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翡翠抄−ひすいしょう−

第三章第三節第三項(062)

 3.

「じゃあ、僕も一緒に神殿に戻ります」
 立ち上がり大地の神の神殿に向かおうとした二人を、か細い声が引き留めた。待って、と。二人が同時に声の主、トーラを振り返る。
「トーラ?」
 声を掛けたのはアイシャ。だが、その声など聞こえていないかのように、トーラは焦点の定まらない目をしていた。額飾りの紫水晶がきらりと光る。両眼と額の石が同じ色の輝きを放っていた。その瞳には何か別の物が映っているのだと、気づける者はここにはいない。人間と精霊、両者とも妖魔の力に詳しくはないのだから。
「トーラ!」
 心配になってアイシャは彼女に触れる。けれど藤色の瞳をした妖魔の少女はアイシャを見なかった。彼女が手を伸ばしたのはイスカの衣の端。
 彼女が先ほど引き留めたのは、正確にはイスカだった。
「……もどって」
 うろたえる彼に構わず、熱に浮かされるような調子でトーラは呟く。
「え?」
「今すぐ霧の谷に戻って!」
 顔を上げたトーラの瞳は、今度こそはっきりとイスカの琥珀色の瞳を射抜いた。その攻撃的でさえある声にイスカは顔色を変える。
「何かあったんですか!?」
「違う! 何か『ある』の!」
 トーラに見えるのは変化しない未来。どうやっても変化しない未来だけ、星はトーラに見せていく。ただならぬ様子にアイシャとイスカは顔を見合わせた。
「今すぐ戻って! 間に合うかどうか分からないけれど!」
「ちょっと待ってください。落ち着いて。一体、何が起こるんですか」
 トーラは大きく首を振った。額に汗が玉を結ぶ。
「……ってるの」
 かちかちと小さく歯を鳴らしながら口にする。星見は時々、告げたくないことも告げなければならない。それが予言するものの宿命だから。

 そして星見の妖魔は「それ」を告げた。

 アイシャは蒼白になってその場にへたり込み、イスカは矢のような勢いで飛び出していった。一路、霧の谷へと。
 確実に起こる「未来」を、今、霧の谷にいるものは予想もしないに違いなかった――。

  ***

 霧の谷は国の名前である。
 どこの国とも交流しない、閉ざされた国である。
 そこは国であって国にあらず。そんな意味を込めて、誰もこの国を「国」とは呼ばない。霧の谷、または精霊達の最後の聖域と呼ぶ。

 森の奥深いところに離宮があった。
 赤い小鳥が一直線に飛んでくるのが、離宮の主の目に飛び込んでくる。
「レンカ」
 まとわりつく赤い小鳥に、ヒスイは馬にまたがったまま彼女の名前を呼んだ。小鳥は炎に身を変じ、続いて見慣れた華やかな美女の姿になった。
「息災でなによりぞ、姫君」
 ヒスイは十八才。もうそこに、二年前の「少女」はいなかった。
 両親共に長身であることを考えるとまだ成長期の途中なのかも知れない。背が伸びて女子の標準くらいには追いついた。今でも変わらず痩躯だが、全体的に引き締まった肉が付き、もう華奢とは呼べなくなっている。鳥の骨のように軽く折れそうな儚さは身を潜め、しっとりと張りのある丸みが女性らしさを醸し出していた。翠の瞳は変わらず強い意志の力がみなぎっている。艶やかな黒絹の髪は伸ばさず、昔と同じ肩に掛からない位置でまっすぐに切りそろえられていた。一昔前は化粧を施すとえもいわれぬ美女に変じたものだが、今はそんな小細工をしなくても誰もが彼女を美しいというだろう。
 それでも彼女は貴婦人ではない。今、馬の手綱を握るその手は皮が厚く、まめだらけだ。爪は短く切ってある。貴婦人のように長く伸ばして色を塗っていては剣も握れないし、弓も射ることはできない。顔だって色白ではなく、日焼けして小さなしみさえある。服も相変わらず男装のまま。それも絹や麻ではなく、丈夫な厚い木綿だ。けれどそれこそがヒスイにはふさわしい。
「あれ、父さん?」
 レンカの飛んできた来た方向からホウがやってくるのをめざとく見つけて、栗毛の馬の首をそちらに巡らせた。麻の衣を身に纏い、幾分か涼しげな格好をしたホウは二年前から変わらぬ容姿である。軽く駆け足をさせてヒスイは馬に乗ったままホウに近づく。鐙(あぶみ)を蹴って馬から飛び降りた。
「今日は忙しくないのか?」
「例によって長居はできないね。そなたの顔を見に寄っただけだ。そなたこそ忙しくはないのか?」
「別に。私の予定なんて、あってないようなものだから」
 馬の轡(くつわ)を取って馬小屋に向かう。ここ最近でようやく馬を早駆けさせることが出来るようになった。それでも父はまだまだだね、と笑う。ヒスイの腕では調教された馬に乗ることは出来ても、野生の荒馬を乗りこなすことは出来ないだろうと。それでもヒスイは進歩だと思っている。二年前、セイに笑われたあの頃に比べれば。
 そういえば弓も剣も最初に教わったのはあの男からだ。正式に教わっていないにしては基本が出来ていると父がつけた教師はいった。最初に手ほどきをした者がよほど使える人間だったのだろうと感心されていた。正確には「人間」ではないが、あのおちゃらけ男は見た目に反して随分と真っ当な剣を教えてくれていたらしい。その次に手ほどきしてくれたのはホウ自身。忙しい時間の合間を縫って、武術も精霊の使い方も自分の手で教えてくれた。一定のレベルより先にくるとあとは固有の教師をつけてくれたが、今でもホウは一番の師である。
「茶でも淹れようか。待っていて」
 馬をくくりつけてヒスイは厨へと入る。当たり前に存在するはずの使用人はここにはいない。ホウもそれを心得ているので、案内の侍従を待つことなく自分で四阿に入ってそこに座った。レンカも椅子に腰掛ける。精霊は数多くいるが姫君に給仕させて平気でいるのはレンカくらいなものだ。他の精霊達は畏れ多いと近寄りもしない。
 ヒスイは現在、王宮には住んでいない。二年前、母親の元で育てさせていた庶子を王は手元に呼び寄せた。しかしその後、王は娘を公式行事には一切出さず、王宮からも追い出し、粗末な名前だけの離宮に押し込めた……と、表向きはそういうことになっている。
 おかげで馬も弓も存分に学ぶことが出来た。ちなみに公式行事を全部すっぽかしたのは紛れもないヒスイの意志による。その態度に、親子の真意を知らぬ周囲の人間は、どうやら王は義理で庶子を引き取っただけなのだと噂した。もちろん、精霊達はみんな知っている。長がどれだけ娘を愛しているかを。ついでに養子の義兄達もちゃんと知っていた。それでも、離宮に移ってからは顔を合わせる機会もなくなったので嫌がらせが減ったのはいいことである。
 今日は暑いので、水だし緑茶と水菓子を出す。気持ちの良い風がちょうど四阿を吹き抜けていった。中庭の様子に目を細めながらホウは空を仰いだ。
「いい気候だ。もうすぐ泳ぐのにいい季節になるね」
「そうだな」
 お茶受けの水菓子をすくう。切ったばかりの白桃は瑞々しく、シロップ漬けにしなくとも十分に甘く爽やかだった。離宮からそう遠くないところに湖がある。戦士たるもの水練は必須だといわれて、ホウも即位前はよくそこで泳いだのだという。泳げないのがここでは普通だとは知らなかった。炎の鳥であるレンカは、水の中に入るなどどこが面白いのか、とあきれ顔で桃を食す。一瞬で平らげた。
 ヒスイは水の精霊に嫌われている。だからといって水に浮けないわけではない。泳ぐのは好きだった。ただし精霊使いとしては苦手に違いなく、一度その湖で水の精霊を呼び出したら暴走されて水浸しになったこともある。
 父はどちらかといえばヒスイに甘かったが自分を鍛えることに甘い顔をする人ではなかった。死にたくなければ覚えなさい、といつもの微笑みで稽古をつけられたことも多々ある。
「……父さん」
「ん?」
 ヒスイは、出来れば唐突ではなくてゆっくり相談したかったのだが、結局は唐突にしか会話を運べないのだなと反省する。そして、ずっと考えていたことを口にした。
「一人で色々出来るようにもなってきたし……そろそろ出ていこうかと考えてる」
 おや、とレンカは肘を立てて掌の上に顎を乗せる。ホウは、とうとうその日が来たかとそれはもう悲しげな目をしてヒスイを見た。見ているこっちが切なくなる。
「……そうか」
「うん」
 そして二人、申し合わせたように同時に茶を口に運んだ。会話、終わり。……沈黙に耐えきれなくなったか、レンカが大きな声を上げた。
「なんじゃ、それだけか? 二度と姫君に会えぬわけではないのじゃから、そう落ち込むこともなかろうて」
「二度と会えないわけではないと思っているから送り出せるのだよ」
 と、ホウは付け加えた。
「たまには帰ってくるよ」
 と、ヒスイも言い添える。もっとも、その頻度はかなり低くなりそうではあるが。
 ヒスイはこの国が嫌いではなかった。自然に溢れ、精霊が間近に息づき、そして何より肉親が側にいる。確かに自分の居場所なのになぜか落ち着かなかった。そういったらレンカは、姫君にはこの国だけでは狭すぎるのじゃ、といってくれた。自分も鳥だから大空には憧れると。翼の生えそろわない雛が飛び立っても命を縮めるだけ。飛ぶ方法を、生きていく方法を父親は教えてくれた。もう大丈夫だろう。
 ヒスイは知らなかったが、前にホウは自分の娘を鳳雛と称した。鳳(おおとり)の雛は今、父親と同じくらい大きな鳥となって羽ばたこうとしている。それだけだ。
「いつでも帰っておいで」
 力無い声で、けれど何よりも力強い笑みでホウが答える。ヒスイにしては珍しく微笑んで応じた。
 両者の会話が一段落したところで、レンカが口を挟んだ。
「で、姫君。妾には次から熱い茶を煎じてたもれ。冷たい物は好かぬ」
「……。次があったらな」
「……レンカ、お前は……」
 ホウは頭を抱えて卓につっぷした。
 おかげで重い雰囲気にはならずにすんだが、やはりここは彼女に感謝するべきなのだろうか。ヒスイは頭を掻いた。

   *

 夜空が綺麗だった。白い月が天頂にかかっている。
 ヒスイはいつでも出立できるように旅支度を整え、夜着に着替えて寝台に寝そべっていた。眠れない。頭の中に色んなことが浮かんでは消えた。朝になったら父の所に出向いて別れをいおう。それに義兄達に対してもちゃんとけりをつけなくては。こんな夜は懐かしいことも色々と思い出す。国を出たら、真っ先にトーラとアイシャに会いに行って、それからのことはまた考えよう。イスカが今、向こうの神殿に行っているはずだから挨拶して。さて、あの男はどうやって捕まえようか?
 なかなか寝付けなくて無意味に寝返りを打つ。
 その拍子に、庭の端に人影を見つけた。
「誰だ!?」
 固い声で誰何する。だが、人影は動かなかった。動けないのではなく、自らの意志で動かないように見えた。
 見間違いかとヒスイは起きあがり庭へと足を向けた。この部屋も風通しがよく、すぐに庭先に出られる造りになっていた。ここなら風が使えるとの油断があったのかもしれない。剣の一本も帯びずに飛び出した。
 月が冴え冴えと輝いていた。
 ヒスイは目を大きく見開く。
 月光は庭の光景を青く照らし出して、そこに立っていた人物の全身も青く染めていた。いや違う。彼は元々この色を身に纏っていたのだ。
「見つかっちゃったね」
 青い髪した人影はそこから動かず、逆にヒスイの姿を見つけると幸せそうに微笑んだ。こんな色した男は一人しか知らない。
 実に二年ぶりの再会だった。

「会いたかった」
 月光の下に青い髪。見まごうことない、真っ青な色。
「……なぜ……」
 妖魔はここには入れないと、そう聞いたのは当の本人の口からだった。霧の谷には妖魔封じの結界があって、妖魔は入れないのだと。
 セイは長い髪の中に指を入れ、するりと梳く。月光を一部跳ね返して、それはきらきらと指から滑り落ちた。
「ごめんね、色を変える力もここでは発揮できなくて」
 青い髪は嫌いだったのにごめん、と変なところで謝った。そんなことが聞きたいのではない。セイは穏やかに微笑む。こんな顔をして笑った顔はほとんど見たことがなかった。いつだって陽気で、おちゃらけて、真面目な顔なんかしたことがなくて……。
「ちょっと無理すればね、方法がないこともない。けれどここでは妖魔の力はほぼ完全に押さえ込まれてる。今ならヒスイでもオレを殺せる」
 寂しげに微笑んだ。
 どんな無理をさせたのかは分からない。けれど、危険な行為だということは分かる。周りは敵だらけで、その中心部にたったひとりで乗り込んで、それもただ会いたかったからというだけで。
 まっすぐにヒスイの目を見つめてくる。蒼い色だ。暗く深い海の底を覗いたような色。その色をもう怖いとは思わなかった。ただ、とても静かな色をたたえていた。微笑む。嬉しそうなのに、その笑みは寂しそうにも見えた。会えただけで満足。そう物語っていた。
「ま……」
 ヒスイは駆けだしていた。
 セイの目が丸くなる。
「……待っ……」
 最後までいえなかった。駆け寄って、セイの腕を掴む。そのままどこかに行ってしまいそうで、少しでも捕まえていたかったのかもしれない。
 近くで見たセイの瞳は、今度こそ本当に幸せそうに微笑んだ。仮に頬を染めていたとしても、月の青い光のなかでは白くしか目に映らなかっただろう。月の光に顕らかにされて青い髪と瞳が冴えていた。その髪に縁取られた微笑みが、間近に降りてくる。
「遠目で見るだけで十分だと思っていたのに、な」
 自嘲気味の小さな笑い。目の前にセイがいる。蒼い目が自分を見ている。ヒスイはただそれを見つめ返すだけで。ふと、視界からセイの顔が消えた。
「!!」
 ヒスイはセイの両腕に抱きしめられていた。セイの肩越しに、天頂に掛かる白い月が見える。どれくらい月の光にさらされていたのか冷たい体だった。
「ちょ……っ、こらっ」
 はねのけようとしても彼の抱擁は強く、逃れること敵わない。ぼそりと、セイが呟く。
「会いたかった」
 ちょうど耳元に彼の唇があった。全身が総毛立つ。声だけなら赤毛のときと変わらない。冗談に紛らわせて、ときどき本気の混じった声でこんなふうに話しかけられた。それでもこんなふうに鳥肌が立つほどにはならなかった。悪寒ではない。もっと、別の何か。
「離し……!」
 重ね合わされた体から鼓動が伝わる。呼吸する音も聞こえた。呼吸音はヒスイの方がずっと早い。相手の心音が聞こえているということはこちらの心臓の音もはっきりと聞こえているわけで。逃れたいと、もがく。けれど両腕はさらにきつく抱きしめてきた。
 思わずあえぐような声が漏れた。
 痛い。息が苦しい。きつく抱かれ押さえつけられ、膨らみが潰されて肺を圧迫していた。胸が、苦しい。
「痛いって……」
 自由になるのはひじから先だけ。その手が、のろのろと持ち上がりセイの背中に回された。両の手がしっかりと服地を握りしめる。
 満足な声にならず息が漏れる。
「……痛い」
 きつく、強く、それは呪縛にも似て。

 月は全てを見下ろしていた。

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翡翠抄 −ひすいしょう−
Copyright (C) Chigaya Towada.