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翡翠抄−ひすいしょう−

第二章第四節第六項(049)

 6.

 トーラは、光の檻の中に閉じこめられていた。
「ヒスイ、ヒスイ!」
 外の音は何一つ聞こえない。殺さないで、と願う。どちらも大切だった。大好きなキドラと、大好きなヒスイ。だが、ヒスイは見たこともないような怖い顔でキドラを睨んでいる。服は上から下まで赤い色に染まっていた。
 キドラの表情はわからない。先ほどヒスイに切りつけられたが、無事なのかどうかも。
「やめて、キドラ!」
 トーラには、キドラがまるで人が変わってしまったかのように思えた。自分に対してはいつだって優しい人。欠片でもいい。その優しさをヒスイに向けて欲しかった。
 けれどトーラは、キドラが精霊であることを知らなかった。人間だと思っていた。トーラは他の精霊を間近に見たことはなかったが、星見では何度も感じていた。精霊はこんな魂の色をしていないと思っていたのだが。
 キドラに嘘をつかれたこと。それが、ほんの少しトーラの心に棘となって突き刺さった。
 トーラの目の前で、キドラの氷の剣が大きく振りかぶられる。ヒスイは何かを叫んだ。その目が燃えさかるように輝く。
 その色に、トーラは見覚えがあった。
 まさか、と思う。透き通った翠の色。あやふやで、透明で、周囲に溶け込んでしまいそうな優しい魂の色。最初に会ったときから似ていると思っていた。だが、輝きの強さが全く違うので別人だと思ったのだ……。
 青い髪した妖魔がいった言葉を突然、思い出す。
(――星見の姫。それほどまでよく見える目を持ちながら、なぜ気付かない?)
「あ……」
 トーラは、口元を覆った。全身に震えが走る。どうして今まで気付かなかったのだろう。干上がる喉を押さえて、湿らせるために嚥下(えんか)する。我知らず声が震えた。
「ヒスイが、予言の星なんだわ……」
 音が遮断されているので、そのつぶやきは誰の耳にも届くことはなかった。予言の星について、トーラは確かに見た。キドラとあまりよくない出会い方をすること、そして、自分はその星と深く関わることになるということ。確かに深く関わった。皆が探す星とは知らず、「魂の双子」に選んだ。ヒスイはただの人間であるが、トーラにとってはもう双子の姉なのだ。
 もしも運命などというものがあるのなら、ヒスイを……すなわち予言の星を守るのはトーラの役目ということになってしまう。

 キドラが振り上げた剣が地面に吸い込まれた。ヒスイはすかさずそこから逃げる。足といわず腹といわず、赤い花が飛び散った。激痛を伴っているのか、額から脂汗が吹き出している。額に塗られた血糊が、汗で溶けて流れていた。
 ヒスイは手に持っている硝子の欠片を短く構える。体当たりでキドラに飛び込んだ。立ち位置が変わったせいで、ほんの少しキドラの表情がかいま見える。その目は、薄く笑っていた。
 トーラの背筋に冷たい何かが立ち上った。
 殺される。ヒスイが死んでしまう。攻撃をしかけたのはヒスイの方なのに、トーラはそう思った。星を読んだわけではない。直感とでもいえるものだった。が、確信した。
 星は、どんな未来も公平に見せていく。人の死を見ることもあった。だが、今ほど怖い思いをしたことはない。以前、ヒスイがいった。死ぬという言葉を安易に使うものではない、と。ひとつの命が消えるということは、誰かがこんなに怖い思いをするのだということを、知った。
 叫んでいた。耳を塞いで、誰に訴えるわけでもなく。
「いやあ! ヒスイを助けてぇッ!」

 礼拝堂の床が、淡い紫に光った。
 その一瞬、キドラとヒスイの動きが止まる。ヒスイの持つ硝子のナイフはキドラの脇腹をかすめていた。突然の光から思考回路を切り替えたのは、ヒスイの方が早かった。またキドラの間合いの外へと移動する。さすがに体が動かず、素早くとはいかなかったが。
 キドラは、床を覆ったその色から推察したのだろう、トーラの方へと視線を向けた。
 涙でぐしゃぐしゃになったまま、トーラは彼を見つめ返す。キドラの目は冷たかった。この人は、こんなに冷たい目をしていただろうか。しゃくりあげながら、それでもトーラは、まだキドラを信じたかった。
 紫の光が消える。床の一部が、円の形に青く光った。そこから光の柱が屹立する。
「ヒスイ!」
 それはトーラの声ではなかった。光の檻の向こうから聞こえたのは男の声。トーラは耳を疑う。音は消されていたはずだ。キドラが結界の一部を解いたのだろうか。
 光の柱から、赤い髪をした男が飛び出す。キドラには目もくれず、傷だらけのヒスイに駆け寄った。
 彼の姿を目にしたヒスイは、一気に力が抜けたようだった。手から硝子のナイフが滑り落ちる。そのまま崩れ落ちるかと思われた体は青年によって支えられた。華奢な腰に手を回し、ゆっくりと赤絨毯の上に下ろすようにして抱きしめる。ヒスイはといえば、一度目を閉じて、彼の首に腕を回した。
「……来るとは、思わなかった」
「ま、冷たいお言葉。オレがヒスイを見失うなんて、あるわけないでしょ?」
 遅くなったけど、と続ける。その声は怒りをわざと押し殺したようにも聞こえた。その間にも、青年の服にはヒスイの血が染み込んでいく。青年が歯ぎしりをした。
 ヒスイが目を開き、青年を見た。翠の目はまだ牙を失ってはいない。青年はそれに応えるように頷く。とろけるような優しい笑顔だった。そのままヒスイに口づけても、トーラは不思議には思わなかっただろう。青年の笑顔を見て、奇しくもトーラは気付かされた。キドラは、一度もこんな笑顔を向けてくれたことがなかったことを。
 この青年がヒスイを想うほどに、キドラは自分を愛してくれてはいなかったことを。
 血染めのヒスイを抱いて、赤い髪した青年はキドラを見た。極上の青玉(サファイア)の両目が、さらに深く暗い色へと変化する。青から蒼へと。
「……よくも、人の女を傷物にしてくれたな?」
 木々がざわめくような音がした。暗闇に怯えて身をすくめるときのような。青年の深い怒りに反応するかのように空気が震えている。ただ冷たいだけのキドラと違い、青年は身を切るような冷たさと、身を焼くような熱さが同居している印象を受けた。トーラは光の檻に閉じこめられている。逆にいえばこの檻に守られているのだが、それでも思わず後ずさった。それだけの迫力がこの青年にはあったのだ。
 蒼の目が鋭利なナイフのように研ぎ澄まされる。小さな青いピアスが、いつの間にか薄いオレンジに色を変えていた。
 キドラは、その青年を目を細めて見ていた。いや、つぶさに観察していたという方が的確か。右手から、氷の剣が消えた。きらきらと、氷の小さな結晶を作って、分解していく。
「それがお前の弱点か」
 愉悦した声。嬉しくてたまらない、冥い笑顔。キドラの周囲から白い陽炎が立ち上る。
「面白いことを考えた」
「ふぅん? 余裕だね」
 青年は片眉をわざとつりあげて、唇を笑った形に作る。完全に人を馬鹿にした、見下した顔。挑発に乗るな、とヒスイが呟いた。そんなささいな声すら、今のトーラにははっきりと聞こえる。
「やめて! ヒスイを殺さないで!」
 声を振り絞って叫んだ。が、その声に視線をめぐらせてくれたのはヒスイだけで、あとの二人はというと、目の前の敵しか見えていないようだった。キドラの纏う白い陽炎が、氷の矢に姿を変えて発射された。
 青年はヒスイを軽々と抱き上げると、その矢から逃げる。ヒスイの跳躍とは比べ物にならないほど、鮮やかな身のこなしだ。だがキドラも負けてはいない。跳躍の着地点となるだろう場所に、狙って次の攻撃を叩き込んだ。氷の矢と礫が交互に彼ら二人を襲う。もう剣を使おうとはしていない。ヒスイ相手のときはあれほどこだわったのに。
 白い陽炎が室内に溜まっていった。部屋の温度が急激に下がっているのだ。真綿で首を絞められたかのように、徐々に青年の足を鈍らせていく。空気が凍った氷の粒が青年にまとわりついていくことに気付いた。動いていないヒスイには、もっと顕著に。
「馬鹿、おろせ!」
「今、ヒスイを下ろしたらその瞬間に狙い撃ちされるよ!」
 だから青年はいつまでもヒスイを抱きかかえて逃げる。逆にいえば、攻撃に転じる隙もなかった。キドラは喉を鳴らした。
「いつまで『そのまま』でいるつもりだ? 本気で知られたくないと見える」
「それがどうした、振られ男」
 キドラの眉間にしわがあらわれた。勘に障る笑い声もひっこむ。トーラが不思議に思ったことを、ヒスイが彼に聞いた。
「……知り合いか、セイ?」
「こんなのと知り合いになんかなりたくなかったけどね」
 口調は軽口だが、視線はキドラから離さない。これが彼なりの本気と見える。キドラはというと。先ほどの一言は禁句であったらしい。怒りを露わにしたままで両腕を派手に動かした。
 巨大なつららの群が一斉に二人に襲いかかった。
 礫どころの騒ぎではない。騎士の馬上槍(ランス)が数十も集まって突進しても、ここまでの速さがあるかないか。ひとつの馬上槍(ランス)の突進で歩兵はあっというまに蹴散らされる。それがヒスイと青年に集中した。
 トーラは悲鳴を上げていた。だが、目と耳は出来事全てを記憶するかのように、感覚が全開になる。悲鳴の最中に、青年は膝をついてヒスイを下ろす。愛してるよ、と囁いた。ヒスイにもその声は聞こえたようだった。呟かれた後で翠の目がうつろに見開かれる。いまさら何をいっているんだ、とその目は語っていた。もう一度、青年はいった。いや、唇は動いていなかったから、心の中で思っただけかも知れないが。
 信じてなんていえない。でも、それでも、信じて。愛してる。
 青年は、巨大なつららに向かって手をかざした。青白い光がそこに生まれた。

 それが、トーラが悲鳴を上げた、たったそれだけの時間に起こった全て。

 つららは青白い光の前で、止まった。勢いを失っただけではない。綺麗に割れて、全てが礫ほどの大きさに砕け散った。砕け散る氷越しに、蒼い目がキドラを睨み付ける。最初は青かったピアスは、薄いオレンジから血のような赤に変化していた。色の変化はそれだけではない。長い髪を結んでいた紐も、青から赤へと変わっていた。赤かった髪だけは、その逆の青へと。
 背を覆う青い髪、蒼い瞳。それは見まごうことなく、いつかトーラの星見に入り込んでいた「夢見」の姿だった。
 キドラだけは、平気な顔をして笑って……嘲っていた。
「その姿を見られたくなかったのだろう、夢見の妖魔。まさか人間のふりをして潜伏していたとは思わなかったがな?」
 くすくすと笑む。耳障りな声だった。
「こんなことくらいでいい気になるなよ。サイハ様の犬のくせに」
 酷薄な笑顔。こちらもキドラに負けてはいない。トーラは、その場にへたり込む。
 そうだ。
 一度、この光景を星の海で見た。青い髪の妖魔の絶望を予言したときに。
 確定していた裏切り。妖魔であることを隠し、人間のふりをして予言の星に近づいた。最初から予言の星を目的にヒスイに近づいたのではない。愛した女が偶然、予言の星だっただけなのだ。けれどそれは、結果だけ見れば立派に、ヒスイを「裏切って」いた。
 彼の全神経は後ろにいるヒスイに集中していた。恐れているのだ、ヒスイが自分を拒否することを。彼女がセイの存在を、想いまでをも、否定することを。それこそがトーラが見た彼の絶望。だから彼は、ヒスイが自分の真実を知ることを恐れた。
「守ろうと、するはずだわ……」
 欲していたのは、守りたかったのはヒスイその人。あの時は、ヒスイがまさか予言の星だとは思わなかったから、ヒスイを利用しようとしていたように思ったけれど。
 ヒスイの動向を、息を殺して見守った。どうか、彼を否定しないで欲しかった。
 だが、翠の瞳はただ呆然と、目の前の男の青い髪を見つめている。セイは、振り返らなかった。神経を背中に集中させながらも、それでもキドラを憎々しげに見ていた。それがなぜだか、トーラには分かる。否定の色が浮かんだヒスイの目を、彼は見たくないのだ。
 凍り付いた空気の中で、最初に動いたのはキドラ。
 セイの足下に、床を突き破って銀竹が生える。だが、氷の刃は彼にかすりもしなかった。銀竹が生える前に、自分達の周囲に青い結界を張ったのだ。結界に触れただけで、氷は解けて鋭さを失った。
「防御に徹する、か?」
 キドラはその結界から距離を置く。セイは蒼い目を三日月に歪めてみせた。それこそ、キドラが先ほどまでやっていたこと。表情を読ませたくない相手を背後にかばい、汚い自分を隠し通す。
「お前など、オレが相手をするまでもない」
 にやりと笑った。
 床に青い円がまた浮かぶ。青い色こそ、セイの使う力の証だ。別の妖魔を召喚する気だろうか。キドラははっきりと、憎々しげな表情を浮かべる。
 光の柱から、少年の姿が現れたのはほどなくしてのこと。
「ご無事ですか、ヒスイ様!」
 ……ヒスイの目が、さらに大きく開かれた。くたびれた朽葉色の法衣に身を包んだ少年は、またしてもヒスイの知人であるらしかった。小さく、イスカと呟いたのが聞こえる。それがこの少年の名だと思った。
 新しく現れた少年は、綺麗な琥珀色の瞳をヒスイに向け、次にキドラを見る。トーラには分かった。これは妖魔ではない。妖魔ではないが、これは……。

 キドラと対峙したイスカは、先ほどまでの元気はどこへやら、その動きを止めていた。
信じられないといった顔で、キドラを凝視する。
「嘘でしょう……?」
 その様子を訝しく思ったのはセイ。ヒスイはまだ事態がよく飲み込めていないようだった。お前達も知り合いか、とセイは聞いたが、返事はなかった。
 キドラもまた虚を突かれた顔を見せていた。
 しかし、それは一瞬。彼にしては盛大な溜め息をついたあと、苦々しげに吐き捨てる。
「ホウの腰巾着か。……厄介な」
 誰も気付かなかったが、その一言でヒスイの頭が冷めた。血だらけの体を起こす。翠の瞳をこれ以上ないほど見開いて、向かい合う両者の次の言葉を待った。
 震える声で、言葉を紡ぎだしたのはイスカの方だった。
「セツ、ロ……? どうしてあなたが、精霊として生きているんです? あなたは、あなたは僕の主によって裁かれたはずです……!」

 その言葉が示す意味を、正確に知る者は。ここにいる者ではヒスイただ一人だった。


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