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翡翠抄−ひすいしょう−

第三章第三節第四項(063)

 4.

 月は空に高くあり、夜風は冷たかった。

 ヒスイが「痛い」というと、先ほどまで締め付けるようにきつかったセイの両腕はあっけないほど緩くなった。
 肺の中に急激に空気が入り込む。セイの背中にすがりつくような格好のまま膝を折り、うずくまってヒスイはむせ返った。
「大丈夫?」
 首を振って答える。大丈夫じゃ、ない。セイはそれでもまだヒスイを離さなかった。けれど背中に添えられた腕は羽のように軽く、子猫をなでるような優しく柔らかな手つきで背をさすってくれた。その手がやがて止まる。
 わずかな間が空いた後、その手に軽く力が込められたかと思うと次には軽々と抱き上げられていた。ひざの裏と背中を支えられて、お姫様抱っこの形にされる。
「何を……!」
 慌てているのはヒスイ一人。
「他の精霊に見つかると面倒だから隠れる」
 そっけないまでの口調と正当な理由。それもそうかとヒスイは納得した。そのまま歩きだそうとするので、体を支えるためだけの理由でセイの首に腕を回して体勢を整えた。そのまますたすたと室内に入られ、疑問に思う前に寝台の上に下ろされた。
「中に入ってもいい? 隠れられないから」
 ヒスイが頷くと靴を脱いで寝台の上に上がり込み、そして当たり前のように帳を閉められてやっとヒスイは眉間に縦皺を作った。
 布越しに入る冴えた月光だけが光源。寝台の中は薄暗かったが闇に目が慣れるのはすぐだった。まずはっきりと見えてきたのは、二つの蒼い瞳。次第に輪郭がはっきりして来、目に映った彼は不似合いなほど穏やかに微笑んでいた。
「……隠れる場所はここでなくてもいいだろう」
「そうだね」
 我ながらまぬけな問いかけだと思ったが、セイは律儀に返事を返してきた。けれどそれ上のことはいわない。沈黙が訪れる。
 目の前の男が何を考えているのか分からない。いや、この状況下で考えていることなどひとつだけだろうが。それでも、先ほどまでの抗いがたい強さをもってかき口説くのでもなければ、それ以上の行動に移るわけでもない。ただ穏やかに微笑んでいるだけだ。ヒスイとセイの間には人一人分程度の距離がある。
「お前……何を考えてる?」
「ヒスイが想像していることと同じだよ、多分ね」
 と、微笑む。
 ヒスイの眉間に縦皺がまたひとつ増える。問わずにはいられなかった。
「なぜ?」
 ヒスイは、長く伸ばした格好になっている足をしまい込んだ。正座を崩したような格好で座ったと思うと今度は手を一歩前につく。ヒスイの方から彼との距離を縮めた。二人の距離はぐんと狭まったが、まだ互いに触れはしない。
 翠の瞳が、蒼い瞳を覗き込んだ。ヒスイは別に怒っているわけではない。むしろ心の中は静かだ。狂ったように高鳴っていた心音はもう平常に戻っていた。
「私を抱きたい?」
 それは疑問。不安も、恐れも、怒りも、まして情愛もなにも込められてはいない、単純な知識欲だけの問いかけが口を滑り出た。
 そうだよと、すぐに答えは返ってくる。男女の、それも閨房の中での会話とは思えないそっけなさだった。そこに温かい物は何も流れない。かといって冷たいのでもなかった。動物に向かい合うときに感じるような温かさはここにはなく、強いていうなら無機物を相手にしているような違和感。生きていることは間違いなく感じられるのに。
 唐突に。
 前にいっていたことを思い出した。
 妖魔には人間でいう本能を持たないのだと。
 だからなのだろうか、彼の目からは欲望に彩られた光を感じることは出来ない。どこまでも穏やかで静かだった。口には出さなかったが顔に出たのだろう。頭のいい娘は好きだよといわんばかりに、満足そうにセイは笑み、口を開いた。
「人間の三大欲求って知ってる?」
「……食欲、性欲、睡眠欲」
「そう。動物はね、食べなければ、眠らなければ個体を維持できない。ある程度の年齢に達すると次世代を残すべく行動するように定められている。だからこの三つはいまでも人間の行動の根本にある。でも妖魔には必要ない」
 動物ではないから。
 妖魔は食べなくても生きていける。体を休めるための睡眠も必要とはしない。血の絆を持たないから次代を残したいという欲求もない。だから根本的に性欲もない。
「個体差はあるけどね。うちの長は交わった相手の力を取り込む種の妖魔だから性欲旺盛だし、オレは夢見ということもあって睡眠を必要とする。トーラは……人間の中で育ったから食欲と睡眠欲は人間並みにあるんじゃないかな。個体としてはまだ未発達だから性欲があるかどうかは知らないけど」
 ヒスイが知っている限りの妖魔の特徴をあげる。
「ほかに聞きたいことは?」
 蒼い目が笑う。どうやらヒスイが聞きたいことは全部答えてくれる気のようだ。本当に何をしにここに来たのか分からない。抱きたいといっておきながら、彼はまだ行動に移す気配はない。
「……じゃ、どうして?」
 自分を抱きたいと思うのか。聞くことを許してくれるのなら、尋ねてみたかった。何も知らない無垢な少女のような問いかけに青い髪の妖魔はにっこり笑った。やっといつもの、人をからかうような笑い方。
「ヒスイが好きだから」
 どくん。また心臓がうるさくなってきた。ヒスイは汗ばんだ掌で敷布を強く握りしめる。
 けれどセイは答えたあと、迷うようにちょっと視線をさまよわせて口元を覆った。
「ああ、でもそれだけじゃ理由にならないかな。ヒスイはお馬鹿さんに一方的に好かれることが多かったからね。そういうのじゃなくて、オレはね、体よりもヒスイの心が欲しいの」
 人間は心と体が密接に関係する生き物だ。その心を手に入れたいと思うなら触れなければ叶わない。人間は嘘を付く生き物だから、言葉を重ねるだけではなかなか核心の部分には近づけない。
「馬鹿にしてる。……体が手に入ったら心まで手に入ると思っているのか?」
 ピリッとしたものが声に混じった。
 けれどセイはどこまでも柔和な態度を崩さない。
「思わない。でも、少なくともヒスイの場合は、心を許さない相手に自分から体を許すこともないでしょう」
 それもそうだ。また沈黙が流れる。

 今度は、先に動いたのはセイ。手をついて布の上を滑らせるように前へ……よりヒスイの近くへと移動してきた。蒼い目が青い色に見える。人間でも光によって目の色を変える者がいるが、青い瞳になったことで微笑みにいつもの人をくったような雰囲気が生まれた。真面目な目をしたセイは少し怖いけれど、こういう顔したセイは間近に迫られても不思議とあまり怖くない。
 その顔につい油断した隙に、さらに彼の手はこちらへと近づいて来、セイの体に押されるようにヒスイの体も後ろへと下がった。後頭部を抱かれてそのまま後ろへと倒れ込む。寝台がきしんだ。
「キスしていい?」
 吐息が間近にかかる。頭の中がぼうっとして、答える気にもなれなかった。ただ彼の青い目を凝視する。月の光のように穏やかで、けれど冷たくはなくて優しい色。
「……嫌だ、といったら」
「ヒスイに嫌われたくないからやめる」
 押し倒しているこの状況でそんなことを平気でいった。セイの手が黒髪を梳く。こめかみに滑り込んでくる指がくすぐったかった。
「本当だよ。ヒスイに嫌われたくない。オレの望みはそれだけなんだから。……愛されたいとは望まないから」
「どうして?」
「オレの夢見の力はちょっと厄介でね。この姿でヒスイに愛されたいと望んだら、ヒスイはオレのことを好きになってしまうから。それこそヒスイ本来の意志とはおかまいなしにね」
 夢見は人の精神を自在に出来る。夢見が望んで叶わないような、そんな人の心はない。ヒスイは顔色を少し変えた。自分の心は自分のものだ。赤の他人に土足で入り込まれたくはない。人間ならば誰しも思う感情だがヒスイはそれが他人よりも強かった。
「それは、嫌だ」
 声が固くなる。答えるセイの声は反対に柔らかかった。
「うん。オレも嫌だよ。ヒスイがヒスイのままでいられなくなるのは。だから青い髪で本当のことをいえるのは今だけ。今は立地条件のせいで妖魔の力を封じられているからね」
 だから今だけは本来の姿で、青い髪のままでヒスイに接することが出来る。
 ヒスイが好きだよ。
 腕が絡む。その想いが切なく聞こえるのはなぜだろう。
「……キスしていい?」
 耳元で囁かれる甘い声。ヒスイは気付いた。さっきから、ヒスイが無断で行動に移られたら怒りそうなことは逐一確認を取っていることに。嫌われたくないといったセイの言葉を心の中で繰り返す。ヒスイはそっと彼の背中に手を回し、服地を掴む。まっすぐに相手の目を見つめた。
「お前、全部知っているんだな?」
 脈絡のなさそうな問いをセイに投げかけた。普段なら打てば響くように答えるこの男が、何のことをいわれているのか一瞬考え込むようなそぶりを見せる。心の中を覗くことが出来るならこんな動作にはならない。本当に妖魔の力は抑えられていると見える。
「私は、私を力ずくで征服するものを許さない」
「うん、知ってる」
「……どうして私がそう思うのかも知ってるな?」
 セイは苦い顔になった。やっとヒスイがいいたいことに思い至ったらしい。
「翡翠」
 いわなくていい、と念を押すように真名を口に乗せる。ハーン文字で綴られた名前を精霊や妖魔は真名と呼ぶのだと聞いていた。やっぱり全部知っていたとヒスイは確信を持った。
「昔、誘拐されたときに犯されたこと、お前は知っているな?」
 あのとき、母は泣いた。
 気丈な人だったがさすがにあの時ばかりはこたえたらしい。幼い娘が誘拐されて、帰ってきたときは暴行を受け、その上正当防衛とはいえ殺人者となっていた。血にまみれた我が子を抱きしめたとき、あの人は何を思っていたのだろうか。
「まだ年端もいかない子供だったからな。何をされてるか分からなかったんだ。歯を立てたらとても強く殴られて、痛くて、死んでしまうかと思ったことは覚えている。そして、気が付いたら風の精霊を暴走させてたんだ。彼らは皆、物言わぬ肉塊になった」
 血の海を踏みしめて、最初に思ったことはこれでやっと家に帰れるという安堵。歓喜したといってもいい。だから母親が泣く理由が分からなかった。ただ自分が泣かせてしまったと、それだけを後悔した。成長して意味がはっきりするにつれ、力ずくで蹂躙されたことへの嫌悪感は募っていった。
「……次なんてものがあるのなら、今度はちゃんと自分の手で殺そうとは思ったんだ。精霊に肩代わりしてもらうのではなく。だから自分の身は自分で守れるようになりたかった」
 成長するにつれ、どういうわけだか馬鹿は増えた。あれ以来ずっと未遂で終わっているけれど。
「それでも抱きたい?」
 それら全部を知っているのに、それでもなお言い寄ってくる理由が分からなかった。ヒスイは自分自身にそれほどの価値があるとは思えない。けれど青い目は揺れなかった。揺るぎない強さでヒスイを見つめ返す。
「ヒスイがやってなければオレが殺してた」
 組み敷いたままの体勢で笑った。
「全部知っているよ。だからいわなくてよかったのに。そんなことでヒスイを嫌いになんてならない。ヒスイがもう怖い思いをしないようにうんと優しくしてあげるから。他でもない、あるがままのヒスイが欲しいのだと、あと何回繰り返せば伝わる?」
 どうやったら分かってもらえる? ゆっくりと首を傾げた。切ない色した青い瞳。妖魔は自分が楽しいことが一番大事なのだという。……セイにとって今一番大事なのはヒスイ。本当にヒスイが思うままに在ることだということが怖いことによく分かってしまって。
「あ、甘やかすとろくなことにならないんだからな!」
 声がうわずってしまった。体がまた火照ってくる。いまさらながらといわれようが事実なのだから仕方ない。
「ヒスイは自分に厳しいからこれくらいでちょうどいいんだってば」
 からかうわけでもなければ皮肉をいうのでもない、真面目な声が腹に重く響く。青い髪の彼は、もがくヒスイをなだめるように額やこめかみに何度も口づけた。
「はな……っ」
「放せっていったら放すよ。いいの? 本当に?」
「!」
 口をついて出るはずの言葉は寸前で飲み込まれてしまった。どうしてそこで放せといわなかったのかどう考えても分からないのだが。繰り返される愛撫。いちいち反応してしまう体が憎らしい。
「やっぱり駄目……?」
 耳元で囁かれる声に理性が奪われる。何をいわれたのか、何が駄目なのかもう分からない。頭の中に桃色の靄がかかる。彼の背を強く握りしめた。
「……も、いい……」
 なんでもいい。さっさと放して欲しかった。思考回路が働かない。半開きの唇の上をセイの指がなぞる。
「愛してるよ」
 声が降りてきて柔らかいものが口を塞いだ。

 と、その時。
 月の光だけが布を通して入ってくる暗い寝台の中が急に明るくなった。太陽が時間を間違えて昇ったかのような、強いオレンジの光に照らされる。
 何が、と二人が両目を見開いたのとほぼ同時に大音量で声が降ってきた。
「姫君! すまぬ、急ぎ起きられよ!」
 ヒスイにとっては聞き覚えのある女性の声。
「レンカ!?」
 靄のかかっていたヒスイの頭の中が、急に霧が晴れたように明晰になった。ひじを一発入れて体の上からセイを引き剥がす。
「何かあったのか!?」
 いつの間にか下げられていた服の胸元を元に戻して、ヒスイは帳を払い外に出た。離宮の上には大きな火の鳥が羽ばたいている。
「取り急ぎ旅支度を調えられよ。妾の足に捕まるのじゃ!」
「分かった」
 レンカがこの姿で自分を呼びに来るとあっては何か一大事があったに違いない。
 急いで夜着の上から旅装を引っかけ、帯を締めて靴を履く。明日出立する予定だったから荷物は手近にまとめてある。それらひとそろいを掴むと、宙に羽ばたくレンカの足に飛びついた。火の鳥の翼は足元にヒスイをぶらさげても浮力を失わない。辺りが吹き飛びそうな風圧を生み出しながらレンカは羽ばたき、そして一直線に王宮の方角へと飛んだ。
 何が起こったのか、ヒスイは想像も出来なかった。

   *

 帳の中で。
 セイは呆然と外の様子を見ているしかなかった。まるで舞台の観客。
 先ほどまで自分の体の下でもだえていた彼女は風のように去ってしまった。振り向いてもくれない。出会って別れて再会するまで苦節二年と約半年。我慢に我慢を重ねて、やっとヒスイが分かってくれたと思ったのに。間違いなく千載一遇の好機だったのに。あとちょっとだったのに!
 絹の敷布をこれでもかというくらい、きつく握りしめる。
「……あの女、絶対に殺す」
 邪魔をしてくれた雌の鳥。冥い笑みを顔中に貼り付かせて、セイは物騒な誓いを立てた。

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翡翠抄 −ひすいしょう−
Copyright (C) Chigaya Towada.