝きを失わない彼女。
「だから絶対、渡さない」
 夢見るような表情を剃刀のように薄い笑みに変え、ほどなくしてセイは愛しい女の居場所を見つけだした。

   *

 そのヒスイがいる王宮でも炎は広がっていた。
 言い争いをしている時間はない、とホウはイスカを突き放した物言いをした。
「……っ」
 大地の精霊は一度大きくしゃくり上げる。大粒の涙が二粒、流れ落ちた。それでもホウは表情を変えない。そしてイスカは大きく一歩後ろに下がってホウと距離を置くと、袖口で涙を拭って口を真一文字に引き結んだ。
「……ご命令に従い、あなた様の精霊はヒスイ様をお守りいたします」
 こわばった口から格式張った台詞を吐き出す。顎は小刻みに震えていた。こんな命令は聞きたくなかったのだと態度から見て取れる。しかし、我が儘を唱えても通るわけでないことをイスカはよく知っているし、なにより彼は我が儘をいうことで主であるホウを困らせることを厭う性格だった。
 ホウは彼に頷いてみせた。それを合図にイスカはこちらに背中を向ける。隣の間にいるヒスイを連れ出すために。
「イスカ」
 いまさら引き留めることなどできようはずがないが、どうしてもホウは一言だけいっておきたかった。
「お前は私の盾。私の命を守るために使う力だ。そのお前の力を今だけは私の命より大切なものを守るために使おうと思う」
 イスカは振り返らなかった。ただ、肩を震わせる。
「守りきれるな?」
 確信を持った問いかけ。問いかけですらなかった。それはただの事実の確認。更にいえば、こういう言い方をすればイスカの誇りにかけても遂行するだろうと知っていた。……例えホウに何があっても。
 イスカは振り返りもせずに「はい」と答える。その声は嗚咽を噛み殺したために震えていた。少年は走り出す。朽葉色の法衣がはためくのを見てホウは背中を向けた。部屋の外へと飛び出す音。レンカの声とイスカの声が重なる。ヒスイが戸惑う声も。足音が二つ分、軽い音を立てて遠ざかっていく。
 足音が完全に聞こえなくなるまでホウは背を向け続けた。

「残酷なことをする」
 レンカの声がしてホウは緩慢な動作で振り向いた。かすかに苦笑しながら彼女はホウの側に近づいてくる。流れるような動きに具足はほとんど音を立てない。
「ああいえばイスカは長に何があっても姫君を守らねばならぬ。何より愛しい主の命令であるからのう。あの子がどれほど望んだとしてもここへは戻れぬ」
「……お前は反対だったか?」
 レンカは首を振った。
「いや。妾にとっても可愛い弟分じゃ。生き延びて欲しいと思うておる」
 生き延びるという直接的な台詞にホウは困ったように唇に曖昧な笑みを乗せた。妖魔の長が霧の谷に潜伏していることはほぼ間違いがないが、直接的に対峙するとはまだ決まったわけではない。確かに直接会ってしまえば彼女がいうように生き延びる確率はうんと低くなってしまうのだが。
「しかし『予言の星』がいないからと言うて妖魔の長が我らをそのままにして帰るとは思えぬ。長とてそうであろう」
 まっすぐな物言いに苦笑も出来ず首を縦に振った。その戦いに守りの要たるイスカを欠くのは確かに痛い。だが、死ぬかも知れないからこそ、未来あるイスカだけはヒスイを連れ出すという名目で逃がした。
「イスカが戻ってこなければお前をヒスイに付けようと思っていた」
「それは困るな、長よ。妾との契約の内容を忘れたか?」
 困ったように彼女がくすくす忍び笑いを漏らす。彼女にしては珍しい小さな笑い声。
「妾は初めからあなた様を守って死ぬ約束であったろう?」
 穏やかな沈黙が下りた。
 ホウの深い緑の瞳とレンカの赤い瞳が互いを見合わせて微笑む。希望などなかった遠い昔、それは確かにレンカと契約するとき交わした約束事。あれから生まれた赤子が成人するほどの時間しか経っていないはずなのにひどく懐かしい。
「では、共に死ぬか」
「おおせのままに」
 レンカは非常に珍しくその場に跪いて頭(こうべ)を落とした。芝居がかったその仕草に、これが本当に冗談で終わればいいとホウは思った。

   *

「どこまで行くんだ!」
「追っ手がかからないところまでです!」
 半泣きのイスカに先導されてヒスイは地下の細い通路を逃げていた。どこでも王族用の緊急の抜け道というのは用意されているらしい。逃げて、というよりも引っ張られているというのが正しいが、それでも今度こそヒスイは自分の意志で走っていた。
 イスカと父のやりとりは全部聞こえてしまった。この炎が妖魔の長の仕業だということも、自分を狙ってやってきたらしいことも。だとすると人々が逃げまどっているのは全部自分のせいではないか。ヒスイがここに残ると妖魔の被害を広げていく一方である。それならば餌はせいぜい、ここから離れなければならない。そう思った。
「……悔しい」
 それはヒスイの言葉。周囲は自分のせいで傷つき倒れていっているというのに守られるばかりで、それなのに自分は自分を傷つける者に一矢報いてやることもできない。
 前を走る大地の精霊も同じことをいった。
「悔しいです。僕は結局、ホウ様をお守りすることさえ出来ない」
 それは違う、とヒスイは言いかけてやめた。彼も己の力不足を嘆いている。それを違うと聞かせても嘆くことをやめはしないだろうから。父の思惑はなんとなく分かった。この素直で忠実な少年を死なせたくないのだ、父もレンカも。ヒスイにひとつ、背負った物が増えてしまった。彼を生かさなければならない。
「それにしても私に義理の叔父だかもう一人の義兄だかがいるとは思わなかったな」
 目の前でイスカがずっこけた。
「ヒースーイーさーま?」
「外見より年上だとは思っていたが、父の養い子だなんて聞いてないぞ。お前、いくつ上なんだ?」
「僕はヒスイ様のちょうど十歳上になります」
 今年二十八の「少年」はこけた拍子に打ち付けた額を押さえながら琥珀色の瞳でヒスイを見上げてくる。なるほど、確かに精霊にしては年若い。人間の命の範疇というのも頷ける話である。
「どうかなさいましたか?」
「……人間と精霊と妖魔の外見的相違に対して色々考えていただけだ」
 考え事は後回しにして今はお急ぎくださいと、考える原因となった大地の精霊は先を急がせた。迷路のような通路を再び走ろうとする。と、そのとき、忘れていたもうひとつの厄介事が顔を出した。

「ヒスイ、見つけた!」
 明るい青年の声。ヒスイは翠の瞳を大きく瞠る。目の前に現れたのは喜色満面のセイ。それもなぜか赤毛をしたセイの姿だったのである。

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翡翠抄 −ひすいしょう−
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