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翡翠抄−ひすいしょう−

第三章第二節第三項(058)

 3.

 王の庶子であり同時にたった一人の実子でもある娘の存在は、養子である三兄弟に大きな波紋を投げかけた。
 庶子に比べれば例え血が繋がっていなくても正式に迎えられた養子の方が立場は上である。そして、精霊や妖魔の世界では男女の立場は同等だが人間の世界は男を尊ぶ。それはここ霧の谷でも例外ではなく、女に王位継承権はない。だから、普通なら、ヒスイの存在は脅威にはなりえないはずだった。
 それでも。

 シキは果物を盛りつけてある器から、水気の多い梨を選んでナイフを立てた。するすると皮をむいていく。ヨタカは葡萄の房を取るとそのまま食いつき、トールはというと時折酒を口にするだけだった。
 晩餐はすでにお開きになっている。ヒスイが飛び出した後、ホウは小さく笑っただけだった。嫁入りの話を彼もあっさり否定して、その後は何事もなかったかのように食事を続け、最後におやすみといって出ていった。王という名の仮面の裏にはどんな表情が隠されているのか誰も推し量ることはできない。この中で一番年若く、その気持ちを推察できないシキが憮然として呟いた。
「あのような無礼な女を、義父上はこのまま宮に置いておく気なのか」
 小さく切った梨の実を口に入れる。心地いい音がして、汁気が彼の指を濡らした。
「いい女だったけどな」
 軽薄な笑みを浮かべてヨタカが笑う。葡萄の房は半分になっていた。皮と種は綺麗に除かれて小皿の上に吐き出されている。シキは冷たい目でヨタカを見た。
「どこが?」
「……本気でいっているとしたらお前、本当に男か?」
 女顔をからかわれて、シキは片眉を跳ね上げた。ヨタカはうっすらと微笑む。
「わめくなよ? ああ、けれどお前は子規(ホトトギス)だもんな。血を吐くようにわめくのが仕事か」
 明らかな挑発にシキは乗った。
「あなたこそ。夜中こそこそしている夜鷹らしく、せいぜい影で暗躍しているのが似合いでしょうに」
「いってくれたな」
 一瞬生まれる火花。嫌味の応酬になる前にトールが止めに入った。彼は大地の家の出身だ。大地に繋ぎ止められた彼は鳥の名前を持たなかった。そして喧嘩腰だった二人の矛先は名前だけの長兄に向けられる。
「あんたはどうなんだ。あの女をどう思う」
 ヨタカの詰問するような問いに、トールはぽつりと答えた。
「王妃の冠を戴くのに不足はないと見た」
 晩餐の席で見せた彼女の一面は強烈だった。一言呟くだけで全員の目を引きつける存在感の強さと、物事を多角的に見ることの出来る視野。そして死んでやるつもりもないと言い放った生命への執着心は、暗殺の心配のある王族には欠かせない要素だ。
「欲がないのは風の性質か? だがあの女ならば義父上の娘であることを差し引いても充分、人の上に立てる」
 王だけで国を治められるわけではない。王妃となる人物の愚かさが王の立場すら危うくするのは現王のときに証明済みである。
 シキはそれこそ毛を逆立てた猫のように反応した。
「冗談じゃない!」
 シキの目には同じ性質が全く正反対に映っていた。実子であることをいいことに王の権力を笠に着て、傍若無人な態度に自分の立場をわきまえぬ乱暴な発言の数々。女性というのは慎ましやかで男性より一歩引いているのが望ましいものだと思っていたし、事実シキの実の母や姉はみんなそういう人物だった。環境の違いというのは、程度の差はあれ価値観に影響する。
 ヨタカは二人の態度を見比べて苦々しい溜め息をついた。
「馬鹿か、お前ら。あれは他人がどうこうできる女じゃない。邪魔しないと本人がいったんだ。無視してろ」
 同じ性質ゆえかヨタカには勘のようなものが働いた。あれは束縛を嫌い、どこまでも自分の力で飛んでいく鳥だ。霧の谷の祖先は流民だった。他の人間に追い立てられる精霊を愛し、そのために共に追われて、流れて暮らしていた彼らは自分達を渡り鳥と称した。いまでも谷の人間が鳥の名前をありがたがるのはその当時の名残である。
「翡翠(カワセミ)は小さな鳥だが、あれでも肉食だぞ? お前ら、食いつかれたくなかったら下手な手は出さないことだな」
「臆病者」
 自分より年長者であるはずの相手にシキは吐き捨てるようにいってのけた。普段なら年功序列を重んじるシキだが、この三兄弟に関しては全員が対等だった。長兄のトールが後継ぎと決まったわけではない。
 ホウは正式な後継者を一人に定めなかった。三人の中から一人を選ぶ、と。
 その態度を曖昧すぎると批判する声もあったが、それが政治的判断ゆえのことだと気づけない三人ではない。現王家である炎を祭る家は絶えることがほぼ確定している。その後を引き継ぐのは大地を祭る家か、水を祭る家か、はたまた風を祭る家か。どの家も他の家に劣っているとは思っていなかった。だからひとつの家に定めてしまうと残りふたつの家からの反発が大きい。だが、家柄や血筋の問題からいっても次の王はこの三つの家以外からはあり得ない。正式な後継ぎが決定するまでの緊迫感は三つの家に均衡をもたらした。この均衡が国内に大きな問題を発生させない防波堤になって、ホウは後継ぎ不在のこの状況でありながら平穏な治世を敷けているのだ。彼ら三人はそれぞれの一族の期待を担ってここにいる。
 ところが、ここに至って別の可能性が生まれた。絶えるはずだった炎の家を引き継ぐかもしれないのがあの娘だ。王のたった一人の血を分けた実子。庶子であることも女であることも関係ないかもしれない。慣例によると王にはなれないが、もしもヒスイがホウの在任中に男の子を生めば炎の家は続く。
 それは、三人にとっては王位継承を脅かす存在に他ならない。
 それぞれの家においてもそれは同じ。自らの血が次の王にして精霊の長になる機会を無にされることになる。逆に炎の家に属する家柄においてはヒスイは希望の星だ。精霊はどの属性であろうと、基本的に俗事には煩わされないので長の娘を喜んで受け入れている。人間はそうもいかなかった。
 トールはヒスイを妻に望んだ。保守的な彼は、無理に家の代替わりをしなくても炎の家が続く可能性があるのならそれを繋いでやりたいと思った。自分が王になることで一族の体面も守られる。それにヒスイの器量ならば王妃として王と肩を並べても遜色ない。そこに愛情が存在していなくても。
 ヨタカもその可能性を考えたが、自分のこととして照らし合わせるとまっぴらだった。だったら子供だけ生ませるか、人知れず彼女がいなくなればいい。暗殺まではいかずとも彼女を野に放してやれば二度と帰ってはこないだろうと踏んでいた。
 シキは、慣例を破ってヒスイが王位に立つことをこれ以上ないほど恐れていた。シキは本来、長男である。水の家の後継ぎとして幼い頃から厳しくしつけられた。それこそ虐待と紙一重の「しつけ」を。生傷の絶えない毎日から救い出してくれたのがホウだった。養子に迎えられてから殴られたことも鞭打たれたこともない。以来、実の父親以上にホウを慕った。あの義父の一番の息子として彼の後を継ぎたかった。シキにとって王位というのはいわば居場所の名前だ。そこに座ることが息子として認められることだと思っていた。それを脅かすのが義父の実の娘の存在。……邪魔以外の何者でもなかった。

 夜風が歌うように彼らの頬を撫でて通り過ぎてゆく。昼間の明るさの中ではなりを潜めている澱(おり)が、夜の闇に隠れて静かに積もり積もっていった。

   *

 そして、ここにも一人。心の底に二十数年ほど澱を淀ませた人物が、執務室に滑るように入ってきた。長い黒髪は夜を映したように今は深く暗い色。時折、蝋燭の光を受けて星を弾かせる。執務室にはまだ明かりが灯っていた。蝋燭だけでは光量が足りないので、いくつか光霊も浮遊させている。夜も遅いというのに大地の精霊は分厚い書類の束を手にしながら忙しそうに働いていた。
「お帰りなさいませ、ホウ様」
 主の姿に顔を上げ、嬉しそうにイスカは微笑む。
「……まだ起きていたのか」
 ホウもそれに微笑みをもって応じようとしたが、今夜はそんな気力すら残っていないらしい。ぎこちない笑みになってしまった。いつもと違う主の様子をイスカは敏感に察知したのか、書類の束を一度棚にしまいこむ。
「今、香草茶をお淹れしますね。外の方に分けていただいた、とっておきがあるんですよ」
 イスカは素早く茶器を手にした。
 寝るだけの自室よりも長い間座っている椅子に、ホウは腰掛ける。いつもより乱暴な所作になってしまったのはやはり精神的な疲労ゆえか。心の底に澱が溜まる。今、一番側にいて欲しい人物を思い描きながら、ホウは心の底のつぶやきを声に出していた。
「……あの時、無理矢理にでも攫ってくればよかった」
 イスカが弾かれたようにこちらを向いたのが目の端に映った。いつものホウらしからぬ言動に驚いていることくらい手に取るように分かる。それでも、今日はそれを思いやってやれるほど心に余裕がなかった。
 住む世界が違うと銀の天使に引き離された愛しい人。どれほど時を経ても鮮明に思い出すことが出来る。この腕の中で気を失った黄金の戦女神。身籠もったと分かっていたら絶対に離さなかった。攫って、連れてきて、そのまま正式に王妃に据えて。そうすれば少なくとも、何も知らない他人にあの人を愛妾と蔑まれることはなかったし、娘が庶子とないがしろにされることも回避できた。
 どれほど過去を悔やんでも遅い。機会は一度あった。あの娘が生まれたときに。それをしなかったのは自身の怠慢だ。
「何かおありになったのですね?」
 心地よい香りを放つ香草茶が差し出された。癒されるような優しい香りに、ホウはゆっくりと顔を向ける。ありがとう、とそれを受け取った。今度はちゃんと笑うことが出来た。
「……こんな夜は考えても仕方のないことを思うよ。仮にヒスイが嫡出子として生まれていても、今度は有力貴族を婿に迎えて後継ぎを生ませることを考えなければならなくなる。いっそ庶子のままの方が政治の道具に使うことができない分、ましというものだ」
 薄く緑がかった色の茶を口に含む。清々しい香りが広がったかと思うと甘い香りがやってきて、とても美味しかった。大きく息を吐くと肩にかかっていた無理な力も抜ける。
「イスカ」
「はい?」
「お前とヒスイの婚礼、早めた方がいいかもしれない」
 ホウの一言に、イスカがなぜか笑みを貼り付かせて固まった。
「……どうかしたか?」
 ずっと以前からいっていたことだ。いつか、自分の娘をお前にあげると。もちろんそれは口約束で正式に決まったことではないのだが、それでもホウはかなり本気でイスカに娘と一緒になってもらいたいと思っていた。ただ、その時にひとつ条件を付けていた。ヒスイが嫌だといったらこの話はなかったことになる。そしてイスカが嫌だと思ってもこの話はなかったことになる。愛情のない結婚を経験した身であるからこその配慮だった。
 イスカはうつむき、なぜか力無く笑って、いいにくそうに指をいじり始める。
「あの……、そのお話は、申し訳ありません。……なかったことになりませんか?」
 もじもじと照れて、それでも遠慮しているのではなくて本当に婚約解消をしたがっていることが見て取れる。これにはホウが驚いてしまった。
「すいません。ホウ様がどうして僕にヒスイ様をくださるとおっしゃっているのか、よく分かっているつもりです。……それでも、あの方の器は僕には大きすぎます。決して嫌いだとかそういうのではありません。ですが、出来るなら夫ではなくて臣下として、あの方にお仕えしてお守りしたいと思いますが……」
 嫌がっている者に押しつけるわけにはいかない。世の中はやはり上手くいかないように出来ている。ホウは苦笑するしかなかった。
「怒っておられますか?」
 おそるおそる尋ねてくるイスカに、微笑みを返す。
「まさか。怒ってなどいないよ。……おかわりをくれるかな?」
 空になった茶碗を差し出す。いつもホウの側にいて慕ってくれているイスカが、それでも断るというのだ。強行できようはずもない。
 三兄弟に限らず、誰か貴族がヒスイを嫁に欲しいといってくるのは予想がついていた。娘だけは政略結婚の道具にはしないと決めていた。イスカならばヒスイを大切にしてくれるだろうし、ヒスイに決まった相手がいないならこの話でまとめてしまった方が幸せになれるだろうと考えていた。そうすれば他の縁談を断ることが出来る。それに、精霊との間になら子供は生まれない。けれどそんな建前よりもなによりも。
「いつかお前を息子と呼びたかったのに」
 本音をいえばそれだった。イスカも、それだけは残念ですけれど、と苦笑する。

 イスカに付き添われて寝所に入ったのは月が随分と高くなってからのこと。いつもと違って、天蓋付きの寝台には帳(とばり)が下りていた。
「……」
 ホウとイスカは目配せし合った。誰かいる。息を潜めて帳の奥に。ホウは無言で腰に吊した刀に手を掛けた。イスカがその後ろでいつでも呪文の詠唱に入れるように構える。じりじりと、ホウは間合いをつめていった。周囲にも気を張り巡らせる。他には誰もいない。帳の中にいる人物だけだ。一人……いや、二人か。
 後一歩で間合いに入るというところで絹の帳は内側から払われた。

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