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翡翠抄−ひすいしょう−

第二章第五節第一項(050)

 別れ道

 出会いがあれば別れがある。
 生きる限り出会いと別れは繰り返される。
 そして命終えるときも、それもまた別れと呼ぶのだ。

 1.

  嘘でしょう?


 つぶやいたイスカの言葉が、そのままヒスイの心の中だった。まじまじと、白い髪の男の姿を見やる。冷たい目がイスカを見ていた。雪のような白い髪、氷のような薄い水色の瞳、額に回された金の環は確か正神官の証だと聞いた。氷竜に祝福され、精霊の長に裁かれたはずの人間。白鷺の別名を名に持つ男。それが何故か、氷の精霊として目の前にいる。
 それを見るイスカの脳裏には今、何が映っているのか。大きく見開かれた琥珀色の瞳は乾いていたが、いまにも涙が浮かんでくるかと思われた。
 セイの目には何の感情も窺うことは出来ない。ただ、事態を傍観しているだけにとどまっている。しいていうならイスカを見ていた。この善良な少年と、性格の悪い氷の精霊がすぐに頭の中で結びつかなかったようだ。
 トーラはといえば、心配そうに保護者である彼の白い背中を見ている。彼女には先ほどイスカがつぶやいた言葉の意味など分からないはずだ。だが、なにかが目の前で起こっていることに不安を募らせていた。

   *

「間違えないでもらおうか。私の名はキドラ。あの方がくださった名だ。別の名で呼ぶのはやめてもらおう」
 キドラは胸を張って、イスカを下に見る。
 凍り付いた場がやっと動き出した。だがイスカは、信じられないものを見るような目をやめなかった。なおも切ない目を向けて、昔の名で呼びかけてくる。
「セツロ……」
 神経に障る。その善良そうな目も、態度も。わざとキドラは一番残酷な言葉を投げつけた。
「その名を持つ人間は、墓も与えられず野ざらしになってこの世から消えた。あやめた人間はまだのうのうと生きているがな」
 お前の主(あるじ)のせいだと、言外に添えて。思った通り、イスカの表情が厳しいものに変わった。ご主人様第一のイスカには聞き逃せない一言だっただろう。
 キドラには、もう必要ないのだ。その名前も、記憶も、事実も。「あの方」がくださった今の生き方があればいい。
 まだ現実をしっかりと受け入れられていないイスカに、セイと呼ばれていた夢見の妖魔が説明を付け足した。顎でこちらを指し示し、
「そいつは、妖魔の長の守護精霊だ」
 と、妖魔側だけが知っている事実を述べる。それを聞いたイスカの顔が、みるみるうちに泣きそうになっていった。
 人間は、妖魔を退治する手段として、精霊の力を借りることがある。だから精霊と妖魔は敵対関係だと誤解をしているものも多いのだが。
 妖魔の中にも精霊を使う者は存在するのだ。
 ようは精霊とどれだけ相性がよいかという問題である。精霊に善悪の概念はない。だから自分達を使う者が善人であるのか悪人であるのか、そんな判断はできないし、する必要もない。ただ自分達が好む性質を持った者が助力を求めてきたときに力を貸すだけ。……多くの精霊が好む性質が、人間でいう「善人」にあてはまることが多いという、ただそれだけなのだ。
 その精霊には、一生涯にただ一度だけ、たった一人のために力を貸したいと望める権利があった。
 守護精霊というのは、その「一生涯にただ一人」を選び終わった精霊のことである。キドラは目の前に、イスカ、セイ、そして彼の後ろに小娘を認めながら、脳裏では美しい主の姿を思い描いていた。
 精霊は捕まえられると、一定の条件によって力を貸す約束を「させられる」。ほとんどの精霊使いはそうやって精霊を操るのだ。強制されるわけだから、使う者との性質があわないとほとんど力を発揮することは出来ない。使う側もそれを心得ているから、自分と気の合う性質の精霊を捕まえようとする。
 ところが、守護精霊は違う。精霊の方から特定の人物に惚れ込み、側にいたいと望み、その人物のためだけに力を振るいたいと願う。だから主を持つ精霊は通常のそれより、桁違いの力を発揮することが出来た。主を選べるのは精霊の一生涯にただ一人のみ。人間は大抵、精霊より先に死んでしまう。それでも死んだ主だけを守護精霊は想い続ける。
「あの方の敵に回るなら、お前も敵だよ、イスカ」
 キドラの周りに、再び白い陽炎が立ち上った。

 あの方を愛している。
 キドラはかつて人間として、恨みを残したままその生を終えた。それはただの偶然か、はたまた氷竜からの深き愛情ゆえか、それとも心に渦巻く憎しみが安らぎを拒んだか。気が付くと人間の肉体を離れて、氷の精霊として生まれ変わっていた。その属性の精霊に深く愛された人間は、人としての勤めを終えた後、精霊としての新しい命を与えられる、と、そんなお伽話で読んだ出来事が、よもや自分の身の上に降りかかるとは思っても見なかった。
 誰よりも美しい妖魔の長と遭遇したのは、そんな時だ。
 一目で魅せられた。額の中央で分けられたまっすぐな髪は見たこともない虹色に輝いており、その瞳は黒真珠の光沢を映していた。少女の可憐さと、成熟した大人の女性の魅力を併せ持った、不思議な美貌を持つ女性。まだかすかに甘さの残る顔に、艶めいた眼差しと大人びた笑みを浮かべていた。紅の引かれた赤い唇が、鈴を転がしたように涼やかな声を紡ぐ。
「もし捨てるのならば、その憎しみを私に頂戴」
 髪と瞳がそのまま宝石のようだった。それ以外で身を飾るのは大粒の蛋白石(オパール)をはめ込んだ首飾りのみ。それは青と緑と黒、そして若干の赤い輝きを混ぜ、くるくると色を遊ばせながら、彼女の髪の色と同じ輝きを放っていた。女としての美しさを凝縮した肢体は慎ましやかな黒い紗(うすぎぬ)のドレスで包まれていて、それが一層首飾りを引き立てている。黒真珠の瞳の奥には、残忍さと、狡猾さと、目的のためには手段を選ばない一種の潔さが窺って取れた。
 この人なら、と思った。
 自分の憎しみを利用してくれる。誰よりも美しく、誰よりも残酷な夜の蝶。気が付くと跪いていた。
 一人の女として愛し、一人の主として忠誠を誓い、彼女のためだけの道具となる。……永遠に。

 室温が下がった。
 セイとイスカが受けて立つ。だが、そこにもう一人、立ち上がる者がいた。

   *

 そのことに最初に気付いたのはセイ。
 ヒスイは、セイの足元を引っ張り、立ち上がろうとしていた。蒼い瞳が振り返り、かすかに驚きの色を浮かべる。ヒスイは青い髪の彼を、強い視線で見つめた。「支えろ」と、聞こえたかどうかは分からないが、声なき声に反応するかのようにセイは彼女に肩を貸し、立ち上がらせる。ヒスイは支えられながらでもいいから自分の足で立つことを望んだ。それを考慮してくれたのだろう。ヒスイの傷から考えれば、抱き上げた方がはるかに負担は軽いはずなのに、セイはそれをしなかった。
 二人の視線が交わったのはほんの数秒。セイの蒼い目は、いつものふざけたところがない分、一層冷たく映った。ヒスイはすぐに目をそらし、キドラに向き合う。
「ヒスイ様っ?」
 イスカは顔色を失い、無茶をするなと悲鳴に近い声を上げた。
 血だらけのヒスイなど、キドラにとって何の価値もない女だ。その隙をついて氷の礫が三人を襲った。だがそれはセイの張った結界によってあっさりと阻まれる。
「馬鹿のひとつ覚え」
 セイは目を細めて、毒を吐いた。
「黙れ」
 ヒスイは彼に見向きもせずに、止めた。セイの口が渋々ながらも閉じられる。
 荒い息を吐きながら、ヒスイはキドラに向かった。
「……ここで我々が引くといったら、それを見逃してくれる気はないか?」
 キドラの片眉が跳ね上がった。イスカは目と口を大きく開き、トーラもまた同様、セイだけはあまり驚かなかった。
「私の目的はここでお前とやり合うことじゃない。お前だって、この二人とやり合うことは予定外だったはずだ。まさか遊びで手が出せるほど、過小評価しているわけではあるまい?」
 ヒスイとキドラが一対一で向かい合えば、間違いなくキドラの圧勝だ。それなのにヒスイが武器を手にしただけで警戒を怠らないほど慎重な性格のこの男が、予期せぬ相手との接戦を望んでいるはずがない、とヒスイは考えた。
 キドラは腕を組んだ。眉の間にしわを寄せ、難しい顔をしてみせる。
「小娘。お前がいくらそれを望んでも、両者と私は少なからず因縁がある。その二人が納得するまい?」
「させる」
 と、言い切った。はったりのつもりだったが、セイとイスカは揃ってヒスイを見た。そして二人で示し合わせたように、次にキドラを見る。ヒスイが望むなら仕方なし、との色がその目には浮かんでいた。
 そこで初めて、キドラはヒスイに対して「精霊使いの小娘」以外の認識をしたようだ。
「……ふん。夢見と星見のみならず、イスカまで手懐けるとはな? お前は何者だ?」
 何も知らないイスカが、大きな声を上げる。無礼は許さない、との勢いで。
「この方は……!」
「言うな!!」
 すかさず、ヒスイはその台詞をさえぎった。イスカが何をいわんとしているのか、予測がついたからこそ止めたのだ。イスカは喉まで出かかった台詞を大慌てで飲み込んだ。
 キドラは、この少年を「ホウの腰巾着」といった。ヒスイの名前を聞いて、最初から敬称をつけて呼んでいたことから、ホウから娘のことを聞かされていたのかもしれない。
 この男にそれを教えてはいけないと、半ば直感的に思う。憎んで憎んで余りある男に……娘という弱点があることを知らせてはならない。この男は、次こそホウの目の前でヒスイを血祭りにあげようとするだろう。
 キドラの薄い水色の瞳が、さらに薄く冷たく輝いた。ヒスイはそれを真正面から受ける。
「こちらにはこちらの事情がある。私はまだ精霊の長に、私が生きていることを知られたくはない。そして、そこの夢見は私の主を侮辱してくれた。……なのに見逃せ、とは。それ相応の代償はもらえるということか?」
「……私の命か」
 ヒスイは臆することなく口にした。セイに対しては「愛しい女」を、イスカにとっては「主の娘」を奪うことになる。先ほどのやりとりで、イスカにとってもヒスイは失えない人物だと判断したのだろう。……転んでもただでは起きない男だ。
 セイの目が物騒に細められた。イスカがヒスイをかばうように前に出る。だが、その二人の反応こそキドラを喜ばせるものに他ならなかった。

「やめてぇっ、ヒスイを殺さないで!」
 突如、忘れていた子供の声が、キドラの鼓膜を攻撃した。
 無視を許さず、トーラは続けて叫ぶ。
「やめて、キドラ。ヒスイをいじめたら、キドラが妖魔の長に叱られるんだからっ。ヒスイは、ヒスイは……長が探していた『予言の星』なの! 余計なちょっかいかけたら駄目っていわれてたでしょう!?」
 決定的なときに、無害だと思われていた妖魔の子供は、決定的なことを口走ってくれた。

 セイの目が明確な殺意を帯びてトーラを見た。
 ヒスイは思わず、トーラにそれを気取らせてしまった自分自身の失態を呪った。
 イスカは、やっぱり、という目でヒスイを見る。主は予言の星を自分の娘だといった。
 キドラの顔こそ見物だった。彼は、初めて化けの皮を剥がした顔でトーラを睨み付けたのだ。
 この子供にしてやられた、と思った。「予言の星」であるヒスイと、星見であるトーラは既知である。まさかトーラが、今の今までヒスイの正体に気付かなかったなど、知るはずもない。可愛がってやった飼い犬に、突然手を噛まれたようなものだ。
 彼が一番恐れたのは、「予言の星」をもう少しで殺してしまうところだった事実が、確実に妖魔の長の怒りを買うということだ。
 再び、場の空気が凍り付いた。


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