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翡翠抄−ひすいしょう−

第三章第二節第一項(056)

 父と娘

 1.

 ――お前のお父さんは、それはそれは綺麗な人だよ――
 いつかの母の言葉が頭の中で繰り返し木霊する。
 最初、夜の精が現れたのかと思った。どれほど美貌を歌っても容姿は歳月によって劣化する。母が「同い年くらいだろう」といっていたから、そろそろ四十の声を聞いているはずだ。けれど、その人はとても綺麗だった。夜を纏ったような長い黒髪。母が語ったほど長くはなかったけれど。刺繍をこらした幅の広い飾り紐でゆるやかに束ねて、背中に流していた。切れ長の瞳はヒスイよりも濃い緑。穏やかな森の色は潤んでいた。布をたっぷり取った長衣のせいもあるだろうが、整いすぎた女性的な造作は人間というよりまるで精霊そのもののように見えた。
 呆然としていると、その人は駆け寄ってヒスイを抱きしめた。広い胸としなやかな指で抱きすくめて「会いたかった」と涙声でいった。
 聞いてはいたが、その人とヒスイはちっとも似ていなかった。けれどその人はヒスイを娘と認めてくれた。一応は血の繋がりがあるわけだから「父さん」と呼びはしたけれど。……実は内心かなり葛藤があった。

   *

「あれが父親、か」
 あてがわれた部屋で、ヒスイは天井を見上げた。
 正直いって、実感が湧かなかった。驚くほどになさすぎる。
「……そういや昔、サラがいってたっけな」
 どうして再婚――厳密にいえば二人は結婚していないわけだから、再婚と呼ぶのもおかしいのだが――しないのかと聞いた娘に、母はしれっとして答えた。
『お前のお父さん以上に美人がいたら考えてたかもな』
 あのときは男性に美人という表現はどうかと思ったが、どういう意味だかよく分かった。確かに「美人」と呼ぶのがふさわしい優雅な容姿。あれ以上綺麗な男を探すのは難しいだろう。ホウ以上の「美人」なんかいない、だから他の誰とも結婚することもない、と、母がいったのはそういうことだったのだ。まさか彼女がここまで面食いだとは思わなかった。
 その美人の父親は思った以上に忙しい立場らしく、再会の感動も冷めやらぬ間に家臣によって引き離された。責務に戻らされる途中、名残惜しそうに何度もヒスイを振り返っていた様子が目に浮かぶ。そして、イスカでもない、赤の他人によってヒスイはここに放り込まれたのだった。
 与えられた部屋をぐるっと見回してみる。王の宮殿は木造建築だった。柔らかな木の風合いは常に霧に取り巻かれているこの国の気候に合っているのだろう。建物は全般的に鮮やかな色で彩色されている。朱色、瑠璃色、翡翠色、それに鉛白。ふんだんに施されている黄金。石を砕いて作った絵の具は退色しないというから、もしかするとそれかもしれない。天井からぶら下げられている金の飾りには真円に磨き上げられた水晶や真珠が散りばめられていた。柱や天井にかかる梁など、見えないところにも精緻な彫刻が施されている。翼を広げる鳳凰、虎、獅子、それに雲海に泳ぐ様々な竜。お伽話のようだ。
 風を使うヒスイのためだろうか、随分風通しのいい部屋だった。南北には壁、東西には柱だけで支えてある造り。柱の向こうには緑の庭園が見えていた。風よけのために衝立も用意されていたが、せっかくの景色を塞いでしまうのは勿体ないような気がする。ついでにこの衝立そのものにも色の付いた水墨画のような絵が描かれていて、随分と値段が張りそうだ。部屋の中央では、天蓋付きの豪奢な寝台がその存在を主張していた。天蓋から垂れ下がっているのは艶のない厚い絹地。複雑な織り模様が入っているのに加え、金糸銀糸で縫い取りが施されていた。寝台の上には光沢のある絹で敷き布団、掛け布団が揃えられている。部屋で目立つものはこの寝台と、黒檀で作られた机、揃いの椅子。紗(うすぎぬ)で覆いが作られた燭台。提灯というべきだろうか。これにも精緻な刺繍が施され、金と朱の飾り房が下がっている。聞けば服やら装身具やらは隣接した場所に専門の部屋があるらしい。つまりここは寝るだけのための部屋で。あきれるほどに何もない部屋は塵ひとつなく掃き清められている。足元の床は顔が映りそうなくらい磨き上げられた深緑の大理石だ。ヒスイは寝台の上で溜め息をついた。何だか、とんでもなく場違いなところに来てしまった気がする。
 どれくらいそうしていたのか。間隔としてはそれほど経っていないように思ったが、廊下からヒスイを呼ぶ声が聞こえた。
「失礼いたします」
 事務的な声。深々と頭を下げて、ヒスイと同じ年くらいの少女が入室してくる。
「湯浴みの支度が整いました」
 風呂に入れ、と。非常に簡素な命令文に訳してヒスイは立ち上がった。入れというのなら従おう。何も必要ないといい、少女はヒスイを先導する。まず湯浴みを済ませ、その後は晩餐、それからは自由にしてくれて構わない、と彼女は道ながら説明をする。
「ご質問はございますか?」
「……父は?」
 そう呼ぶことに違和感を感じながらも、他に表現する言葉が思い浮かばずにそう尋ねた。
 少女は、かすかにためらいを見せる。それは一瞬のこと。だが、それまでがなまじ淀みない口調だったために、ためらいは返って際立った。
「……王は、晩餐にてお会いになれます」
 ちらりと少女はヒスイを見る。その目は、冷たかった。
 目は口ほどに物をいう、という。彼女の冷たい目が何を物語っているのか、ヒスイは分かった気がした。……自分は、歓迎されてはいないようだ。
 複雑な造りの廊下をいくつか渡って、湯殿にたどり着いたときにヒスイはもう一度驚くはめになった。
 ずらりと、左右に侍女たちが並んでいた。
「彼女達がお世話をさせていただきます」
 付き従ってきた少女はそう言い捨てると、さっさと行ってしまった。彼女は伝達や伝令の仕事をする侍女。ここにいるのは湯浴みを手伝うための侍女ということらしい。
 その、列に並んでいた侍女の一人がにこやかに前に出た。
「姫君は風の属性をお持ちであらせられると聞きました。風の精霊を中心に揃えましたので、なんなりとお命じください」
 ぎょっとして彼女たちを見る。よく見ると、白に近い色の髪と瞳を持つ女性が多かった。彼女達はみんな長い髪を同じ形に結い上げている。ヒスイには、まだ人間との区別はつかなかった。その彼女達だが、ヒスイを見るとさざめくような小さな忍び笑いが起こる。
 浴槽は、ここも馬鹿みたいに広かった。一人で使うのが罪悪なほどに。ここは木造ではなく、石造りである。花びらが浮かび、すっきりとした湯の匂いと石鹸のいい香りが広がっていた。
「お湯は、覗かれませんように水の精霊の力を封じさせていただいております。風も同様。ああ、姫君はお風呂の使い方から説明しなければなりませんか」
 浴槽の周囲で石鹸を使って、その後湯船に浸かり洗い流すのだと、くどくど説明する。
 説明してもらわなくても知っていると、どれだけいってやりたかっただろうか。ひとしきりの説明が終わったと思われた頃、今度は侍女頭と思われるその女性の後ろから、控えていた他の侍女達が一斉に喋り始めた。
「姫君はどの石鹸がお好みでいらっしゃいます? とりどり、揃えておりますの」
「綺麗なお髪(ぐし)ですこと! 黒髪にはローズマリーの石鹸が合いますわ!」
「リンスは何にいたします? 木苺の酢はとてもいい香りですのよ」
「香油もご用意した方がよろしゅうございますわね。髪に艶が出ますもの」
「湯上がりにはこちらのお粉をはたかせていただきますわね!」
 風の精霊はおしゃべりであることを、もし、誰かが一言でもヒスイに伝えていれば反応も違っただろう。立て続けに喋られてヒスイは見る間に無表情になっていた。だがその反応を見てもなお彼女達の口は止まることなく、ヒスイは衣服に手がかけられたときに初めて抵抗を見せた。
 ふと、侍女達の動きが止まる。翠の瞳は機嫌悪く彼女達を睨み付けた。
「いらん」
 回答は簡潔。
 そして、ぴっと人差し指で湯殿の入り口を指差した。
「全員、出て行け。風呂くらい一人でゆっくり使わせろ!」
 精霊達は一斉にその言葉に従った。後には人間である侍女達が残される。王に命じられています、と言い訳をしたものもいた。が、ヒスイが一睨みすると精霊達の後を追うようにして慌てて退場していった。
「ふん」
 短い黒髪を払うと、ヒスイはさらに内側からしっかりと鍵をかける。新しい衣服が用意されている籠を確かめると、やっと自分用にあつらえた男物の衣服を解き始めた。たっぷりの湯を使えるのは久しぶりである。
 そして、誰もほかに見る者もいないことに安心しながら湯船に身を沈めた。

   *

「ヒスイが、湯殿の侍女達を追い出したって?」
 ホウは湯殿に詰めていた侍女頭から報告を受けた。執務室の机にはふたつの書類の山があった。その真ん中で、ホウは紙を右から左へと流していく。侍女頭はきつい仕置きがヒスイに落とされるように、少々誇張して報告していた。ホウは、唇に少し笑みを浮かべる。
「好きにさせてやってくれ。慣れていないのだろうから」
 侍女頭は「とんでもない」と不平を並べ立てたが、ホウはうまく言いくるめて、追い返した。
「……その手があったか」
 書類の束を片づけながら、ふと独り言がこぼれる。
「ホウ様?」
 いぶかしむ声音はいつも側にいた大地の精霊のもの。イスカは谷に戻ってきてから、再びホウの秘書として傍らで働いてくれていた。大地の神の神殿にはちゃんと報告済みである。レンカもよくやってくれるが、整理整頓などの役目はイスカの方が向いていた。
 そのレンカはというと、地上の忙しさを見下ろしながら、悠々と空に浮かんでいる。
「長は羨ましいのじゃ。長とて湯浴みは一人でゆっくりしたいと願っておるくちじゃからのう」
 図星だろう、とホウに目をやる。イスカはホウを見、ホウは苦笑した。その通りであったからだ。だが、目上の者が目下の者を使わなければ、目下の者は失業する。それも分かっているからホウは侍女を使っていた。そんなホウの気持ちが分かるから、イスカも苦笑する。
「ヒスイ様もいずれ慣れることでしょう。それよりも、ホウ様もそろそろ湯殿に行かなくていいんですか? この後、ご家族で晩餐と聞きましたが?」
「……晩餐、か」
 ホウは、娘との初めての食事だというのに陰鬱な影を見せていた。そう、これから、難問が待ちかまえているのだ。それに気づき、イスカとレンカが表情を変える。
 庶子の存在は最初から明らかにしていた。自分にはすでに心に決めた女性がいて、彼女との間に娘を設けたこと。その娘は彼女が育てていること。それを盾にホウは片っ端から再婚話を断り続けた。最初は秘密裏にこの親子を始末しようとする動きもあったらしい。だが、当然の事ながら誰もこの親子の居場所を見つけることはできなかった。それどころか、ホウが繰り返し語った「心に決めた女性」の存在すら嗅ぎつけることはできなかったのだ。だから、家臣達はある意味で安心していた。いるかいないかも分からぬ庶子の存在など、歯牙にかける必要はない。
 それが。
 いきなり目の前に現れた。それもホウとは全く似ていない娘。ホウにしてみれば妻に瓜二つなのだ。これ以上の証拠はない。だが、家臣にとってみればどこの馬の骨とも分からぬ若い女。彼らは娘を歓迎してはいない。精霊はそれに比べると好意的だ。しかしその中にも、自分達とは違う匂いを敏感に嗅ぎつけてヒスイを招き入れることに躊躇する者もいる。
 さらに家臣よりも厄介なものが、この後の晩餐で顔を合わせることになっていた。
「……ヒスイ様の兄上、ですか」
 イスカが溜め息まじりにいった。レンカがそれを繋ぐ。
「長の、義理の息子共じゃな。……確かにな」
 三人は申し合わせたように、深く息を吐いた。
 ホウには三人の養子がいる。いずれもヒスイより年上であるから「兄」にあたるのだが。ホウは炎を祭る家の出身だ。だが、ホウが子供を――正式な王妃との間に、嫡出子を――作らない限り、炎の家は絶える。ホウは最初こそ義務を果たそうと思っていたが、ヒスイが生まれてからは絶えてもいいと考えていた。そうすると代わりに次の王となる人間が必要になる。だからホウは、他の三つの家、大地を祭る家、水を祭る家、風を祭る家からそれぞれ一番能力の高い男の子を一人ずつ養子に迎えたのだ。
 彼らは自分こそが次の王となると思っている。そこに現れたのが実の娘だ。娘に跡を継がせる気はない、とは明言している。にも関わらず、彼らはすでにヒスイを敵視しているという話が伝わってきていた。

 ホウは、椅子に腰掛けたままレンカとイスカを近くへと招き、抱き寄せた。
「私が最も信頼できるのはお前達だけだ。私はどうなってもいい。……どうか、あの娘を守ってくれ」
 彼と彼女は、二人してこの孤独な王に触れる。誰よりも精霊に愛されている長が、なぜ誰よりも孤独な立場にいなければならないのか分からなかった。

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