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翡翠抄−ひすいしょう−

第二章第四節第一項(044)

 嘘

 1.

 アリアナ神殿は大きな町の中にあった。すぐに神殿に寄りたいイスカを抑えて、一行は先に町で買い物をすませることにする。ヒスイが使うのは弓。矢は消耗品だ。補充が必要だった。野犬を射抜いた矢は回収済みである。投げナイフも矢も、可能ならば回収を行うのは常識だ。アイシャはというと、町の大きな薬屋にこの辺りでは珍しい薬草を売りに行った。ついでに仕入れもすませてくるという。セイはヒスイにくっついてナイフ類を研ぎに出した。いつもならその後、真昼だろうがかまわず色街通りに消えていくのだが、今日はなぜかヒスイの側を離れなかった。
「今日はいいのか?」
「いいの。だってヒスイと一緒にいたいんだもん」
 背中から抱きしめて、擦り寄る。
「ヒスイはこのお仕事の後、最後の聖域に行っちゃうんでしょう? そうしたらお別れだから、余計ヒスイを放したくない」
 お別れ。
 予想もしなかった言葉にヒスイは振り向いた。
 当たり前のことを聞く、とセイは表情も変えずにヒスイの顔を覗き込む。
「いったでしょ? あそこは外部の人間を嫌う、って。ヒスイは多分入れるよ。もし中に身内がいなくても、あの国は精霊使いには甘いから。オレとアイシャは中に入れずにおしまい。はい、さようなら」
 言葉の意味は理解できるのだが、心には完全に染み込まずにヒスイは大きく目を開いた。
ずっと一緒だったこの二人と、別れるなんて考えもしなかった。思わず彼の顔を注視する。空の色よりも濃く、海の色よりも冴え渡った青い瞳があった。どこまでも青い、極上の青玉(サファイア)を両眼にはめたような色に、自然と目が吸い寄せられる。
「そんなに見つめられると……食べちゃうよ?」
 いつの間にか間近に迫っていたセイの顔に、我に返る。触れる間際の唇は真横からの殴打によってなんとか阻止できた。
 怒って足早に遠ざかりかけ、ふと、疑問が浮かぶ。足が止まった。振り返ってセイに尋ねる。
「……誰が、精霊使いだって?」
「あ、やっぱり自覚なかった」
 彼はヒスイの近くに駆け寄って、また抱きついた。そうすることが当たり前かのように。
「風使いってのは風の精霊を使ってるってことなんだよ。普通は精霊との契約が必要なんだけど、自覚がないってことはヒスイ、契約なしで使ってるね?」
 そういわれても知らなかったので、ただ無言でいるしかない。そんなことだろうと思った、とセイは驚きもせずに微笑む。耳元に唇を寄せて、囁いた。
「それだけ精霊に愛されてるんだよ。……本当はオレだけのものでいて欲しいけどね」
 愛されているとの一言に実感が湧かず、思わず眉をひそめる。
 ちなみに後半の台詞は無視したつもりだったが体はしっかり反応していて殴打が飛んでいた。

 さて、いよいよ一行はアリアナ神殿に向かった。そこはイスカのいた神殿よりはやや小さく、町に近いせいかやや砕けた雰囲気のあるところだった。
「フォラーナ神殿より大神官様の使いで参りました、神官イスカと申します」
 背筋を伸ばし張りのある声で口上を述べる姿は、いつもに比べやや威厳めいたものさえ窺える。イスカの対応に出たのは太った中年の神官だった。だらしなくゆるんだ頬の肉、どこまで額なのか分からない脂ぎった禿頭(とくとう)、金糸で縁取られたきらびやかな法衣の下にも、おそらくはそれ相応の脂の乗った体格が隠れているに違いない。目だけが熱に浮かされたようにぎらぎら光っているのがまた俗物を連想させた。
「これはこれは。ようこそいらっしゃいました。ですが、あいにくと神官長は今、神殿を空けております。よもや私風情が大神官様の命(めい)をお受けする訳にも参りません。今しばらく当神殿にてご滞在ください。どうぞどうぞ、遠慮なさらず。なに、明日にでも帰るでしょうから、ごゆるりと」
 初めから人の話を聞くつもりもないようである。まるで最初から用意していたような台詞を並べて、目の前の俗物神官はイスカだけを奥へといざなった。
 セイは口の中で小さく悪口をつぶやく。ヒスイは、中年の神官がどうみても年少であるイスカにぺこぺこしている姿にやや目を細めて訝(いぶか)しがり、アイシャにいたってははっきりと不快な表情を浮かべていた。
 イスカは俗物神官の手をやんわりと退け、無邪気そのものの顔で微笑んだ。
「連れの同行をお認めください。まだ参上するところが残っておりますので、彼らには道中の護衛をお願いしています」
 彼ら、といわれて俗物神官はやっとヒスイ達を見た。
 彼の目には三人はどう映っているのだろうか。鼻息も荒く、蔑んだ目を向けられた。この時点で、三人は共通した判断を俗物神官に下す。
「最低最悪」

 「なんなの、アレは!」
 怒り心頭なのはアイシャだった。ここはヒスイの部屋。一応はそれぞれに個室が与えられたのだがイスカの部屋からは遠く離され、しかも三つ一並びの部屋ではなく、分断された。腹立たしいことこの上ない。
 寝台の上であぐらをかいているセイは、馬鹿馬鹿しすぎてあくびをする。
「どうせ、ろくでもないこと考えてるんだろ。おいそれと連絡取れないようにオレ達三人の部屋も引き離してくれちゃってさ。ご丁寧に」
「ああ、もう。だから神殿なんてところは大っきらいなのよッ!」
 聖職者という隠れ蓑の裏で悪巧みするあたり、並みの悪人よりたちが悪い。
 ヒスイは会話には混ざらず、じっと考え事をしていた。
「ヒスイ?」
 ちょうどもやもやとした疑問が形になったころに、セイが顔を覗き込んでくる。相変わらずいいタイミングだ、と思いながら、目を合わせた。
「……お前なら、今夜あたり何を仕掛ける?」
 元・盗賊に尋ねてみる。わざわざ一泊させ、神官長の留守中に行動を起こすなら何をするか。イスカには大神官の後ろ盾があるので、おいそれと手は出せないだろう。一番の邪魔者は護衛と名乗ったヒスイ達である。
「いっそ、イスカごと亡き者にするとかね」
 青い目の元・盗賊は、笑いながら物騒なことをいってのけた。
「大神官からの査察が入るってことは、ここの神殿は相当ろくでもないことをしてるってことにならない? もう逃げられないだろうからイスカごとまとめて始末する。この後に寄るところがある、っていったのは失敗だね。『もう通り過ぎられました』といったらイスカがどこで消えたのか消息が分からなくなる」
 と、両手を広げてみせる。そして、残る二人を手元に引き寄せて、声を低めた。
「ここが何をやっているのかは知らない。けれど、人身売買の類(たぐい)なら、オレ達は売られる。男は奴隷、女は……分かるよね」
 分かりすぎるくらいよく分かる話である。
「男ってのはそれしか考えることがないのかしらね?」
 げんなりとした声でアイシャは手近な男、セイを窺い見た。
「オレも充分、本能だけで生きてる自覚はあるけどぉ」
 困ったように肩をすくめる。隣ではヒスイが見る間に不機嫌になっていった……。

 簡素な夕食と久々の入浴をすませ、各々(おのおの)は部屋にこもる。そして、やはりというべきか、問題は夜の足音と共に忍んできた。

 太った指はわずかな明かりを頼りに、ある部屋の前で扉の把手を探していた。扉には鍵が掛けられていたが、そんなものはこの神殿では役に立たない。外からはずせる仕組みになっているのだ。闇の中に浮かんだ目は熱っぽく、鼻の穴は膨らんでいる。昼間の俗物神官だった。彼の両側には幾分か若い神官が二人、無表情で付き添っている。扉の鍵は無情にも乾いた金属音を立てて、開いた。
 扉の奥は明かりが消してあった。神官達は明かりを高く掲げる。寝台の上では毛布が丸く膨らんでおり、かすかに上下していた。男はさらに鼻の穴を広げ、荒く息を吐く。目当ては艶やかな黒髪と印象的な翠の目をした娘。さして美しくもない娘だったが、その所作にはどことなく育ちの良さと気位の高さが窺える。ああいう女ほど組み敷けばいい声で鳴いてくれるものだ。舌なめずりを堪えきれず、彼はその毛布に手を掛ける。
 だが、体重を掛ける前に、毛布の固まりは自らその包みを解きほぐした。
 短い漆黒の髪はその肩口で揺れ、翠の瞳は濡れたカワセミの羽のように艶を増している。誘いかけるように腕が伸ばされた。
 男の鼻の穴が、さらに広がる。なんだ、この女もそれを望んでいたのか、と。だらしなくゆるんだ頬はさらに弾力を失い、伸びきった。彼女の華奢な体を捕らえようと、指輪だらけの太い指が動く。が、触れる間際で彼の視界は一回転した。
「?」
 疑問に思った次の瞬間、声を上げることもできない衝撃が背中を襲う。
 したたかに背中を打ち付けたのだ。先ほどまで確かに足の裏にあった床は今、なぜか背中に感じていた。何があったかを認識するより早く喉笛の真上には女……ヒスイの肘が入る。締め上げられた蛙の声は暗い室内に不気味に響き渡った。
「動くな!」
 凛とした声で命じたのは、俗物神官本人にではなく、彼に付き従っていた二人に対して。男二人はうろたえ、やや後退する。
 ヒスイと呼ばれていた翠の目の女は、先ほどの潤んだ瞳とはうってかわった冷たい眼光で見下ろしてきた。
「体術だけはましだとセイに褒められたんだ。……母が好きでな」
 投げ飛ばされたのだと、情けないことにこの時、初めて気が付いた。彼女の手は法衣をまだ握りしめている。肘にかける体重をほんの少し強くされるだけで、息が止まるかと思うほどの痛みを伴った。彼はもう喋ることすらままならない。
 その間に彼女はナイフを取り出し、両腕の服地を地面に縫いつける。これで腕の自由まで奪われたわけだ。
「……ぐっすり眠り込んでいるはずだと思ったか? うちにはやたら鼻の利く奴がいてな。天井裏に眠り草とは手が込んでるじゃないか。取り除かせてもらったぞ」
 腰に吊した剣を抜き、鼻先にちらつかせてくる。その一方で、入り口近くまで追いやった二人の従者に対する注意も怠らない。押し倒された男は、ただただ目を丸くしてヒスイが突きつけてきた剣の切っ先を見るしかなかった。
 さして美しくない娘だと? とんでもなかった。今、自分を見下ろしている娘はまさしく戦女神さながらの威圧感に彩られ、何よりも美しい輝きを見せている。
「さて。お前、死刑と宮刑、どっちが好みだ?」
「うぐ……」
 細められた瞳は、更に強く冷ややかな光を投げかけてくる。
「お前のしわ首を落とすのがいいか、それとも下に生えている亀の首を斬り落とす方がいいかと聞いている」
 どちらもごめんである。この部屋に入るまでは元気だった、下の「亀の首」は今やすっかり縮み上がっていた。助けを乞い求めるように入り口の従者を見るが、彼らの怯える顔色は何より雄弁に現状を物語ってくる。そして、鼻先に突きつけられていた剣は大きく振り上げられた。
「女を犯す気なら反撃くらい覚悟してもらいたいな。心配するな。人をあやめるのは……初めてじゃ、ない」
 どう見ても人の脂を知らぬ輝いた刃から、男は目を離せなかった。

「ぐっ……」
 くぐもった声。
 それは男がうめいたものではなかった。ヒスイの発した声である。翠の瞳がとっさに横に走り、その後まぶたは閉ざされた。太った中年神官は思わず剣から目をそらし、女が見た物の先に視線を移動する。そこには、先ほどまではいなかった筈の見知った部下がいた。
 眠り草を仕込んだ天井裏に通じる道、寝台の真上の板が外れている。部下によって彼女は気絶させられたのだ。
「は、は……でかしたぞ!」
 従者二人に助けられ身を起こすと、自分の手柄でもないのに俗物神官は高笑いをもらした。が、それは一瞬のこと。廊下から響く声に、彼はさして高くもない背を縮ませる。
「軽率な行動は感心せんな」
 低い声。廊下の暗がりから現れたのは、俗物の彼よりはもう一回り年長に見える神官だった。角ばった顔立ちに相応のしわが刻み込まれ、厳つい雰囲気を漂わせている。俗物神官は冷や汗をぬぐいながら、脂でぬめった禿頭を深々と下げた。
「も、申し訳ありません。神官長様……」
「傷をつけてはならん。丁重にその娘を運ぶのだ。残る三人も、同様にな」
 たっぷりとした袖で軽く鼻を押さえながら、留守にしていたはずの神官長は厳かに命じる。ヒスイは、その手に握っていた剣を取り上げられ、従者二人によって抱え上げられた。彼らは神官長の後を追う俗物神官とは出来るだけ距離を置いて、後に付き従う。俗物神官の足の間、法衣の中心より下は、つんとすえた匂いを放ちながら黄色く濡れていた……。

   *

 イスカの部屋は、やたら豪華だった。質素清貧が信条だった自神殿とは違いすぎ、居心地の悪さを感じる。入り口には二人ほど衛兵が付いているらしく、常に人の気配がしていた。ヒスイと連絡を取ることも出来ずに仕方なく寝台に潜り込んでいたのだが。
 深夜、ふいにその気配が消えた。
(なんだろう?)
 イスカは手早く法衣を羽織る。愛用の杖をかまえて、油断なく扉に近づいた。ひたひたと、忍ぶように近づいてくる足音が聞こえる。イスカは勢いよく扉を開いた。
 誰だと問うつもりだった。
 忍んできた足音の主(ぬし)は、突然開かれた扉に足を止める。お忍びで使う旅装束を身に纏い、闇に溶け込む長い髪はまとめられていた。イスカは、信じられないといった様子で琥珀色の瞳を見開く。その瞳と目を合わせて、森の色が優しく微笑んだ。
「ホウ様!」
 嬉しくて嬉しくて、イスカは夜中だというのに大きな声で名前を呼んでしまった。
 目の前の優しい面差しの人は、静かにと唇に人差し指を当てた。


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