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翡翠抄−ひすいしょう−

第二章第三節第一項(040)

 夢紡ぎ

 1.

 トーラは、自分は色々な意味で特別だと思っていた。いや、特別であることを知らなければならなかった。

 妖魔の中に現れる「星見」。滅多に発現しない希有な力ではあったが、トーラは他に何も出来なかった。ただ星が見せる光景を他人に伝えるだけだ。見たいと思うものが確実に見えるとは限らない。強大な妖魔の力を持ちながら、限りなく妖魔とは遠いところで生きることを定められていた。
 星見の妖魔は例外なくそうだった。星見という大きすぎる力を得る代償に、彼らは妖魔が普通に備える力さえ使うことは出来ない。実力主義の妖魔の世界で、力を持たない者は淘汰される。だから星見は少ない。生き残るためには、強者に保護され、利用されるのが一番安全なのだ。
 トーラは特別だった。星見に生まれついただけではない。運良く、淘汰される前に庇護された。でなければとうに消えていただろう。

 おいで、とその人はいった。
 私の小さな姫君、と、その人はトーラのことを呼んだ。小さな手を引いてくれ、お城に連れて帰ってくれた。
(今日からここが、お前の家だよ)
 外はとても怖いものがいっぱいだから出てはいけないといい、ここで星が見せたものを私に教えるのが今日からお前の仕事だよ、といった。
 だから、トーラが知っているのはキドラだけだ。
 頭をなでてくれるのも、星見を褒めてくれるのも、大切だといってくれるのも、愛してくれるのはみんなキドラだった。
 けれど、キドラは一度もトーラの名前を呼んでくれたことはない。トーラは彼に名前を呼ばれたいのに。
(愛しているよ、私の小さな姫君)
 大好きな大好きな、キドラ。キドラしか知らないから、キドラが大好き……。

 トーラは目の前の女性を見つめた。
 キドラの白い髪と違って、彼女は短い黒髪だった。両の瞳は翠。この人の魂の色によく似ていた。綺麗な人だと思う。人間の目ではきっと、そんなに綺麗には見えないだろう。でも、分かる。この人はとても綺麗だ。
「来て!」
 嬉しくなってトーラはヒスイの手を取った。
 ここはトーラが知る限り、一番素敵な場所だった。それなのに今まで誰にも見てもらうことができなくて、だから、自慢できるのがとても嬉しい。
「ここはね、普通の夜空とは違うのよ。私だけに許された場所。上で輝いている星が、私に色々なことを見せていくの」
 天球をさえぎることない草原、真上には一面の星。トーラはヒスイの手を取って、そのまま足は地を離れた。
「え、え?」
「来てよ! ここなら私、飛べるのよ。ヒスイだって出来るわ。だって、あなたの夢なんでしょう?」
 ヒスイは二、三回、瞬きをして大地を蹴った。ふわりと体が浮かぶ。トーラはヒスイの手をしっかりと握りながら、この手を離せば拍手が出来るのに、と少し惜しく思った。
「ほら、出来た」
「……空を飛ぶ夢は初めてだ……」
 少し惚けた顔でそういったヒスイは、見た目よりかなり年下に見えた。いや、今は精神だけの存在に近い。ひょっとして、そう見えるヒスイが本当の彼女なのかもしれなかった。繋いだ掌がかすかに汗ばんでいる。
「緊張した?」
 翠の瞳を覗き込んで尋ねる。微笑みが返ってきた。
「少し」
 やっぱり綺麗だ、と思う。キドラも、キドラが連れてきた人の中にもこんなに綺麗な魂の人間はいなかった。トーラは嬉しくなって更にヒスイの手をひっぱった。星の中を泳ぐように滑るように、ヒスイを連れて飛ぶ。下からは草と夜露の涼しい香りが届いた。包み込むように優しく風が踊る。どこまでも広い草原、果てのない星の海。この、どこよりも綺麗な星見の世界で、トーラはいつもひとりぼっちだった。今は違う。ヒスイがいる。それだけで見慣れた世界が何倍も素晴らしいものになった気がするのは何故だろう。
「あのね、もっと綺麗なもの、見せてあげる」
 嬉しかった。
 ただただ、純粋に嬉しかった。
 キドラ以外でこんなに率直に接してくれた人はいなくて、キドラより綺麗で、キドラも来られないこの場所にきた人間が珍しくて。
 トーラは考えもしなかったが、それがキドラ以外で初めて「好き」だと思った相手だった。

 天の星が消えた。二人、ぷかりと空に浮かんだまま、あたりは暗闇が支配する。
「暗いものが悪いものだなんて、誰が決めたのかしらね? 太陽の光は明るくて力強いけれど、星のように綺麗なものは弱すぎて消えてしまう。闇があるから星はあんなに綺麗なのに」
 トーラはそっとヒスイと繋いだ手を掲げた。
「手を離すけど、大丈夫よね……?」
 大丈夫だと思えば揺らぐことはないのだが、それでも少し不安だったのかヒスイの体が傾いだ。ヒスイは思わず呼吸を整えにかかる。
「だ……大丈夫」
 手は離れた。ヒスイの体は浮かんだままだ。その様子に胸をなで下ろした。
 トーラは両手を広げた。その周囲にぽつり、ぽつりと小さな光が灯る。トーラを中心に、光が広がった。ヒスイは思わず声を上げる。小さな光の数は見る間に増えていった。赤、黄色、ピンク、青、それらの中にも微妙に濃淡があって、小さな光はどれひとつとっても同じ色をしているものはない。せわしなく動くものもあれば、動かないものもいる。弱い光もあれば明るく輝く光もある。天の星に負けないくらい、圧倒される数だった。
「……これは?」
 トーラは自慢げに胸を張る。これを誰かに見せたくて仕方なかった。
「地上の星よ」
 これが、トーラの「星見」の力だった。
 地上の星、それすなわち、人の運命。地上の星の動きを読むことで、トーラは天の星を読むのと同じくらい地上の人間のことも知ることが出来た。過去も、今も、未来も。
「ね、綺麗でしょう? 人間だけじゃないの、妖魔や精霊も読むことができるのよ。私に知らないことなんかないんだから」
「妖魔?」
「そうよ。私も妖魔だもの。『星見』は妖魔だけに生まれるのよ」
 実際は知りたいと思ったことのすべてが分かるわけでもなかった。持って生まれた能力すべてを活用するには、まだ彼女は幼すぎたのだ。ここはトーラのいう星見の世界、そしてヒスイの夢の世界。お互い限りなく精神体に近いので、それはいわずともヒスイに伝わったようである。
「……星見というのは、占い師のようなものか」
「そうともいうけど……でも、占いは外れることもあるでしょう? 星は嘘をつかないもの。だから、私は未来を見るのは苦手。絶対に変わらないことしか見えないんだもの」
 ヒスイは不思議そうにいった。
「未来は現在によっていくらでも変わるだろう?」
 それは事実。だが、トーラは自分が否定されたようで、ちょっと面白くない。
「でも変わらない未来はあるの! 人間はいつか死ぬって分かってるでしょう? それと一緒で、絶対変わらないことはあるんだってば!」
 今度こそちゃんと理解してもらえると思った。だがヒスイはますます表情を曇らせる。
「トーラ」
 ヒスイはまっすぐな視線でトーラの名前を呼んだ。やはり、呼ばれるときの不快感はぬぐいきれない。今まで誰も名前を呼んではくれなかったのだから。
「死ぬという言葉を、安易に使うものじゃない」
 しゃがみこみ、トーラと視線を合わせてくる。その視線のまっすぐさに耐えられなくなって、トーラは目をそらした。何故か後ろめたい気分になる。悪いことなどしていないのに。
「妖魔がどれくらい長生きするのか知らない。だけど、人間にとっては大切な時間なんだ。死ぬ、と簡単にいうな。それこそ人間は……簡単に死んでしまうものなんだから。そりゃあ、その反面ではとてもしぶといけれど」
 そんなことは誰もいってくれなかった。キドラは比較的、よく命を奪ったし。けれど、ヒスイの言葉の裏付けは今までよく「見て」きた。自分のせいで死んでしまった侍女の絶叫が聞こえる気がして、トーラは慌てて首を振る。
「やめてよ。……大人なんだから、偉そうに上から命令してればいいじゃない。何で座るの? 子供扱いしないで」
 視線が痛い。ヒスイは責めていないのに、責められているようで心が痛い。それもこれもヒスイが視線をまっすぐ合わせてくるせいだ、と決めつけた。
 ヒスイはそれでも視線を外してはこない。
「上から頭ごなしに命令されるのは私が嫌いなんだ。頭ごなしにしていいのは、相手に非があって、叱りつけるときだけだと教わった。話すときは相手の目を見ろ、とも。相手を対等と認めているのならそうするべきだというのが母の持論だ」
 しゃがみこまないとトーラと視線が合わない、ともヒスイはいう。それはトーラを対等だと認めてくれているということだ。ますます、トーラは自分を恥じた。
 同時に、ヒスイのことがもっと好きになった。
 キドラは叱ってはくれない。頭をなでてくれるけれど。そういえば、人間がするようなしつけをされた覚えもなかった。おそるおそる、トーラは翠の瞳を見る。ヒスイは責めていない。けれど、この後味の悪さはきっと自分が悪いせいだ。
「ごめん、なさい」
 叱られるかな、と思ったが、そんなこともなかった。ヒスイは無表情でひとつ頷く。心の声が「いい子だ」といっている気がした。怒っていないことに安心して、トーラは一歩、彼女に近づく。その両手をとった。
「ね、明日もまた来てくれる?」
 明日も一緒に遊んで欲しかった。ヒスイは、表情は変えずに少し首を傾げる。
「それは、分からないな。私は、自分がどうやってここに来たのか知らない。同じ夢を見るとも限らないし……」
「あきれた。ヒスイったら、本当にこれがただの夢だと思ってるの?」
 ヒスイは妖魔ではない。が、きっと「夢見」に近いものがあるのだと思う。夢を渡ってトーラの星見の中に入り込んだのだ。
「私じゃ時間がかかりすぎちゃう。ヒスイの魂も、この地上の星の中にあるんだろうけど……」
 トーラの手の中で、彼女が少し強ばったのが分かった。誰しも自分の過去や未来を他人に覗かれたくないと思うのだろう。それでも、トーラは放すわけにはいかなかった。
「ヒスイの魂はとっても透明に近いの。そうね、緑の硝子をお日様に透かして、そのとき落ちる影みたいな色」
 硝子そのものではまだ色が濃すぎる。もっと透明で、もっと不確かで、あやふやな存在。それでいて硝子のように硬質で、清冽で、壊れやすそうなところも併せ持っている。こんな不思議な魂は初めてだ。
「そんな星を、この自己主張の激しい星の中で見つけろっていうのと同じなのよ? 時間がかかりすぎるっていうのも分かる気がしない? だからヒスイが私を見つけて!」
 うろたえる翠の瞳が揺れた。
 ……駄目なのかもしれない。人間であるヒスイに探して、という方が無理かもしれない。

 ヒスイは、というと。
 目の前の子供がどうして一生懸命になっているのか分からなかった。けれど、この子が現実にどこかにいるということはなんとなしに理解できた。何より自分は、ここまでリアルに架空の人物を思い描けるほど想像力のたくましい方ではない。
(遺伝かな……)
 ヒスイの両親からして夢の中で出会い、子供まで作ったのだ。どっちの血だか知らないが、ヒスイが同じようなことを体験しても不思議ではないということか。
「……トーラ」
 なだめるように名前を呼んでみるが、彼女はますます泣きそうな顔をしてヒスイの手にしがみついたままだ。自分を見つけて、と繰り返す。寂しいのは痛いほどよく分かるだけに、振り払うこともためらわれた。
 トーラは必死な目をして、なおもヒスイに訴える。
「明日も絶対、来てね。私を探して。私の……私の魂の色はこの瞳と同じ色をしてるから」
 同じ色といわれてトーラの大粒の瞳を見た。
 ややつり上がり気味の、藤色の瞳。額の宝石がきらりと光った。
「ああ、外で誰かが呼んでる。ヒスイは行かないと……」
「え?」
 最後にもう一度、また来てねとトーラはいった。

   *

 目を覚ますとアイシャの顔があった。
「交代の時間よ。夜明けまでの見張りと、朝食の用意をお願い」
 アイシャは今から数時間、眠るのだ。眠れなくても体を横たえて目を瞑っているだけで疲労の回復具合は違う。ヒスイはまだ頭がはっきりせずに目をこすった。
 焚き火の向こうでセイが寝ているのが見えた。イスカがもう起きているのに気付き、あわてて起きあがる。
「昨日、結局一晩付き合わせちゃったの。色々おしゃべりしたわ」
「……あ。じゃあ、イスカも今から寝て……」
「いいえ、どうせならこのまま起きてます」
 少年は疲れた様子も見せず晴れやかに笑った。ヒスイはそれに曖昧に頷く。夢を忘れることは出来なかった。手に、まだ幼女の手の感触が残っていた……。

  ***

「……行っちゃった」
 星見の空間にはまたトーラだけになった。……いや、違う。
 トーラは真上を見上げる。
「いつまで覗き見してるの?」
 彼女はきつい声で問いただす。高見から見下ろすように、そこにはトーラの知らない、青い髪の妖魔が宙に座っていた。


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