3.
アリアナ神殿の地下にはいくつもの風穴(ふうけつ)があった。
大地の神を祭る神殿には地下がある。風穴を避けて作られた地階はどれも小さく、階段が多く、あちこちに点在して複雑な造りになっていた。アリアナ神殿の語源は、蟻の穴。まるで蟻の巣のようにばらばらに点在する地階から付いた名前だった。吹き抜ける風穴のひとつを小窓から見やりながら、アリアナ神殿の神官長は顔を曇らせた。小さな窓の下に見えるのは、風穴に沿うように削られた下りの螺旋階段。そこを若い男が長い髪をなびかせて下っており、その後を追うのは若い娘。彼らもまた、妖魔の見せる幻影に誘われているのだろうか。
「他に、どうすればよかったというのか」
神官長はしわに深い苦悩を刻んで、心から若い命に詫びた。側から、禿頭の副神官長が気遣わしげに声をかけてくる。
アリアナ神殿の地下に妖魔が現れたのは、神官長すらも知らぬ遙かな昔。人の力は脆弱で、どれほど数を頼みにしても妖魔にはかなわない。お伽話や伝説には妖魔と対峙した勇者や英雄がわんさと出てくる。だが、現実にはそんなものはいないのだ。
人間に出来ることは、ただ怯えて、小さくなっていることだけだった。
「神官長はよくやってこられました」
ゆるんだ頬を揺らして副神官長が励ましをかけてくれる。女癖が悪く、その他の面でもひどい俗物だったが、彼は彼なりに今日までよく勤めてくれた。
「あの妖魔が町に下りたらどのような惨事になるか。人は妖魔に対抗する術を持ちませぬ。既に神々は遠く、我ら神官は無力です。物見の塔の魔術師や、霧の谷の精霊使いの中にも妖魔と対抗できるだけの者が何人いることか」
魔術師は皆、「物見の塔」という一種の教育機関で育成される。「霧の谷」は精霊を保護している国の名前だ。その性質上、精霊使いを数多く産出する。だが、どちらも今では伝説の主人公になれるだけの能力の持ち主は、稀だ。
妖魔を徒(いたずら)に刺激しては、危険はさらに高くなる。この町ひとつ消してもかまわないというなら、とっくに歴代の神官長の誰かが魔術師なり精霊使いなりに依頼していただろう。以来この神殿からは度々、旅人が消えるようになった。
……他に、どうすればよかったのか。
何度目かの同じ問いを神官長は口にする。この町を守るためとはいえ、どれだけ後悔しても、その罪は消えない。地下に現れた妖魔を外に出さないために、代々の神官長は旅人を餌として妖魔に与えてきた。
苦悩は今日で終わる。一刻も早く大神官が自分を裁いてくれることを、神官長は心から望んだ。*
下っていくごとに階段は狭く、段差は大きくなっていく。壁際はいつの間にか人工的な壁ではなく岩肌になっていった。
鬱陶しい、と思いながらもセイは階段をくだる。正直、ヒスイさえ安全ならば他はどうでもよかった。それでも助けに行くといったのは、ヒスイが心配するからだ。ヒスイが諦めてくれるようなら、二人でさっさと脱出したのに。
妖魔の見せる幻影に追われながら、最初はとにかくヒスイを探した。妖魔の道案内通りに走って何度か階段を下り、落とし穴を見つけたのはどれくらい経ってからだろうか。床板ははずされ、落ちてくれといわんばかりにぽっかりと空間が開いていた。下を覗くと、「足を踏み外したら死ぬな」と思える程度の高さがある。セイなら飛び降りても無事でいられる高さだったが、帰り道を確保するため綱をつけて下りた。ヒスイを見つけたのはその部屋で、だ。四方八方を壁で囲まれた部屋、進める場所は下り階段だけ。階段を下った先に妖魔がいることが容易に想像付いた。
声を掛けた瞬間にまた、ヒスイが落ちそうになるし。
幻影だと、勘違いされたのだろうか。けれどヒスイは、セイの知るヒスイのままで。心に傷を負っていないことは伝わった。ひとまずそのことについては安心する。ほどなくして駆け下りる階段の途中にイスカを見つけた。ふらふらと、どこか浮遊感のある足取りは妖魔の見せる幻影のせいかもしれない。
「助けたくないなぁ」
思わず口から本音がこぼれた。セイの優先順位はアイシャの方が上だったので、舌打ちする。助けたくはないが、ヒスイの望みだ。少年の後ろに近づくと、セイは両手を組む。その後頭部をめがけ、思いっきり手を振り下ろした。容赦くらいしなくてもいいだろう。
イスカの体はいきなりの殴打を受けて、前のめりに崩れかけた。ここは下り階段、そして、側面の一方は奈落。気を失えば落ちる。が、イスカは気絶もしなければ落ちることもなかった。すかさず片足が前に出て、踏ん張る。
「……痛……、何をするんですか!!」
涙目になりながら、勢いよく振り向いた。気絶させるつもりで殴ったのだが、予想以上に石頭だったようである。ただでさえ身長差があるのに加え、今は段差の上にいるので、セイは目をすがめてイスカを見下ろした。
「通行の邪魔なんだよ。お前がどかないと先に進めない」
階段の幅は狭い。二人が行き交うこともできないくらいだ。イスカはというと、瞬きを繰り返して、自分がなぜここにいるのか考えているようだった。そして次に、
「ホウ様はいずこにおわされます!?」
と、聞く。それがこの少年のご主人様の名前だと分かった。
「あの方はどちらですか? 僕があの方を見失うはずがないんです!」
くってかかって来そうなイスカを、意地悪く見やる。こういう単純明快な輩は、自分の失態に気付いたときが一番、楽しい。
「『見失った』んじゃない、『見誤った』んだよ。お前、ここに巣くってる妖魔に騙されたってわけ」
「みあやまる? 僕が、ホウ様を……見誤った?」
信じられない、と琥珀色の瞳が見開かれた。このドングリ目が見開かれるのを見たのはこれで何回目だろうか。イスカの顔から血の気が引いた。次に、みるみるうちに赤くなる。恥ではなくて怒りで顔が赤くなったのだ。大事なご主人様を間違えた自分自身に対する怒り。セイは喉を鳴らして笑った。
「ヒスイ様はご無事なんですね。では、アイシャさんは?」
まだ怒りの冷めやらぬ様子だが、それでも筋道の通った話が出来る状態ではあるようだ。無駄な時間をとらずに助かる。セイはイスカの後ろを指差した。
「ヒスイにはさっき会った。アイシャはここに来るまでに見かけなかったから、多分この先にいると思う」
青い目が細くなり、三日月のように歪めて笑った。
「と、いうわけで、どいて欲しいんだけど。なんなら蹴飛ばそうか?」
「ヒスイ様の目の前でそれをやったら、確実に嫌われますよ」
イスカは負けじといいかえしてきた。思わず片眉を跳ね上げる。イスカは無言で視線だけを動かし、方向を示した。セイが首を巡らしたその先で、出来るだけ急いで階段を下りてくるヒスイの姿が目に入る。
今度はセイが青い目を見開く番だった。
「うわあ、せっかく置いてきたのに! ヒスイに来られたら、オレの計画がみんなパアになるーッ」
「……あなた、何ろくでもないこと考えてたんです?」
頭を抱えて絶叫するセイに、イスカは同情の余地もない声で追い打ちをかけた。
「うるさいな。ヒスイにはオレのやばい部分なんて見せたくないの!」
嫌われちゃったらどうするんだ、と冗談とも本気ともつかない声で答えを返す。イスカの顔には馬鹿正直に「もう嫌われている気がするんですが」と書いてあったので、腹が立ってもう一度殴った。
殴られ、こぶの出来た茶色の頭をさすりながら、イスカはやっと元の調子を取り戻したようだ。
「後はまかせて、アイシャさんを助けに行ってください」
「お前はあてになるんだろうな?」
わざと意地悪くいってみる。実をいえば妖魔相手に彼なくしては不利だった。イスカは晴れやかな笑みで答える。
「交喙の名にかけて――」
そして、彼は膝を曲げ、自ら奈落へと身を躍らせた。
階段は再び一人分の空間を造り出す。セイはためらうことなく先へ進んだ。ハーン文字で綴られた名前に誓ったのだから、後はまかせろというならまかせる。飛び降りてどうするつもりなのかは知らないが、どうせ無事なのだ。
「イスカ」という鳥がいる。
交差している嘴を持つところから、矛盾を表すことわざにも使われる。確かに大地に繋ぎ止められた彼に空を飛ぶ鳥の名前とは、面白い矛盾だ。
霧の谷の人間は、鳥の名前を付けるのが好きだ。そして、ヒスイの名前も。
翡翠と書いてカワセミと読む。川辺に棲む、翠色の美しい鳥の名前だ。
セイは、違っていればいいのにと、望んでいた。谷の人間でなければいい、と。確率は限りなく低い。奈落はまだまだ続いていたが、螺旋階段にはやっと終わりが見えてきた。大きな入り口には鉄格子が噛み合わせてあった。ただし、格子の隙間はかなり大きい。人間一人くらいなんとかくぐり抜けられそうである。もちろん、身軽なセイには余裕だった。
一歩足を踏み入れると、一斉に闇が引く音がした。
ちょうど波打ち際まで足を運ぶと、潮が一気に沖に引いたような。ただ海とは違うところは、一度引いた闇はなかなか返ってこないことだ。セイは辺りを見回す。室内の暗がりの中に、アイシャの亜麻色の髪とピンクのリボンを見つけるのはすぐだった。
「アイシャ? おい、しっかり」
一応手加減しながら頬に平手を食らわせる。それでも開かれた瞳はどこかぼんやりとしていた。
「あらら、もう魂を食べられた後かな? おーい、帰ってこーい」
女性の顔ということで遠慮があったが、セイの遠慮は一般人のそれではなかった。平手打ちを繰り返す。相手がヒスイであればもう少し対応も変わっただろうが。
「死んだ人間に対する夢の方が厄介だよな。何せ、目覚めたら二度と会えないことが本人に分かってるんだから」
その声が聞こえたかのように、アイシャは空色の瞳から一筋、涙を流した。その目はセイを見ていない。
闇の中からはざわざわと、妖魔がうごめく音がする。動物的な甘い匂いが室内に漂い始めた。アイシャは夢心地の声で、なぜか「おじさん」と呼んだ。幻を見て呼んでいると分かっているのだが、面と向かっておじさん呼ばわりされるのは気分が悪い。
セイは彼女の耳元に口を近づける。そして低い声でささやいた。
「……もしもし、『お母さん』。可愛い可愛い娘のヒスイちゃんが、どっかのお馬鹿さんに食べられようとしていますよぉぉ?」
思惑は成功した。アイシャの目は一気に正気を取り戻したのだ。
「何ですって!?」
セイの胸ぐらを掴む。冷ややかな青い目を見て、初めてアイシャは「あら?」と、何かおかしいことに気付いたようだった。
アイシャが優先したのは恋愛よりも家族愛。死んだ家族の思い出よりも、生きている家族の危機の方が「お母さん」にとっては一大事だったらしい。
「アイシャさんてば、本当、理想的な肝っ玉母さんになれるよ」
「あら嬉しい、それって昔からの夢よ。ところで、いまひとつ理解できてないのだけれど、今どうなってるの?」
さすがにイスカのように、幻影と現実の区別が出来なくなることはない。かいつまんで事情を説明した。
妖魔という単語が出てきた時点で、アイシャの顔色が失われる。闇の中に目をやった。セイは含みのある笑みを浮かべる。
「見ない方がいいのに」
「そう、ね。そうすればよかったわ……」
アイシャの手が小刻みに震えた。顔の筋肉は引きつっている。闇の中には、黒い毛むくじゃらの生き物が、金の目を見開いてこちらを見ていた。天井に近いほどに膨れ上がった巨大な体、金の目は瞳孔が猫の目のように細く、じっとこちらを見つめている。手足らしきものは見あたらない。
「……あれが、妖魔?」
「だろうね。上等なやつは人型してるっていうしさ、それに比べりゃ雑魚だってば」
目の前の毛むくじゃらは、欠片ほども人間の形状は取っていない。だが、だからといって人間に敵う相手かといわれれば、答えは否だ。
妖魔に敵う人間は、昔から精霊使いや魔術師など人外の力を行使する者と相場は決まっている。
「幸い、といっていいのかどうか。オレ達は霧の谷出身のイスカに望みを託すしかないんだけど」
正式に精霊と契約を済ませていないヒスイでは無理だと判断していた。自分の名にかけて誓った少年神官を思い浮かべる。分の悪い賭けではあったが、他に方法がない。
黒い妖魔は毛むくじゃらの身を起こした。腹あたりに収容されていた足が開かれる。まるで一斉に生えてくる、といった様相だった。その足は、例えるなら蜘蛛のそれに酷似していた。
アイシャが派手な悲鳴を上げた。
妖魔の前足二本が、おいでおいでと、誘うようにうごめいた。
とたんにアイシャの悲鳴は止まる。空色の瞳がまた、焦点が合わずに揺れた。不可視の幻覚物質がばらまかれているらしい。
セイは、アイシャの首筋に手刀を浴びせかける。これ以上混乱されては敵わない。セイもまた幻覚を見ていたが、種が分かっていれば気を付けることもできる。「セイ!」
聞き慣れた、澄んだ声が響いた。これもまた幻覚かと思う。入り口にはヒスイが立っていた。いるはずがないのに、と思う。だが再び思い直した。……ヒスイは階段を降りてきていたはずだ。
「駄目だ、ヒスイ。入るな!」
セイは腹の中でイスカに対する悪口雑言を並べ立てた。もう少しイスカが早ければ。*
ヒスイは、倒れているアイシャとその側で叫んだセイ、そして室内にへばりついた闇を
みた。
次に見たのは、――セイの言葉を借りるなら、見たくもないもの。
網膜に焼き付いていた恐怖が、現実味を帯びて再生された。