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翡翠抄−ひすいしょう−

第二章第五節第二項(051)

 2.

 口走ってしまってから、初めてトーラは、キドラが本気で怒っていることに気が付いたらしい。青ざめ、慌てて自分の口を塞ぐがもう遅かった。キドラは、おそらくは初めてだろう、感情をまっすぐに表した目でトーラを見ていたからだ。
 キドラは指を鳴らす。小気味よい音と同時に、トーラの身を守っていた光の檻が弾けた。
「きゃっ」
 檻が砕けて細かい欠片となって消える。身を守っていた砦を破壊した。それは、どういうことなのか。
「よせ!」
 ヒスイは思わず叫んでいた。もしかしたら彼女を傷つける気かもしれないと、ヒスイは危惧したのだ。しかし白い法衣をまとうその男は、トーラから視線を外した。背中を向け、もう一度振り返ろうとはしない。それは彼なりの拒絶なのかもしれなかった。
 トーラは、捨てられた子犬のような目でキドラを見上げている。涙が今にもこぼれ落ちそうなほどに盛り上がっていた。
 キドラはといえば憎々しげにヒスイを見ていた。それに受けて立つのはヒスイではなく、青い髪したセイ。すでにヒスイもイスカも、にらみ合う両者の雰囲気に気圧され口出しも出来そうになかった。

 室内が、急に暗くなった。
 比喩表現ではない。礼拝堂の高い天井に、文字通り暗い色した雲がわき上がり、光をさえぎっていったのだ。室内だというのに黒い雲が覆っていくのは異様な光景だった。
 雲の中から降ってきたのは、綺麗なソプラノの声。
 ――おやめ――
 反応をしたのは二人。にらみ合っていた両者はまさにその瞬間、時間を取り戻したように動き始めた。キドラは跪きつつ空を仰ぎ、セイは素早くヒスイの体を抱え上げる。
「何を……!」
「うちの長のご登場だ」
 セイは笑いもせず雲の中を見つめていた。しっかりとヒスイを抱きしめる。妖魔の長というのが女性とは思わず、ヒスイもつられて空を仰いだ。
 涼やかな声が、セイに向かって語りかけられた。
 ――お前はやっぱりそちら側がいいのね――
 残念だという含みと、それもまた仕方ないだろうという納得の色が声には滲んでいた。声だけでその表情まで読めそうな、艶のある美声だとヒスイは思う。
「言い訳は最初にちゃんとしておいたでしょう、サイハ様?」
 唇にうっすらと微笑みを浮かべて、セイは暗雲の中を見る。ヒスイを抱く腕に力がかかった。渡すものか、と。サイハと呼ばれた妖魔の長も、それに気付いたようだった。
「さようなら、サイハ様。これで最後でしょうから申し上げますが、私はずっとあなたに『雌豚』といって差し上げたかったんです」
 にっこり笑った。
 その場にいた全員がぎょっとしてセイを見る。注視された側といえば、そしらぬ顔だ。キドラがまた怒りを露わにセイを睨み付ける。雲の中からはといえば、怒るどころか、くすくすと笑い声が漏れた。
 ――そんなこと、前から知っていたわ――
 底辺に皮肉が流れているものの、あくまでその声は優しい。
 セイは苦笑しながら首をすくめた。
 声は、次に配下である守護精霊に向かって発される。今度の声からは優しい響きだけがぬぐい去られていた。
 ――キドラ、戻っていらっしゃい。それ以上「星」を傷つけることは許さなくてよ――
「はっ」
 キドラは何もない場所に向かって深々と頭(こうべ)を下げる。妖魔の長、サイハの声には、特に怒りの色はないようだった。だがキドラの背中には、ひんやりとした汗が伝う。何も変化がないくらいに怒りを押さえ込んでいるのだと、気付かないキドラではなかった。
 主の命令であればこの場は引かなくてはならない。立ち上がり、祭壇の前まで進む。そのキドラの後を、慌ててトーラが追った。
「トーラ!」
 ヒスイが思わず、星見の子供を呼んだ。彼女の足が止まる。
「駄目だ、こっちへ」
「ヒスイ……でも、でも私は……」
 鳥の雛は、生まれて最初に見た動くものを親だと思うという。刷り込まれた雛のように、トーラにはキドラしかいなかった。ずっとずっとキドラだけを信じてきた。たとえそれが全部嘘だと分かった今でも。躊躇したトーラの背後に、キドラが立つ。
「お前はもう必要ない」
 凍り付いた声は容赦なくトーラに降り注いだ。
 いや、彼女に降ってきたのはそれだけではない。キドラの右手には氷で出来た剣が握られていた。ヒスイを執拗に狙った、あの剣だ。
 刃がきらめく。
 ある予感がヒスイの背中をなぞっていった。
「やめ……!!」
 ヒスイは思わず鳥肌の立った腕を伸ばす。考えるより先に体は動こうとしていた。だが、自分を抱え込む腕はゆるまない。がっちりとセイに押さえ込まれ、ヒスイはただ見ていることしかできなかった。

 氷の剣は、幼い子供の腹部を貫き、石の床へと縫いつけた。

 トーラは背中に剣を生やしたまま、緩慢な動作でキドラを見上げた。大きな藤色の瞳を見開いて、口からは赤い水を吐いている。最後に見たのは、流した涙をも凍らせそうな、氷の眼差し。
「……どうして……?」
 のろのろと、小さな紅葉の手が白い法衣に伸ばされる。その裾を掴むことなく、手は地面に落ち、拳を作った。藤色の瞳は開いたままだ。
 キドラはそれにいつまでもかかずらってはいなかった。小さな星見に背を向け、祭壇の近くへと寄る。黒い雲が彼を取り囲んで、そしてそのまま姿を消した。キドラを受け入れると雲は見る間に晴れていった。
 ――またお会いしましょう、予言の星――
 サイハの声を残して、雲は跡形もなく消える。後には再び晴れ渡った礼拝堂。明るい日の光の中で氷の剣もいつの間にか消える。後には小さな子供の亡骸が転がっていた。

   *

 暗雲はキドラを妖魔の城へと導いた。キドラが仮住まいをしていた城にあったのと同じくらいの大きな謁見の間があり、やはり奥には御簾が下がっていた。キドラは帰還の挨拶を済ませる。御簾の奥で、麗しの主の気配が動いた。
「……お前の失態は許せるものではないわね」
 涼やかな声はいつもと変わらねど、そこにあるのは重い空気。噴火前の活火山を前にして、キドラはひたすら詫びることしか出来なかった。自分のせいで主が探し求めていた予言の星が、もう少しで消えるところだったのだ。
「どうぞ、ご存分に処分を……」
「お前一人が死んでも毒にも薬にもならないわ」
 サイハの声は厳しい。キドラは、トーラに向けた態度とはうってかわって、愛おしげな目を御簾の奥へと注いだ。
「あなたのためならば、この命、再び死の息吹を浴びることなどためらいは致しません」
 それは本心からの言葉。この愛する主のためならばキドラは死ねるだろう。御簾の奥で衣擦れの音がした。空気が動いて、甘い香りが漏れてくる。主を間近に感じているようで、キドラはそれだけで幸せな気持ちになれた。
 可憐な声音で、新しい言葉がつぶやかれる。
「でも、お前のおかげでお星様が特定できたのですもの。大目に見てあげるわ」
 キドラは目を見張った。正直な話、まさか主が許してくれるとは思ってもみなかったのだ。キドラはゆるむ頬を必死で押しとどめて、頭を下げる。こみ上げる喜びは主の恩情に対しての感謝。いや、自分はこの人に許されたといううぬぼれか。
「お前の命は私のものよ。捨てるのなら私の役に立つことに使って頂戴」
「ありがたき幸せ……」
 それが本当に幸せなことかは、他者に判断されたくはない。
「お前の罰としては……そうね、あとしばらくは警戒されるでしょうから、お星様には手が出せないわね。だからお前の野望はもうしばらくおあずけよ。充分でしょう」
 野望。サイハはよくこの言葉をちらつかせる。キドラがこの主に仕えた理由のひとつ。キドラの肩が震えた。また先延ばしになったかと奥歯を噛みしめたが、この程度の処分で済んだことをありがたいと思わなければなかった。
「あの子を持っていかれたのは痛かったけれど、仕方ないわね」
 声が少しくぐもった。寝そべって、絹布でくるまれた綿毛布に顔を埋めているのかも知れない。
「……あの子、とは?」
 自分が刃に掛けた星見の子供のことだろうか。だが主は、星見は「お星様」を見つけた後は用なしだといっていたはずだった。サイハは御簾の奥で首を振る。
「星見もあちらに取られたのは残念だけれど……私が『あの子』と呼んだのはセイのことよ」
 キドラは、主に口答えするような気がしたが、ためらった後に思ったことを口にした。
「どうしてあなたは、あの夢見に寛大なのですか」
「あら、やきもち?」
 麗しの妖魔の長は、忠実なる自分の下僕にくすくすと笑い声を上げた。それは全く陰鬱な表情のない、可憐なものに聞こえる。
「あの子はね。生意気そうに見えて、私を本気で怒らせることは絶対にいわないのよ」
 本当に楽しそうにサイハは思い出し笑いを繰り返す。
「先だっての雌豚発言は少々気に入らなかったけれど、あの子の生意気がこれから聞けなくなることを思うと差し引いてもよい気がして……。そうね、お前のいうとおりね」
 自分がかなり、あの青い髪の妖魔に寛大であることに気付かされたようだった。
「気に入っていたのよ。敵わないのは分かっているくせに私に刃向かうのはあの子くらいだったのですもの」
 また、鈴を転がすような愛らしい笑い声。
 キドラはそれを聞いて、少し安心した。自分は決して主に刃向かうことはない。この人は自分に刃向かうものを「面白い」と、心から楽しんでいる。あの男が気に入られている理由がそれならば自分が目くじらを立てることはあるまいと思った。同じ意味で気に入られることは一生ないのだ。
「そのお気に入りは敵に回りましたが」
「そうね。残念だけど、素敵だわ」
 敵に回ったのならば遠慮なく潰すのみ。主の心の声がまるで手に取るように読めた。そのサイハは御簾の奥で立ち上がる。そして、御簾を払いのけて奥から姿を現した。濃厚な花の香りが鼻孔をくすぐる。キドラは頭を下げるのも忘れて、仕えるべき主にして最も愛しい女の姿に見入ってしまった。艶のある黒真珠の瞳がキドラを見下ろす。様々に色を変える長い髪が、肩口から滑り落ちた。
「いらっしゃい、キドラ。楽しい内緒話をしましょう」
 形の良い唇が、にぃっと笑みを作る。美女には違いないが彼女の持つものは清廉潔白な美しさではない。血の染みと冥い色を纏って、その中でこそ妖しく輝く闇の王だった。首に下げられた蛋白石(オパール)がくるくると色を変える。持ち主の心を映すように。
 白い腕がキドラに絡みつき、赤い唇が甘えるように吸い付いてくる。蜜の匂いに誘われて、氷の精霊はそのまま花と共に御簾の奥へと消えた。

   *

 さて、キドラが捨てた城の、礼拝堂では。
 満身創痍のヒスイが、同じ色に染まったトーラの亡骸を抱きしめていた。それを二人の男が見下ろしている。ヒスイの傷は一応の血止めがセイによって成されていたが、傷を治したわけではない。一刻も早くヒスイを治療したい二人だったが、肝心のヒスイがそこから……トーラの側から離れようとはしなかった。
「……どうして、こんな目に……」
 食いしばった奥歯の隙間から声が漏れた。翠の瞳から透明なしずくが間断なく流れる。イスカはおろおろと、何と声をかけていいものか側でうろたえるだけで、セイはというと物でも見るような目でトーラを見下ろしていた。
「それは、まだ死んでない」
 ぶっきらぼうに、青い髪をかきあげてセイはぼやいた。ヒスイは目を見張る。イスカがそれに説明を付けるように、小さく同意の声を上げた。
「妖魔は、死ぬとその形を保つことは出来ず塵になります。形を保っているということは……まだ生きて……」
 イスカはそこで、ちらりとセイを見た。理論ではまだ死んでいないということになるが、目の前にあるのはどうみても亡骸にしか見えない。だからイスカも困惑しているのだ。それでなくとも、死んだはずのセツロが生きていたり、妖魔側にいたりと、信じられないことばかりが立て続けに起こって、まだ混乱が続いていた。
 涙で濡れた顔で、ヒスイは青い髪の妖魔の顔を見上げる。冷たい視線だけがそこにあった。
「忘れてやしないか? そいつの魂の半分は自分が持っていることを」
 いわれて初めて、ヒスイはいつぞやの夢の中を思い出した。トーラは、自分に命の半分をあげるといったことを。
「……魂の双子……」
「幸い、まだ器は崩れてないからな。復活の手助けぐらいしてやるよ」
 いかにも鬱陶しそうに、青い髪の彼はヒスイの胸の上に手をかざした。翠の光と、側に薄紫の小さな光が胸の上に浮かぶ。それを確認して、セイは目を細めた。
 掌で両の瞼を抑え、顎を固定する。イスカが小さく悲鳴を上げた。彼は有無をいわさずヒスイに口づけ、口を介して薄紫の魂だけを抜き取った。


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