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翡翠抄−ひすいしょう−

第二章第四節第五項(048)

 5.

 冷ややかな水色の眼差しと、それを受けて立つ翠の輝きが交差した。
 キドラはまた片手を挙げる。ヒスイは思わず身構えた。が、再び氷の礫が襲ってくることはなかった。代わりに背後で小さな悲鳴が聞こえる。
 振り向くと、トーラの周りに光が集まっていた。光は球形に形作られ、それは柔軟な檻となる。光の檻は内部にトーラを閉じこめたまま、キドラが腕を滑らせる動きに合わせて空に浮かび上がった。
「何を……」
 その間もトーラはきゃあきゃあと、悲鳴とも興奮とも付かない声を上げていた。
「この子供に怪我をさせるわけにはいかなくてね。……さあ、私の小さな姫君。お前は大人しくしておいで」
 台詞の後半をトーラに向かっていい、優しく微笑んだ。否、優しいふりをして偽の微笑みを浮かべた。光の檻は空を滑って、礼拝堂の脇へと着地した。
 赤絨毯の上でにらみ合うキドラとヒスイ、トーラはその真ん中程度にいる。三角定規の頂点に配置されたかのような位置だった。トーラはしばらくヒスイの名前を呼び続けていたが、キドラが合図をするとその声も聞こえなくなった。
「音を遮断したのか」
「子供がうるさいのは嫌いでね」
 はっきりと言い切ったということは、こちら側の音声も光の檻の中には聞こえないのだろう。トーラは必死になって檻を叩いているが、振動すらもこちらには伝わってこない。随分と丈夫な檻のようだった。
「さあ、遊びを始めよう」
 キドラは酷薄に笑んだ後、右手を地面に水平に構えた。ヒスイは一瞬で逃げられるよう体勢を整える。こちらには武器がない。そして、目の前の男はこちらに武器を与えてくれるほど紳士でもないだろう。キドラの右手に冷気が集中した。白くけぶった空気は見る間にひとつの形を作っていく。彼の右手には、氷で出来た大剣が握られていた。
 てっきりまた氷の礫が襲ってくるだろうと考えていたヒスイは、飛びずさる。一歩動くたびに、腿を突いた傷が疼いた。痛みを感じなければいいのに、と我が儘なことを思う。筋肉を損傷し、筋が引っ張られ、血が全身の傷口から盛り上がって皮膚を濡らしていた。傷ついた肉体はもはや熱を持ち始めている。こんな状態だというのに、それでも体は危機を察するとなお動こうとしていた。
 ヒスイが荒い息を吐くたびにキドラは嬉しそうに、ゆっくりと近づいた。そして、その翠の瞳が闘志を燃やしていることに気付くとまた不満そうな顔に戻るのである。
 キドラは大きく振りかぶった剣を下ろす。ヒスイはまた体をひねって、その一撃を避けた。
「存外、しぶとい」
 礼拝堂の床は石造りだった。その床に深々と刺さった剣は、キドラの力であっさりと引き抜ける。普通ならば、どんな屈強な戦士でも刺し貫くときよりも引き抜くときの方が力がいるものだ。普通じゃない、とようやく思う。普通ではないのは使い手よりも、あの剣。使い手であるキドラ自身は大した腕ではないと判断する。少なくとも剣技は。
 荒い息を繰り返しながら、ヒスイは額の汗をぬぐう。汗どころか、かえって血糊がべったりと額に貼り付いた。もう一度ぬぐい去る前に、キドラの氷の剣が目の前に迫っていた。半ば転がるような姿勢で、ヒスイは更にその剣を避ける。足が限界だと告げた。だが、その伝達指令を聞き取る頭はすでにない。ただただ動けと命令を送るのみである。
 視線を走らせた。トーラがいる。キドラがいる。背後には神殿の垂れ幕。礼拝堂の扉は重々しい掛けがねが下ろされていた。誰も入ってはこられなさそうな、頑丈な掛けがねが目に入っただけで気力が削がれていく。誰も助けにはこないのだ、と。
 ヒスイは傷ついた体を引きずって後ろに下がった。それの後をキドラが追う。まだ傷ひとつ身に帯びていない彼とヒスイでは、体力もなにもかもが勝負にならない。ヒスイは睨み付けた。心だけは負けない。誰にも負けない。屈服しない。力では征服できないということを、あらん限りの思いを込めて、睨み付ける。眼光がきつくなった。それに呼応して、ヒスイの周りを取り巻く風も強くなる。ヒスイを守るように風の壁が彼女を取り巻いた。
「悪あがきだな」
 声そのものも氷点下に感じる。それでもヒスイは睨むことをやめない。やめるつもりなど、毛頭ない。
「お前は、なぜ下手な剣をひっさげて、それにこだわる?」
 荒い息でかろうじてそう、言葉を投げかけた。先ほどまで声を紡ぐこともできないほどに心臓は躍り上がり、肺は潰れかけていた。下手な、といわれて怒るかと思いきや、キドラはかえって嬉しそうな笑みを浮かべる。
「面白いのだよ」
 やや剣を持ち上げて、キドラは笑っていた。整った顔立ちなのに、なぜかその笑顔は醜悪に見えた。胸が悪くなる。出来ることなら顔をそむけて一生見たくない笑顔だった。
「肉を切り裂き、骨を砕き、柔らかな内臓をえぐり出す感触が、えもいわれず面白いのだよ。生きている者がその活動を止めてしまう、その瞬間が手に取るように分かる。命が消え去るその瞬間にこちらの心まで冷える気がする、その一瞬が心地いいのだと、そういえば分かるか?」
 喉を鳴らす。たしかに氷の力を発動させれば、生き物はあっというまにただの肉塊と化すだろう。それこそ彼がいう、命が消えるその瞬間の手触りを感じることはあるまい。この男は本気で命を奪うことを楽しんでいる。ヒスイには理解できない。いや、決して理解できぬ生き物だと「理解」した。
「お前は異常だ」
「精霊に人間の常識を押しつける方が、異常ではないのかな」
 キドラはまた、氷の剣を振り上げた。動作に隙が多く、もしも手の中に一振りの剣さえあれば懐に入り込むこともできそうだった。手元に剣がないことに、歯がみする。ヒスイは、いつの間にかここまで自分が成長していることに気付いた。セイなら「オレの教え方がよかったから」と、また茶化していうのだろうか。剣が振り下ろされる動作を読み切り、ヒスイはまた痛む体に鞭打って横に飛ぶ。武器が欲しかった。なんでもいい、この男に傷を付けられる武器が欲しい。
 ヒスイは間髪入れず立ち上がる。翠の目をきらきらと、射抜くものがあった。それはキドラが祭壇に祭っていたと思われる、硝子の竜。重石になりそうな竜に、ヒスイは目を留めた。
「どこを見ている?」
 硝子の像に目を奪われた隙に、キドラの剣が迫っていた。
「しまっ……」
 再び飛ぼうとした。が、体勢を崩し、横倒れになる。キドラの剣はまっすぐに下ろされた。ヒスイは咄嗟に、下から風を吹き上げた。
 煽られる形になり、キドラは目をすがめた。剣の軌道がわずかに逸れる。氷の剣は、自分が仕えるべき氷の竜をかたどった硝子像を砕いた。硬質的な音が鳴る。硝子は一部が砕け、竜は首を失った。ヒスイはその硝子の雨を浴びる位置にいたが、風が周りをとりかこんでいたのでほとんど無傷に終わった。キドラが、しまった、というような顔で動作を止めたわずかな時を狙って、立ち上がる。
 足下には竜の首が転がっていた。
「ありがたい」
 短くいって、ヒスイはその首を手に取った。磨かれた竜の頭を柄に、割れて尖った部分を刃にしてヒスイは逆手に構える。腰を落として構えをとった。
「硝子の欠片で戦うつもりか?」
 キドラの声は、嘲りを含んでいた。
「違うな。これはナイフだ」
 硬度には不安があれど、これだけ鋭い刃なら傷をきざみつけるのは可能。先ほどまでの丸腰と違い、身を守る物があるということが、こんなにも安心できるものか。
 しかしそれはキドラも同じ事。丸腰相手の小兎を追いつめているときとは違うということを彼もよくわかっていた。彼は危険と隣り合わせの遊びを楽しむ趣味はない。いつだって自分が優位に立つ場所にいなければ、遊ぶつもりもないのだ。キドラは眉間にしわを寄せた。そして初めて、目の前の玩具に対して不快感を催した。
 氷の剣を構え、その一方で左手を挙げる。そこに白い渦ができた。
 氷の礫が来ると分かった。ヒスイも硝子のナイフを構えたまま、風に祈った。盾に、と。予想違わず、礫は一斉にヒスイめがけて発射された。横殴りの風がそれをたたき落とそうと動く。ヒスイ自身もまた、血だらけになりながら横へと飛んだ。
 横風は氷の礫を全てたたき落とすことは出来ず、いくつかが再びヒスイの体に埋まった。特に足首を貫いたものは痛かった。物理的に「痛い」というのとは少し違う。足首をやられては動きを封じられたも同じだった。足首を貫いた氷は、ヒスイが握る硝子のナイフと同じくらい尖っていた。これでは槍の穂先が降ってきたのと同じだ。ヒスイは唇をかみしめる。
 瞳はそれでも闘志を失わない。ヒスイは、怪我をした方の足で踏みきった。もはや足をかばう余裕もなかった。足だけではない。腕も、肩も、腹部も穴だらけになっていて、痛みは全身をさいなんでいた。これらすべてをかばいながら逃げるなど。
 出来るはずもない。いちいちかばっていたら今頃、死んでいる。
 ヒスイはその懐に入り込んだ。キドラの持つ剣では、この間合いでは無理だ。長い武器は間合いが長いが、一度その懐に入られれば、次の行動に素早く移れないという欠点がある。間合いの短い武器の、最も効果的な使い方。それは、敵の間合いに入り込んだ後の一撃必殺。そして素早い戦線離脱。逆手にかまえた硝子のナイフを振り上げた。
 キドラは最後まで、薄い水色の瞳を開いていた。鋭い刃は、後ろにのけぞったキドラの顔を捕らえていた。右の頬から眉間にかけて、ざっくりと切り上げる。その切っ先は額にまわされていた金色の環にぶつかった。硝子のナイフは刃こぼれを起こし、金の環にきずが走る。
 ヒスイは、素早く後ずさった。片膝をつく。赤い花が足下に散った。最初は梅の花びらのようにつつましいものだったが、次第に足下どころか、胸の上にも大輪の薔薇が咲き誇っていた。呼吸の荒さも、最初の頃の比ではない。それなのに目の輝きだけは一層研ぎ澄まされていく。
 キドラは、しばらく額を抑えていた。氷の剣を手放してはいない。そして、ゆっくりと手を離す。ざっくりと裂けた皮膚がそこにあった。だが、赤い血は一滴たりとも流れてはいなかった。
 彼は、自分を精霊だと名乗った。人間ではないと。だったらこんなことも当たり前なのかもしれない。だが、すべて「最後の聖域」に保護され、守られているはずの精霊がどうして妖魔と与しているのか、それを初めて疑問に思う。
 疑問は、目の前で起こった次の出来事によって綺麗さっぱり霧散した。
 キドラの顔の傷は、すぐに赤く肉が盛り上がっていった。そして、その上から新しい皮膚が覆う。先ほど確かにつけた傷はもうどこにも痕を見いだすことは出来なくなってしまった。ヒスイが傷を付けたというその証拠は、額の環に残った小さなきずだけになってしまったのだ。
「……化け物、と呼んでやろうか」
 わざと軽口を叩くような口調で、ヒスイは呼吸の隙間から声をしぼりだした。
「愚かな人間、と蔑まれたいとみえる」
 キドラの口調もさっぱりしたものだった。泣いてわめくトーラを背中に、片頬を歪めた。おそらくは、トーラには絶対見せてはならない顔。今まで築き上げた信用を無に帰することなど、ほんの瞬きひとつの時間で済む。
「来るのだ、愚かな小娘」
 薄い水色の瞳が細められた。唇も薄く左右に引く。この表情を、本当に微笑みと表現してよいものだろうか。心が底冷えする。氷の精霊とはみんなこんなものなのか。ヒスイは立てていた方のひざもついた。汗と血で手が滑る。だが硝子のナイフは手放すまい、と力をこめて握りしめた。うまく力が入らない。手放せば、死だ。自分に強く言い聞かせた。
「もう終わりか、小娘。……それでは駄目だ。それはいけない」
 白い髪の精霊は、一歩ずつ距離を詰めてくる。
「何を企んでる?」
 キドラは、ヒスイの問いには笑ってみせるだけだった。氷の剣を構える。
「お前は反撃をしなければならない。そして、その硝子の欠片を私の体に突き立てなければいけないのだ。そうすることによって、私はあの子供の信頼を再び得ることが出来るのだから」
 翠の目が、睨み付ける表情をやめた。代わりに、驚きの色を映す。そして次は怒りを燃やした。この男にとってトーラはあくまで道具なのだと、分かってしまったから。
 キドラの背後で泣くトーラを見た。ヒスイの名前を呼んでいるに違いない。だが、それは今、ヒスイが劣勢だからだ。これがもし、キドラが劣勢に追い込まれたらどうか。心優しい彼女のことだ。きっと、ヒスイに向かって「キドラを殺さないで」というに違いない。星見でなくとも分かる。この男はその立場を利用して、トーラの信用とヒスイ自身の死を勝ち取るつもりなのである。
「こ……の……、どこまで外道なんだ、お前は!」
 怒号は、キドラを傷つけることはなかった。
 氷の精霊は冷ややかな笑みを浮かべて、自分の剣が骨を砕く瞬間を待っていた。


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