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翡翠抄−ひすいしょう−

第三章第三節第二項(061)

 2.

 食卓の上に、アイシャは心づくしの昼食を並べてくれた。
 主食は挽き割りカラス麦の重湯。作り置きしていただろう固い黒パンは薄切りにして蜂蜜を塗っている。つけあわせは芋をふかして潰したものに人参を混ぜ込んだもの。そして最後に豆のクリーム煮。空豆、えんどう豆、人参、玉ねぎ、茸と豊富だ。イスカは神殿の戒律により乳製品を禁じられているので豆乳で煮込んでいる。
「さあ、食べて!」
 客に料理を奮うのがことさら楽しくて仕方ないといった風情で、アイシャは杯にワインを注いだ。平民、またの名を貧乏人は酸っぱいワインしか飲めない。それでもそれを気にすることなくイスカもトーラも飲んだ。
「本当においしいです」
 素直に賛辞を口にする。向かい側ではにこにことアイシャが笑っていた。
 トーラの分ではカラス麦の重湯の変わりに、そば粉の薄皮焼きの上に卵を落としたものが給仕された。この卵は町に出ていたトーラのお土産だったりする。大地の神の神殿では肉・魚・卵・乳製品を禁じている。だが食事の時にわざわざそんなことを念頭におかなくても、最初からそれらの食材はこの辺りでは手に入りにくいのだ。必然的に口にするのは農作物だけになる。
「ヒスイは元気?」
「はい、お元気ですよ。弓も馬も随分巧みにおなりですし、それに近頃はとみにお美しくなられました」
 と、そこでトーラが口を挟む。
「イスカはヒスイのことに関しては二割増しで褒める傾向があるから、そっちで差し引いておけってヒスイがいってたわ」
 トーラはずっとヒスイには会っていない。それでも「双子」である彼女達は夢で出会うことが出来るらしい。そんなトーラの発言をアイシャはにっこり笑って、
「駄目よ、本人のいうことを鵜呑みにしては。ヒスイこそ自分の外見に関しては二割引きくらいの認識でいるんだから、こっちで正しく増やしておかなくてはね」
 と、訂正をかけた。
 なるほど、そのとおりであるなあ、とトーラもひどく納得して頷きを返す。そして少女もアイシャに向かって微笑みを浮かべた。
「ヒスイは強くなりたいって思ってる。だから頑張ってるの。昔はお母さんの足手まといで、今はお父さんの足手まといだから、今度はちゃんと自分の足で立って歩きたいんですって」
 側仕えの侍女さえも知らないようなヒスイの本音だった。それを知りうるのはトーラだけ。どんなに遠く離れていてもヒスイの心はトーラのすぐ近くにある。
 だが、その言葉にイスカは激しく反応した。
「そんなことありません!」
 目の前にいるのはヒスイではないのだが、それでも聞き逃せない言葉だった。勢いで立ち上がり、卓の上に両手をつく。料理の入った深皿がその勢いで少し煮汁を跳ねとばした。
「ホウ様は足手まといだなんて思っていらっしゃいません、むしろヒスイ様の存在こそがホウ様の救いなんです! 出来ればずっとお側にいて欲しいと僕らは願っていますのに、何故そんな……!」
 しかし少女が返してきた反応はそっけないものだった。
「だってあなたはヒスイのことよりご主人様が第一でしょう?」
 大切な主の望みを叶えたいと思う。しかし主の大切な姫君は彼の望みからは離れたことを願っているらしい。どちらを優先するかと問われればイスカは迷うことなく主を選ぶ。トーラはヒスイの願いを叶えたい。
 その現実に変わりはないと、星見の少女は冷たいまでの口調で言い切った。
 アイシャはどうしたものかと睨み合う妖魔と精霊の間に立って……実際には座っているのだが、二人を眺めていた。止める気はないらしい。考えこむ動作を両者によく見えるよう大げさにとって、
「まぁ、手に職をつけるのはいいことよね」
 といった。
「アイシャさんまで……っ」
「ああ、トーラの弁護にまわるわけじゃないから安心してね。ただね、経験からして自分の食い扶持だけでも稼ぐ方法があると、食べさせてくれる人が急にいなくなっても対処できるのは確かなの」
 アイシャは以前、薬草の行商人として生活していたことをイスカは思い出した。確か旦那様を亡くされてからだと聞いたような気もする。妖魔の少女はいやに真剣な目をしてその保護者の服の端をしっかりと握りしめ、尋ねた。
「アイシャはどうして薬師になろうと思ったの?」
 独り立ちしようとあがくヒスイと、すでに一人で生きているアイシャの存在は少女自身の内面にもなにか影響を与えているのかもしれない。だが答えるアイシャの顔は苦り切っていた。
「それこそ、『それしか手元になかった』から。あの人がいなくなって、どうやって食べていくか考えたときに薬草の知識しか使えそうなものがなかったのよ。それに薬草は森の中で採取できたし、元手がかからなかったこともあるけれど」
 神殿にだけは頭を下げたくなかったと付け加える。その可能性を除くと、神殿で得た知識を金に換えるしかなかったと。
「苦労したのね」
 訳知り顔で相づちを打つトーラに、アイシャは両手を開いて笑い事にした。
「そりゃあね。商売は素人だったから、ほとんど物々交換で消えちゃったわよ」
 イスカは以前から不思議に思っていたことがあった。先ほどトーラが呟いたこと、「アイシャは一人にされると駄目になる」、あれが引っかかったこともあって、疑問を口にした。
「……旦那様のお仕事を引き継がれようとはお考えにならなかったのですか?」
 その問いに対して、アイシャはちょっと苦笑するような顔で答えを返す。この二年でアイシャはやっと亡くなった人のことを普通に口に出来るようになっていた。
「夫は炭焼きをやっていたのよ。私も力はある方だと思うけれど、女の手で生活していけるだけの炭は作れないわ」
 上物の炭を焼くには熟練した腕がいる。そうでなくても量が必要になる。なるほど、女一人では酷だろう。だが、イスカは目を丸くしてその答えに驚いた。なぜならそれはイスカが知っている大前提からは大きく外れた答えだったから。
「旦那様は貴族階級の方ではなかったんですか?」
 イスカは確かに本人の口から聞いた。自分の時も政略結婚だったと。愛の女神の巫女が貴族に娶られることはままある話だ。神殿の名声と巫女本人の知性と教養、時には巫女の実家の財力、そういうものが必要とされることがある。だからてっきり、アイシャはいいところのお家に嫁いでいて、旦那様亡き後もそこのお家を切り盛りするのが普通だったのではないかと考えていた。
 ……しまった、と、アイシャにしては珍しく後悔の混じった表情を浮かべた。だがそれは一瞬でかき消される。額に手を当て天を仰ぎ、しばらくそのままの状態でいたかと思うと、今度はくすくすと笑いだし始めた。
 イスカは目をせわしなく瞬く。何がアイシャの心の中で起こっているのか分からなかった。正面に座っているトーラはというと、「この馬鹿!」と目だけで噛みついてくる。ということは彼女も事情を知っているのだろう。もしかして自分は触れてはならない話に触れてしまったのだろうか。
「あ、あの……っ!」
 なおも小さく笑い続けるアイシャに、うろたえたままイスカは話しかける。だが何がいけなかったのかが分からないので謝ることも出来なかった。精霊は変なところで融通がきかない。
「ああ、ごめんなさい。そういや前に私が自分でいった話だったわよねぇ」
 涙がにじむほどに笑って、やっとイスカが知るいつものアイシャの態度になった。ひとしきり笑い終わった後、アイシャはイスカに見えるように指を二本立てる。
 そして、とびきりの内緒事を告白するときの、いたずらっぽい瞳をしながら
「私、二度結婚してるのよ」
 といった。

   *

 イスカが目の前でその大きな琥珀色の瞳を見開くのをアイシャは黙って見ていた。
 その顔ときたら、鳩が豆鉄砲をくらったような顔というのが一番ぴったりくるのかもしれない。トーラは驚かなかった。奇妙に諦めの入ったような顔をしているのが不思議だった。しばらくの沈黙の後、びっくりしました、とだけ少年神官は言葉を紡ぐ。大きく見開かれた目からはそれ以外の感情などみじんも窺えなくて。
 アイシャは、口元に自然と笑みが形作られるのを頭の片隅で理解した。トーラでも、イスカでも、いや、きっとヒスイでも驚きの反応だけにとどまるに違いない。そう思うとアイシャは何やらおかしかった。
「軽蔑しない?」
 アイシャの言葉にイスカは心の底から意外そうな表情で
「どうしてですか? そんなことしません」
 と、いう。アイシャの微笑みはさらに深いものになった。
 普通の人にこんなことは告白できたものではない。驚きの次は軽蔑と非難の目が向けられるのが分かっている。
 女性は嫁ぐと一生その家に従うのがいわゆる「常識」だ。例えそれが寡婦となった後でも、舅に従い、姑に従って婚家を盛り立てなければならない。子供がいるとなるとなおさらに。アイシャに子供はいなかったけれど、夫を二人以上持つのはその「常識」から外れた行為だとみなされる。
 きっとそう答えてくれるだろうと信じるに足りたから、だから話す気になったのかもしれなかった。自分を否定するかもしれない相手に本当のことを話すのは、かなり辛い。
 頭の中をめまぐるしく思い出が回った。それらは全部思い出で今さら取り戻そうとは思わないけれど。
「最初に結婚したのは十五のときね。政略結婚で、まぁ早い話、神殿はお金が必要だったわけよ。全部話すと長くなるから適当に端折るけれど……、三年後に離縁したのね」
 懐かしい顔が次から次へと浮かぶ。大切だった人達。実の娘のように可愛がってくれた義理の両親、慕ってくれた年上の義弟君。名前だけの夫は兄のようによくしてくれたし……その夫の恋人は姉のような人だった。
「離縁で多額の寄付金をふいにしちゃったから神殿には戻れなかったし、で、その足で大好きだった人のところへ押し掛け女房しに行っちゃった。それが亡くなった亭主なの」
 またも意外だったのかイスカがあんぐりと口を開けた。
 なんだかさっきからこんな顔をさせてばかりだ。心配になって問いかける。
「大丈夫?」
「いえ、あの、驚いてしまって……」
「うーん。でも、押し掛け女房自体はそれほど珍しいことでもないでしょう?」
 ただアイシャの場合は、人生の一大事が随分狭い間隔で立て続けに起こっただけで。

 アイシャは赤ん坊の頃から愛の女神の神殿で育った。
 生まれてすぐの状態で雪の中に埋められていたと聞く。捨て子というよりは、親は自分を殺すつもりだったのだ。だから本当の親に興味は持てなかった。
 冬の辛い土地だったから口減らしのための孤児は多かった。アイシャにとって彼らはみんな血の繋がらない弟や妹だった。男の子は引き取り手がつきやすい。だから気が付くと弟たちはすぐいなくなってしまったし、兄代わりもいなかった。
 神殿育ちの男でアイシャが知っていたのは、近くに住む森の番人だけだ。
 森にはよく薬草を採りに入ったので番人ともすぐ親しくなった。馬鹿正直という言葉はあるが、馬鹿のつくお人好しというのはあるのだろうか。優しくてすぐに貧乏くじをひいてしまう、そんな人だった。おまけに騙された自覚すらない。よく代わりに頭を抱えたものだ。自分は愚図で頭も鈍いから誰も引き取り手が現れなかったのだとその人はいった。成人するまでずるずると神殿に居続けて、追い出されて、どうしようもなくなったときに先代の森の番人である爺さまが面倒を見てくれることになったと。アイシャが覚えている頃にはもうそのおじいさんはいなかった。いつも一人で、その人は森にいた。
 アイシャはその人が好きだった。薬草のことも毒茸のことも神殿の治療師よりよく知っていた。森の歩き方も、糞や足跡で小動物を特定することも、罠のかけ方も全部教えてくれた。小さな頃は彼をずっとおじさんと呼んでいたが、そのおじさんをいじめる町の大人は嫌いだった。
 人の良さにつけこまれ、騙されてしょんぼりと肩を落として帰ってくるおじさんを見るたびにアイシャはいったものだ。大きくなったらおじさんのお嫁さんになる、と。小さな子供のたわごとをあの人がどれだけ本気で聞いていたか分からないけれど、まさか現実になるとは夢にも思わなかったに違いない。
 幸福な新婚時代はわずか一年。あの人の大きな手が好きだった。あの手で撫でられるのが好きだった。アイシャが名前を呼ぶといつまで経っても照れて「おじさんでいい」と赤くなった。穏やかな目で笑い、髭に埋もれた唇がアイシャを呼ぶたびに幸せになれた。いつかあの人によく似た黒髪、緑の目をした子供を生むのだと信じてやまなかった。
 永遠に続くと疑ったことのなかった平凡な毎日。
 ……夫を神殿に見殺しにされるまでは。
「あらやだ。余計なことまで思い出しちゃった」
「は?」
 首を振った。笑顔を作る。
「なんでもないわ。さて、そろそろ仕事に戻らないとね」
 午後の仕事はまだ残っている。アイシャは思い出した余計なことを無理矢理心の奥に沈め込んだ。

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