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翡翠抄−ひすいしょう−

第二章第五節第三項(052)

 3.

 セイの口の中で、薄紫の魂はじたばたと暴れていた。
 あの星見の性格そのままを表しているようで気分が悪い。無理矢理この魂の感情を訳すとしたら
「いやー、戻るーッ。ヒスイのところに、戻るったら戻るのー!」
 ……だろうか。
 このまま飲み込んでやろうかと意地の悪いことも一瞬考えたが、早々に吐き出すと、逃げ出さないようにしっかり握り込んだ。魂はようやく大人しくなったようだ。
 イスカは固まっていた。
 さて、肝心のヒスイであるが。……くらり、と立ちくらみを起こした。
「ヒスイ様!?」
 イスカの金縛り状態が解けた。倒れるままに、セイがするはずがない。崩れ落ちるヒスイの体を捕まえると、そのまま背中と足を支える体勢に抱き上げた。
「あ、あああ、あなた、まさかヒスイ様が倒れるくらい、のーこーなやつを……!」
「あほ」
 感情のこもらない、冷淡な一言。
「ヒスイがこの程度で目を回すはずがないだろうが」
 わざとらしく、抱き上げたヒスイの額に唇をはわせて見せつけた。イスカがまた石になる。真っ赤になって汗を吹き出しているイスカを後目に、セイは石の床ではなくて赤絨毯の上を選んでヒスイを寝かせた。できるだけゆっくりと下ろし、腕を胸の上で組ませる。最後に優しい手つきで彼女の額をなでた。黒髪が滑り落ちる。
「後でちゃんと殴られてやるから、今は勘弁な」
 ヒスイにとって不本意な行動を取ってしまった詫びである。ヒスイは返事の代わりに、かすかに睫毛を揺らした。知らず知らずのうちに、セイは甘く微笑みを浮かべる。
 今、ヒスイの意識ははっきりしているはずだった。体が動かないだけで。
 妖魔や精霊と違い、人間には生身の肉体がある。その生きている人間から、急に魂を抜いたのだ。例えそれが他者の魂であろうと。体と心の均衡が崩れて、今はきっと一年分の貧血がまとめてやってきたような状態だろう。それでなくても全身傷ついて、出血多量の身である。このまま意識も手放してしまえた方がよほど楽だろうに、と思う。自分にはそれを無理に強いることが出来る力がある。だがそれは、してはいけないことだった。ヒスイは自分の心と体を他人に強制されるのを嫌う。セイは誰より自由なヒスイが好きだった。風を閉じこめてしまっては、それはもう風ではなくなってしまう。
 感傷に浸るのはそこまで。セイは立ち上がると、今度は星見の亡骸に向かう。
 ヒスイという器を離れた魂の半分は、元の魂の欠片に気が付いたらしい。元に戻ろうとまた暴れ始めた。
「……さぁて、お前には口移しなんて親切なやり方なんかしてやらんからな」
 ヒスイに対しての優しい微笑はどこへやら、今度は酷薄な笑みを浮かべる。トーラの小さな顎をこじ開けると、魂を突っ込んだ。すかさず口を塞ぐ。
「さあ、呑め。呑み込め。吐き出すなよ?」
 亡骸だった体が、まな板の上に乗せられた魚のように跳ねた。

   *

 むごい、とイスカは思わず口元を袖で覆う。
 星見の妖魔の体は派手にけいれんを起こしていた。しかしセイは口をがっちり押さえ込んで魂が逃げることを許さない。効果的なのだろうが、荒療治に見えた。
 早い段階で、セイが妖魔だということには気付いていた。こちらの正体も早々に知られていたので、おあいこであるが。それでも彼は人間のふりを通していたし、またアイシャもヒスイもそれなりに彼を信用しているようだったから深くはいえなかったのだが。実際に見るのとは大違いだ、と思った。
 赤い髪でおちゃらけているときも性格は良心的とはいえなかったが、今はもっとひどい。あれはまだ、ましだった方なのだ。真っ青な髪を隠さない彼の言動は妖魔の典型ともいえた。自分が楽しいことが大前提で、大好きなヒスイは一番大事。それ以外のものは本当にどうでもよくて。赤い髪の時と比べて、ふざけた部分が消えた分、余計冷淡に見える。
 口移しで薄紫の魂を抜き取ったときも、そう。
 肉体を引き裂かずに人間から魂を抜き取るということは、卵の殻を壊さないように中身を抜き取るのと同じことだった。それくらいイスカも知っている。卵の場合は上か下に小さな穴を開けて、そこから棒などで白身と黄身をかき混ぜて中身を抜き取る。人間の場合は元から穴が開いているので、口か、それとも下から抜くしかないのだが。口移しが一番、人間に痛みがなくていい。物理的な痛みはないが、精神的には痛手だと思う。それをためらいもせずにあの男はやった。他にも、口に指を突っ込んで吐かせるように抜き取る方法もあるが……相手がヒスイでなくば、セイはこの方法を採ったかもしれない。
 どちらにしろ、側にいるだけで満足して、それ以上の行為には及ばなかった赤い髪の時とは随分な違いだ。

   *

 トーラの体は、ひとしきり盛大に跳ね続けたが、やがて糸の切れた人形のごとく動かなくなった。代わりに体の中心が発光する。薄紫の強い光。トーラの瞳の色と同じ色の光は、やがて全身に行き渡った。セイが手を放す。小さな子供の全身から光は溢れていた。やがてその姿もなくなって、ただの光の放出に変化する――!

「これで本当に生き返るんですかっ?」
 まぶしそうに袖で光をさえぎって、イスカは尋ねる。ついつい、いつもより大きな声で呼びかけた。答えるセイの声はいつもと変わりない。多少、目をすがめて光が天井近くまで躍り上がるのを見ている。
「器を再構成する必要があるからな。……まずいな。うまく形になってこない」
 イスカが使った、生き返る、という言葉は適切ではない。なぜなら、肉体の損傷を「死」と考える人間と違って、妖魔にとっては姿など魂の器でしかないからだ。魂、すなわち心さえ無事なら妖魔はそれを「死」とは考えない。
 とはいっても、人間が服を着ずに歩き回ることがないように、妖魔も器たる姿なしでうろつくことはない。その器を損傷してしまったので、今は新しい物を構成している最中なのだが。
「普通は自分の精神力だけで構成できるもんなんだが、今は十分な魂の量がないからな。しばらく眠って回復を待つしかないか」
 それが十年か二十年か、百年後かは知らないが。セイは肩をすくめた。そして再び、ヒスイのところへと舞い戻る。胸の上で組ませていた手を取った。
「言葉にしなくてもちゃんと聞こえるから、答えてくれ。ヒスイはあのガキの復活を望むのか?」
 手が、少し動いた。
 ――トーラはそれを望んでいるのか?――
 声にならないヒスイの声が、耳を介さずにセイに届く。ヒスイは自主性を大切にする。トーラにもそれと同じことを求めているらしい。見えてないことは分かっているが、セイは首を振った。
「それは意味がない。そこまで考えられる思考力がないんだ。……あれは、まだ生まれて間もない赤ん坊と同じだ。ヒスイが親みたいなものだと思えばいい。ヒスイはあのガキに対して義務がある」
 だからヒスイが決めろ、とセイは迫った。
 考える時間は充分与えるつもりだったが、ヒスイの返答は早かった。
 ――頼む――
 短い一言。復活させてくれということだった。セイは溜め息をつく。ヒスイの手、傷のある真上にセイは手をかざした。
「触媒にヒスイの血をもらうよ」
 傷とセイの手の間に、小さな赤い点が生まれた。赤い点は段々大きくなり、球になる。大粒の真珠玉くらいの大きさになった。セイはそれを宙に浮かせたまま、ヒスイの手を元に戻す。痛い思いをさせてごめん、と小さな声で呟いた。そして放出している薄紫の光の中心に、血を放り込む。
「ほら、お前の『双子』の一部をやるから、こいつを使え」
 ヒスイの血を取り込んで、薄紫の形のない光は更に色つやを増した。放出が激しくなる。やがてその光は徐々に小さく、密度が高くなっていく。紫水晶の額飾りが宙に浮いた。今までそれは床に落ちていたらしい。紫水晶を中心に光が凝り固まっていく。小さな泡のようなものが光の表面を覆い始めた。次第にそれは薄紫以外の色に変化していく。滑らかな形の表面は、ピンクを透かした白い肌に。形の定まらない光は波打つ蜂蜜色の髪に。
 だが、背を覆うはずの髪はヒスイと同じくらいの長さに切りそろえられていた。変化はそれだけではない。細い首も、丸い肩も、華奢な鎖骨も形はほとんど変わらなかったが縮尺が違っていた。一番大きな変化があったのは、つんと尖った形のいい胸。そして腰から臀部(でんぶ)にかけては、まだ熟れていない青い桃のような線を作る。太腿からふくらはぎにかけてはすっきりと細く、足首は引き締まっていた。
 金の睫毛が揺れる。うっとりと目を開けた。藤色の瞳は以前より少しだけ濃い色になっていた。色の薄い紫水晶のような瞳。額に金の額飾りを戴いて、トーラは再生を終えた。外見上の年齢はヒスイと同い年、もしくは少し下といったところか。
「……あら?」
 声にして、トーラは思わず自分の喉を押さえた。声が違う。高い声ではあるのだが、それはもう子供の黄色い声ではない。
 また、喉を押さえたことによって、二の腕で潰された自分の胸にも気付いたようだ。そろりと腕を開く。イスカが慌てて後ろを向いた。トーラは物珍しそうに自分の胸を見下ろす。両手で支えて、ふくふくとした感触を確かめた。決して大きすぎるわけではないが、今までと比べると格段に重量がある、それ。
「ヒスイのより大きい」
 とりあえず身近な話し相手として、セイにそう語りかけてきた。よかったな、と投げやりに返答しておく。まだ自分の身体の変化に実感が湧いていないようだった。外見が変わろうが肝心の中身は子供のままだ。いや、外見に変化が現れたということは内面も少し成長を見せているはずなのだが。
「とにかく服を纏え」
 トーラは小首を傾げたあと、血だらけで横たわっているヒスイを見た。トーラの体に、紫の光がまとわりつく。それは肌とはまた違った質感で体の表面を覆い、服になった。ヒスイの服を見本にしたらしい。襟の立った丈の短い上着、だが下が短いスカートになっているのは本人の趣味と見える。
「こんなの着てみたかったの」
 立ち上がり、くるりと回転する。ヒスイも小柄な方だが、トーラの身長はそれよりもやや低かった。体型だけみれば理想的な女性の体となっている。
「すごいわ。私、ここ一年、全然大きくならなかったのに……」
 イスカが、もう振り返っても大丈夫であることを確認した後、おそるおそる尋ねた。
「……どうなってるんです……?」
 無理もない。星見の少女は最初、七つか八つくらいの年齢だった。それがどうしていきなり十四、十五くらいの外見に変化したのか、すぐに理解しろという方が難しいだろう。
「ええとね、ヒスイの魂が少し混じったみたい」
 自分でも少し不思議がりながら、トーラはそう答えた。
 さて、実際に魂が混じったかどうかはセイが見ただけでは分からないのだが、ヒスイとの出会いがトーラの内面に影響を与えたのは間違いない。それが姿に反映された。また、姿を形作るときにヒスイの血を触媒にしたことも関係あるだろう。
「妖魔の見た目と実年齢が一致しないなんてのは当たり前だからな。だが、見た目より実年齢の方が若い奴はめずらしいと思うぞ?」
 妖魔は大抵が人間よりも長く生きる。若く見えて実は……というのならイスカにも分かる。が。
「……おいくつでしょうか」
 女性に年齢の話は不謹慎だと分かっているが、イスカが冷や汗をかきながら尋ねる。
「私? 生まれて一年くらいかなぁ。すぐにキドラに引き取ってもらったしね」
「分かっただろう。こいつは正真正銘、まだ赤ん坊なんだよ」
「ひどい、私、赤ちゃんじゃないもん!」
 ヒスイが、動かない体でありながら驚きの反応を示した。体が動けば目を丸くしただろうに。イスカは脱力した。もう、どうにでもしてください、ということらしい……。

 ヒスイがここに引き寄せられてから、キドラが去って、トーラも再生を終えた。これでようやく、最後の一人を呼び寄せることが出来る。おそらく一番ヒスイのことを心配しているだろう女性を。
 セイの足元に青い円が描かれる。光の柱が屹立し、空間が繋がった。

   *

「どういうことなのか、一から説明して頂戴ッ!」
 うら若い女性でありながら、主婦としてのたくましさも併せ持つ亜麻色の髪の「お母さん」は両足を踏ん張って腰に手をやった。
 治療には神殿に戻るよりも、キドラの城の方が設備が整っている。元はトーラの部屋だった場所に、今、ヒスイが治療を終えて横たえられていた。その続き部屋に四人が固まる。
「いやあ、アイシャさんがいてくれて、ほんっとうによかった。オレらじゃヒスイの傷をどうすることもできないもの」
 赤い髪に戻った――正確には青い髪の方が本来の姿なので、戻るという表現はおかしいのだが――セイは、いつものふざけた調子で手を叩いた。これでも本気でアイシャを称えているらしい。
 イスカがそれを白い目で見る。
「あなた、本当に性格変わりますよね」
「そう? オレとしては、本質は全然、変わってないつもりなんだけどな?」
 男二人の会話に、アイシャのこめかみが小刻みにけいれんを起こす。拳を握り込んで、よく見えるように息を吐きかけた。
「あんた達……いい加減にしなさいよ……」
 叱られる前の子供のように、二人は揃って背筋を伸ばした。セイの青い目がいたずらっぽく光る。そして、彼は事の顛末を全て語った。


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