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翡翠抄−ひすいしょう−

第二章第四節第四項(047)

 4.

 その頃イスカは、やっと階段の上にはい上がっていた。

 セイに道を譲り自ら飛び降りてから、彼は落ちながら岩場に手をついた。側面の岩壁に。どうしたものか、その手はぴたりと岩に貼り付く。
 ヒスイが無条件に風に愛されているように、彼は土に愛されていた。周りのあらゆる場所が石と土に囲まれたこの場所だからこそ、イスカはその本領を発揮することができる。
 そのままヤモリのように手をついて、なかなか間の抜けた格好で階段までよじ登っていった。ヒスイがその階段の上を通り過ぎようとしたのはその時だ。
「イスカ、無事か?」
 見上げると、翠の瞳があった。その華奢な体で、手を伸ばしてくれている。だが、イスカは首を振った。イスカは案外、重いのだ。ヒスイの手を取れば二人一緒に落ちてしまう。それでもこの風穴ならば、下から吹く風がヒスイを守ろうとするだろうか。
「ヒスイ様が先に進んで下さい。僕は後から行きます。どのみち階段は一人分の幅しかないんですから」
 彼女は少し逡巡(しゅんじゅん)してから、頷いた。
「気を付けて」
 短い言葉をかけて、階段の先にすすむ。イスカはそれを見届けてから、自力で登っていき、階段の上に立ち上がった。法衣のほこりをはたく。ヒスイにかけられた小さな一言がとても嬉しかった。
 イスカは岩壁に触れる。
「この地を守る大地の精霊よ、一時だけ僕に力を貸して下さい」
 唱えなくともよいのだが、イスカはあえて口にした。やがて土からゆっくりと、微熱のようにあたたかな力が伝わってくる。
 この「世界」にはいくつかの不思議があった。
 神の不思議を使うのが、神官。
 「世界」に秘められた不思議を呪文によって引き出すのが、魔術師。
 精霊の不思議を使うのが、精霊使い。妖魔の不思議を使う者も、系統としてはここに属する。
 どれも何かの力を借りることで、人間には不可能なことを可能にする。イスカは神官だが、同時に大地の精霊の不思議も扱えた。むしろ後者の方が先である。ただし、霧の谷の出身者すべてが力を持ちうるとは限らなかった。それを踏まえると、イスカがここに遣わされた理由も分かるというものだ。他ならぬイスカでなければならなかった理由が。

 ヒスイが入り口に消える前に、アイシャの悲鳴が響いた。
「アイシャさん!」
 イスカは急いで走った。岩を削って作られた螺旋階段の上で、イスカが均衡を崩すことはありえない。急いで下って、鉄の格子の前に立った。
 部屋の奥には毛むくじゃらの、黒い妖魔。そして、それより手前ではヒスイが頭を抱えていた。……何かに必死で耐えるように、小刻みに震えている。
「ヒスイ様!?」
 慌てて格子の隙間をくぐる。部屋に一歩踏み入れたとたんに、めまいを覚えた。主が呼ぶ声が聞こえる。これは、自分の頭の中が造り出した幻影だと、イスカは必死に堪えた。
 毛むくじゃらの妖魔は金の目を闇にきらめかせながら、じわじわと彼らの方向に向かってくる。その動き方も蜘蛛そっくりだ。蜘蛛よりは動きが遅いのが救いといえば救いか。
 いつまでもぐずぐずしているイスカに、セイの叱責の声が響いた。
「慌てるな、こいつは肉食じゃない。廃人になるまで生気を吸い取るだけだ!」
「充分ですよ!」
 二人とも近距離なのに大声でわめく。
 イスカは後ろにヒスイ達をかばう位置まで移動した。その最前線で構えを取る。妖魔が動きを止めた。精霊の力は呪文を必要としない。妖魔の足は、大地の精霊の力で徐々に石化していく。風の精霊と違うのは、効果が一瞬のうちに表れないということだ。
 妖魔は最後のあがきをみせた。精神だけに効く衝撃波が彼らを襲う。幻覚は甘く誘うものだけではない。本人だけにしか知らない出来事を心の中から抉りだし、強く責めさいなむこともある。それに一番過敏に反応したのはヒスイだった。
 絶叫が響いた。
 イスカが、何事かと振り向く。その隙をついて妖魔の活動は活発になった。妖魔の足が数本、石化から自由になる。
 セイが走った。ヒスイを外に出そうと、その腕を取る。返ってきたのは強い拒否だった。
「触るなッ!!」
 力一杯、払いのけられた。その目はセイを見てはいない。翠の瞳は恐怖に彩られ、別の何かを見ているようだった。それでもセイの態度は変わらない。まるで、予想済みだったように。
 彼は、彼女の目の前、額の近くまで手を広げて彼女の視界を遮った。掌に一瞬だけ青白い光が浮かぶ。ヒスイの体が崩れ落ちた。その体を、セイが抱きとめる。ヒスイは気を失っていた。
「ぐずぐずするな、早く」
 イスカに向けられたセイの言葉は冷たく響いた。
 そんなことはいわれるまでもない。イスカの目の前で妖魔はみるみるうちに石化していった。
 イスカには、ヒスイに何が起こったのか、セイが何をしたのかよく分からなかった。それに、今はそんなことを気にしていられるほど余裕はない。あとで何が起こったのか聞こうとイスカは思った。

   *

 セイの腕の中、気を失ってもなおヒスイは六才の子供に戻って、怯えていた。

 痛い……。
 来ないで、触らないでよ。痛い。
 怖い、怖い、こわいよ、お母さん。助けて。助けて、たすけて、だれか……!
(こっちよ、ヒスイ。つかまって)
 心の闇に落ちたヒスイにさしのべられたのは、必死な顔をしたトーラの小さな手だった。
そしてヒスイは無我夢中でその手を取る。これは信頼できるものだと、魂の半分がそういっていた。

 セイの腕の中から、ヒスイの姿が消えた。

   ***

「ヒスイ……?」
 気遣わしげな声が聞こえた。これはトーラの声だ。
 ヒスイがゆっくりと目を開けると、そこにトーラがいた。藤色の大きな瞳をこちらに向けている。自分は彼女の手を取っていた。子供らしい、ふくふくとした柔らかい手に、桜貝の爪がくっついている。弓を持ち慣れた自分の固い掌とは大違いだ。
 ふと、その手をよく見た。
 こんなにはっきりと夢を見るようになったのか、と。
 トーラの藤色の瞳を窺い見る。彼女は頬をばら色に紅潮させて、言葉を紡いだ。
「すごいわ、ヒスイ。『本当に』会えるなんて」
 ぎょっとして、周囲を見回す。しっかりと組まれた石造りの壁、自分の身長幾つ分くらいあるのか分からないほどに高い天井、それを支える大理石の柱。明かり取りの窓はその天井近くに開けられ、昼間の白い光が射し込んでいた。床に椅子はない。足下には緋色の長い絨毯がまっすぐに祭壇に向かって敷き詰められている。祭壇の上には硝子細工の竜の像が鎮座していた。入ってくる光を浴びて、きらきらと輝いている。こんな場所は知らない。少なくとも、自分達がいたはずの神殿の地下では、ない。
「トーラ……ここは、どこなんだ?」
 聞きたくないと思いながら、ヒスイはその疑問を口にしてしまった。トーラがいるならここはキドラという人の城なのだろう。あの神殿からここまでどれくらいの距離があるのか分からないが、隣の部屋に行くような気軽さで移動できる距離ではないはずだ。
 トーラの答えはすぐには返ってこなかった。ちょっととまどったような感じがした後、
「ここ、多分お城の礼拝堂だわ。どうしてかしら。私、自分のお部屋にいたはずなのに?」
 と答える。余計にめまいがしそうな答えだった。

「だからね」
 トーラは、ぐったりと脱力したヒスイに懸命に説明する。
「ヒスイが見えたの。とても困ってた。助けて、って聞こえたの。だから私、自分に何が出来るか考える前にヒスイに手を伸ばしてた。気が付いたらここにいたの」
 本人は説明しているつもりだが、ヒスイにはさっぱり分からなかった。
 現状を把握するために、記憶をたどってみる。たしか自分は、階段をおりていた。途中セイには追いつかずに、谷に落ちたイスカが登ってくるのが見えて「先に行ってくれ」といわれたはずだ。で、鉄の格子をくぐって、闇を見た……。
 体に一瞬、震えが走る。
 もう、記憶の果てに捨てていたもの。セイが「見たくもないもの」と表現したが、それは随分適切な表現だったと思う。そうだ、自分はそれを見て、「助けて」と叫んだ。
「……お前の手を取ったところまでは覚えてる。でも、その後どうしてここに来たのかが分からない」
 トーラは手を叩いた。
「そんなの簡単よ」
「分かるのか?」
 が、返ってきた答えは根本的な解決にはならなかった。
「ヒスイがね、私の星見の中に入ってきたのと一緒なのよ」
 ……それは偶然ということか。期待した分、さらに脱力する。
「今はもうひとつ理由があるのね。分けられた魂はひとつになろうとして引き合うから、多分、私がこっちに引っ張り上げちゃったんじゃないかな。でも普通、人間が体ごと空間を越えてくるなんて出来ないのにね」
 魂だけならまだしも、と付け加える。おまけになぜだか、トーラの部屋ではなく礼拝堂に来てしまった。それはトーラ自身も空間を越えて移動したということだ。そして、自分にはそんな力はない、と小さな妖魔は言い切った。
 人間は、体ごと空間を移動することはできない。それがヒントになるような気がした。ヒスイは前に一度、異世界から空間を移動してきている。だんだん人間離れしてきた自分自身に溜め息をついた。
「また謎が増えた……」
「ヒスイ?」
 心配げに見上げてくるトーラに、ヒスイはまだ礼を言ってなかったことを思い出す。頭をなでた。
「助かった。ありがとう」
 星見の妖魔は嬉しそうに笑った。まったく、これとあの毛むくじゃらが同じ妖魔だとはとても思えない。あのまま恐怖に怯えていたら、きっと……無意識に風を暴走させていただろう。十年前のように。
 ともかくここから帰る方法を探さなくてはならなかった。心配しているだろうし、イスカに霧の谷に連れていってもらう約束だったのに。そんなことを考えていると、トーラがそわそわとヒスイの袖を引っ張った。
「ねぇ、礼拝堂はキドラに、入っちゃいけないっていわれてるの。早く私のお部屋に戻ろ?」
 入ってはいけないはずの礼拝堂。そういえば、トーラは先ほどここを説明するときに「多分」といった。一度も入ったことはないのだろう。がらんとした礼拝堂は静かで、先ほどから声がよく反響していた。だがそれを聞きとがめる者はいない。ただ祭壇の竜が沈黙しているだけだ。
 もしヒスイがこの世界で生まれ育った人間なら、祭壇に掲げられているのがなぜ竜の像なのかと疑問を抱いただろうに。

 この「世界」は竜が作ったといわれている。だが、今ではもう忘れ去られた存在だった。人は神を崇め、祈る。祭壇にあるのは、なんらかの神の像でなくばならないはずだ。竜を崇めるのは、竜に従う精霊と、その精霊を守る霧の谷だけのはずである。
 透き通る硝子細工の竜が表しているのは、氷の竜。霜をまとったような白く輝く鱗を持つ氷竜は、その霧の谷でも、ある事件以降とても嫌われていた。

 祭壇の両端は、垂れ幕が下ろされている。その幕の裏から足音が聞こえた。まるで位置を教えているかのように。
 ヒスイとトーラは、隠れろ、と目で会話する。が、この何もない場所のどこに隠れろというのか。あたふたとあわてふためく二人を余所に、白い影は幕の裏からその姿を現した。
「私の小さな姫君」
 呼ばれた瞬間に、トーラの体が怯えるのが分かった。
 この男がキドラという人物なのだと、ヒスイは彼を見る。つり上がり気味の目をしていた。今は厳しい目をトーラに向けているせいだろうか。薄い水色の瞳は氷そのもので出来ているような冷たさを感じさせる。そこそこ整っている顔立ちは、ゆるやかにうねりを見せる白い髪が縁取っていた。髪の下にはイスカと同じ、細い金色の輪が締められている。肩よりやや長いその髪は左肩の上でゆるくひとつに束ねられていた。布をたっぷりと取った衣服は白。イスカが着ている物とやや形は違うが、充分神官の法衣に見える。全身を白で統一した彼は雪の化身のようだった。綺麗だが、冷たい。
「ここには入るな、といったはずだよ?」
 甘ったるい声だったが、表情は厳しい。ヒスイはトーラを背中にかばって、前に出た。とたんにキドラの表情が変わる。これは蛇の目だ。
「私の可愛い姫君。……知らない間に、随分無礼なお友達を作ったようだね?」
 かばわれている背中から、トーラは顔だけを出す。
「ヒスイは悪くないの。お願い、殺さないで!」
「ほう? お前は騙されているのだよ。こちらへおいで。……怒ってやしないから」
 どうみても含みのある笑顔で、キドラはトーラを誘う。ヒスイはきりきりと眉をつり上げた。トーラが前に行かないよう、後ろへと追いやる。話を聞いただけ限り随分と物騒な人だと思っていたが、これは予想以上だ。
「駄目だ、トーラ。出るんじゃない」
 今度はキドラが眉をつりあげた。
 そういえば、トーラはいった。本当は名前を教えてはいけないといわれている、と。余計な一言をいったのかもしれない。だがもう、後には引き返せなかった。
 キドラは唇の端を曲げる。お前が悪いのだよ、と、唇だけ動かした。

 突如、氷の礫(つぶて)が二人を襲った。ヒスイが朱(あけ)に染まる。
「きゃあああ」
 子供特有の甲高い悲鳴が礼拝堂に木霊した。ヒスイは、自分の全身に冷たく尖ったものが幾つも食い込んだのを感じる。そのまま倒れそうになる体を、痛みを堪えて足に力を込めた。足下に赤い水が溜まっていくのは見なくてもわかる。
「魂の半分まで分け与えたか。よほどこの娘が気に入ったようだね、私の小さな姫君」
 冷ややかな水色の目を見上げた。
 自分より弱い者をいたぶることに楽しみを見いだす、最低の男。
「目の前にいる人間のことも、見ろ」
 風がヒスイを取り巻いた。翠の視線が熱を帯びる。風の感触がいつもと違った。室温よりも低い気がする。何かに阻害されるような感じも。キドラは、そこで初めてヒスイの存在を認めたようだった。
「風使いか。いいだろう。……我は氷の上位精霊、キドラ。たかが並み程度の精霊使いで敵うかどうか、己の実力不足、その身でとくと味わうがいい」


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翡翠抄 −ひすいしょう−
Copyright (C) Chigaya Towada.