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翡翠抄−ひすいしょう−

第三章第四節第一項(064)

 炎上

 この国を守れとホウは聞かされ続けていた。その国が今、明々と燃えていた。

 1.

 高台にある城からは燃える王都がよく見えた。それを静かな目で……いや、静かに見えてその内側には何かをたぎらせている目でホウは見つめていた。
 最初の報告では小さな火種だった。あちこちから火種が見つかったと。それは王都だけの問題ではなく、次第にこの国の主要な町からほぼ同じ報告が次々に入ってきた。そして報告は次に一層緊迫した物へと変わる。
 この炎は消えない、と。
 市民は逃げまどい、建物は焼けくずれ、消火活動に向かった精霊使いたちにも被害が広がっている。炎は高く舞い上がり天を摩するほどに。またそれによって上昇気流が渦巻いて炎の被害を更に広げていた。風に乗って炎はさらに高く、また遠くへと勢力を広げていく。その赤い輝きはもう何人の命を飲み込んだのか。
 石造りの建造物より木造の家屋が多い霧の谷にとって火災は致命的ともいえる。それなのにいままで対策らしい対策が立てられていなかったことが今、痛烈に響いていた。それもそのはず。いままではこんなことなどありえなかった。永遠にありえないはずだったのだ。自然は精霊という存在を介して霧の谷の者をひどく傷つけることはなかったし、精霊の取りなしがあればここまで大きな火災が生まれることなど考えられなかった。
 突如現れたこの炎を前にして精霊使いは悲愴な声を次々に上げた。炎の精霊使いは、この炎を御することができないと。水の精霊使いは、水を呼ぶことができないと。精霊が一斉に人間に反旗を翻したとしか思えないような状態だった。だがこれは自然災害などでは決してない。その証拠に、この炎は水を浴びせかけても土を被せても、決して消えないのだ。

 炎に呑まれた自分の都を見下ろして、ホウは闇夜に浮かぶ赤い炎をただ見ていた。見ているしかできなかった。
「どう思う」
 ホウは傍らに立つ炎の化身に話しかけた。同じくして彼女も燃える都を眺めやっている。鳳凰と呼ばれる幻獣であるレンカは眉根を寄せた。
「臭水(くそうず)ではないな。匂いが違う」
 レンカがいったのは、臭い水と書くがその実体は油である。特徴的な匂いがあり一般的な植物油よりも高温で燃えた。燃えるのは油なので水をかけてもその炎は消えることがない。しかし霧の谷では臭水は産出されないはずだ。臭水は地下から採れる油なので石の油とも書く。
「では自然の炎か」
「むうう。確かにそれらしく見せてはいるが……炎を司る妾としては、どうにも違和感があるのじゃが……」
「しかしあれは魔法で生み出された炎とも違うな」
 自然発火ではない。だとすると放火。それも国中が一斉に燃えているとあっては敵意も甚だしい。しかもこの炎はなんなのだろう。
「消えない炎だそうだ。火の手はこの程度では収まらないだろう。おそらくはもっと広がるはず」
「だとするとすさまじい規模じゃな。しかし我が国はそれほど多くの細作を見逃すほど甘かったのか?」
 これほど多くの火種を一斉に撒き散らすとなるとどれほどの人手がいるのか考えたくもない。しかも放火犯はまだ捕まっていないときた。いくら闇夜に乗じたからといって素人では無理な話だ。
「警備は甘くなかったと信じたいがね」
 救援活動には王宮からも衛士を派遣しているが、逃げる先々に炎が襲い来るので落ち着く間がないという。消火はまだなっていない。また仮にこの炎が沈静した後も鎖国状態の霧の谷では物資を送ってもらえそうな相手がいない。考えれば考えるほどに暗い話になる。
「……王子達も叩き起こして、避難民の救助にあたらせるように」
 誰にとはいわなかったが、ホウの一言で側に仕える侍女と近衛の数人が飛び出していった。一時的にホウの周りに人がいなくなる。レンカだけがここにいた。
 ホウは、懐から正四面体に磨かれた水晶を四つ取り出して自分の周囲に置き始めた。周囲といっても人一人が入れるくらいの広さではなく、うんと広く空間を空けてある。そしてその四隅の内側にあたる場所にレンカを呼び寄せた。
「長?」
「防音結界だ。この内側に入れば周囲へ音が漏れるのを防ぐことが出来る」
 石を置いた陣地の内側にレンカを収容したあと、ホウは両手の人差し指だけを立てて二本の指を交差させる。低い声で呪文を唱えると正四面体の水晶は自ら光を放ち、そして天井の一点を頂点に見えない結界が張り巡らされた。
「ほぉお。人間の使う呪文というものにも面白いものがあるものじゃのう」
「感心しているところ悪いのだが、レンカ」
「分かっておるわ。なんぞ聞かれたくない話なのじゃろうて。……姫君のことか?」
 頷いた。この二年というもの、それをまず念頭に入れない話などあっただろうか。それくらい大切な娘。誰よりも何よりも大切な掌中の珠。
「この炎、狙いはなんだと思う?」
「姫君の話ではなかったのか、長よ?」
「私ならば炎に乗じて要人の暗殺を考える」
 レンカの表情が止まった。ホウの顔も自然と厳しいものとなる。おとりは派手なほどいいというのが常套手段。国内を炎で混乱させるということは、この国の人間の命も軽いと見なしているということだ。
「狙いはおそらく娘。そのついでに精霊達の最後の聖域も混乱させようとの目的かもしれない。この消えない炎といい……妖魔が絡んでいると私は見る」
「冗談ではない! 妖魔封じの結界が二重三重にも国を囲んでいるというに、なにゆえ今さら妖魔が襲うてくるというのじゃ! 姫君目的と長は断言なさったが、ここは精霊の長たるあなた様を狙うておるのが普通ではないのか!?」
 大きな声だった。防音結界の中でなくては、その声はこの一帯に響き渡って更に士気を下げてくれただろう。聞かれたくない話では確かにあったが周囲の動揺を抑えることにも一役買ったなと結界のありがたみを思った。
「確かに妖魔封じの結界は張られているが、内側から呼び寄せる者があれば中に入ることもできる。妖魔の中には他者の心を渡り歩くことが出来る者もいるとも聞くし。娘がこの国に『帰って』きてから二年余り。それだけ時間をかけたということは誰か内通者を作るためだったのかも……」
「長よ。肝心なことを言うてはおらぬぞ。なにゆえ妖魔が姫君を狙うというのじゃ」
「私を狙うとすればそれこそ今さらの話だ。……忘れたのか。私は前にいったよ。『星は私の娘だ』と」
 妖魔が狙っているのは、「精霊の長の娘」ではなく「予言の星」。そしてヒスイはここに来る前に妖魔の長に発見されたとイスカが報告した。その妖魔の長を守護する氷の精霊に殺されかけたと。
「精霊……、もしかするとその氷の精霊が内部から妖魔を手引きしたとか?」
 何も知らないレンカがそう尋ねたが、その答えには否と答えられる自信があった。確かに妖魔に従う精霊はいないでもない。だがそういう精霊は国に帰ってはこられないのだ。人間でいうなら環境の匂いは本人が意識しないうちに体に染みつく。精霊にも妖魔の気配はその匂いのように絡みつき、そして妖魔の気配を持つ者は例え同胞でも結界は拒絶反応を起こす。
「妖魔の長はヒスイを、『予言の星』を狙っている。レンカ、あの子を頼まれてくれるか」
 炎の化身たる美女は頷いた。
 防音結界を軽々とまたぐと、美女たるその身が大きな鳥と化す。翼に輝く炎の色を纏って、レンカはまっすぐにヒスイの暮らす離宮へと飛んだ。

   *

 断末魔の悲鳴は風に乗って時折王宮まで聞こえてくる。ホウはその声を聞いても微動だにしない。彼の周りを固める近衛や侍女は「さすがに王は動じない方だ」と頼もしく思い、少しばかりくじけそうになっている各々の心を叱咤激励していた。ホウが砕けんばかりに奥歯を噛みしめていることに気付くような者は今、誰も側にはいない。彼の最も信頼する二人の側近のうち、一人はこのような事態に陥る前に国を出ていて、今は大地の神の神殿にいるはずだ。この国の惨事に気付くことなく。
 空は赤い色に燃え、それと似た色の固まりがまっすぐにこちらめがけて飛んでくる。
「長、戻ったぞ!」
「父さん!」
 二人分の女性の声が重なって響きわたった。ホウは炎から視線を外すと、跳ねるように上を仰ぎ見る。上空には空を覆いそうなくらい大きな翼を持った火の鳥がはばたきを繰り返していた。その足元にぶらさがっている者こそホウにとって何より大切な娘の姿。
 火の鳥レンカは、娘ヒスイを振り落とす。ヒスイは緩やかな速度で――普通の落下速度よりは遙かにゆっくりだった。下から風の精霊に押されているのでこういう真似が出来るのだ――、ホウの目の前に落下してくる。両手を軽く広げて受け入れる準備をしてやると、ヒスイは着地点を間違えることなくその中にすっぽりと収まった。
「父さん、一体何が」
「詳しい話をしている暇はない」
 ホウにしては珍しく淡々とした態度でヒスイを床に下ろす。カツン、と靴音が鳴った。
「そなたは今すぐ、この国を去りなさい」
「父さん!」
 翠の瞳がうろたえる。同時に見えるのは反発だ。無理もない、と思う。明日ここを出ていくことを決めたのはヒスイの意志。だが、現在どういう状態になっているのかも知らされず、いきなり呼びつけられたかと思うと国を出ろという。そしてヒスイでなくとも緊迫状態にあるというのが肌で感じられる状況に巻き込まれたとしたら、まずは自分に何か出来ることはないかと問いかけるのが一般的な反応だ。
 傍らで、巨大な鳥の姿をしていたレンカは小さくその身を変化させていった。見慣れた人間のような姿をとった。相変わらず釣り鐘のような双丘を上向かせて、だが身に纏うものはいつもの透けた赤い布を巻き付けた物ではなく戦場に立つような具足を鎧っている。
 ホウとレンカは目配せをしあって、それからホウは父親の役目として娘を説得にかかることにした。その間にレンカは別の場所へと移動する。部屋を出る前に
「お前達も落ち延びたほうがよいのではないか」
 と近衛や侍女達に声を掛けた。
 しかしこの場を動く者は誰もいなかった。

 ホウはヒスイによく分かるように空を指差す。
「燃えているだろう。おそらく、あの炎は全てを焼き尽くすまで収まりはしない」
 森の色した瞳を曇らせた。先ほどまで月明かりが皓々と白い光を投げかけていた夜空は炎にあぶられて不気味なほど赤く染まっている。
 ヒスイは空を見ながら頷いた。
「さっき、レンカにぶら下がって空を飛んできたときに見た。地上のあちこちが赤く燃えて、煙で目が痛いくらいだった」
 冷静な声でそう答えたヒスイを、ホウは少し頼もしく思う。建物が崩れたときに舞い上がった粉塵は煙と同じくらい目や喉を痛めただろうし、悲鳴や罵声、親を捜して泣く子供の声や、人の燃える匂いなども上からはよく分かったはずだ。火の粉を浴びなかったのはレンカのはばたきゆえか。
 燃える王都を見つつヒスイは問いかけてくる。
「この炎は……何なんだ、一体?」
「分からない」
 けれどあの炎は消えない。ホウにはひとつの仮説を持っていたが、それを娘にいうつもりはなかった。
「……奇襲?」
 どこかの国が攻めてきたのかと聞くヒスイに、ホウは首を振る。
「今のところ動きはない。この異常な火災だけだ。けれど、これがいつまで続くのか分からない。炎に包囲されていない今なら脱出できる」
「だっしゅつ?」
 幼い子供が親に手を放されたときのような心細い顔をした。ヒスイは時々実年齢にそぐわない子供のような表情を見せる。だからこちらもつい幼子に対するような対応をとってしまうのだ。抱き寄せて、よしよしと頭を撫でた。こういう親子のやりとりに免疫のない近衛と侍女が固まるが気にしない。
 普通、身分の高い家の親子関係というものはもっと礼儀だとか形式に満ちたものだ。そういうやりとりならば彼ら従うべき立場の人間は骨の髄まで染みついている。庶民的な触れあいを王に当たる者が行っているというのは異常な光景といえた。
 ヒスイは何もいわなかった。見ていなくても唇を噛みしめていうべき言葉を探していることは手に取るように分かる。そう思っていると抱いた腕の中で抗議の声が上がった。
「……なぜ、脱出なんていう? 私が、逃げ出さなければならないほど、そんなに霧の谷は危ないのか……?」
 か細い声だった。聡い子だと手放しで褒めたら、レンカあたりがまた親ばかと苦笑するだろうか。抱き寄せた我が子を引き離すと、ホウはこの国の王として彼女に最後の言葉をかけた。
「出て行きなさい。お前は、この国の者ではない」
 突き放した台詞をわざと投げかける。
 ホウは彼女を生かすべくその言葉をいわなければならなかった。ヒスイの翠の瞳の奥が揺らめく。そうなることが分かっていて、それでも。
 小さな荷物一抱えを片手にぶらさげ、それでもヒスイは踵を揃えてカツンと打ち鳴らした。直立不動の体勢で、だが首だけが下を向いている。
「ありがとう、ございます」
 声は暗かった。こんなに暗く悲しい感謝の言葉はなかった。それは一体、何に対する感謝なのか。ホウはその声が痛々しくて、思わず背を向ける。
 だから知らない。うなだれていたヒスイの頭(こうべ)が持ち上がり、何か強い光に縁取られた翠の瞳をまっすぐに向けたことに。

 ヒスイはそのままきびすを返した。背を向けたホウには、遠ざかっていく足音だけでひとまず娘の身を安堵する。
 ところが。それとは別の、近づいてくる足音に嫌でもホウは振り向かされた。
 斥候の兵士や報告のための侍従でもない、軽い足音。今にも出ていこうとしていたヒスイの足も止まっている。
 ホウとヒスイ、そして近衛や侍女が一斉に入り口に注目する中、足音の主はくたびれた朽葉色の法衣を翻しながら必死の形相で転がり込んできた。
「ホウ様! イスカ、ただいま戻りました!」

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