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翡翠抄−ひすいしょう−

第三章第二節第四項(059)

 4.

 絹の帳が半分、払われる。ホウは姿勢を低くとった。もしもそこに見慣れたオレンジの色を認めなければ、そのまま刀身は鞘から抜き放たれていただろう。反射的に動こうとする右手を押しとどめるのにホウはかなり無理をしなければならなかった。
 帳の向こうに陣取って寝そべっていたのはオレンジの髪、赤い瞳の美女。
「レンカ!」
 後ろで叫ぶのはイスカ。男二人をみやりながらレンカは余裕の笑みで体を起こし、寝台の上に座った。赤い布からはみ出した足を大胆な動作で組む。白い太腿まで露わになるが、あいにくとそれを観賞して愛でるような男達ではなかった。
「説明してもらおうか」
 わざと刺客と間違えさせるような、こんな危ない真似をした理由を。しかしレンカはいたずらめいた微笑みを浮かべるだけだ。
「そう怒ることはあるまい? 長の寝所に侍ることが出来るおなごなど妾一人だけではないか」
「レンカ」
 眉をかすかにつり上げて、ホウは一度離しかけた右手を再び柄にかけた。妻と離れて早十七年。その間、寝所に女性を連れ込んだことは一度もない。レンカは珍しくホウを怒らせたのだ。
 彼女はやっと笑みを引っ込める。しかし口から飛び出したのは謝罪ではなく
「妾とて禁欲生活の年数では長に負けておらぬわ。連れ合いを亡くして以来じゃからな」
 と、真面目くさった顔で答えた。
 鳳凰とは本来、雄の鳳と雌の凰の一対を示す名である。ある時、片割れを失い暴走していた火の鳥がいた。奇しくもホウがサラと別れたのと同じ頃。幻獣の暴走を止められる力があったのは精霊の長であるホウだけだった。己が命に等しい片翼を二度と取り戻せない二人は、互いの痛みに頷くことが出来た。恋の火という名前を持った凰がホウと契約したのはその時からである。もう随分昔の話だ。
 赤い瞳が一直線にホウを見上げてくる。その視線が再び和らいだ。
「すまぬ。性質の悪い冗談は謝る。しかし、これが一番よお分かってもらえると思うたのでな」
 そうして、レンカはまだ半分、帳の掛かった暗がりに向かってにっこり微笑んで見せた。ホウとイスカは同時に訝しむ。そういえば感じた気配は一人分ではなかった。ホウは残り半分の帳を力任せに払いのける。そこにいたのは。
 月の光が勢いよく寝台の上に滑り込み、人の姿を闇から浮かび上がらせた。青白い光に照らされて男二人がそこに見たのは他ならぬヒスイの姿。
 このときのホウの表情ときたら、目が点になったという表現が一番適切だったかもしれない。イスカに至っては口を貝のようにぱっくりと開けている。
「……やあ」
 遠慮がちに娘の片手が上げられる。あぐらをかいて、枕を抱え込んで、短い夜着を纏った格好でそこに座っていた。

「ヒスイ様!」
 立ち直りはイスカの方が早かった。
「一体、どうしてここにいらっしゃるんですか! その前に、妙齢の女性がそのようなお姿でみだりに殿方の寝台に潜むものではありません!」
「……父親なんてこの世で最も安心できる異性じゃないか。それともお前、自分の主を娘に手を出す変態にしたいのか?」
「なるほど。最高じゃ、姫君」
「僕は泣きたいです、ヒスイ様ぁ……」
 レンカは手を叩いて大受けし、イスカはがっくりと肩を落として目元を袖で拭った。なぜか三人で会話が成立していて――それもなぜかホウの範疇外の会話で――口を挟めない。
 しばらく固まっていたホウだったが、やがてイスカに手だけ動かして入り口を見張るように指示する。それに合わせてレンカも寝台の上から退いた。事の意外さに脱力して、もうレンカを叱る気力もない。
「で。……説明を、してもらえるかな」
 感心しないことではあるが、それでも娘が来てくれたことが嬉しい。そんな自分の矛盾に溜め息をつきながら、ホウは寝台の上に、先ほどレンカがそうしていたように腰掛ける。ヒスイはというと、抱えた枕に顔半分を埋めるようにして上目遣いでこちらを見た。
「あんまりレンカを叱らないでやってくれ。こっそり接触したいと頼んだら『ついでにどれほど長がそなたの母上一筋か教えて差し上げる』といってくれてな」
 だからといって、もう少し方法を選んで欲しかった。恨めしげな視線を送るとレンカは嬉しそうに手を振ってくる。あれは反省をしていない顔だ。
 ホウの心中を余所にヒスイの話は続く。
「晩餐の席での詫びと、少し話をしたくて……」
 ヒスイはヒスイなりに、あの時の態度は詫びなければならないことと反省していたらしい。小さな声で呟かれた言葉にふと先ほどまでの心の澱が蘇った。娘を父として守ることをせず、王として家長としての体面を守ることを優先したことを。
「謝るのはこちらの方だ。そなたに対する侮辱からかばってやることが出来ず、肩身の狭い思いをさせてしまった」
「いや、それはいい」
 ヒスイの言葉はあっさりしたものだった。
「忘れているかもしれないが、私が私生児なのは何もこちらの世界に限ったことじゃない。あっちの世界でも同様だった。父親のない子供ということでむしろ状況はこっちより悪かったかもしれない。『ふしだらの末に生まれたくせに』と、面と向かっていわれたこともある」
 ホウのように繊細な神経でいちいち気にしていては持たないというのだ。口ではそういいながらも諦めきったようなヒスイの瞳は見ていて痛々しかった。確かに父親が不確定でも出産には支障ない。王の庶子である方が民草の私生児よりも格段に世間に対しての認知度が高いのももっともな話だ。それでも一体、誰がこの娘を繊細でないといえるのか。自分の心を守るために、わざと悪意に傷ついていないふりをするのが精一杯のように見える。が、瞳の暗い影はすぐに思い出し笑いで消えた。
「母が激怒したな。その後あの人が相手にどんな報復をしたのかは知らない。私には力説してくれた。望んでいたところにお前は生まれてきてくれたのだと」
 小さく笑う。ヒスイの視線は、ホウの顔ではなくてもっと下に注がれていた。何を見ているかと思えばそれは左手の薬指にある簡素な指輪だった。
「これ?」
 ヒスイによく見えるように手を持ち上げる。小さな銀色の指輪。これは唯一、サラにもらったものだ。ヒスイは頷く。その顔が心なしか嬉しそうだった。
「サ……母さんも、もらった腕輪を大事にしてる」
 ホウは顔が熱くなった。王妃の証と渡した腕輪。赤い石は炎の守り、真珠は海の……水の守り。蔦の文様も守護を意味する。つる状植物は植物の精霊が結界によく使うものだ。ヒスイが覚えるほどに、彼女はあれをいつも身に付けていてくれたのだろうか。
 ホウもこの指輪を離したことはない。サラはまだいい、と思っていた。腹を痛めて生んだ子供が側にいる。ホウの側にあったのは思い出と指輪だけ。思い出が嘘ではなかったと証明するたったひとつのよすがだった。
 首を少し傾げた形でヒスイの翠の瞳がホウを見る。
「私生児にしてしまったことだけ母は私に詫びたよ。だが、それによってお前が恥じる必要はどこにもないともいった。自分はお前のお父さん以外を選ぶ気はないし、お父さんもたった一人の相手に自分を選んでくれたのだと自慢された。……ちゃんと愛してくれていたんだと指輪を見て思ってたんだ。親が仲違いしている家庭よりも、もしかしたら私は幸せなのかもしれない」
 それは何よりも嬉しい言葉だった。
 サラがどういう風に娘を育てたのかその片鱗が見えるような気がする。きっと大切に、それに容赦せずに育ててくれたのだ。見えないけれどちゃんと絆は続いていて、その絆の果てに娘がここにいる。思わずうつむいた。こぼれかける涙を堪えるだけで必死だった。
 ヒスイが手をついて半歩分ホウに近づく。その気配に顔を上げると、覗き込んでくるような位置にいたヒスイの翠の目と視線がぶつかった。サラによく似た唇が言葉を紡ぐ。
「いつか私はここを出ていく」
 言葉の意味を、理解したくないとホウの右脳が叫んだ。
 晩餐の席でヒスイはそういって飛び出した。ここは自分の場所ではないと。確かに義兄達に囲まれてヒスイにはとても居心地の悪い場所かもしれない。それでもホウはここでしか生きていけない。つまりそれは、またホウは娘と別れなければならないということだ。
「母さんは私をお姫様には育てなかった。今さらそれを求められても無理だ。それに、私の存在はいらぬ種を蒔く。いない方が平和でいい」
 ヒスイの言い分は正しい。親の欲目かもしれないが頭のいい娘である。いっそ分からなければよかったのに、と思う。そうすればいつまでも娘と共にいられたものを。
「……やっと会えたのに……」
「今すぐ出ていくなんてことはしない」
 にっこりと笑う。微笑むヒスイの表情とは裏腹に、ホウの眉間には盾皺が寄るばかりだ。
「一人で生きていく手段を身に付けたい。それくらいなら甘えてもいいだろう?」
 それくらいどころかいくらだって甘えて欲しかった。やっとのことでホウは大きく首を縦に振る。ヒスイはもう大人なのだ。小さな子供のように親が手を引いてやらねばならない存在ではない。
「ヒスイは、何になりたい……?」
 気を取り直してそう尋ねた。人で生きていくというのならそれなりの技術を身に付けなければならない。世間は男性優位だ。女が一人で生きていくなら頭の良さで教師になるか、いっそ精霊使いの技能を活かすか。だがまた、ヒスイはホウの予想を軽々と外した。
「武器を使えるようになりたい。馬にもまともに乗れないんだ。それも上達したいし」
 これにはただ驚くしかなかった。
「そなた、戦士にでもなるつもりか?」
「それもいいな。でも、何より私は強くなりたい」
 月の光を反射させ翠の瞳を輝かせた。抱えた枕を放り出し、前のめりになってホウの目を見上げてくる。まっすぐなその瞳は本当に小さな子供のようだ。
「分かった。そなたが望むのなら、そういう風に計らおう」
 そう答えた瞬間、娘は極上の笑みを浮かべた。その顔を見るだけでなんでもしてやろうという気になる。
 けれど親として、手放しで賛成しているわけではなかった。体格に恵まれないヒスイが武器だけを頼りに戦士として生きていくのは難しい。能書きだけではなく己自身が武人の端くれとして身にしみていることだ。きちんと契約をして風の精霊を付け、精霊使いとしての技能も磨くことも条件に加えた。ヒスイは聞き分けよく、それもそうだと頷く。素直ないい子である。
 ヒスイは風だ。ホウの家は代々炎の精霊を祭ってきたので必然的に炎の性質を持つ人間が多く現れる。それなのに生まれたヒスイが炎ではなく、風に愛されているというのはおかしな縁だった。
 風をひとつ所に留めてしまえばそれは風ではなくなる。ヒスイはどこまでも自由に吹いていけばいい。それが彼女に課せられた運命ならば。
「……愛しているよ」
 可愛い娘。ヒスイを抱きしめた。ヒスイはというと、多少緊張がほぐれたのかホウの首に腕を回してくる。もう最初に出会ったときのように庇護が必要な赤ん坊ではないけれど、ホウにとってはどれほど大きくなってもヒスイは小さな小さな子供だった。
「お父さん」
 耳元に近いところでそう呼ばれた。最初にサラに呼ばれたときもそう思ったが今さらながらくすぐったい響きだ。
「母さんが口癖のようにいっていた。いつかお父さんに会えたらよろしくと伝えて欲しいと。母さんはずっとずっと、父さんが好きだよ」
「本当に?」
 疑ったことなど一度もないけれど、その伝言が嬉しい。
「私も……お父さんが好きだよ」
 くすくすと、照れくさそうに笑いながらそう告げられた。共に暮らしていればおそらくはずっと小さい頃に交わしただろう会話。父親がいて母親がいて娘がいて、そんなごく普通の家ならば今頃は父親など見向きもされない年齢だろうに。
 その小さな体が急に重くなった。ホウにもたれかかりながらヒスイのまぶたはとろんと閉じかけている。
「眠い?」
 イスカも小さい頃は喋り疲れてよくうたた寝をしたことを思い出す。義理の息子達とはこういう意味で触れあうことはなかった。そっと抱き上げてそのまま寝台に寝かす。思ったよりも軽くて柔らかな感触に、壊すのではないかと心配しながら。
 布団を被せてホウもその隣に横になる。眠そうな翠の眼差しが一度ホウを見、そのまままぶたを閉じた。ホウは月の光をさえぎるために帳を引いた。十六年かかってしまったが、一度くらい娘と添い寝する夜があってもいいだろうと父親ならでは幸福を噛みしめながらホウもそのまま眠りについた。
 心の中の澱が、随分とすっきりした。

   *

 レンカとイスカはその様子を見届けた後、音も立てずに退室する。
「のう。長と姫君、見た目は全く似ておらぬゆえ、ああやっておるとまるで恋人同士のように見えぬか?」
「やめてくださいよ、レンカ。傍目には冗談に見えないんですからっ。明日、人間が起こしに来てまた変な噂が広がるかと思うと僕はそっちの方が怖くて……ああ、胃が……」
 大地の精霊に人間でいう胃袋があるとは思えないのだが、それでも気分悪そうに腹部を押さえる弟分をレンカは不思議そうに見やる。
「そもそも精霊というのは常識はずれというのが人間の常套句じゃが……そなたとあの親子を見ておると逆のようじゃな。妙なところで常識が常識でないところは、あの親子よう似ておるわ」
 夜は静かに更けていった。
 幸福な時間は後にこう呼ばれる。――嵐の前の静けさ、と。

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翡翠抄 −ひすいしょう−
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