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翡翠抄−ひすいしょう−

第二章第四節第二項(045)

 2.

 アイシャの部屋の灯りは、まだ明々と灯っていた。
「馬鹿にしてるわ」
 腕組みをしながら足下を見やる。転がされているのは天井裏に仕込まれていた眠り草だ。
「薬師に対して使う手段じゃないわよね」
 随分と甘く見られたものだ。生のこれに火を付けて燻すと眠りをいざなう無色透明の煙を出す。だが、かすかだが特有の甘い香りがするのは誤魔化せない。最初に気付いたのはセイだった、というのは少し癪だったが。
 神殿側の悪意は明白だった。だからこうして灯りをつけて、なにがあっても対処できるように構えている。アイシャに武器はない。せいぜい、フライパンを側に置いて殴り倒すのが関の山だ。天井裏には眠り草の代わりに、ねずみ取りを仕掛けておいた。ささやかな嫌がらせである。すぐには役に立たないかも知れないが、次にこの部屋を使う旅人のためにはなるはずだ。
 フライパンを構え戦闘態勢に入っていたアイシャは、廊下からヒスイのどなる声を聞いた。動くな、とか……。
「ヒスイ?」
 鍵をはずし外に飛び出す。廊下は灯りひとつなかった。真っ暗な廊下を見て、おかしいと思う。ヒスイの声が聞こえたということは、彼女の部屋の扉は開いているということではなかったのか。廊下にはかすかな光すら漏れていない。
 眉をひそめて、フライパンを構え直す。と、その時、天井裏から金属が何かを手ひどく弾く音が鳴った。
「だ、誰!?」
 同時にアイシャの部屋の灯りも消える。
 先ほどした音。あれは間違いなく、誰かが天井裏のねずみ取りにかかった音だ。
 誰かが天井裏にいる。そして、その誰かは部屋の灯りを消しに来た。闇に向かって、アイシャは震える自分の心を激しく叱咤した。壁際に背を付けて、前を向く。背中を預けていないと自分一人では立っていられそうになかった。
「何よ、かかってきたらどうなの!」
 虚勢を張って、フライパンを強く握った。
 だが、誰もアイシャを傷つけにはこなかった。ナイフも矢も飛んでこない。代わりに、闇の中からは静かな声が聞こえた。どこかで聞いた声だと訝しむ。遠慮がちに続けてきた声はやはり、よく知っている声だった。もごもごと、どもるような発音。だが他の誰より優しくアイシャの名前を呼んでくれた。
「……あなた?」
 そんなことはあるはずがない。
 理性ではそう分かっているのに、思わず握りしめた手がゆるんだ。
 闇の中に浮かび上がるように、懐かしい姿が見える。おそるおそる伸ばされた手。ごつごつとした大きな手は指紋の間に炭が入り込んでいた。それを一旦引っ込めて、自分の服の裾でこすってから、もう一度差し出される。アイシャのよく知っている癖だ。夫は炭焼きを生業(なりわい)にしていた。洗っても、洗っても、いつもその手は真っ黒で。それでもその手が好きだった。
 ゆるんだ手からフライパンが落ちる。床に落ちた大きな反響音も、アイシャを現実に引き戻すことは出来なかった。
「おじさん……!」
 結婚前の呼び方がつい口をついた。なにしろ親子ほど年の離れた夫だったから。目の前が歪んで何も見えない。だが、そこには確かに、日焼けした真っ黒な顔と照れたように微笑む緑の瞳があるはずだった。
 理性が警告する。これは嘘だ。ありえない。夫はもういない、いないのに……!

   *

 セイの部屋の扉が遠慮がちに叩かれる。……部屋の中から返事はない。外の人間は鍵をはずして、室内に足を踏み入れた。
 足音を忍ばせて、寝台に近寄る。セイはもちろんそれに気が付いていた。毛布を払いのけ、ナイフの切っ先を相手の心臓部に突きつけた。
「あれ、ヒスイ?」
 忍んできたのはヒスイの姿。左の膨らみを突く寸前で止まったナイフにちょっと目を丸くして、だが、すぐに艶然(えんぜん)と微笑んだ。普段、欠片ほども見せたことのない顔である。セイはすぐに目尻を下げた。
「あれぇ、今夜は随分と色っぽいなぁ。何しに来たの?」
「……口にしなければ駄目か……?」
 蜜の溶けた甘ったるい翠の目が潤み、唇が誘うように開かれる。両腕がゆっくりと持ち上がり、セイの肩にもたれた。
 青い目の男は感激して、彼女を引き寄せる。
「いいなぁ。……本物のヒスイも早くこんな顔してくれないかな。オレ、ずっと待ってるのに」
 本物、といわれて目の前のヒスイは目を見開く。セイは微笑みを崩さず、刃渡りの分だけ右手を前に突き出した。
 肉塊が、崩れ落ちた。

 冷ややかな目でそれを見届けた後、セイは思考回路を切り替えるために瞬きを繰り返す。再びしっかりと目を見開くと、足下にはヒスイとは似ても似つかぬ男が胸にナイフを突き立てて転がっていた。
「うわ、最低。色仕掛けをかますなら、せめて女にして欲しかったな。……ま、オレが何の幻を見るかはこいつらには分からないわけだけど?」
 失敗が明らかになったあと、敵は一呼吸置く間も与えてはくれなかった。狭い入り口からは神官服を着た男達が銘々、剣を手に飛びかかる。セイが目を細めるのと左手が動くのは同時。風切り音が鳴る。詰まった音を喉から漏らして、男達は動きを止めた。投擲(とうてき)用に鋭く尖らせたナイフは、見事に彼らの喉笛に突き刺さっていた。
 これは相手が襲ってきた刺客だ。死体の始末をしないですむのはありがたい。
 折り重なるように倒れる屍(しかばね)は無視して、セイは寝台の上に立つと、天井の板をはずした。蓋をはずされたことによって、なま暖かい死体が自らの重みで滑り落ちる。きっとここからも刺客が来ると思っていた。
「これだけ?」
 セイはもう一度、天井裏を覗き込む。こんなに少ないと分かっていたら仕掛けた毒針の数をもう少し減らしておくのだった。
 舌打ちを漏らす。自分に向かってきた数から考えて、おそらくは同じくらいの刺客がヒスイにも向けられたのだ。

 ゆらりと、室内に幻が浮かんだ。
 セイは目だけそちらに向ける。思わず鼻にしわを寄せた。セイの目の前で幻は、今度は長い髪の女を造り出した。またしても誘いかけるような艶のある半眼。首にはくるくると色を変える、蛋白石(オパール)の首飾りが輝いている。
「……うわぁ。また嫌な女(ひと)が出てきたねぇ……」
 だが、これで手の内は読めた。
 こんな真似は人間には出来ない。人間ならぬ者……おそらくは妖魔が絡んでいる。特定の感情を刺激して餌を誘い出す妖魔と見た。襲いかかってきた神殿の人間は、おそらく危害を加えるためではなく、妖魔の元へ運び出すために外で待機していたのだ。
 ということは、この神殿は妖魔と繋がっていることになる。
「精神を操る妖魔、か。人間にはちょっと荷が重いかな?」
 死んだ人間の喉から投げナイフを回収する。ヒスイの幻影を纏っていた男からも、ナイフを引き抜いて血を拭った。
 その間にも女の幻は甘く囁き、絡みついてくる。昔と変わらず粘質的な声。その幻を見ながらセイは冷静に呟く。幻だと分かっているのだから、独り言といってもよかったが。
「ふぅん。一番大事なもので誘い出せなかったら、次は一番嫌なもので攻めるっていうのが定石だけど……そっか、オレ、この人のことが一番嫌いだったんだ」
 青い目が三日月のように細められる。女は黒真珠の瞳で覗き込んできた。
(――駄目よ、セイ。お前は私から逃げられやしないのよ――)
 可憐な少女の顔と、熟した蠱惑的な肉体が同居した美女。気のせいか、常に身に纏っていた甘い香りまで絡みついてきそうだ。実体を持たないその美女に、セイは薄く笑んで見せる。
「……ですけどね。オレは幻のあなたなんか、これっぽっちも怖くはないんですよ。まして今はヒスイがいますからね」
 氷点下の視線を幻に送る。
 逆に、ヒスイがいるからこそ全てが明らかになることを恐れもするのだが。
 セイは幻が誘いかける方向とは逆に走った。この幻を造り出しているのはセイの頭の中だ。恐怖に身を竦ませ、餌が逆方向に逃げるのを目的に妖魔は罠を張っているはず。
 ヒスイが妖魔に誘われる前に連れ去られたとは知らないセイは、彼女が今、何の幻を見て恐怖しているかを考え、唇をかみしめた。

  ***

 愛してる。

 セイの声を聞いたような気がして、ヒスイは薄目を開けた。見知らぬ石造りの天井が見える。飛び起きた。咄嗟に襟元の合わせ目と下半身に手を伸ばす。衣類に乱れはない。つい、肩を落として長い息を吐いた。
 高い天井だった。石に施された装飾から神殿の内部から出ていないことはわかる。
「ここは?」
 腰に手をやり、剣が取り上げられたことを知る。ヒスイはめまいのする頭を抑えた。後頭部には大きなこぶができている。
 思い出した。天井裏から忍んできた刺客に背後を狙われたのだ。
「それにしても……ここは一体?」
 見回しても、ただの四角い部屋だった。何も置かれていない。だだっぴろい広間とも呼べる部屋。壁際に灯りだけは灯されていた。そこには何もなく。いや、一ヶ所、小さな下り階段があった。
 他にどうするあてもなく、その下り階段に向かう。広間の大きさに比べてひどく小さな階段だった。人が行き交うことも出来ないだろう細い階段は、壁際に添って螺旋になっている。螺旋の中心からは風が吹き上げていた。奈落だ。
「……」
 足を踏み外せば、どこまで落ちるのだろう。思わず足下から立ち上る震えに、ヒスイは腕を抱きしめた。壁に背中を付けて、おそるおそる階段を下り始める。と、その時。
「ヒスイ!」
 突如叫ばれて、心臓が跳ねる。思わずバランスを崩した。背中が壁から離れる。ヒスイは自分の真下に奈落を見た。
 頭から突っ込むかと思われたが、そこは、ヒスイの名を呼んだ彼が許すはずもなかった。
「ヒスイ!」
 もう一度、自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。腕を捕まえられ、見上げるとセイの顔があった。落ちかけたヒスイ本人は割と冷静で、対称的にセイは必死の形相をしていた。そのまま勢いをつけて引き上げられる。セイは後ろ向きに倒れ込み、ヒスイがその上に落ちた。セイは大きく胸を上下させている。緩衝材になってくれたおかげで、ヒスイの衝撃は小さくて済んだ。
「心配させないでよ」
「……ごめん」
 元はと言えばセイが驚かせたせいなのだが、それはいわないでおく。重ねた体がセイの早鐘を打つ鼓動も荒い息もすべて伝えてくれていた。本気で心配をかけてしまったと思う。セイはそのまま両腕で包むように体の上のヒスイを抱きしめた。独り言のように小さな声で、間に合った、と呟くのが聞こえる。もうそろそろ放して欲しいとヒスイが思った頃、セイにしては珍しく――隙あらばいつも接触を試みている彼が――あっさりとヒスイを手放し、身を起こした。
「ヒスイはここで待ってるんだ。この下に降りちゃいけない」
「どうして」
「多分、妖魔の巣があるから」
 ヒスイはいわれた意味が分からなくて、目を瞬(しばたた)く。妖魔といわれて真っ先に思い浮かべたのは藤色の瞳をした星見の彼女。だが彼女はキドラという人の城にいるといっていたから、違う。それ以外に妖魔といわれても、唐突すぎてすぐには飲み込めなかった。
 セイは簡単に、神殿が妖魔と繋がっていること、その根拠などを説明してくれた。
「アイシャと、あのチビも捕まってると思う。一番大事な……アイシャは旦那さん、あのチビはご主人様の幻覚を見せられて」
 その一言でヒスイは叫んだ。
「私も行く!」
「駄目!」
 打てば響くタイミングで即座に却下された。ちゃんと助けに行ってあげるからヒスイはここで待っていて、とセイは繰り返す。
「待っているだけなんか真っ平だ。私も行く」
 だが、それでもセイは首を縦には振ってくれなかった。
「連れていけない。ヒスイが一番、相手をしちゃいけない敵なんだ。見たくもないものを見るよ」
 見たくもないもの。
 ヒスイは不思議に思って首を傾げる。ここで初めて、セイは言葉を詰まらせた。
「ヒスイは……大事なものより、怖いものの方が強いから。だから、また同じ恐怖を見る。だから駄目だ」
 同じ恐怖、と。いつの間にか、またセイに抱きしめられていた。先ほどセイの心臓の音が伝わったように、きっと今、自分の心臓の音も彼に聞こえているはずだった。
 規則的に打つ音は、徐々に早くなり、大きくなる。

 セイは以前、聞いた。
 ――お母さんが泣いた直接の原因はなんなのかな。ヒスイが何かをされたの? それとも……何かをした?――
 血を浴びて帰ってきた自分。

 一瞬、心が凍って動けなくなった。その隙にセイはヒスイから離れる。階段の下を駆け降りていった。ちゃんと助けて帰ってくるから、と言い残して。
 我に返ったのはしばらく後になってからだった。慌てて下りの螺旋階段を見下ろす。セイの姿は小さくなっていた。
「ば……お前だって、大事なものを盾に取られたら危ないじゃないか」
 ヒスイは後を追うようにして階段を降り始めた。

   *

 セイがこの世で一番大切なものはヒスイ。
 そのことを知らないのは、ヒスイ本人だけ。そしてその本人によってセイも危険にさらされ始めたことを、誰が知り得ることが出来ただろう。


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