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翡翠抄−ひすいしょう−

第三章第二節第二項(057)

 2.

「まぁ、なんてお似合い!」
 靴を用意してくれた侍女は感嘆の声を上げた。

 体を洗い、洗髪もすませて気持ちよく風呂を出たヒスイは侍女達に捕まったのだ。櫛、鏡、香油、白粉、紅、さまざまなものを手にした彼女達は面白がってヒスイを飾り立てた。なにしろ用意されていた着替えさえ、絹のドレスであったから嫌な予感はしていたのだが。
 彼女達は風の精霊だといった。どうやら、風の精霊はどちらかというとヒスイに好意的な部類に入るらしい。宮廷での噂話やヒスイを褒める言葉など絶え間なく口を動かしながら、手も動く。完成するまでヒスイは彼女達の人形になっていた。
 選ばれたドレスを纏い、化粧を施され、髪を結われ。いかにも高価そうな装身具をさりげなく付けると、そこにはもう野育ちの小娘はいなかった。どこに出しても恥ずかしくない貴族の姫君の出来上がりである。
 細身の体にぴったり沿った細身のドレス、高く結って一部を後ろに流した髪。服はまるでヒスイの体型にあつらえたかのような仕上がりだった。瞳の色よりは淡い翠。今までヒスイが着ていた服と同様、襟は高く首を隠すような意匠。夜会用に肩は剥き出しだった。その肩と襟には金糸の縁取り。絹地は光をよく反射するので影はより色濃く生まれる。ヒスイのささやかな胸でも、上は反射によって明るい色を作るし、下には濃い影がたまるので見栄えした。柳腰の形にそって、服地の縫い目がその線をなぞる。臀部(でんぶ)に沿う形から細くまっすぐに落ちた裾は膝裏あたりから少し広がっている。脇から続いた縫い目だが、腰から下に深い切れ込みが入っていた。しかし足を露出することはない。切れ込みの下にはもう一枚、薄い絹のスカート部分がついているのだ。こっちはもっと淡い、白に近いような翠色。腕を動かしたり、少し歩いてみて着用の具合を確かめる。どこもだぶつかないし、きつくもない。切れ込みが深いので、裾が細いわりに動きを妨げない点は気に入った。素肌の上に触れる絹の肌触りは気持ちがいいくらいだ。
 唇に引いた朱色の紅。磨かれた桜色の爪。艶を増した黒髪には金色の髪飾り。
 侍女は口々に褒め称えるが、鏡を見つつ、ヒスイは逆に溜め息をついた。
「どこか、おかしいところがございますか?」
「……いや。自分でいうのもなんだが、美女にはなった」
 その言葉に侍女達は胸をなで下ろした。
 そう、この「美女」には見覚えがある。それは毎日見ていた自分の顔という意味ではなく、もっとよく知った人物のもの。長いかもじを足して背中に流した髪が、母を連想させた。なにしろ肩口に掛かるか掛からないかの位置で短く揃えた地毛である。そのままでは結えないし、かといって下ろしたままでは不都合だと侍女はいった。こうやって髪の長さまで同じにしてしまうと、改めて母親似であることを実感する。鏡の中の美女は髪と瞳の色と身長は違うけれど、綺麗だった母そのもの。ここにいるのは自分ではない。そんな気さえしていた。

 突然、別の声が割って入った。
「ほう、えらく化けたではないか!」
 明るい女の声だった。入り口には声に負けないくらい華やかな容姿の女が立っている。一体いつからそこにいたのか気付かなかった。
 燃えるような色の髪、赤い瞳のその女は、釣り鐘型の胸をぶら下げてつかつかとヒスイの側に近寄る。目線を同じにするため、女はわざわざ腰を曲げて顔を覗き込んできた。
「取るに足らぬ小娘と思うたが、どうしてどうして。だが、そなた美女ではあるがやはり長には似ておらぬな」
 風の精霊は彼女の言動に少々驚きながら、だが、誰もそれについて彼女をとがめることはしなかった。ヒスイはまっすぐに彼女の赤い目を見る。
「誰だ、あなたは」
 切り口上の口調に怒る様子もなく、赤い髪の美女はにっこりと微笑んだ。
「失礼した。妾(わらわ)の名はレンカという。長の側女(そばめ)じゃ」
 うきうきと、浮かれた声で告げられた。ヒスイはうさんくさげに彼女を見る。今度こそ侍女達は顔色を変えたが、一言も発さないうちにレンカはヒスイから視線を逸らして侍女達を見回した。睨み付けたといった方が正しいかもしれない。その目だけで侍女一同は頭を下げて退出していった。
 この女の方が格が上だと、ヒスイは納得できた。なんというのだろうか、内側からほとばしる輝きが桁外れに違う。
「……何の用だ?」
 淡々とした声でレンカに問う。首を捻ったのはレンカ。
「姫君はあまり驚かれないのじゃな? 普通、自分の父親に愛人がいると聞いたらもう少し驚くなり態度がぎこちなくなるなりするとは思わんか?」
「母が出来た人だったからな。女がいても子供がいても驚くなといわれていた」
 厳密には少し違う。
 あれは堅物だから浮気できる男ではないだろう、というのが父を語るときの母の言葉。自信過剰と言い返したら、母はいつもの自信ありげな微笑みを浮かべた。しかし次にはその笑顔を曇らせ「責任感の固まりだったから、国のためならまた好きでもない女を娶って子供の一人でもこさえているかもしれないな」とも呟いた。これは想像でしかないが、そういう責任感のあるところも母は気に入っていたのかもしれないと思う。
 このレンカという女はその条件には当てはまらない。
 もしかしたら本当に父の女なのかもしれないが、目の前の女は寝所で伽をするための女性ではないような気がする。
 レンカはというと感心したように頷いていた。その頷きの評価に値しているのは自分か母か。おそらくは自分を通して母を見られているのだろうと、ヒスイはそう決めつけた。
「驚くかと思ってふざけてみたのじゃが……乗ってこないのは面白くないのぉ」
「……人で遊ぶつもりだったな?」
「そうじゃ」
 断言して、レンカは胸を反らした。赤い布から透けて見える二つの丘が上を向く。身長の差でレンカの胸はヒスイの目の前だった。男だったら喜んだかもしれない。なんとなく面白くなくて、この巨乳女が父の愛人でなくてよかったと思った。
「妾は長の右腕じゃ。厳密には精霊ではないが……長と契約を交わして炎の力を貸しておる。そなた、見たところ精霊との契約を交わしたようには見えぬが、精霊はそなたを愛してくれているようじゃな」
 ヒスイは頷いた。精霊に愛されるという言葉が風を使えるということなら、その通りだったからだ。後半の台詞には頷いたが、前半の台詞には疑問を感じた。大地の精霊であるイスカも父の精霊であったはずだ。
 それを問うと、あれは例外だとレンカは言い切った。仮にも精霊の長であり、自分の主でもある相手を「あれ」呼ばわりである。
「よほど優れた術者で上位精霊が一人付く。守護精霊にしてくれと申し込まれるだけでも異常なのじゃ。それなのに長ときたら妾とイスカ、これほどまでに高位の力をふたつも有しておる。複数の精霊を使う者もおらぬわけではないが大抵は下位の精霊……そなた、風を使うときに人間の姿をした精霊を使っておるわけではあるまい?」
 人間の形をしている精霊は上位精霊なのだという。それ以外の、純粋に力の形――炎の精霊なら炎の形、水の精霊なら水の形――だけをとるものは下位精霊。そういえば、キドラが名乗り上げたとき、自らを氷の上位精霊といっていたような気もする。
「上位精霊より上が幻獣、その中でも竜が一番偉いのじゃ。人間でいう神と同じくらいにな。神と違うのは生きていて触れあえることじゃのう」
 そしてレンカは誇るように胸を張った。
「妾はその幻獣よ。竜には及ぶまいが火の鳥……鳳凰と呼ばれる生き物の片割れじゃ」

   *

 さて。晩餐の席についたのは、ヒスイが一番最後だった。
「姫君のおなりじゃ」
 先導してくれたのはレンカ。一斉に全員の目がヒスイを向く。好意的な視線は父のものただひとつ。いや、今度こそ父は自分の中に在りし日の母の面影を求めているのかもしれない。
 大きな卓があり、上座には王であり精霊の長であり家長であるホウが座っている。その向かい側、一番下座の席は空席だった。ヒスイからむかって右に椅子が二脚。父の傍らにいる男は茶色の髪に茶色の瞳、自分側にいる男は黒髪に碧い瞳だった。左には父の側に一脚だけ。座っている男は長い髪をしていた。長い黒髪に切れ長の瞳は暗い蒼。ヒスイはかすかに目を見張る。その彼は、蒼い瞳の色さえ除けばホウそっくりだった。
「……驚いたな。本当に隠し子がいたのか?」
 ぽつりと呟く声にレンカが吹き出して笑う。ホウはというと一瞬、目を点にしていた。それでも素早く立ち直ると、苦笑するしかないといった表情でヒスイを見る。
「そういう言動をするあたり、本当にあの人そっくりだな」
 昔を懐かしむ優しい声。応えるようにヒスイも微笑む。だが、先ほどレンカから聞かされた「義兄上」の方はもう少し辛辣だった。
「我らにとっては君の方が隠し子だ」
 そういったのは蒼い目をした、ホウにそっくりの青年。碧い目をした男は笑いを噛み殺す真似をする。本当に笑いを噛み殺すつもりがないのは明白だった。茶色の髪に茶色の瞳をした男は巌のように押し黙っている。
 ヒスイはにっこりと微笑んで見せた。今度は、裸足で逃げ出すような、という類の笑み。
「もっともだ」
 そして大人しく下座の、用意された席に座った。身に付けた装身具がかすかに澄んだ金属音を立てる。女性が一人加わることで席は一気に華やかさを増した。少なくとも表向きは。
「遅くなったが紹介しよう。私の娘、ヒスイだ。……ヒスイ、そなたから見て右の手前から、長兄のトール。大地の家の出身だ。その向こうは次兄のヨタカ、風の家の出身。この二人は同じ年齢だ。そして左は末弟のシキ。水の家の出身で、お前よりはひとつ年上になる」
 頭の中で名前と顔を一致させた。トールというのが茶色の髪、茶色の瞳の無愛想な男。この際、自分の無愛想は棚に上げておく。そして、先ほどからこちらを見てにやにや笑っている黒髪、碧い目の男がヨタカ。シキというのが長い黒髪に蒼い目の、ホウに瓜二つの男。本当に、一目みただけではヒスイと彼、どちらがホウの実子か分からない。
 レンカはこの晩餐の席に同席は許されていなかったので退場する。ここにヒスイの味方はいなかった。ホウはその立場ゆえに中立を貫かなくてはならない。そのことについてはヒスイも理解していたので何もいうことはなかった。
 卓の上には次々と珍しい食べ物が並べられていった。見たこともない食材に凝った盛りつけの料理の数々が続く。三兄弟の話にホウが相づちを打って話は進んでいた。ヒスイは色んな皿から少しずつ箸をのばして取り皿に取る。なにしろ話を聞いていても分からないことばかりなので、おいそれと会話に入れるものではなかった。その分、無言で食べ続ける。時折ホウが話しかけて来、会話を引き出そうとしてくれたのだが、兄弟達、特にシキという男に邪魔された。
 おおよその力関係は読めてきた。シキが一番、ホウを慕っていた。裏事情は知らないが本当の父親のように懐いているのが分かる。そしてその分、実の娘であるヒスイを敵視してくれた。女顔のせいかホウと同じで優しく穏和な印象を受けるが、やり口は陰湿だ。頭の回転が速いのはヨタカ。話術も巧みで会話の幅も広い。最初はやや軽薄な印象を受けたものの、それに惑わされては隠し持った本質でばっさりと背後からやられるだろう危険な強さがかいま見えた。長兄といわれたトールは物静かすぎて何を考えているのか分からない。控えめだが的確な回答を兄弟に返す場面が時折みられた。第一印象は深謀熟慮を得意としそうだが。ヨタカが頭脳労働者ならば、彼は肉体労働を担当するのだろう。他の二人は術者としての印象が強いが、彼だけは戦士の体格をしていた。
 なるほど、どれもそれなりに一癖ありそうだが、逆に誰が王様になっても立派に努めるだろう。
 そして、そのうちに会話はだんだん、ヒスイのことに転がってきた。本人を目の前にしてさえ彼らの口は止まることはない。
「義父上は、本当にご自分の娘に跡を継がせるおつもりはないのですか」
 念を押すのはシキ。
「霧の谷に女王が立った歴史はないよ」
 史実を引用してやんわりと否定する。ヒスイはこのとき初めて、自分に後継ぎ云々の問題がかかっていることを知った。シキはそれでもかすかに不満を滲ませてヒスイを見る。次にヨタカが口を開いた。
「面倒くさいことは抜きです、義父上。我々が聞きたいのはですね。次の王となる男と、あなたの娘御を娶せるつもりではないかと、そう案じているのですよ」
 ホウは思わず酒を気管に入れてしまった。
 ヒスイも口にしていた酒を吹き出す寸前で、かろうじて飲み込む。
「冗談じゃないな」
 口を開いたのはヒスイ。それまで言葉を発することのなかった姫に、一同の目は集まる。
「私は父の後を継ぐつもりはないし、後継ぎを生んでやるつもりもない。一人で生きていけるだけの力を身に付けたらいつだって出て行ってやろう。ここは私の居場所ではない」
 凛とした声は室内に響いた。
 そして、箸を置くと静かに席を立つ。
「顔見せは終わったのだろう。失礼する」
 慣れた所作で身を翻し、立ち去っていく。いや、完全に室内を出る前に、立ち止まった。
「目障りだろうが貴公方の邪魔をするつもりはない。だが、死んでやる気もないからそのつもりで。……ごきげんよう、義兄上方」
 実子であるヒスイの存在は、次期国王候補にとっては邪魔以外の何者でもない。ヒスイはそういう意味では絶対に邪魔をしない。だからといって後腐れなく憂いを断ちきろうと――つまりは、ヒスイを殺そうと――すれば、返り討ちもためらわないことを告げた。
 そして静かに部屋を出る。

 とにかく、今は早くこのきらびやかな仮装を解きたかった。

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翡翠抄 −ひすいしょう−
Copyright (C) Chigaya Towada.