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翡翠抄−ひすいしょう−

第二章第三節第三項(042)

 3.

 僕は、あの方の下僕(しもべ)です。

 それはイスカが誇れること。胸を張って自慢できる、とても素敵な事実。けれど、外に出て神殿の人間にいうと、そうは見てくれなかった。嘲りと、蔑みの目。好意的に接してくれる人間でさえ真剣な目をして「奴隷根性はやめろ」と忠告してくれた。次第にイスカはそのことを口にしなくなった。思いを忘れたわけではない。何も知らない人間に大切な主(あるじ)を侮辱されたくはなかったのだ。
 不思議だと思う。人間は、心に思いもしないことを口にする。従いたくない者に頭を下げたり、お金で信念を売ったり、そういうものを目にするたび嫌な気持ちになった。イスカは心から主を崇拝している。だから主のために力になれることが嬉しい。それだけなのに。
 その大事な大事な主はというと、これまたなかなかイスカが仕えるのを許してはくれなかった。いつも困ったように微笑んで、やんわりと退けられてばかり。それでも粘ってお願いして、やっと許してもらえたときは本当に嬉しかった。
 根負けしたよ、と、微笑んだ緑の瞳は忘れられない。
 彼は誰よりも優しくて、誰よりも綺麗な人だった。男の人に「綺麗」という表現を使うことも間違っているといわれて、ふてくされたこともある。本当に彼は綺麗な人なのに。何かと気苦労の多い彼のために、少しでも側で力になりたかった……。
 その主は、少し寂しげな瞳でいったことがある。
(本当は、お前には私の娘に仕えて欲しかったのだけれどね)
 イスカは輝く琥珀色の瞳を向けて答えた。
(ホウ様がそう願われるのなら、僕はヒスイ様もお守りいたします)
 会ったこともない、大切な主の姫君。生き別れになったと聞いた。分かっているのは名前と年と、黒髪であることだけ。

 僕がホウ様の願いを叶えて差し上げます。
 ひとまず目の前の「ヒスイ様」が、主の探している「翡翠姫」だといいなと、イスカは思っていた。

   *

 今日は何回、ヒスイの蹴りが入っただろうか? セイが懲りないのはいつものこと。だが、一回殴られたあとは大抵大人しくしているのに、今日は何故かいつまでも名残惜しそうに触りたがった。かなりヒスイの神経に障っているのが傍目にもはっきり分かる。イスカもそれにつられて気を揉んでいるのだが、アイシャに「気にしない方がいい」といわれて口を挟むのは控えた。

 昼の休憩のときもその調子だった。ヒスイは、いいかげん腹に据えかねて思わず打撲した方の手で拳を作る。
 叩き込んでやるつもりで振り向いた。けれどその瞬間、彼の手は調子よく離れるのだ。いつもと同じように「何も悪いことは致しません」とばかりにセイは微笑んでいた。
 その青い瞳を見てヒスイは毒気を抜かれる。力無く拳を下ろした。
「あれ、殴らないの?」
「殴られる自覚はあるわけだな?」
 上目遣いに睨み付けた。青い目の男は自分の言質が取られたことに、一応は反省の色を見せる。けれどそれは、一瞬でいつもと変わらない笑みの向こうに追いやられた。ヒスイはセイの頬に手をやる。女性とはまた違う肌の粗さにやや驚きながら、触れた。
「……ヒスイ?」
 頬がほんのり色づく。ヒスイは、きゅっ、とそれをつねった。セイはわざとらしいまでに表情を歪める。おもしろ半分でやっているのだ。ヒスイはそれほど力を込めているわけではない。いつも通りのおちゃらけた態度。それでも確かに、いつもよりは寂しそうな瞳の色をしていた。それが、さっき毒気を抜かれた理由。青い目が泣いているように見えたのは気のせいだろうか。
「いつもみたいにへらへら笑っていないと、調子が狂う」
 うまくいえなくて、そうとだけいった。
 ……セイは、その一言で似つかわしくない(といったら失礼だろうか?)笑みを見せた。ただただ、純粋に幸せな笑顔、とでもいうのか。彼にそんな顔が出来るとは信じ難くて、思わず翠の瞳を見開く。
 が。それは一瞬のこと。お調子者は、真面目な顔だけでは終わってくれなかった。
「元気でたッ。愛してるよ、ヒスイ!」
「お前、やっぱり元気のないくらいの方がいい」
 すかさず鳩尾(みぞおち)に肘を入れながら、ヒスイは迂闊なことをいったことを深く反省した。

「……平和ですね」
 二人の一連のやり取りを見ながらイスカは溜め息をついた。アイシャはというと、初めから想像のついていたことだからと笑ったままだ。慣れないイスカは、がっくりと肩を落とす。
「本当、予言の星が落ちたというのに、嘘みたいに平和ですね」
 と、半ば独り言のつもりで漏らした。
「あら。なぁに、予言の星って」
「……ちょっと前に大きな流れ星が落ちたでしょう。あれをそう呼んでいるんです」
 こういう話が噂として一般に浸透するには時間がかかる。世界中の王族や一部の貴族達は、今頃目の色を変えて自国領に予言の星がいないか探していることだろう。それなのに、ここら辺りでは平穏そのもの。フォラーナ神殿は大地の神の総本山であるのに、神殿内でも、この事実を知っている者は少なかった。
「色んな呼ばれ方をしています。滅びの星、改革の星、……異端の星。共通しているのは、この世界をひっくり返しかねないほどの大きな力を、その星は持っているのだそうです。霧の谷では、長が静観する姿勢を貫くように、との指示が出されていますが……国内でも長の決定に疑問視する者が多くて、困っているんですよ」
 いつの間にか、残る二人も耳を傾けていた。
 世界をひっくり返しかねない力を持つ予言の星。それは、手に入れたもの次第で何にでも化けるということ。
 自らを脅かす存在であらば死を。
 自らを盛り立てる物であらば獲得を。
 ……それとは別に、異端であるゆえに、この「世界」から排除を望む声もある。
「怖いわ。なんだか悪い物みたい……」
 アイシャは腕を交差させ、自らを抱きしめた。
「そうですね、僕もそう思います。でも実態はよく分かっていません。なにしろ世界中の王族が抱える占い師の、誰一人として予言の星の詳細を占えたものはいないんです」
 イスカは、ある可能性を思い浮かべていたが、それを口にはしなかった。すなわち、「世界」が予言の星を隠そうとしていること。それこそ確証はなかったし、何より信じられないことだったし、不用意に怯えさせることもあるまいと思って何もいわないことにした。それにイスカの大好きな主は、確証のないことを無闇に口にして間違ったことを広めるのはよくないと思っている。
 それまで聞き役だったヒスイが、一言尋ねた。
「異端の星、と見なされるのは……?」
 滅びの星と改革の星、というのは分かりやすい話だ。イスカが答える前に、そのヒスイを後ろから抱きしめていたセイが口を挟んでくる。
「この『世界』を回してる存在が嫌う要素を持っていること、だね」
「……詳しいですね?」
「そりゃあ、この商売、情報が命だし」
 イスカは、なぜ薬師に世界情勢が必要なのだろうかと首を捻り、ヒスイは、盗賊には確かに必要だろうと考えた。ちなみにアイシャは山賊にそんなものが必要なのか、これまたこっそりと疑問に思ったが口にする危険は侵さなかった。
 セイは更に続ける。
「何でもそうなんだけどさ、『自分達とは違う』ってものを嫌う傾向ってあるでしょ? 人間でも、それこそ精霊でも、妖魔でも。特にこの『世界』は顕著でね。異物が混じるのを極端に嫌うんだよねえ。だから、取り除いて元の世界に押しやりたい、って思う」
 イスカもそれには頷いた。
 ありえないのだ、異端のものを「世界」が隠すことなど。まるで「世界」そのものが守るように。むしろ率先して排除しそうなものなのに、「世界」は未だ沈黙を守っている。
「ところでね、ヒスイ。霧の谷もそうなんだよ。そりゃもう、徹底的に外の人間を嫌うの」
「そう聞くわねぇ」
 うんうん、と頷くアイシャ。セイは遠慮なくイスカを指差した。まるでイスカ一人が悪いような仕草に、琥珀色の瞳が驚きの色を浮かべる。
「ぼ、僕は別に……」
「嘘つけ。精霊保護だかなんだか知らないケド、完全に閉鎖されてるじゃん」
 するとイスカは、それまでとは調子を変えて声を低めた。
「……ええ、外の国にいい印象を抱かない人は多いですよ。そのせいで僕らは永遠に王妃様を戴(いただ)くことが出来ないんですから」
 セイは事情を知っているのか、珍しく人をからかう気配が消えた。ヒスイの変化はいつも微妙で、イスカには読みとれない。ただ一人、アイシャだけは興味津々の顔つきで続きを聞きたがったが、これだけは谷の恥である。イスカは詳しく話すことはしなかった。
 霧の谷の元・王妃は外の国から嫁いだ。現王妃が存在しないのにわざわざ「元」と付けるのは、それだけ民衆から疎まれていることを示す。王と共に国を盛り立てて行くはずだった彼女は、あろうことか不貞を働いた。一歩間違えれば戦争になってもおかしくなかった、とびきりの醜聞である。
 それ以来、長は公式に王妃を娶っていない。同じことを繰り返したくないというのは長だけではなく家臣達の思うところでもあったし、何より長は「自分にはもう妻がいる」と頑として再婚を聞き入れなかった。
 そして、民衆はそれまで以上に外部との接触を嫌った。自分達の王に対する親愛の情が、そのまま裏返しに王妃への恨みつらみに変わってしまったのを誰が責められよう?
 イスカに恨みつらみはない。長の心に傷になっているだろうことは確かだが、あの方が心より微笑んでいられる今を大切にしたい、と決意を新たにした。

  ***

 今日の寝ずの番はヒスイである。
 アイシャは早速、毛布にくるまって寝息を立てていた。イスカは例によって荷馬車の中、セイもすやすやと夢の中である。
 今日は曇って、星が見えづらい。
「トーラと約束したのにな……」
 見つけてねといった彼女の瞳の色を思い出す。
 今日は色々ありすぎた。予言の星のこと、霧の谷のこと。……そして、母以外の口から聞いた「精霊の長」の話。昔、父が母に語ったすべてを、ヒスイは母から聞いていた。父の親友と恋に落ちた、父の正妻。どうやら民衆には徹底的に嫌われているらしい。それも可哀想だと思ったが、なにしろ生まれる前の話なので、ピンとこなかった。
 焚き火の炎に突き上げられた夜空を見上げる。今日ははっきりと雲の筋が見え、その隙間から星の瞬きが見えた。
 その点滅は星がささやいているようにも聞こえる。特に、薄紫色の星が目に付いた。
(見つけてね……)
 声が、間近に聞こえた気がした。目が吸いよせられる。意識はすでに肉体を離れて星の海に上昇していった。
「ヒスイ!」
 見上げているのは星の海。声は先ほどよりもはっきりと聞こえた。
 焚き火はどこかに消え失せ、いつの間にかアイシャとセイの姿を見つけることは出来なかった。後ろにあったはずの荷馬車もない。
 隣を向くと、
「すごいわ、やっぱりヒスイが私を見つけてくれたのね」
 と、トーラがちょこんと座っていた。
「今日は……眠ってないはずなんだ」
「そうなの? じゃあ、ヒスイってば本当に心だけ飛ばして来ちゃったのね。夢の中からでも星の海からでも、どこからだって繋がっているんだわ」
 遊びましょ、と小さな子供は嬉しそうに抱きついてくる。ヒスイにはどういうことだか理解出来なかった。が、ともかくここは妖魔が使う特別の空間で、ヒスイは心だけで紛れ込むことが出来る特異能力――と、呼んでもよいものかどうか――があるということだけは分かった。
 その日もひととおり空を飛んだり、走り回ったり、子供の体力になんとかくっついていって遊びまわった。ようやく一段落したとき、ふと、今日の会話を思い出す。
「予言の星というのは何なんだ?」
 星見の妖魔は占い師みたいなものだと聞いた。トーラなら何か知っているかもしれないと尋ねてみたが、彼女は首を横に振る。
「ヒスイもキドラと一緒で、予言の星が欲しいの?」
「……? 欲しい、とかではなくて……」
 上手い言葉を見つけられない。興味がある、というのも違う気がする。ただ、自分が拾われた日に大きな流れ星が落ちたことを、何故か思い出していた。
「予言の星はね。とっても眩しいお星様なの」
 トーラは自分自身の言葉で語りはじめた。
「とても綺麗な星。太陽を飲み込んだみたいな強い光なの。でも今はそんなに大きな力は振るえない。そうね、ちょっとヒスイの魂の色に似てるかも」
 ヒスイの周りに昨日と同じように、地上の星が散らばって光り始めた。様々な色の星に照らされて、トーラの額飾りある紫水晶も強く輝く。
「世界中の人があの星を欲しがっているの。そして、ある者は利用を、ある者は排除を、ある者は抹殺しようと考えてる。だけどまだ予言の星は誰にも捕まっていない。それは分かるの」
 そして、誰も聞く人間のいない場所なのに、耳を貸せという。内緒事を語るような仕草を可愛いと思えたのは、次の台詞を聞くまでだった。
「でも、一番欲しがっているのは妖魔の長と精霊の長じゃないかしら。……両者とも妙に確信があるのよね。あの人たちなら予言の星が何なのか知ってるんじゃないかと思うの」
 ――精霊の長が予言の星が何かを、知っている?
「本当か……?」
「勘でしかないけれど、二人とも慌てるわけでもなく静観を決め込んでいるの。精霊の長は、わざわざ『異端の星』として排除されるのを会議の席で疑問視したくらいよ?」
 ヒスイの顔色が変わっていく。トーラにはそれが何故か分からなかった。星見でさえ見えない、分からない、それこそが予言の星である何よりの証明だということに、トーラはまだ気付かない……。


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