[←back][home][next→]

翡翠抄−ひすいしょう−

第三章第四節第二項(065)

 2.

 ただいま戻りました。
 戻ってくるはずのない少年の姿がここにあった。
 この場にいた全員が丸くした目を彼に向ける。

「お前、どうして……」
 ホウは少年の姿を見やった。茶色の頭をした少年は、主(あるじ)たるホウの姿を見ると他には目もくれず――ヒスイの姿も、だ――朽葉色の法衣をはためかせてホウの足元に駆け寄り、跪いた。
「星見に予言を受けまして、急ぎ舞い戻ってきた次第です。間に合ったようで重畳」
 そういえばヒスイは星見の妖魔と「双子」になったと聞いていた。
 星見。過去や未来を見通すという妖魔。ただし彼女の未来視は必ず起こることしか見えないという。普通は時の権力者に保護されて、敵味方なく星の見せるままを告げると。ヒスイに関わったこの星見はもちろんというべきか「普通」ではないのだが。ホウは軽く唇を噛んだ。星見の少女が何を見たのか分からないが、だがそれは修正できない未来ということになる。
 ヒスイはそんなホウの様子には気付かなかった。
「トーラに会ったのか? あの子はなんて?」
 必死に、かつての仲間の様子をイスカから聞きたがる。イスカは一度ホウを仰ぎ見て、主の答えがないと分かるとやっとヒスイの方を向いた。
「はい。突然放心状態に陥ったかと思うと僕に霧の谷へ戻るようにといいました。そして懇願されました。あなたを……ヒスイ様を助けてくれ、と」
 それは何気ない言葉だったが、ホウは心から安堵した。
 迷路に入っていた思考に出口を見つけた気がする。星見がヒスイを助けてくれといった。それは、かの少女にはヒスイの未来までは見えなかったということにはならないか。必ず起こる未来しか見えない星見。ヒスイが「助からない」とはいわなかった。それはすなわち、ヒスイは敵の手に落ちない可能性がわずかながらでもあるということではないのか。
 ホウがイスカの台詞に安堵していたその一瞬、ヒスイが何かいう前に、それよりも早くレンカが口を挟んだ。
「ではその星見は何をそなたに告げたのじゃ?」
 そう、それこそが重要だ。
 イスカはわずかに逡巡した後、
「申し訳ありません。お人払いを」
 と、申し出た。
 ホウは頷くと、手で合図を送る。まず戦いに関係のない侍女たちが下がった。次にホウはまだ下がろうとしない近衛兵の顔を順に見つめていった。近衛には近衛の誇りがある。自分がこの国の王を守るのだという自負がある。それを理解した上で、その彼らにも下がれと目で合図していった。彼らはしぶしぶと……もちろん誰一人顔に出すような真似はしなかったが、下がっていった。残るはレンカとヒスイだが、自分はここに残るのだと決めていたヒスイをレンカが促した。
「私は……!」
「廊下まで下がれとはいわぬ。次の間に控えておるだけじゃ」
 それでよいな、と視線だけでホウに確認を求めてくる。頷く代わりにかすかに目を伏せた。相手がイスカかレンカならばそういう小さな合図だけで事足りる。不承不承頷いたヒスイを伴い、レンカは部屋に残る二人に向かって軽く頭を下げる。そのまま彼女はヒスイと一緒に次の間に下がっていった。
 イスカがわずかにとまどいを見せる。イスカが人払いを求めた理由はヒスイに関係することだろうから本人の耳に入れることに躊躇したのだろうが、レンカが部屋から出ていく必要はなかったはずだと思っているに違いない。
「あの……」
 ホウの真意を測りかねた声。だが、ホウはわざと事務的な答えを返した。
「報告を先に聞く。星見は何といったのだ」
「は、はいっ」
 少年が頭を下げる。ホウはその茶色のつむじを見ながら、口調とはうらはらの温かい視線を送った。戻ってきてくれるとは思わなかったから。
 感謝した。この国を支える四竜と七柱の神々、なによりも彼をここに戻してくれた星見の少女に。
 考え事をしている間に、イスカは琥珀色の瞳をまっすぐこちらに向けていた。
「申し上げます。あの妖魔の少女が告げましたのは……」

   *

 ホウたちが話をしている部屋の外は、いつもなら侍女たちが控えている小さな部屋がある。レンカはこの部屋に控えていた近衛達にさらに外、廊下へ出ていくようにといった。しかし、彼らは大人しく引き下がってはくれない。
「いかに王付きの幻獣たるあなたでもやっていいことと悪いことが……!」
 彼らの抑えた怒りの声を、レンカは眉間にくっきりと縦皺を作り眉じりを跳ね上げて聞く。
「ほおおおぉ?」
 腰に手をやり胸を張る。ふと、ヒスイは彼女の爪が金粉をまぶした深紅に化粧されていることに気付いた。具足の色は緋色と金色である。華やかな具足を鎧った彼女には一種、戦場に咲く美しさといった迫力があった。
「身の程知らずにも妾に意見するかえ? ならば腕に物をいわせて見るがいい。こちらも実力で相手してみせように」
 ただでさえ大柄なレンカがそうやって凄むと近衛の一団は皆、一歩後ろに下がった。それがまた見事に揃った動作だったので、レンカの後ろにいたヒスイは「まるで訓練の一環のようだな」と他人事のような意見をいった。
 邪魔な近衛を追い出して、レンカは椅子にどっかと座る。
 ヒスイは座らなかった。彼女の前に立ちふさがる。
「……レンカは、実力行使の人なんだな」
 幻獣に「人」というのはおかしな気がしたが意味は通じたらしい。
「当然じゃ。力の弱い者はわきまえておればよいのじゃ」
 憤慨した声が返ってくるかと思いきや、比較的落ち着いた声だった。何の気負いもない口調。ヒスイは頷いた。動物の世界で弱肉強食は当然なのだ。人間の考え方を幻獣に押しつけてはいけない。幻獣もまた、人間に押しつけようとはしていないのだから。
「なんとなく今のやりとり、母を思い出した」
「母君? それはそれは。気の合いそうな御仁と見たな」
 レンカは晴れやかな笑みを向ける。レンカはただ豪快に笑うが、母は同じ笑うのでもどこか人を惹きつける雰囲気があった。風格と呼ぶようなものが。
 そういえば母とはもう二年、会ってない。この先二度と会うこともないだろう。昔は二度と父には会うことはないと思っていたが今は正反対になってしまったわけだ。父はいまやただ一人の身内。だから余計、こんな混乱の最中に残して出ていけるわけがない。
「……私は、ここにいては駄目か?」
「風の力が何の役に立つ? まぁ、炎をあおる役には立とうがの」
「レンカ……」
 溜め息混じりに肩を落とした。彼女のからかい好きには慣れたとはいえ、真面目な話を混ぜ返されるのはまだ慣れない。その様子を見てレンカは楽しそうに笑った。
「そういう顔をしておると姫君はまこと長によう似ておるのう」
 レンカが告げた言葉にヒスイは目を丸くした。今まで父と似ているといわれたことはなかったから。
「似ておるよ。顔立ちは母君に似たのかもしれぬが、ふとした拍子に見せる仕草や表情などは長によう似ておる」
「……そう、か」
「何じゃ、嬉しそうではないな。似ておるのが嫌か?」
 図星だった。
 だが誤解されると困るので慌てて取り繕う。親に似ているのが嫌なのではなくて、それはもちろん嬉しいのだけれど、「似ている」と他人にいわれることが苦手なのだ、ということを。
「……その……母と私は、髪と瞳の色を除いて容姿がそっくりで……どちらかというと負けず嫌いなところも、自分でいうのもなんだが似ていて……だから、よく、他人に『お母さんにそっくりね』といわれていて……」
 生まれ持った性格も、努力も、何もかもが親の二番煎じのように。
「私は私だ。生まれたときから私なのに。翡翠という名前を持った、母とは別の人間なのに……周囲の声は、私が母そのものになることを望んでいるように聞こえて……」
 母は強い人だった。自分は弱かった。弱いままだと早くお母さんのようになれとか、頑張ればやっぱりあのサラの子供だとか、母の友人にいわれたことは一度や二度ではない。被害妄想は広がっていく。母が自分を父に似ているという言葉さえ自分の後ろに父親を見られているようで素直に受け止められなかった。
 こっちに来て、母に似ているとヒスイにいった人間は父だけだった。父以外の誰も母を知らない。彼らにとってヒスイは最初から「ヒスイ」で、「サラの娘」ではなかった。それが嬉しかった。どうしようもないことに、嬉しかったのだと自覚したのでさえ最近だったりする。
「……本当にどうしようもないな、私は」
 過去の自分の馬鹿さ加減に苦笑するしかない。
 椅子に座って聞いていたレンカはやおら立ち上がる。立つとレンカはヒスイよりも背が高い。そうして、上から掴みかかるような手つきでくしゃくしゃとヒスイの頭をかき回した。
「何を……!」
 黒髪はあっという間に鳥の巣状態になる。批判気味の声で見上げると、オレンジの髪、赤い瞳の美女はにっこりと、いたずら小僧のような――女性にこの表現をするのはどうかと思ったが、本当にそのままの顔だったのである――全開の笑顔を向けて見下ろしていた。
「可愛い可愛い。褒めておるのじゃ。妾にはその悩みに共感は出来ぬが、親御があってこその悩みであろ? その悩みごと大切にせぃよ」
 赤い瞳はくるんと楽しそうに光る。
 ヒスイは言葉に詰まった。そういえばそうだ。精霊や、妖魔の大半は初めから親を持たない。人間にも親のない者はたくさんいる。そういうことを知らなかったわけではないのに、つい忘れていた。恥じ入ってヒスイは思わずうつむく。
「……すまない……」
「こらこら。妾は幻獣ゆえ、卵を生んだ親くらいおるわ。イスカとて……」
 そこで台詞はふいにとぎれた。顔を上げる。レンカは視線をヒスイではなくて、精霊の長と大地の精霊が残った例の部屋へと向けられていた。口元から微笑みが消えている。部屋を見つめる彼女の瞳は普段滅多に見せない、年長者が年下を見守る目だった。
「イスカは精霊ゆえ生んだ親はおらぬ。だがな、あれにとっては長が育ての親よ。まだ長が人間に次期殿と呼ばれておった頃、地竜様より預けられた精霊の赤子があれじゃ」

   *

 イスカは、星見の少女トーラに告げられた予言を今、ホウに告げていた。
「星見は最初にいいました。笑っているのだ、と。最初は一体何のことだか分からなかったのですが……」
 そこでいったん言葉を切る。よほど衝撃があった出来事なのだろう、唇を改めて湿らせ、吹き出した冷や汗を拭うことなく大きく嚥下(えんか)した。
「星見が見た光景は、炎上する霧の谷を背景に笑う妖魔の長の姿だったそうです」
 イスカがいままで抱えていた恐怖をホウも知ることになった。ぞくりと肌が粟立ち、頭から冷水を浴びせかけられたような衝撃に思わず背筋を正した。冷たさは過ぎると痛みとしか知覚しない。そのときの感覚に似ていた。
 首謀者の正体に、やはり、とホウは思う。
 だがそれと同時に、あって欲しくなかったと思った。

 妖魔と精霊はよく対で語られる。だが精霊の長は人間がその位につき、しかも世襲制と決まっているに比べ、妖魔は実力でその位につく。力のない者を妖魔は自分達の長と認めはしないのだから。すべての妖魔の頂点に立つということはそのまま最高実力者ということだった。
 そして現在、妖魔を統べる長は虫も殺せぬような麗しい女性の姿だと聞いている。確か数百年前に「雷帝」と呼ばれていた当時の長を退けて代替わりしたとか。
「僕は妖魔の長の力を知りません。ですが星見の妖魔はいいました。あの方が本気になれば人間という種族ひとつを滅ぼすことさえ簡単なことなのだ、と。……この炎、まさかとは思いたくありませんが……妖魔の長が……」
「というか、それしか考えられないだろうね」
 顔にかかる長い黒髪をそっとかき上げ、額を押さえた。まさか一番の大物が出てくるとは。
「……お前、妖魔の長が使う力が何か知っているか?」
「いいえ」
 ホウ様はご存じなのですか、とはイスカは聞いてこなかった。それは下僕の知るべきことではないから。自分のすべきことをきちんとわきまえている彼らしいと思いながら、同時にそれを寂しく思う。
 ホウは一度振り返り、先ほどより更に炎の勢いが強くなった町を見る。明々と燃える炎の色が血の色に見えた。その炎の向こうに血にまみれた娘の死に顔が浮かぶようだ。
「イスカ、お前はヒスイを連れ、疾くこの国を脱出しなさい」
 抑揚のない声で命じた。彼が戻ってきてくれてよかったと思ったのは嘘ではない。最も信頼できる者にヒスイを託せる。それは何よりも嬉しいこと。
 イスカは琥珀色の瞳に驚きをたたえて、ホウを見上げる。精霊にとって絶対ともいえる主の命令。精霊と生まれたからには誰に教わらなくても染みついている絶対服従。だが、イスカはそれに逆らった。
「嫌です」
 琥珀の瞳からはみるみる水が盛り上がってくる。
「ホウ様は死ぬおつもりですか!? 今まで妖魔の侵略を阻んでいたこの国に、よりによって妖魔の長が宣戦布告をかけてきたのですよ? 僕がお側を離れられるわけがないではありませんか!」
 臣下としての礼を取っていたイスカは立ち上がる。そして主であるはずのホウに臣下としての態度をかなぐり捨ててすがりついてきた。
「レンカがホウ様の剣ならば、僕はホウ様の盾です。僕の命に代えてもお守りすると遠い日に誓いました。あなた様は僕から誇りも、自負も、生きる理由さえも取り上げておしまいになるとおっしゃいますか!」
 ……昔から泣く子には勝てないというが、そういえばいつかもこうやって泣き落とされて守護精霊にしたのだった。まだ人としての命の間しか生きていない年若い精霊。ホウは小さな子をあやすように柔らかな茶色の髪を撫でた。昔と違うのは額にまわされた神官としての証、金色の環の感触があることくらいか。
「子供扱いしたって引きませんからね!!」
 涙を堪えるイスカの態度は、やはりだだをこねる子供にしか見えない。緊迫した事態だというのに、つい微笑ましくて顔をほころばせた。
 先ほどからの大きな声は全部隣の控えの間に筒抜けだろうが、それでも気を利かせて席を外してくれたレンカに感謝した。彼女はホウにとって最初から仕えてくれる相手だった。どれほど親しく言葉を交わしてもレンカとの付き合いは契約の上に成り立った主従関係である。イスカはちょうど逆だった。この年若い大地の精霊は自分に仕える、と、己の命を道具として差し出してくれた。けれど、ホウはイスカを臣下として見たことなど一度もない。
 昔、事情があって地竜から預かった大地の精霊の子供。自分の一番最初の養い子。弟か我が子も同然の。イスカもまた親を慕うように自分を慕っていることをホウは知っていた。
「ヒスイもここに残るといった。だが、あの娘を妖魔の手に渡すわけにはいかない。お前は私の代わりにあの娘を安全な場所に避難させるのだ。……ヒスイを守りなさい。それが、私がお前に与える命令だ」
 形式上命令といったが、臣下としてではなく頼れる身内としてヒスイのことを頼みたかった。イスカの顔が歪む。仕えるべき主の命令に従いたい精霊としての習性と、親とも慕う人を側で守りたいという人間に似た感情の狭間で少年も揺れていた。

+感想フォームを利用してくれる?+(作者が喜びます)
[<<前]
[次>>>]
[目次]
翡翠抄 −ひすいしょう−
Copyright (C) Chigaya Towada.