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翡翠抄−ひすいしょう−

第二章第三節第四項(043)

 4.

「ヒスイ?」
 青ざめた彼女に、トーラは声をかけた。
「どうしたの。何か心配事?」
 そこでやっとヒスイはトーラを見てくれた。大丈夫だと笑ってくれたので、トーラは安心して抱きつく。誰かに抱っこするのは好きだった。誰かが側にいてくれるのだと、そして嫌われていないんだと思えるから。ヒスイはちょっと苦笑しながらも「いい子」と抱きしめてくれたのでトーラはもっと嬉しくなった。だが嬉しいと同時に不安になる。ヒスイはこの先、ずっと一緒にいてくれるだろうか。
「ヒスイもキドラのお城で暮らせばいいのに。そうしたら、ずっとずっと一緒にいられるのにね」
「そのキドラというのは……親御さん、ではないよな?」
 トーラは顔を上げた。
「妖魔には、親から生まれるのと自然発生するのがいるの。私には親なんてないわ。だからキドラが私のお父さんみたいなものなのよ」
 お父さんというには少々若い気もするが、気にしない。トーラは力の限り、キドラのことを説明した。どんなに優しいか、どんなに愛してくれているか。ヒスイにもキドラを好きになって欲しかった。世界でたった一人の味方なのだから。
 ヒスイは、話している途中で時々眉をしかめた。なぜだかトーラには分からない。
「……だからね、キドラは私のことを大切にしてくれるのよ。私、キドラが大好きなの!」
「そうか」
 よかったな、といってくれた。思わず、顔の表情がゆるむ。
「……私は、どうもその御仁のことは好きになれそうにないがな」
 小さな声でヒスイは呟く。トーラはわざと聞こえないふりをした。大好きなキドラが否定されるなどあってはならない。

 さて、星見の空間で、外からの干渉に気付けるのはトーラだけだ。
 朝が近づいている。ヒスイを呼んでいるのだ。
「さよならの時間みたい……」
 トーラは抱きついていた手を離した。自分から会いに行くことはできない。今日のように、ヒスイから来てもらわなければ会えない。
「また、来てくれる?」
「トーラ……」
「待って、ヒスイ。まだ行かないでっ」
 その足にしがみつきながら見上げた。
 方法はある。自分からヒスイを見つけられる方法。ヒスイの魂に目印を付ければいいのだ。よく見える、自分だけの目印を。だが、ためらわれる方法だった。迷っていると、追い打ちをかけるようにヒスイの台詞が重なる。
「ごめんな、トーラ。明日は会えないかもしれない。そもそも、私も自分でどうやってここに来ているのか自覚がないんだ」
 自覚のない偶然。明日は偶然が働くとは限らない。
 トーラの大粒の瞳から、まるで目がとけてしまったかのように涙が盛り上がっていく。とうとう、まぶたから溢れ出してしまった。
 ……翠の瞳は急にうろたえ始めた。けれど涙はトーラにも止めようがない。次から次へと涙をこぼしながら、ヒスイを見つめ続けた。
「ヒスイ……私のこと、好き?」
「ああ。嫌いじゃない、嫌いじゃないんだぞ?」
 泣いているのは自分なのに、自分がヒスイを泣かせているような気がするのは何故だろう? それくらい、目の前の黒髪、翠の瞳の彼女は参っていた。ずずっ、と鼻水をすすって、トーラはためらいを捨てた。
「ヒスイに私の命の半分をあげる」
 涙を服の袖でぬぐう。決意は固まっていた。ヒスイの意志など、この際おかまいなしだ。
「そうしたら、それを目印に私からヒスイに会いに行ける。妖魔は命の半分がなくなっても生きていけるし」
 ヒスイは、あんぐりと口を開けていた。トーラは思いついたままに言葉を紡ぐ。
「大丈夫、痛くないから」
「そ……そういう問題か?」
 そういう問題だ。
 命をあげるといっても、失うわけではなかった。トーラという器の中に入っている命を半分、ヒスイという器に移し替える。失うのではなく、ヒスイと共有するのだ。そうすれば今度から、ヒスイの中に入っている自分の命の輝きを目印に星の海から探し当てることが出来る。
 この術を「魂の双子」といった。妖魔は一生にただ一人、魂の双子を選ぶことが出来る。もちろん選ばなくてもいい。それでも「双子」を抱える妖魔は尊敬の対象だ。妖魔同士ならお互いの命を半分ずつ交換する。ヒスイは人間だから命を半分に分けたりすることは出来ない。人間を「双子」の相手に選んだ場合、妖魔の方が不利だった。自分が命を落としても相手は困らないが、相手が命を落とした場合は自分が困る。……ただでさえ寿命の短い人間なのに。「双子」を抱えることによって妖魔は弱くなる、といってもいい。だが、守る物を得たことによって強くなるともいえる。だから尊敬される。
 トーラには自分を守る力すらない。だから不利なことだけを抱えることになる。それでも一緒にいたかった。生まれて初めて見た動く物を親と思う雛鳥のように、刷り込まれてしまっただけかもしれなかったが。
 危ないことは何もないのだと、星見の妖魔はヒスイを口説いた。
 朝が近づいている。早くヒスイを返してやらなければならなかった。トーラは急いで、しゃがむようにと彼女に頼む。
「……あのね、私の名前を預かってね?」
 ヒスイの手を取った。掌に文字を書く。この名前を教えるのはキドラに次いで二人目だった。
 「藤羅」――それが真名――。
 一生、誰にも教えてはいけないとキドラに言い含められていた物。その文字に命の半分を込める。トーラの目に、ヒスイの魂の色が変化して見えた。とらえどころのない透明な翠の色は、薄い紫の伴星を持つ双子星になる。ヒスイにはどうやら自覚症状がないようだった。瞬きを繰り返している。そして。
「じゃあ、私の名前も教えておこう。翡翠と書くんだ」

 真実の名の交換。――契約は成された。

   ***

 日の出と共に朝食である。
 ヒスイはその数時間前にセイを叩き起こして、わずかに仮眠を取った。体はすこぶる快調。トーラの命の半分を預かったらしいが、ヒスイの感覚として名前を名乗りあったくらいで、自分の体に特に変調は見られなかった。
 今日の朝食当番はセイ。嫌がらせのようにイスカの皿の前には挽肉と芋の炒め煮が山盛りになって置かれていた。もちろんイスカは食べられないので、三人で分ける。食事を済ませると腹ごなしに剣の稽古。太陽が上り、それと同時に体の動きも活発になっていく。アイシャは食事の後かたづけを済ませ、火を始末して、いつでも出発できるように準備を整えた。それをイスカが手伝う。元々、腰が低いこの少年は動き回っている方が性に合っているようだった。
「あの人、ごはん作れたんですね」
 馬の飼い葉を世話した少年は、口を動かしながら手早く荷馬車と馬を繋ぐ手綱を取り付けていく。アイシャは考え事をしていたので、回答に一瞬の遅れを見せた。
「ああ、セイの話。一人で生きてきた、っていうし、それくらい出来るんじゃないの?」
「弟さんじゃなかったんですか?」
 ……そういえばまだ誤解を解いていないままだった、と今さらにして思い出した。にっこりと笑って見せる。
「私、捨て子だったから。血の繋がらない弟妹はたくさんいるのよ」
 これは嘘ではない。イスカは一瞬、動作を止めた。同情されるかしら、と身構えていたら、意外にも少年は柔らかく微笑む。
「僕も親はいません。でも、僕の主(あるじ)は僕のことをとっても可愛がって下さいました」
 と、答えた。
「僕はあの方の望みならなんだってかなえて差し上げたいんです」
 アイシャはその笑顔を目を細めて見やる。……ふと懐かしい物がこみ上げた。
 珍しく昨日、夫の夢を見たせいかもしれない。
 また過去へと回帰しそうな自分をなんとか現実に引き戻し、アイシャは少年の琥珀色の瞳を見つめた。
「あなたの主は何をお望みなの?」
 他愛のない世間話。イスカは、なぜだか知らないがちょっと照れている。なおも首を傾げて話を催促すると、やっと彼は教えてくれた。
「あの方の……生き別れになったお嬢様をお探しするんです。主は、それはもう、本当にお嬢様のことを愛していらっしゃって……心配なさっていらっしゃるから。いつか会わせて差し上げたいんです。……そういったら」
 もじもじと照れて、イスカはそこで一度、話を置いた。
「あの、主は『本当は、お前には娘に仕えてもらいたかった』と、おっしゃったのです。僕は主が望まれるのならお嬢様もお守りしますといったら……そうしたら、主は少し微笑んで『では、お前には娘をあげよう』、って」
 アイシャは頷いた。よくある政略結婚の構図である。部下の忠誠の見返りとして娘を与え、一族に名前を連ねる。元から見返りを期待して忠誠を捧げる騎士もいないではないが、この少年の性格からしてそれはありえないだろう。一介の神官が主人――おおよそ貴族階級なのだろうが――の娘を賜るとなれば大出世だ。
「……まぁ、昔から政略結婚なんてろくでもないものと相場は決まってるけどねぇ」
 思わずアイシャは彼に聞こえないように呟く。実感を込めて。
 政略結婚に年齢はあまり関係がない。他人事ながら、願わくばこの純真な少年に釣り合う可憐な姫君であることを心から望んだ。

 突如、馬が騒ぎ出した。
 それが何に反応してなのか、気付いたのはセイとヒスイ。行動はセイの方が早かった。
「ヒスイ、弓を」
 ヒスイはとっさに背中に担いだ弓を、矢筒ごと放り投げた。そして自身も剣を握る。
「何? なんなの?」
「アイシャ、伏せて。なにかが来る」
 ヒスイの言葉にイスカも思わず愛用の杖を構え直した。
 音もなく忍び寄ってくるもの。それは、獣特有のうなり声を上げて牙をむいた。
「野犬だ!」
 ヒスイは剣を横薙ぎに振った。セイは、矢をつがえて次々と放つ。早打ちはまだまだセイに分があった。ヒスイ用に調節した威力のない弓で、よくもここまでの弓勢(ゆんぜい)を保てると隣でヒスイは感心する。もう少し弓弦(ゆづる)を強く張ってある方が使いよいだろうに、セイの放った矢は皆、野犬の額を貫いていた。
 剣では完全に接近戦になる。ヒスイは自分の身を守りながら飛びかかってくる野犬をはらいのけた。一頭が喉笛を狙ってくれば、もう一頭が足下に襲いかかる。それらを全て避けるのは無理だった。セイが襲いかかってくる前に射落としてくれるのがせめてもの救いである。
 アイシャは興奮する馬を押さえていた。その前ではイスカが、守るように立ちはだかって杖を振るう。どうやら神殿で祈りを捧げているだけの神官ではなくそこそこ使えるらしい。ヒスイと対峙したときの体さばきをみれば想像の付いた話だったが。先端部分を重くした杖の頭で野犬を叩き、返して反対側で突いていく。
 しかしイスカの後ろ、つまりアイシャがいる側は壁があるわけでもなんでもない。野犬はそちら側からも回り込んでいた。馬が狙われている。気付いたのはアイシャ一人だった。
「冗談じゃないわ」
 食べられてはかなわない。これは唯一の足なのだ。セイの連れていた青鹿毛の軍馬は売り払ってしまい、もう馬を手に入れる当てはない。アイシャは「武器」を取った。襲いかかる野犬の鼻先を狙って、鉄製のフライパンを振るう。
「どっか行けってのよぉぉぉっ!」
 銅鑼が鳴るような盛大な音がした。文字通り出鼻をくじかれて、野犬は尾を丸めて逃げる。
「……お強い……」
「だからアイシャは、人間以外になら強いっていっただろ」
 弓を引き絞る手を休めずに、セイは軽口を叩いた。野犬相手に剣では不利だ。接近戦ではイスカやアイシャのように打撃武器の方が効果がある。そうでなければ弓で遠距離から射抜くのが一番いい。得意としている投げナイフでは殺傷力に欠けることは、セイが一番よく知っていた。だからヒスイの弓を借りたのである。
 野犬の約三分の一を屍に、残りはほうほうの体(てい)で逃げ出していった。
「やっと護衛らしい仕事をした、って感じだね。ヒスイ、怪我は?」
 ヒスイは首を振る。見回すとアイシャもイスカも、特に大きな怪我は負っていないようだった。運が良かっただけであることは全員がよく分かっている。
「……イスカ。神殿はまだ遠いのか?」
「いいえ、今夜は野宿しなくてすみそうですよ」

 イスカの言葉は本当だった。昼前には町に着き、その町にはやっと目的のアリアナ神殿が建っていた。

   *

 久しぶりに夫の夢を見た。
 アイシャの夢は好きな人の子供を生んで、暖かい家庭を築くこと。夫は最後に、望むままに、と言い残した。妻の夢を知っていて、それが叶わないうちに妻を残して逝かねばならない彼だったから。
 だからアイシャは旅に出た。……死んだ夫よりも愛せる人を捜すために。自分の夢をかなえるためというよりは、自分が夢を追うことが夫の望みだったから。

 私は幸せよ、あなた。でもね。まだ、あなたより愛せる人はいないのよ。


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