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翡翠抄−ひすいしょう−

第三章第三節第一項(060)

 歳月

 月日は傍らを通り過ぎていく旅人だと誰かがいった。何気なく迎えており、いつの間にか立ち去っていたことに気が付く。
 ――ヒスイが霧の谷に……父親の元に「帰って」から、二年という月日が流れた。

 1.

 太陽は両腕を広げて、暖かい光をあまねく投げかけていた。空はどこまでも高く澄みきっている。その青空のかけらをもっと優しくした色を両眼に映して、亜麻色の髪の乙女は満足げに額の汗を拭った。
「お洗濯、おしまいっ」
 彼女の目の前には真っ白になった敷布が幾重にも連なって風をはらんでいる。彼女、アイシャは朝一番の仕事が終了した達成感を味わっていた。物干し台には何本もの綱が渡され、敷布のほかに白い下着、その他くすんだ色の衣類もはためいている。衣類は赤茶けた大地の上では保護色になって目立たなかった。今日はお天道様の機嫌もいいようだし、山の下から吹き上げてくる風も調子がいい。きっと早く乾いてくれることだろう。ついでに洗濯板も吊す。素足に飛び散った泥はすでに乾いて、白くこびりついていた。
 洗濯物の量が多いので、すすぎは足で踏んで行う。靴は濡れないように遠くに置き、服の裾も思い切りよくたくしあげて膝より上で結んでいる。こぼれ落ちる亜麻色の髪はくるくると丸めてリボンで束ねていた。すでに二十歳を超えたいい年であるのだが、ピンクのリボンは健在だった。
 たらいの中にはすすぎに使った排水がまだ残っている。
「さてさて。いつまでも見ほれてないで、さっさと作業を終えてしまいましょうか」
 アイシャは棒きれを手にすると、たらいの底に差し込んで棒を足で踏んだ。梃子(てこ)の原理で底が持ち上がる。水を張ったそれは見た目よりもはるかに重いのだ。無理をすれば持ち上がらないこともないが、それよりは梃子を使った方がいい。かすかについた傾斜によって、排水がこぼれる。そのまま底を持ち上げて水を全部捨てた。赤茶色の山肌に排水が流れてゆく。そこだけ水を吸って、赤茶色の山肌には見る間に焦茶色の道が出来ていった。
 今日は天気がいいから、たらいもすぐに乾くだろうとアイシャは焦茶色の道を目で追いながら考える。その視界に山を登ってくる人影が入ってきた。
 遠目でも分かる、見慣れた朽葉色の法衣、長い杖。
「あら」
 小粒だがしっかりとした足取りでその人物はこちらに向かっていた。アイシャがその人物を認めてまず行動に移したことはというと、結んでいた服の裾をほどくことだった。ばさばさと音を立てて服を整える。いくら洗濯の途中だったとはいえ、さすがに足を出したままでは不格好すぎて恥ずかしい。それからやっと、アイシャは人影に向かって大声で叫んだ。
「イスカ――!」
 朽葉色の影が足を止めた。フードを払いのける仕草のあと、茶色の髪が日の光を弾く。大地の色と同化してしまいそうな色彩なのに彼の姿はよく目立つような気がした。アイシャはさらに声を張り上げる。力一杯、腕を振った。
「お帰りなさい、イスカ!」
 同じくらい大きな声が帰ってきた。ただいま帰りました、と。

 さて、以上のような会話が成立しているわけであるが、イスカは別に「アイシャの元へ」帰ってきたわけではない。アイシャの現在の勤め先はイスカが所属する神殿なのである。イスカは「神殿に」帰ってきたのだ。
 今を去ること二年前、アイシャは精神的に幼いトーラを抱えて、まずは食べる手段を探さなくてはならなかった。元々は薬草の行商人だったが、あいにく護衛の要だったセイとヒスイを欠いたことで身を守る方法をなくした。アイシャもトーラも武器は使えないし、他の護衛を雇う蓄えもない。こうなると一人で行商を続けるのは無理である。ヒスイと知り合う以前のように薬を扱う隊商に加えてもらうという方法もあったが、その隊商が通り過ぎるのを待っている間に干上がってしまう。彼らはそうしょっちゅう訪れるものでもないのだ。どこでもいいから子連れでもできる仕事を、と躍起になっていたところ、イスカが「なんでもいいのなら」と神殿を紹介してくれた。そうして彼の紹介でフォラーナ神殿の賄いとして勤めることになったのである。
 最初イスカはこの仕事を紹介するのを少しためらっていた。それはアイシャが元・愛の女神の巫女だったことにあるのだが、紹介された方にはこだわりはなかった。この「世界」にある七柱の神々は互いの宗教を尊重している間柄とはいえ、やはり違う宗教同士にはそれなりの確執もある。だがすでに信仰を捨てたアイシャにはどこでも同じだったし、また、ここの大神官も信仰を強制するようなことはいわなかった。
 そんなわけでアイシャは今でもここにいる。
 勤め始めてみると実に性に合っていた。連日の大量の洗濯物も、広い神殿の掃除も、大勢のための食事作りもアイシャにとっては慣れた仕事である。その合間をぬって得意とする薬草園もこぢんまりと作らせてもらった。薬草そのものは歓迎されるべきことだし、また、大地の神に仕える者は農耕に造詣が深い者も多い。逆に色々教えてもらえた。

 アイシャは今、トーラと二人暮らしだ。神殿からそう遠くない場所に小さな小屋を与えられ、そこで生活していた。
「散らかってるけど上がって頂戴。昼ご飯、食べていくでしょう?」
 髪をほどいていつもの形にリボンを結び直す。一度イスカが神殿に戻ってしまえば後はゆっくり話す機会などない。それよりも前に家に寄ってもらって、ヒスイの近況を聞くのがアイシャの楽しみだった。
「いつもすいません」
 腰の低い大地の精霊は、にこにこと善良そのものの微笑みをたたえて頭を下げた。その姿は二年前とほとんど変わらない。多少背が伸びたような気もするが、元々大地の精霊そのものがあまり長身の姿を取ることがないのだそうだ。短い髪も伸びていない。
 きょろ、と室内を見回して
「今日はトーラ嬢は?」
 と聞く。
「また遊びに出てるわ。アリアナの町に流民がやってきたらしくて、踊りを教えてもらいに行ってる」
「一人であんなところまでですか?」
 子供の足で片道三日はかかる距離だ。
「行っちゃうのよ、あの子は。今日くらいには帰ってくると思うのだけれど」
 フォラーナ神殿からアリアナの町までは一度ヒスイやアイシャも通った道だ。それを過去視で見たらしい。アリアナ神殿の神官長が変わってから旅人も行き交うようになった。人が増えるということは自然と流民も流れてくるようになる。流民は歌や踊りを見せ物としているが同時にスリや泥棒を生業にもするので嫌われているのだが、トーラは引っかからない自信があるといった。金も食料も持たずに移動するのだから、取られるものなど初めから持っていない。妖魔は食物を必要としないから。
 トーラもまた妖魔であるゆえに二年の歳月をすごしながら、ほとんど見た目は変わらなかった。少女でありながら女性でもある端境期のままである。それでも多少中身は成長したようで、人前では年相応らしい発言が出来るようになってきたのはアイシャにとって喜ばしいことだった。もっともアイシャの前では相変わらず子供っぽい調子のままなのだが。
 台所の椅子をイスカに勧め、自分もその正面の椅子に座って豆をむき始める。
「トーラってば本当に不器用さんでね。料理をさせれば指は切る、火傷はする。運針をさせれば指を穴だらけにする。あと、水に触れるのが嫌いみたいね。洗濯は嫌うし、掃除も拭き掃除は嫌がるし、食器洗いや風呂を洗うのも嫌がるの」
「あはは、猫みたいですね」
「もうトーラに家事を教えるのは諦めたわ。行儀作法を叩き込むので精一杯」
 思わずがっくりと肩を落として嘆息をもらす。帰ってきてすぐに愚痴を聞かせてしまったが、聞き手のイスカは笑って快く聞いてくれるので、つい、調子に乗ってしまった。

 と、そこへ噂の主が明るい声をさせて帰ってきた。
「ただいまぁ」
 波打つ淡い蜂蜜色の髪が飛び込んできた。帰ってきて真っ先に、大きな藤色の瞳を客人であるイスカに向ける。今日、イスカが帰ってくることを「見た」のはこのトーラだ。ここにいることに不思議はないことを知っている。
「おかえりなさい。町はどうだった?」
「うん、楽しかった!」
 食費もかからないし、服は自分の魔法で適当に纏っている。魔法と呼ぶのは適切でないかもしれないがアイシャは他に表現する言葉を知らなかった。トーラは、そういう意味では本当に手間の掛からない同居人である。それでも。
「今日はごちそうよ、楽しみにしてなさい」
「本当? 羊、潰してくれる?」
「じゃあそれは今夜ね。シチューにしましょう」
 人間の中で育ったトーラはごちそうを喜んだし、新しい服を仕立てると嬉しそうだった。どのみちアイシャに妖魔の育て方など分からない。普通に、人間の娘を育てるようにしてきた。二人とも淡い色の髪と瞳のせいか、神殿でも自分達を姉妹だと思ってくれている。いかに妖魔を人間が看破するのは難しいか分かろうというものだ。
 そのトーラは、藤色の瞳をアイシャに向けて外を指差した。
「洗濯物ね、一枚飛んでいっちゃってるけど、いいの?」
「なんですって?」
 いい訳がない。アイシャはやおら立ち上がると
「トーラ、残りの豆、むいておいて!」
 と、外に走り出した。

   *

 イスカがあっけにとられている間にアイシャは走り出して行ってしまった。残されたトーラは卓の上にある豆の山を見ると、うんざりした顔を向ける。そして台所の戸棚から大ぶりの鉢を二つ取り出す。何をする気かと見ていると、彼女は先ほどまでアイシャが座っていた椅子に腰掛け、二つの鉢をイスカの目の前に置いた。
「……」
「半分こ、しない?」
 おそるおそる窺ってくる。自分だけお手伝いをするのは嫌だということらしい。口調は作業を半分手伝って欲しいということだが、行動は問答無用で手伝えといっているように見える。イスカは思わず苦笑した。
「我が儘さんは直っていませんねぇ」
「ほっといてよっ」
 イスカは食べさせてもらう立場なので、手伝うことに不服はない。ゆでた豆の山に手を伸ばして、片方の鉢に筋とさやを捨て、もう片方の鉢に食べる分をより分けていった。
「ヒスイ様はお元気ですよ」
「うん、知ってる」
「アイシャさんはお元気ですか」
「元気よ。私がいるからね」
 手元の豆に集中しながら、他愛のない会話を繰り返す。精霊と妖魔に共通の話題を見つけるのは難しい。「アイシャは自分がついているから大丈夫」と繰り返す少女に、微笑ましいものを感じてつい口元がゆるんだ。なんとも子供らしい言動だと思ったのだ。声だけ聞いていれば見た目十五、十六になっている少女とはとても思えない。
 イスカが思わず微笑んだときに、トーラは続けていった。
「私は足手まといだもの。アイシャはね、そういう存在が側にいないと駄目になるの」
 豆のさやをむしる手は止まらない。
 駄目になる、の一言にイスカは顔を上げた。
「一人にされると逆にアイシャは駄目になるの。相手を支えているようで実は自分が支えられているのね。旦那様を亡くしてからヒスイと出会うまでの間、アイシャは生まれて初めてひとりぼっちになった。出会えてよかったのはヒスイだけじゃない、アイシャもよ」
 でなければ彼女はどうなっていたか分からない、という。トーラの手は止まらなかったが、イスカの手は止まっていた。
「……どうしてそんなことを僕に?」
「私は星見よ。過去も未来も、星は無作為に色々なことを見せていくわ。誰かに語らないと一人でなんて抱えていられない。昔はずっとキドラに報告してたしね。でも、アイシャにはいえない。他人の運命まで背負えるほどアイシャは強くないもの」
 くすんだ笑み。イスカならば少しはましだろうということか。
 目の前にいるのは二年前となんら変わらない少女だ。柔らかく波打つ髪は伸ばさず、肩口で揃えられている。金色のまつげに縁取られた藤色の瞳、つぐまれた桃色の唇、丸みを帯びた体、額の紫水晶だけが妖しげな色をたたえて光っていた。実年齢は今年で三年しか生きていないはずの妖魔の少女は、今はまるで自分より年上のような空気を作り出している。
 その少女は急に顔を上げた。煌めく藤色の瞳に視線がぶつかる。
「余計なことをいっちゃったかしらね。人選を誤ったわ。イスカ、嘘がつけないんだもの」
 猫の目のようにその瞳が光った気がした。そこに何が映っているのか、今は考えただけでも恐ろしい。初めてこの少女……いや、この妖魔を不気味だと思った。

 互いに目の前のものに気を取られていたから、扉に近づいてくる気配に二人とも気付かなかった。
「ただいま。あんな遠くまで飛んでいくなんて。久しぶりに走っちゃったわ」
 小屋の主の帰参である。トーラはくるんと愛くるしい瞳で、姉のように慕う彼女を見た。
「豆むき、終わった!」
「ありが……って、どうしてイスカに手伝わせてるの」
「ええと。イスカがね、手伝いたいって進み出てくれたから……」
 顔には明らかに嘘ですと書いてあった。
「あんたって子は!」
 トーラは慌てて隣の部屋に逃げ込んだ。その背中に更にアイシャが追い打ちをかける。
「ついでだから刺繍の続きでも刺してなさい。お針は女の子のたしなみだって常々いってるでしょ」
「アイシャの鬼!」
 姿は見せず、半分べそをかいたような声だけが返ってくる。微笑ましい姉妹の、どこにでもありそうな普通の光景だった。アイシャの前でのトーラはこれがいつもの顔なのだろう。
 だが、イスカはさきほど少女が見せた妖魔の顔を忘れることはできなかった。

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