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翡翠抄−ひすいしょう−

第二章第三節第二項(041)

 2.

 まず、目に飛び込んできたのは青い髪。空気に触れて鮮やかさを増した藍染めの糸の色。見下ろしてくるのは蒼穹の瞳だ。そこには温かさの欠片も窺うことはできない。頭のてっぺんから爪先まで青で彩られた彼の、赤いピアスだけが別の色を添えていた。その赤ですら血の色に見えるのは何故だろう。
 男は、羽の舞い降りる早さでトーラの目の前に降りてきた。あくまで軽やかに地に足を下ろす。
「さすがは噂に名高い星見の姫。気付かれていたとはな?」
 トーラは力一杯、その男を睨み付ける。星見の姫、と彼がいうのと同時に聞こえた声は、確かに星見のクソガキといった。
「性格はともかく、たいした力の持ち主のようね? ……ちゃんと聞こえたんだからっ」
 ここはトーラの星見の空間。限りなく精神体に近いこの場所で嘘がつけるとは大したものである。男は隠すつもりもなかったようだ。微笑みは消えない。
「心は二重、三重にもなる多重構造。表と裏だけで計れる物じゃない」
 優雅な所作で一礼して見せる。慇懃無礼(いんぎんぶれい)、という言葉が似合う態度だった。馬鹿にされていることが分かっている。それでも特別、腹を立てて見せる必要を覚えないのはきっと目の前の男が強いからだとトーラは思った。妖魔は実力が全て。力のある者が制する。
「……あなたは、誰?」
「『夢見』だ」
 簡潔すぎる答えが返ってきた。トーラは少し、目を丸くする。夢見のことは知っていた。自分と同じくらい珍しいことも。実は、同族であるはずの妖魔を間近で見るのは、これが初めてだった。キドラは妖魔ではないし、彼が連れてきた侍女は皆、人間だったのだ。
「あなた、ヒスイの夢の中に潜り込んできたでしょう。あなたがヒスイをここまで導いたの?」
 すると夢見の妖魔の表情は一変して、真面目な顔になる。
「違う、彼女は自分でここに来たんだ」
 それは強い否定だった。そこに滲むのはわずかな焦燥。どうやら、ヒスイが予想外のことをしでかしたのがよほど彼のプライドを刺激したらしい。
 夢見の彼は、ヒスイの夢の中に潜り込んでいた。そして、そのヒスイは誘われるようにしてトーラの星見の空間に紛れ込んだ。夢見の妖魔を連れていることに気付かないまま。気付かなくてもおかしくはない。夢見とはそのための力なのだから。……そうすると、ヒスイは全くの偶然でここにたどり着いたということになる。
「よっぽど、相性がよかったんだろう」
 そっけない態度でそういった。わざとそういう態度をとっているのはヒスイの力に刺激を受けたことを認めたくないせいか。
「そうね、そういうこともあるかもしれないわね」
 納得できる。もしかしたらヒスイと自分はどこか似ているのかもしれないと、それはトーラも思ったことだったから。
 そして、無意識に愛らしい仕草で首を傾げる。
「何のためにヒスイの夢の中に潜ったの?」
「……」
 青い髪の妖魔は答えなかった。それどころか表情も読めなかった。空気は何も伝えてはこない。口をつぐみたいことほど心の中では色々思うものだが、「何も思わない、考えない」という真似は、少なくとも今の自分では無理だ。トーラは、改めて相手の力の強さを思った。
 さすがは夢見。精神を操る妖魔だけはある、と思う。
 しかし、現実世界ではともかく、星見の空間ではトーラは最強だった。彼の力がいくら強くても恐怖心を煽るほどのものではない。
 心が直に読めなければ、星を読めばいい。

 トーラは、まぶたを半分落として、あらぬ場所に視点を定めた。
「……ヒスイが必要なのね。他人の命令ではなく、自分のために……」
 青い髪の妖魔は、今度ははっきりと動揺した。トーラの言葉はまだ続く。
「何か、守りたいものがあるのね? そのためにヒスイを利用するの?」
 冷ややかな視線が自分に注がれていることに気付いたが、意を決してトーラは顔を上げた。
「じゃあ、教えておいてあげる。あなたは近い未来、絶望を知るわ。その、大切な何かに絡んだことでね」
 星は嘘をつかない。告げる未来に間違いはない。確信を持っていえた。
 ただ分からないのは、彼は確実に、それがいつかは必ず起こる出来事だと覚悟している部分が読めた。それがいつになるのかは分からないけれど。絶望が待っていると知った上での大切な存在なのだろうか?
 男は、唇を歪めて笑っていた。
「お前が何を見たのかは知らないが」
 ずいっと、顔を突き出す。キドラの瞳は氷のような色をしているが、彼の目は青い炎が燃えているようだ。
「希望を知らなければ、絶望を知ることもない」
 青い髪の妖魔は、星見の力を知っているはずだ。来るべき日の絶望。それは確かにこの男に動揺を与えているはずなのに、なぜ彼はここまで強くあれるのか。
 彼は一歩引いた。星見の空間から彼の気配が徐々に消える。
「星見の姫。それほどまでよく見える目を持ちながら、なぜ気付かない?」
 謎めいた言葉だけを残して、夢見の妖魔は完全に消えた。

   *

 なぜ気付かない?
 青い髪の妖魔は、もう二度と会うこともないだろう星見の姫の力を思う。
 キドラに利用されていることに、ヒスイが予言の星であることに、あの力を持っていてどうして気付かないのだろう。
 希望を知らなければ、絶望を知ることもない。
 絶望を知りたくなければ望まなければいいだけの話だ。それでも、絶望するのが分かっていてなお想わずにはいられないことを「希望」というのだと知った。……彼は、大切なものを思いながら微笑みを浮かべる。あれこそが己の希望。キドラ程度に傷つけられていいものではない。

 思考を切り替え、今後どうするかを考えた。もうしばらく自分の存在は知られたくはない。彼は、作戦を変えることにした。
 予言の星その人ではなく、その周囲の人間の心に潜り込み、傷をえぐりだす……。

   *

 今は朝の稽古の時間である。
 セイは、晴れやかな顔をしてヒスイの目の前に立っていた。ヒスイはというと、剣をかまえ、対照的に怖い顔をしてセイを睨み付けていた。
「ほらほら、ヒスイ。もう一度がんばろうね」
 愛嬌のある笑顔でセイはヒスイを手招きする。歯ぎしりしながら彼女はセイに突撃してきた。それを紙一重でかわす。いつも無防備に殴られているとは思えない、素早い身のこなしで。
 強くなりたい、といったヒスイに武器の扱いを教えられるのはセイだけだった。森の国を出る際に買い込んできた武器をあてがい、セイはヒスイに弓を教え、剣を教えた。ただでさえ華奢な体格に加え、鍛え込まれていない肉体。武器を振るうにはお粗末としかいいようがなかったが、気概がそれを補ったのか上達は早い方だとセイは思う。
「たまには当たれ!」
「冗談。当たったら怪我するでしょう?」
 武器の扱いに怪我は付き物。そういう意味では、薬の扱いに長けたアイシャが側にいるのは心強かった。今は稽古用の刃引きの剣を使っているが、それでも打撲、ねんざ、かすり傷は日常的である。木刀は使えない。真剣とは重さが違う。それに、セイは出来るだけヒスイには弓を使うようにといっていた。鮮やかに剣閃をひらめかせ、ヒスイの剣を弾く。
「はい、よくできました」
「……嘘をつけ」
 しびれる手を支えながらヒスイは翠の瞳で力一杯、睨み付けてくる。
 こういうときの彼女が一番、彼女らしい顔をしていると思う。このまま押し倒したい衝動に駆られたが、そこはなんとか理性を総動員させて我慢した。
「ヒスイの体格だとまともに接近戦しても勝負にならないよ。だから剣はあくまで補助用。防御に徹しなさいってば」
「徹したぞ。攻撃は最大の防御だ」
「……ヒスイさんてば、顔に似合わず好戦的だねぇ」
 弾け飛んだ刃引きの剣を拾い、もう一度ヒスイに渡した。まだやるのか、という目だけの問いかけに、頷くことで返事を返す。ただし、今度の相手は自分ではない。
「おい、そこのチビ。暇ならヒスイの相手を努めてくれ」
 そこのチビ、といわれたイスカは先ほどから稽古を見学していた。
「僕ですか?」
 突然の指名に驚いたのはイスカだけではない。ヒスイもだ。ヒスイは今まで、剣に全力を込めて立ち向かっていた。それは絶対、セイはよけるという確信の上に成り立っている。
「手加減なし。打ち込まれたら終わりね」
「……お前、私が負けるのを前提に話してるだろう」
 ヒスイの台詞はさらりと受け流して、イスカには
「手加減できるか?」
 と聞く。思いっきり首を横に振って、出来ませんと青ざめるイスカが滑稽だった。イスカの持つ杖は大きく、かなり重い。それよりも遙かに軽そうな棒きれを渡し、相手を努めろと顎で指し示した。二人とも、相手に怪我をさせたらどうしようと思っているあたりが、セイにはおかしくてたまらない。
「いざ」
 セイの手が挙がる。
 勝負はあっという間だった。ヒスイがためらいがちに繰り出した剣を、横っ面からイスカが叩き、素早く彼女の手を強打した。
「!」
 イスカが普段から持っている杖なら簡単に骨が折れていただろう。
「あああ、ご、ごめんなさい、ヒスイ様っ」
 泣きそうな顔で棒きれを放り出し、ぺこぺこと頭を下げるイスカを無視して、セイは予想通りの結果に満足していた。
「痛い、ヒスイ? これが棒じゃなくて剣なら今頃手首から先がなくなってたよね。ちなみに、手首じゃなくて腕を落としてもいいからねぇ」
「……嬉しそうだな?」
「まさかぁ」
 大好きなヒスイが痛みで顔をしかめているのに、それはない。だが、ヒスイが強くなるために役に立つのは大いに喜ぶべきことだ。
「これから気を付ける……」
 自分が無鉄砲なのは自覚してもらえたらしい。
 頭の良すぎる女なら、もう剣など握らないというかもしれない。それが正解だ。だが、それではつまらない。ヒスイは頭はいいけれど、つまらなすぎる女ではなかった。
「ヒスイ、好きだよ」
 つい笑みがこぼれる。
「勝手にいってろ」
 したたかに打ち据えられた後なので、手は飛んでこなかった。気をよくしてもう少し近づいていったら、先ほど呼び寄せた邪魔者が立ちはだかる。
「わざと僕にヒスイ様を殴らせましたね?」
「そりゃあ、オレは強いから、ヒスイに怪我させずに払うことができるもの」
 そうでない相手が欲しかったのだ。もう用はない。杖を返し、さっさといけ、と手振りをする。イスカは不信感のある目で睨み付けてくるがセイには痛くもかゆくもない。
 いい加減に険悪になった空気の向こうで、アイシャの声が飛んだ。
「はいはい。あなた達、運動はすんだ? セイ、火の後始末をお願いね。イスカは馬をいつでも出発できるようにしてくれるかしら」
 てきぱきと役目を割り振って、最後にヒスイに向かう。
「湿布をしないと腫れるわね、これ」
 アイシャの手にはすでに包帯と薬草があった。行動などお見通し、というわけか。よく揉んだ大きな葉を貼り付け、上から包帯で固定する。男達はその間、ばらばらと分かれてアイシャのいうとおりに動いた。
「アイシャさんは、自分の身は自分で守れる方なんでしょうか」
 いかにも心配そうな声でつぶやくイスカに、セイは表情も変えずにいっておく。
「人間以外が相手ならアイシャは強いけどね」
「どういう意味です?」
「フライパンでぶん殴るんだよ。あれは、きついよ?」
 イスカは押し黙った。

 全てを済ませた後、セイは治療のすんだヒスイに後ろから近づいて、抱きしめた。腕の中で彼女が毛を逆立てた猫のように反応する。
「……性懲りもなく、お前という奴は……」
 押し殺された声に怒気が含まれているのは分かるのだが、今日は素直に手を離す気分にはなれなかった。
「ちょっと昨日、夢見が悪くてさあ。……愛してるよ、ヒスイ」
 艶やかな黒髪に頬ずりをする。どうやらこのあたりまでが、ヒスイの我慢の限界だったらしい。次の瞬間、思いっきり向こうずねを蹴られた。
「…………!!」
「ふん」
 痛む足を抱え込み、その場にうずくまる。ヒスイは颯爽と身を翻し、その向こうではアイシャが、さっさと行くわよと、これまた酷い言葉をくれた。

   *

 本当に、久しぶりに悪い夢だった。

 寝台は天蓋付きだった。垂れ下がった幕は上物の絹。その絹の帳の内側で、女は四肢を惜しげもなく広げていた。その身に纏うのは大粒の蛋白石(オパール)の首飾りだけ。いや、濃密な花の香りと少年一人も、彼女の身を飾るものの一部だった。
 少年が深く沈もうとしたところを、女は押しやって妨げる。
「駄目よ、セイ。もっと私を楽しませてくれなくては」
 少年はうんざりした顔で体を起こした。
「……お気に召さないんであれば、もっと年相応なのを引っ張り込んだらよかったんじゃありませんかね」
 その答えは女を満足させなかったようである。薄笑いを浮かべながら、女は少年の柔らかい皮膚に爪を食い込ませた。少年は歯を食いしばる。女の爪が皮膚を突き破り、肉に食い込むまで堪え続けた。……やっと手を離した女の、爪の色は真紅に染まっていた。
「お前は大人しく私の相手を努めていればいいの……不服?」
 長い髪をかき上げ、女は爬虫類の目で少年を見やる。少年は痛みを堪えて笑って見せた。
「まさか。あなたみたいな絶世の美女を前にして、断る男なんていやしませんよ」
 ――――雌豚。
 そして、少年は再び「仕事」に取りかかった。

 本当に久しぶりに思い出したこと。どうして今頃思い出したのか、よく分からないけれど。
 ……愛してるよ、ヒスイ。
 全部ばれても、どうか嫌いにならないで。今はそれだけを望んだ。


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翡翠抄 −ひすいしょう−
Copyright (C) Chigaya Towada.